季節の移ろいと共に緑も鮮やかになってきた山中の、穏やかな流れがたゆたう沢辺。  
 佐世は水際の大石にぼんやりと腰掛けて長吉を待っていた。  
 
(今日は、来てくれるかしら……)  
 昨日と一昨日は空足だった。  
 長吉は山のひと──里には住まずに、もっぱら山中で獣を狩ったり、木を伐ったりして暮らしている  
という人たち──だから、いつもの場所に来れば必ず会えるというわけではない。  
 けれど。  
 今日会えなければ、もう二度と会って話すことも出来なくなってしまう。  
 明日より一月の間は里から、いや、名主の屋敷から出ることも許されなくなるのだ。  
 そして一月が経てば──  
 
「佐世!」  
 声がして、上流の岩場をするすると、山の獣のような滑らかな動きで長吉が降りてくるのが見えた。  
 合図の木の枝に藁しべを結んでおいたのに今日は気が付いたのだろう。  
 佐世はすっと背筋を伸ばして長吉を見、小さく笑って手を振った。  
 
「明日から、ここには来ないわ」  
 佐世の静かな声に、長吉は僅かに眉を寄せ、横目に窺うよう少女の顔を見た。  
「よそへ、お嫁に行くの」  
「──そう」  
 喉につかえた息を吐き出すような声で長吉は言い、やや置いて  
「良い縁なのか?」  
そう聞いた。  
「きっと、ね」  
「佐世はきれいだし、気だても良いから嫁いだ先でも大事にしてもらえるよ」  
「そうだといいな……」  
 長い睫毛を伏せて、ぽつりと呟いた佐世の声を最後に会話はとぎれ、川のさらさらと流れる水音と  
どこかで山鳥のほろほろ鳴く声だけが辺りに響く。  
 
「──もう、戻らないと」  
 長吉は黙ったまま、立ち上がる佐世の動きを目で追う。  
「長吉」  
「うん」  
「今までずっと、ありがとう。わたし、長吉と友達になれて良かった」  
 白い、山里の娘にしては驚くほどほっそりとすべらかな手が長吉の手を取り、親愛の情を込め握られる。  
 陽によく灼けて浅黒く、既に大人へと変わろうとしている年頃の男の子らしく骨筋張ってきた大きな手は  
沢の水に熱を取られたのか少しひやりとして、佐世の白く温かな手の中で僅かに緊張するよう身じろいだ。  
「おれも……佐世と会えて良かった」  
 躊躇いがちに力を籠めかかった手は咄嗟に思い直したのか軽く、優しい所作で娘の手を握り返す。  
「じゃあね、長吉。体には気を付けて、達者でね」  
「佐世も、達者で暮らして……幸せにな」  
「うん」  
 草鞋を履き直し、沢を去ろうとする間もずっと、長吉がこちらを見ていた事に佐世は気付いていた。  
 が、しかし、それ以上振り向くことも、声を掛けることもできはしなかった。  
 
 もし振り向いてしまったら、声を出してしまったら。  
 何かきっと、おかしなことを言ってしまいそうだったから。  
 
「おお、おお、きれいになったね、佐世や」  
 一点の染みもなく真っ白な衣装に身を包み、身支度のできた佐世を見て名主は言った。  
「これほどの嫁御ならば、きっとあちら様もご満足なさるに違いあるまいよ」  
 花嫁に対する型どおりの讃辞。  
 しかし言の端には幾ばくか本心からのものが匂う。賞賛と安堵と──微かな後悔。  
 白い着物を纏いうっすらと化粧を施された佐世は実際、里に暮らすどの女よりも、側で支度を  
手伝っている名主の女房や実の娘よりも際だって美しかった。  
 黒々と豊かな髪に色白の肌、目鼻立ちの整った顔の中でもふっくらとした唇は僅かに紅を差すだけで  
艶やかに映え、黒目がちな瞳は濡れたような光を湛えて今は物憂げに伏せられている。  
 早世した母親は並みの容貌だったが、娘の方はいつの間にやら鄙に希なる美女といった趣だ。  
 これは惜しいことをした──  
 
 名主の目つきが花嫁を送り出す親代わりと言うには些かねばついたものになっている事を察してか  
どうか、佐世は両手の指をつき、深々と頭を下げてその視線を遮った。  
「名主さま、奥方さま、今日までお世話になりました。佐世は──沼神さまの元へ参ります」  
 
