コツコツと小さな音がする。  
 たとえ眠っているとしても、普段ならばその程度の小音では青年は目を覚まさなかっただろう。  
 ナニカの符号がかちりと噛み合ったのか、何がしかの運命の力が働いたのか。どうした訳か、今晩に限って耳はその音を捕らえ、脳へと伝え、惰眠を貪る主を揺さぶる。  
 小さいが不可思議な力を秘めた音は頭に染み渡り、暗く快適な眠りの世界に漂う青年を現実へと引きずり戻した。  
 むっくりと起き上がった頭が、燈台のようにゆっくりと回転する。寝ぼけ眼が、室内をぐるり見回す。  
 青年はペットは飼っていないし、つけっ放しにした電化製品も無い部屋の中で音を立てるような物はいない。  
 ならば、外か。  
 カーテンを引き開ける。  
 さぁっとさやけき月光が差し込む。  
 天高くに満月が浮かぶ。まるで黒い空にぽっかりと白い口が開いたかのようだ。  
 白光は下界をあまねく照らし、モノトーンに浮き上がらせる。  
 連なる家並みも、縦横に走る道も、街路樹に植え込み、駐車する車、道の脇に停められている自転車、目に入って来るありとあらゆる物全て。  
 音の消えた、仄暗く光る白と黒の世界。  
 そして、部屋の外側の窓辺に佇む一人の少女も例外ではなかった。  
 月光に浮かび上がるのは、空にある月と同じくらいに冴えた美貌の少女だった。  
 夜の闇と同化しそうなほど美しい長く伸びた黒髪。  
 切れ長の目は、じっと青年を見詰めて離さない。鼻梁はすっと高く、眉は細く美しい弓を描く。  
 どのパーツをとってもそこら辺のモデルなど裸足で逃げ出すほど。それでいて各々が別個に主張するのでは、全てが調和している。  
 一目見れば忘れる事など出来そうにもない、尋常な美しさではなかった。  
 人並み外れた姿。そして、まさしく少女は人間離れしていた。  
 瞳は赤く爛々と光り、無邪気に微笑む口元からは人の倍ほどもありそうな鋭い犬歯が覗く。  
 人並み外れた、どころではない。この少女は人ですらない。  
 
 当然だ。ただの人間が重力の頸木から逃れ、なんの足場も無い二階の窓の外に浮かぶなどと出来る訳が無い。  
 他者の生き血を啜り、魅了の魔眼を持ち、幾つもの異能の力を不死と共に誇る者達。  
 彼らを畏怖し、またはその力に憧れ、人間は彼らを呼ぶ為の無数の言葉を造った。その中でも彼らの最も象徴的な生態にして、最も端的に彼らを指す言葉がある。  
 すなわち、吸血鬼。  
 何の疑いも無く、青年の頭の中にそんな単語が浮かんだ。  
 青年は別に怪しい宗教にはまっていたり、オカルトに傾倒していたりなどいなかった。昼間に聞けば、そんな馬鹿な事がと鼻で笑い飛ばすような言葉だ。  
 今は違った。彼女がそういうモノであると、お伽話や伝説の中にだけ名を残す人外の存在であると誰かに言われれば、何の疑いも無く頷いただろう。  
 少女の放つ雰囲気はそれほどまでに妖しく蟲惑的で、夜を歩く者に相応しい力を備えていた。  
 魂までも吸い込まれそうな美貌を、青年は呆気に取られた風でただ見つめていた。  
 そんな青年の態度に少女は気をよくしたのだろう。見惚れられる、と言うのはそう気分の悪いものではない。  
 瑞々しく形の良い唇が、青年の見守る前でくぅっと釣りあがって魅力的な笑みの形になる。  
 人形じみたと言ってもよいほどの清楚な面立ちの中で、そこだけは少女の年齢には不釣合いなまでに真っ赤だった。しかし、不釣合いであるが故にそれはとても妖艶だった。  
 絞りたての鮮血を塗りつけたように真紅の唇が動く。  
 ゆっくりと一つ一つ区切るようにして、無音の言葉を紡ぐ。  
 い。  
 れ。  
 て。  
 少女の放つ人外の美しさに魅入られたように固まっていた青年から、ふっと力が抜けた。  
「なんだ……ロリか。パス」  
 ひどく詰まらなそうに言い放つと、そのまま布団にゴロリと横になった。まだ少しだけ布団に残る温もりを求めるように、丸くなる。  
 起こされたのは確かに気に喰わないが、関わる気も起きない。ただでさえ少なく貴重な睡眠時間のほうがよほど大切だ。あんな薄べったいチビなんかどうでも良かった。  
 心地良い眠りを邪魔しようとする全てを遮断するかのように、頭から掛け布団を引っかぶってモゾモゾと丸くなる。  
 後に残されるのは、あまりの反応に目と口をまん丸に開けたままの少女。  
 少女に背を向けて動かなくなった布団製の芋虫が、再び窓の外に浮かぶ少女に興味を向ける兆候はない。  
 