 既に屋敷の外には禰宜と神子たち、そして村の男衆が集まっていた。  
 白装束に同じく白の千早を被いた姿の佐世が名主に付き添われ、屋敷の外へしずしずと歩み出ると  
ほう、という嘆声が小さなさざ波の如く拡がりかけ、すぐに押し込められるよう静まり返る。  
 陽もおおかた落ちかかり、男衆の中には幾人か松明を手にした者もある。  
 春の終わり、薄暮れ時のとろりとぬるい空気に混じる松脂の燃える臭い。  
 佐世はつとめて静かに歩み、地面に置かれた、簡素な木造りの輿に乗った。  
 禰宜が頷くと四人の若衆が輿のそれぞれの手を担いで持ち上げる。  
 生温い風にざわめく木々の葉ずれと、先導の者が鳴らすほそぼそとした鈴の音だけが響く中、  
無言の行列が里外れの社を目指して進み始めた。  
 
 
 ──八十八年に一度、沼神の巫女、つまりは神嫁として里の娘を差し出す──  
 それが、田畑を潤すに足る水を引き、更には山津波などの災いから里を守ってもらう為にこの地の  
人と神の間で取り交わされた約束事だった。  
 神の嫁とは言うが、水中に沈めて二度と会うことが叶わぬのではやはり生贄としか思われず、  
それを年に一度などと無体は言われぬのが救いにしても、その時々で年頃まで育てたおのれの娘を  
人身御供に差し出すことに諦めの付く親などそうはいない。とは言えど、かつて娘を差し出すのを  
止めた年には決まって大水や日照りに見舞われ里が滅びそうにもなったという伝えもあるため  
掟に背くこともできない。  
 それ故に何時の頃からか、嘆く身寄りを持たぬ娘を里で育てて沼神に捧げるのが習わしとなり、  
此度も勿論そういった娘──つまりは佐世が、沼神の巫女となる定めだった。  
 
 別段、悲しくなどはない。  
 母親は佐世を産んですぐに亡くなってしまったそうだし、父親は何処の誰とも知れないのだという。  
 屋敷の離れに住まわせ養ってくれた名主も、その妻子や使用人も、里の者たちも、佐世に対して  
つらく当たることは一度たりとて無かった。  
 だが、それと同じくらいに優しくされたことも、笑いかけてもらったことも無かった。  
 誰もが、じきに神への供物となる定めの娘には情を抱こうとはせず、好悪いずれにしろ深い関わりは  
心懸けて避け、あたかも佐世という娘の姿も見えず、声も聞こえぬとばかりに振る舞い続けてきたのだ。  
 物心ついた頃よりそうだったので佐世も何故自分ばかりがと疑問を抱くこともなく、たまたま夜中に  
名主や大人たちが語らうのを耳に留めて「沼神の巫女の務め」の真に意味するところを知った時も  
怖れや悲しみなどという思いとは無縁で、ひとえに、ああそうなのかとすんなり腑に落ちる気持ちだけが  
胸にあった。  
(あのまま何も知らずに、人形のように生きていれば……こんな思いもせずにいられたのかもしれない)  
 おもてを隠す千早の陰で、佐世の睫毛が微かに震える。  
 あの時、山になど行かなければ。  
 ──長吉と出会ったりなどしていなければ。  
 
 里に居場所のない佐世が、昼間からふらり、ふらりと山へ足を運ぶようになったのは数年前からの事。  
 特に狼などの危険な獣も棲まぬ山であったためか里の者もそれを咎め立てようとはしなかったが、  
何度も山歩きを重ねるうちに随分と遠くへ行けるようになっていた佐世はある時、里山をひとつ越えた  
奥の山にまで足を踏み入れ、そこで長吉に出会ってしまった。  
 
 生まれてこの方、父親と二人で住んでいる山から出たことがないと言う長吉は佐世の身の定めなど  
知る由もなく、初めて見る里の娘に興味津々の体で接してきた。  
 最初は戸惑うばかりだった佐世も、それまで知らなかったもの──自分に関心を示し、せっせと  
話しかけては気を引こうとする同じ年頃の男の子の存在に、知らず識らず心を揺り動かされていた。  
 己にも何かしらを感じる心というものがあったのだと知り、ずっと乾ききって死んだようだったそこに、  
いつしか感情という泉が湧き出していた事を知った。  
 長吉の前でだけは、佐世はひとりの、生きた人として振る舞うことができた。  
 
 それは、いずれ遠くもないうちにこの世から居なくなる筈の娘にとって良いことだったのか、悪いこと  
だったのか。  
 佐世にはさっぱりと判断の付かないことではあったが、ただ。  
 もう二度と長吉には会えなくなる。  
 己の定めの内でそのことだけは、考えるほどにどうしようもなく佐世の胸を痛ませた。  
 
 
 沼神の社に着いた頃にはもうすっかりと陽も暮れ、辺りは夜の帳の中にあった。  
 月はなく、男衆の手に掲げられた松明の火だけが夜闇の底を焦がす中、厳かに祭文が詠み上げられ  
里の者が古えよりの約束を果たしに来たこと、すなわち巫女の娘を捧げに来たことを沼神に告げる。  
 それが終わるといよいよ佐世を乗せた輿は社の奥へ──社に隠されて外からは見えなくなっている  
洞をくぐり、その奥にひっそりと湛えられた水場、沼神の住処へと水底の路が繋がっているとされる  
場所へと運び込まれた。  
 
(綺麗な水──)  
 輿の上でじっと座った姿勢のまま、佐世は松明の火を受けてちらちらと煌めく水の面を見つめた。  
 沼神さまの住処と言うくらいだから山中や野にある小さな沼のように暗く濁った水を湛えているのかと  
思っていたが、意外にもかなりの深さまで見通せそうなほど水は澄み、あたかも磨いた鏡のようだ。  
 しかしやはり底の方は暗くなっていて何も見えない。  
(水の中に沈んでいけば、昔に沈められた娘たちの亡骸を見ることになるのかしら)  
 輿を担ぐ若衆たちの足が水の中に入り、そのままなだらかな傾斜を下って行く。  
 腰まで浸る深さまで来ると彼らは肩に担いだ輿をそうっと水面に下ろし、後ろからぐいと押した。  
 佐世を乗せたまま輿は小舟のようにつうっと水面を滑り、丁度洞湖の中央あたりでぴたりと止まる。  
 
 佐世はそっと手を伸ばして指先で水に触れた。  
 水は山の湧き水のようにひやりと冷たく、落ちればすぐに心の臓が縮み上がってしまいそうだ。  
 自分は水に溺れて死ぬのだろうか、それとも何か大きな生き物に食べられてしまうのだろうか。  
 沼神さまというものが本当にいるのかどうかは知らないが、よしんば実際にいたとして、そんな  
大きな魚か何かに食べられて死ぬというのは想像するだに痛そうだから、どちらかといえば溺れて  
息が止まる方が幸いなのかもしれない。  
 そんなことをぼんやりと考えている佐世が気付かぬ間に、輿が浮かぶ水面の下にいつしか暗く  
大きな影が現れ、周りを取り巻くように広がり始めていた。  
 それを見た里の男たちは怖じてどんどんと後退り、その手から取り落とされた松明が消えかかって  
薄暗くなるそれが合図だったかのように、静かだった水面がやにわに激しく波立ち始める。  
 自分の乗った輿が木の葉のように揺れ動くのに、佐世ははっと我に返って悲鳴を上げそうになった。  
 しかし、叫んだとて誰が助けに来るわけはないのだと思い直し、口からこぼれ出そうになった声を  
喉の奥に押し込め、代わりに周りの水音にかき消されてしまいそうなほどの小さな声でそっと呟く。  
「長吉と、もっとたくさん遊びたかったな────」  
 
 
 真っ暗い。  
 水の底というものはこんなにも暗いのか。  
 だけど、思っていたほど寒くはない。むしろなんだかふわふわとした暖かいものにくるまれている  
心地さえする。  
 さわりと、動かした手が何かを探る。綿の入った夜具のような手触り──  
 