 月の光は白く淡く下界を照らす。  
 りー…りー…と虫の音が辺りに優しく響く。  
 
 しばらくして呪縛から解放された少女が、素手でぶち破らんばかりの勢いでバシバシとガラスを叩く。  
「ちょっと!なんで無視するのよ!開けなさいよ!」  
 物凄い剣幕で窓の外から男に迫る。  
 本当は首根っこ掴んでガクガク前後に揺さぶってやりたいのだが、招かれないと室内に入れないのが吸血鬼の性。  
 それは様々な力を持つ吸血鬼の弱点の一つ。初めて訪問した家では、彼らはその家人に招かれなければ中へ侵入できないのだ。  
 招かれないどころか「帰れ」と言われてしまい殴りこむ事も叶わずに、窓ガラスが邪魔でそれ以上は青年に詰め寄る事が出来ない。  
「ふざけんじゃないわよ!あたしは吸血鬼。吸血鬼なのよ?!  
 人間なんかと違う高貴な種族なのよ?!それがなんで門前払いされなきゃいけないのよ!  
 この私が命じてるんだから、獲物なあんたは素直に言う事を聞いて!ここを開けて私を入れればいいのよ!!」  
 がーっと火でも吐きそうな勢いでまくし立てる。  
 形の良い柳眉は逆立ち、真白い牙はさらに伸び、元が綺麗なだけあって一層恐ろしい形相を呈している。  
 どうやら、こちらの方が少女の地らしい。先ほどまでの妖しさはどこへ行ったのやら。欠片も見られない。全て獲物を騙すための演技演出のようだ。  
 とは言え、どれだけ言葉を並べようとも彼女に出来る事と言えば、冷たいガラスにへばりついて喚くのが精一杯。ガラスに押し付けられた顔が、ぐにぃっと滑稽に歪む。美少女が台無しだ。  
 少女の罵声と騒音が効を奏したのか、布団芋虫がムクリと起き上がる。  
 中から出てきた顔は、最高に不機嫌そうに眉が顰められていた。熟睡中だったのを起こされて、さらに寝ようとした所を騒音で邪魔されているのだから無理もないが。  
「しっしっ!どこか他を当たれよ、ガキにゃ興味ないんだよ」  
 不機嫌を隠そうともしない声で言い、餌をねだってまとわりつく野良犬を追い払うかのような仕草。  
「くうぅっ…こっのっ……!」  
 怒りのあまり、少女の白皙の美貌が夜目にも鮮やかに朱に染まっていた。  
 少女の本来の目的は食事だ。無論、吸血鬼が口にする食事といえば一つしかない。  
 吸血鬼としての食事をしようと、適当に目に付いたこの青年の部屋へと来たのだが、既に目的は変わっていた。だが頭に血の上った少女は、その事に気が付いていない。  
 口を開けば罵倒よりも先に怒気が吐き出され、ぱくぱくと開閉を繰り返すだけで言葉にならない。  
 もしも少女に恋人がいれば、百年の恋も一秒で冷めて逃げだしたくなるほどの勢いで怒り、まさに鬼のように顔を歪め、噛み締められた歯がぎりぎりと音を立てていた。  
 少女は自身の価値をよく理解していた。自分がどのくらい可愛くて、どうすれば男の目を惹きつけるのかを把握していた。  
 自分が妖しい仕草で誘えば、たいていは彼女が何者であるかなどと欠片ほども疑わずに、ころっと魅了されるのが常だった。  
 だと言うのに。  
 この青年は自分を犬か猫のように鼻であしらったのだ。  
 誇り高い少女のプライドはズタズタだった。  
「俺は眠いんだよ。分かったらさっさと帰れ。このペッタン娘」  
 ヘソで茶を沸かす、と言うが今ここに水の入った薬缶があったならば少女の頭がコンロ代わりに出来たろう。  
 なんとかしてこの無礼者に一矢返さねば気がすまない。  
 何故、この男は自分の魅力に転ばないのか。僅かでも心の隙間があれば、魅了の力はそこから忍び込んで相手を支配すると言うのに。  
 マグマのように煮えたぎる少女の脳裏に、不意にピンと閃く物があった。  
 少女はまさしく己を正しく把握していた。その理解は、自分の持つ要素、そして悔しいが自分の持たざる要素についてまで及んでいた。  
 まるでとびっきりの悪戯を思いついたと言うようにニヤリと心底、意地悪そうに笑う。  
「あー…分かっちゃったぁ〜。あんた、年上が好きなんでしょ?」  
 