「お目覚めになりましたかな」  
 ごぼごぼとあぶくの立つような、嗄れたような声がして部屋の隅に突然灯りが点った。  
 蝋燭や油の火ではない、薄青い、蛍を幾匹も集めたような不思議な光。  
 その淡くぼんやりとした明かりの中に、小柄な翁が片膝を立てて跪いているのが見える。  
「え………?」  
 佐世は身を起こし、辺りを見渡した。  
 目が慣れていないのか光の届く範囲から外はよく見えない。  
 視線を下ろすと、自分が白装束を着たまま衾に寝かされていたことに気が付く。  
(そうだ、確か水に沈められたはずなのに)  
 憶えは自分の乗った輿の周りに突如、身の丈ほどもある大きな波が逆巻いて飲み込まれ、  
水の中へと引きずり込まれたところで途切れている。  
 それが今、こうして──少なくとも水の底とは思えない、天井も壁もある部屋の中に寝かされて  
いることにどう繋がるのか、さっぱり見当も付かず佐世はますます戸惑う。  
「まずはお召し替えを。婚儀の支度は出来ておりますゆえお急ぎめされ」  
 翁──その奇妙に平たいような顔が何か他のものを思わせる──が手を二度ほど打つと、  
するすると引き戸が開いて、青い小袖を着た侍女たちが何人も入ってきた。  
 手に手に見事な綾や錦、そして櫛笥を捧げ持った女たちは足音も衣擦れの音もほとんど立てずに  
佐世を取り囲む。  
 それまで纏っていた白装束が脱がされ、代わりに美しく手触りの良い袷の着物に袖を通させられ、  
帯を締められ、きらきらと金糸の縫い取りも煌びやかな打ち掛けが肩を包む。  
 髪を梳かれて結われ、とりどりの簪や櫛、珠で飾られる。  
 紅筆が唇に、目尻にほんのりと色を差して行く。  
 見る間に、武家の姫君のような姿に仕立て上げられた佐世はいざなわれるまま部屋を出、  
長い廊下の先に続く大広間へ足を踏み入れた。  
 
 目を瞠るほどに広く立派な屋敷の各所には先程と同様の薄青い灯りが点され、まるで満月の冴えた  
晩のように何もかもが白々と浮き上がって見える。  
 名主の家の座敷の何倍あるかも知れない大広間の中はやはり淡い燐光に満たされて、かなり多くの  
人々がさざめいているようではあるものの、不思議と一人一人の顔は見分けられず、実際にどれほど  
いるものかは見当も付かない。  
 促されるまま上座に着いた佐世がふと気付いて隣を見れば、風変わりな姿のおそらく男の人が  
そこに座していた。  
 佐世には何という恰好なのか解らなかったが、都の公家のようにゆったりとした黒の直衣と青鈍の単、  
濃縹の袴を纏ったその人は、立烏帽子の縁に薄い紙を挟んで顔に垂らしているため人相というものが  
さっぱりと知れない。  
 首を傾げている間に先程の翁──ようやく思い当たったが蟹に似ている──が三方に乗せた  
提子と杯を持って膝行り出て来る。  
 神妙に述べられ始めた翁の口上に、今になってやっと呑み込めた事の次第が、不意に落雷の如く  
佐世の心を打ちのめした。  
 
 今より自分は娶られるのだ──この男の人、いや、おそらくは沼神さまに──  
 
 確かに、長吉にもそう告げて来たのだし、育て親である名主にもそう言って里を出た。  
 が、しかし、今にして思えば心得てきたのは今生を終える覚悟だけ、人身御供として溺れ死ぬか  
食われて死ぬか、いずれかの後は黄泉路を下るばかりだと思っていたのに、今ここで生きたまま  
誰とも解らない、人ですらないかもしれぬ男の妻として添うのだと──そう腑に落ちた途端、水に  
沈められる際ですらあれだけ凪いでいた心も今やおののき、全身はがくがくと震え背にはじっとりと  
冷たい汗が滲みはじめた。  
「では、固めの杯を干されませ」  
 手渡された杯を持つ手がおぼつかなく、つい指が震えて取り落としてしまいそうになる。  
 唇も震え、杯が触れたものやら酒を含んだものやら何も解らない。  
 目の縁がかっと熱く、何もかもが歪んで見える。  
(いまさら、どこにも戻れはしないのに)  
 心の中で諦めきったような呟きが囁かれる。  
 死んだように生きて行けばいい。これまでと何も変わらない。  
 佐世はぎゅっと目を瞑り、自分の涙の味が混じる酒を喉に落とした。  
 
 何かを引きずるような音がする。  
 ずるり、ずるりと、大きく重いものが板の床を這い、擦れてゆくような音。  
 それが何なのか、佐世は考えることを放棄していた。  
 部屋の内にわだかまる暗闇に包まれて、ぐったりと手足を投げ出し横たわる。  
 下腹を鈍く疼かせる痛みと脚の間からぬるぬるとこぼれ出るものが煩わしいがどうすることもできない。  
 着物や衾が汚れてしまっているかもしれない、そんな考えがちらと頭をかすめたものの、微かな光も  
射さぬ真っ暗な中では確かめようもないし、だいいち確かめたくもなかった。  
 
 
 婚儀とそれに続く宴が済んだ後、佐世が案内された部屋は最初に目を覚ました部屋とは別だった。  
 先程の部屋のおよそ五倍ほどはあろうかという広々とした室内は隅々まで美しく整えられ、長押の  
金具から襖の引き手に至るまで何もかもが細やかで気品のある意匠を施されている。  
 風変わりであるのは床が廊下よりも一段低くなっていて、その差を埋めるように柔らかく厚手の衾が  
一面に敷き詰められている事だったが、その片隅に膝を抱えて座り込む佐世の心はそんな風変わりな  
かしこの造りを目に入れはしていても、気に留め何かを思うことすら億劫なほどにふさぎ込んでいた。  
 
 ずっと、胸の辺りに何かがつかえたように息苦しい。  
 先程の宴でも、目前に様々な御馳走が並べられていたのを目にはしていたが、白湯すら喉を通らぬ  
有り様でほとんど何も口に入れていなかった。  
 それでも空腹などは一向に覚えないのだが、ただ、変に喉ばかりが渇いて仕方がない。  
(水の底にいるのに、喉が渇くなんておかしい──)  
 沼の底に沈められたのに濡れもせず、息が詰まって死にもせず、こうして過ごしていられるなど、  
己が身の上ながら到底信じられない。  
 いや、これとて本当は夢を見ているだけで、目を覚ませば名主の屋敷の離れにいて朝の空気を吸い、  
お天道様を拝むことができるのではないだろうかという気さえしてくる。  
 
 が、そんなとりとめのない考えも、不意にあの薄青い灯明が風もないのにふつりと消え、部屋の中が  
墨を流したような真っ暗闇となったことでいきなり断ち切られた。  
「え……っ?」  
 慌てて辺りを探るが灯台がどこにあったものか今となっては見当が付かない。  
 それに、見つけたところでどうやって再び灯りを点せばいいのか。  
 誰か人を呼ぶべきなのかもしれない。だが、どこに──何と言って?  
 もういっそ、このまま眠ってしまえば良いのではないか。  
 婚礼の衣装を着たままなのが少々気に掛からないでもないが、帯を弛めさえすれば──  
 
 すうっと、襖が滑る音。  
 
 幾らか闇に慣れかけた目は入口が人の肩幅ほど開いて、部屋の外の薄明かりが僅かに射すを見る。  
 そして、そこに人の影が立っているのを。  
 
 誰、と問うまでもない。  
 仄かな明かりは闇の中に輪郭を浮き上がらせるのみだが、先程とはすっかり装いを変えているのが  
見て取れる。  
 烏帽子を被っていなくとも、充分に背の高い姿がうっそりと部屋の内に進み入って来た。  
 衣の裾を、長く引きずっているような気配。  
(沼神さま────)  
 歯の根が、かちりと鳴りそうになる。  
 婚礼を済ませ夫となった男が妻となった女の元を訪う由など、いかに佐世が生娘であろうと  
解らぬはずもない。  
 静かに襖が閉ざされ、辺りは再び闇に沈む。  
 すぐ側に近付いた気配が姿勢を低くし、衾の上についていた手が何か冷たいものに触れられる。  
 佐世は咄嗟に悲鳴を上げそうになり、しかし叫んだところで誰の助けなども得られはしないのだと  
思い直し、ただ闇の中で更にぎゅっと目を閉じて唇を噛んだ。  
 
 さらさらと衣の擦れ合う音がして、背なに回った腕が佐世の体をぐいと引き寄せる。  
 左の手首を掴んでいるひやりとした手は大きくて力強く、多少抗ったところでびくともしないだろう事は  
容易に窺えた。  
 こんなものなのか、誰かの妻になるということは。  
 顔かたちも解らない闇の中で、言葉一つも交わすことなく──  
 そういえば、婚儀の最中も沼神さまは一声も発してはいなかった。  
 妻に迎えたとはいえ人などと語らう気はないのか、それとも魚のように声を持たぬ神なのか。  
「あ……」  
 思いのほか優しく抱き寄せられた胸の中で、つい小さな声がこぼれ出てしまった。  
 冷たい手が頬に触れ、そうっと耳朶や目尻を辿った指先が髪の中に滑り込む。  
 背を抱くもう片方の手はゆっくりと撫でさするように上下し、腰から下には何か太さのある長いものに  
巻き付かれたような感触を覚える──なんだろう、これは──?  
 ざらり。  
 下半身に巻き付くもののおもてを探るように滑らせた掌に、僅かに硬く、細かなでこぼこのある手触り。  
 手足の爪のような触り心地の、規則正しく並び重なった小片──これは、そう、鱗だ──  
 にわかに、肌の下にぞわぞわとした寒気が這う。総身の毛がよだつような心地。  
 喉が震える。  
 誰に助けを求めるでもなく、ただ叫ぶ。  
「ひ……っ、い…や……嫌ぁ──────!!」  
 