 青年の心中を探るように、窓越しに上目遣いで覗き込む。  
 青年の隠された、隠していたい性癖を抉りだすように言葉が投げつけられる。  
「それで大きくってやわらかーい胸が大好きなんだ?それでぇ、私とは正反対な性格してるのが好みなんだよね〜?」  
 それはほんの僅かな変化に過ぎなかった。だが少女は、青年の表情が引き攣るのを見逃しはしなかった。  
 ここが責め所、とさらに畳み掛ける。  
「おっきなオッパイの谷間に顔埋めて、撫で撫でしてもらいながら『いい子でちゅね〜』とか言われるのが好きなんだ?」  
 少女は青年がさも汚らわしい物であるかのように顔を背ける。赤く光る瞳は見下すような雰囲気をたたえ、青年にひたりと据えられて動かない。  
 青年に反論させる暇を与えず、少女は続けざまに嘲笑う。  
「えー?マジ〜?マザコン〜?!  
 キモーイ。ママのおっぱい吸って許されるのは三歳児までだよね〜」  
 窓の外で少女がケラケラと笑う。  
 どこかで聞いた台詞なのは気のせいか。  
 どこでそんなネタを仕入れてきたのか、なんて青年には知る由も無かった。それに問題はそこではない。ああまで言われて、それでもなお我慢する理由は彼には無い。  
「なっ?!テメ、この、言わせておけば!」  
 相手が見た目は少女に過ぎず、そんな少女相手に本気になって大人気ない、なんて事はこれぽっちも思い浮かばなかった。人間、得てして真実を突かれた時ほど頭に血が上りやすいものだ。  
「クソガキが、お仕置きしてやらぁっ!こっち来やがれ!」  
 青年は掴みかかろうとした。  
 が、自分と彼女を隔てる物がある。目の前のガラス。厚さはほんの数ミリに過ぎないが、確かな壁となり少女へと手を延ばすことを阻む。  
 邪魔だ。目もやらずに鍵を外し、一息に引き開ける。  
 それは日常と非日常を区切る線。昼と夜に住まう者を分ける境界。  
 激高した上にまだ寝ぼけた頭では、それが少女の罠であると気が付く筈も無く。  
 僅かに隙間が開いた途端、ふわりと夜気が忍び込む。  
 冷えた夜風に晒されて、寝巻き姿の青年の体を震わせる。だが、彼が震えているのは何も全てが夜風の所為だという訳ではなかった。  
 窓の外で宙に浮かびながら佇んでいた筈の少女が、ひんやりとした掌で青年の頬を撫ぜたから。  
 いつの間に青年のすぐ傍にまで忍び込んでいたのか。細い体が本当に夜風となってスルリと入り込んだかのようで、青年には全く見えなかった。  
 ほんの少し体を傾ければ触れてしまいそうなほど近く。  
 青年の視界をわざとらしいほどの満面の笑顔で埋めて。  
「今晩はお招き頂き、感謝いたしますわ」  
「あ…」  
 ここに来て、ようやっと青年は己の犯した致命的な間違いに気が付いた。  
「お礼はしてあげないとね。色々と……」  
「あああ……」  
 青年は逃げたかった。今すぐにでも後ろを向いて走り出したい。だが、悲鳴を上げて逃げだしたくっても身体は主の意思には従ってくれない。  
 手足は雨に打たれる捨て犬のように震え、喉からは擦れた声が絞り出されるだけ。  
「それじゃあ…」  
 ぺちっと可憐な両手が合わせられ合掌の形になる。  
 食事の前には礼儀正しく元気良く、頂かれる獲物への感謝の心を忘れずに挨拶をしましょう。  
「いっただっきまーす」  
「アッーーー!!」  
 
 
 朝日が昇る。  
 黄金に輝く光は暗闇を吹き散らし、街を跋扈していた夜の住人をそれぞれのねぐらへと追い返す。  
 太陽は等しく全てに降り注いで、青年の部屋にも光が差し込む。一日の始まりを告げる曙光は、乱れに乱れた布団、元は寝巻きだったと思しきボロ布の塊など、室内の惨状までも余す所無く照らし出す。  
 そこには一人の人間がいた。  
 少女は既にどこかへと消え失せていた。  
 室内にいるのは吸血鬼の少女が訪れる前と変わらぬ、ただ一人。  
 全身の至る所に真っ赤なキスマークと噛み跡を付けられ、シーツにくるまってシクシクと泣きはらす青年が一人いるだけだった。  
 東の空が黒から藍にと変わり始めた頃、去り際に少女は言った。  
「けして吸い尽くして殺したりはしない」  
 と。また彼女はこうも言った。  
「下僕になんてしてあげない」  
 血液を吸われるが死に至る事は無く、かと言って無罪放免と生かされもせず、下僕とされ何も考える事無く彼女に全てを捧げる事も許されない。  
 それはつまり青年自身が「パス」と言い放った嗜好のあわぬ相手に、己の意思全てを無視された上で望まぬ行為を延々と強制される事を意味する。  
 
 そして。  
 今夜もまた少女が窓を叩く。  
 

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