 その後は、ひどいものだった。  
 
 突然、強い力で衾に体を押さえ付けられた。  
 手荒く帯を解かれ、引き毟るように着物の前がはだけられる。  
 全く男を知らぬ柔肌を、圧しひしぐようにして暴き立てる手。  
 怖ろしさに歯の根も合わず、声も出ないでいる佐世の喉元にひたりと濡れたものが触れた。  
 明らかに人とは違う細く長い舌がちろりと首筋を撫で、鋭い牙の先のようなものがつっとかすめる。  
 肌の上を這い回る手は剥き出しにされた胸を乱暴に掴み、捏ね、怯えたように縮こまる先端を  
抓り上げた。  
 押し殺した悲鳴に構わず、もう片方の手が脇腹から腰へと下り、白く滑らかな太股の間へ入り込む。  
 無理矢理に開かれた脚は強い力で押さえ付けられ、閉じることも、動かすことすらかなわない。  
 そうして晒け出された場所に押し当てられたものが、まだろくに潤んでもいない秘花を割り開いて  
抉り入り──一瞬、息が止まるのではないかと思うほどの痛みを伴って佐世の純潔は散らされた。  
(罰が、当たったのかもしれない)  
 涙を滲ませた虚ろな目で闇を見上げ、身の内を動き回って責め苛む感触に知らず途切れ途切れの  
声をこぼしながら、佐世はぼんやりとそう考えた。  
 沼神さまに失礼を働いたから。  
 巫女として、神さまの妻としてお仕えするためここまで寄越されてきたのに嫌がったりなどしたから。  
 ぬるりとした感触と、生臭い血の匂い。  
 月のものが下りて行く時にも似た、しかし比べものにならないほどの鈍痛が腰から下を支配し、  
痺れさせていく。  
 体の中へ出入りする熱い杭のようなものがどんどん大きさを増す。  
 ただひたすらと身を震わせ、小さな声を上げるだけで抗うこともできず蹂躙され続ける自分の周りで  
何か大きなものがのたくり、うねる気配がする。  
 下腹にひときわ大きな痙攣が走り、背筋が引きつるような感覚。  
 身の内で蠢いていたものがぶるりと震え、膨れ上がり──弾けた。  
 熱く、どろどろとしたものが胎内に流れ込み、溢れて肌の表を汚すのを心のどこかで捉えながら  
佐世の意識は半ば闇に沈みかかり、深く長い溜息のような音を吐き出したのが自分なのか、それとも  
相手の方なのか、そんな事すらももはや判じられなくなっていた。  
 
 
 いつの間に夜が明けたのか、そもそも水底の異界に朝昼があったのか。  
 夕べの闇とはうって変わり、柔らかな光が明るく射し込む部屋の中で佐世は目を覚ました。  
 
 すると、まるで見計らったかのように青い着物の侍女が数人現れ、しずしずと佐世を取り囲む。  
 女たちはまず佐世の乱されたままの着物を脱がせ、水盆で顔を洗わせ口も漱がせ、湯で湿した布で  
全身を拭き清め、終いに新しく用意されていたきれいな着物を纏わせると髪を梳って結い、そして  
入ってきた時同様に音もなく出て行った。  
 入れ替わるように入ってきた別の侍女は朝餉の膳を並べ、黙りこくったまま傍らに傅く。  
 食事など、何も喉を通らないような気がしたが、食べ終わるまでこの侍女が側にいるだろうことを  
薄々察した佐世は努めて、味も判らぬままにそれを口にした。  
 
 
 膳を下げるために侍女が出て行った後は誰も訪れず、部屋の中にはしん、と蔵の中のような静けさに  
充たされる。  
 ふと、この部屋の外に出てみようと思い付いた佐世は柔らかい衾の上にそろそろと立ち上がった。  
 昨晩の名残と思しき鈍痛が一歩を踏み出すたびにずきずきと足腰を軋ませ、数歩も行かぬ内に  
へたりと膝をついてしまいはしたが、それでも這いずるようにしながらなんとか部屋の戸口まで辿り着く。  
 すっと、襖を引いた途端に外の明るさが流れ込み、佐世は思わず目をすがめた。  
 
 外は明るかったが、それはお天道様の日差しとは違った明るさだった。  
 廊下から縁に出て空を仰げば、やわらかな光を湛えた薄青い天蓋がゆらゆらとたゆたっている。  
 その青を時折過ぎる黒い影を、佐世ははじめ鳥だと思ったが、よく見ればその影は形も動きも  
魚そのものだった。  
 周囲に目を転じれば、白い細かな砂を敷き詰めたような庭に植わっている草木も全て水草や  
水没した枯木であるように見える。  
 やはりここは水の底なのだと思い、それなのにこんな立派な屋敷があって、自分が溺れもせず  
息をしていられるという事への驚きを改めて覚える。  
 
 そして、もはや金輪際、水の上には戻れはしないのだという諦めをも。  
 
 
 いつの間にかに辺りが暗くなり、部屋の中には知らぬ内にあの青い灯りが点されていた。  
 運ばれてきた夕餉を口に運び、また一人部屋に残される。  
 
 そして再び。  
 ふっ、と灯りが落とされ、闇の中で静かに襖が開いた。  
 
 
 佐世が沼神の元に嫁いできて七晩が経っていた。  
 
 夜毎、灯りの落ちた暗闇の中で顔も声も知らぬ夫に犯される。  
 朝になれば侍女達に身を清められ、朝餉を摂り、誰も訪れぬ昼間をうつらうつらと過ごし、夕になれば  
夕餉を摂り、そしてまた沼神が訪れる。  
 
 籠の鳥どころか、鉢の中で飼われる魚のような閉じた日々。  
 緩慢に心が死んで行く。  
 
 
 闇に覆い隠された閨の中、肌をまさぐる掌の動きにつれて微かな吐息が洩れる。  
 白い衾に広げられた白い着物と長い黒髪。  
 その中心にほっそりと横たわった肢体は身の内で昂ぶる熱に柔肌を淡く色付かせ、繰り返される  
短い息に胸は忙しなく上下する。  
 しかしその表情は魂が抜け落ちたようにうつろで、焦点の合わぬ目には何の感情も浮かんではいない。  
 半開きの口はもはや言の葉を紡がず、ただ吐息とも声ともつかぬ小さな音をこぼすだけで、力の抜けた  
五体はただただ男の手の為すがままに揺り動かされるばかりだった。  
 両脚の間で出入りする熱さに灼かれる秘所は僅かに濡れて貫くものを受け入れてはいるものの、  
それも単に与えられる刺激に応じているというだけで、およそ歓びや熱狂には程遠い。  
 それでも、温かくぬめる肉に沈み動く雄は次第と硬さを増して膨れ上がり、やがて頂点に達したところで  
ぶるりと震えて女の胎に精を吐き出す。  
「…………っ」  
 熱い迸りを受けて女は僅かに身を強張らせ、息を上擦らせはしたがそれだけだった。  
 全身の痙攣がだんだんと治まり、乱れた呼吸が再び元の深さに戻るまでの間、ただ見開かれたままの  
瞳は何も映さず、その唇が明らかな音を紡ぐこともなく。  
 
 何を呼び起こすこともなく引いていく熱、静まっていく息と鼓動。  
 泣きもせず、抗いもせず、心の臓が動いているだけの死人にも等しい女の体を抱く沼神の肩が  
微かに震えた。  
「──どうしてだ…」  
 低くかすれた、消え入るような声。  
 
 腕の中の佐世は何も応えず、ただ熱の名残を帯びた息を小さく吐いた。  
 
 
 ずるり、ずるり。  
 重い響きを引きずるようにして沼神が閨を去って行く。  
 交わりの残り香が澱む暗闇の中、その音を聞きながら深泥の眠りに落ちようとする佐世の頭の中に  
ひとつの音がふと蘇った。  
(どうしてだ…)  
 あれは誰の言葉だったのだろう?  
(どうして)  
 体の奥が軋んで上げたような苦しげな声。  
(どうしてあのひとはそんなことを言うの)  
 この屋敷に嫁して、初めて聞いた沼神の声。  
(どうして)  
 目のふちをじわりと熱くして頬に伝うものが何なのか、思い出すまでに少し時間が掛かった。  
 痛くも悲しくもないのに涙が出るというのはどういう時だったか、それを思い出すのにも。  
 
 
 朝。侍女達が身繕いをさせに訪れる。朝餉。  
 昼。ぼんやりと、庇の向こうで泳いでいる魚を見上げながら考える。  
 夕。灯明が点り、夕餉を運んできた侍女が側に控えている。  
 
「……あの……」  
 突然声を掛けられた侍女は驚いたように顔を上げた。よく見れば、丸い目がなんとなく魚を思わせる  
どこか愛嬌のある面差し。  
「この灯りの……点け方を教えて下さいませんか」  
 
 
 普段の通りに部屋の外から灯りを消し、襖を身の幅ほどに開けた沼神はふと奇妙な違和感を覚えた。  
 その理由はすぐに知れた。  
 部屋の中に佐世の──いつも人形のように生気無く座しているはずの妻の姿が見えない。  
 人の気配は依然として失われていないので逃げ出したというわけではなさそうなのだが。  
 一歩、足を室内に踏み入れる──襖を閉めるまでは人の形でいることにしている──  
 途端。  
「!?」  
 薄青い光が横合いから照らす。  
 入口のすぐ側、襖の外からはちょうど死角となっていた所に灯台を手にした佐世の姿。  
 そのおもてが、怯えと諦め以外の表情を湛えているのを随分と久方ぶりに見たような気がする──  
はっと気付いて慌てて単の袖で顔を覆う──既に手遅れ。  
 佐世の口が二度、三度と音もなく動き、少し大きく吸い込む息に続けて久々に聞くその声を紡いだ。  
「──長吉」  
 
「あの日、社に受け取りに行くまで知らなかったんだ、佐世が巫女だって」  
 衾の上に、肩を縮こめるようにして正座している長吉は山で一緒に遊んでいた男の子よりは幾分か  
大人びた年格好に見えて、ばらばらと無造作に括られていた髪も今は綺麗に揃えて髻に結われている。  
よく陽に灼けたような浅黒い肌はそのままだったが、目は金色で瞳孔が縦に長い蛇のものになっていた。  
 足を二本に分けられるくらいだから、見た目や年頃を少し変えて化けるくらいは容易いことなのかも  
知れない。  
「はじめは人の女の子がどんなものなのか知りたかっただけだった。それで、里に近付いて、佐世に会って  
──おれの嫁になる娘が佐世みたいならいいなと思ってて、だけど、本当に佐世だったなんて思わなくて」  
「……どうして、顔や声を隠したの」  
「それは………」  
 佐世の手が、先程からお守りのようにしっかりと抱えていた灯台を強く握りしめた。  
 その声が、不意に湿り気を含んで頼りなげに揺れる。  
「わ…わたしだって、長吉と会えなくなって、でも人身御供になって死んでしまえばずっと辛いままで  
いなくても良いからって思って……なのに、本当に沼神さまにお嫁入りしないといけなくて、怖くて、  
ずっと…………!」  
 突然、ぼろぼろと涙をこぼして泣き出した佐世を長吉の腕が抱き寄せた。  
 胸に顔を埋めてしゃくり上げる娘の背を、大きく温度の低い手で愛おしげに撫でる。  
「ごめん、佐世にもの凄くひどいことをした」  
 佐世が洟をすすりながら見上げた先で、申し訳なさそうな表情を湛える金色の目がその瞳孔を  
針ほどに細めた。  
「里の祠で巫女としてやって来た佐世を見たときにやっと解ったんだ。佐世がいつもどこか寂しそうに  
していたのは、いつも一人で山にいたのは、全部おれの──沼神の血筋と交わした約定のせいだって。  
水に沈む時までも佐世がおれのことを大切な友達だと思ってくれてるって知って嬉しかったけど、  
おれは佐世に嘘をついてたし、本当のことを知られたらと思うと合わせる顔が無くて──」  
「……ごめんなさい」  
 胸の中で佐世の体が小さく震えた。  
 謝られて驚いたような顔をしている長吉の手を取って、濡れた瞳が再び見上げてくる。  
「わたしも、ずっとあなたにひどいことをしてた」  
「……蛇の体のことなら、おれが悪いんだ。昔、前の巫女として来た母上が父上の本性を知って  
心を病んでしまうほど怖しがられたと聞いて、だから下手に隠そうとしたけれど……でも」  
 躊躇いがちに解こうとした長吉の手を、ぎゅっと、佐世の白く軟らかな手が握りしめた。  
「…いいえ、顔が見えなくても、声が聞こえなくても──体が蛇でも、この手を確かに覚えていれば  
解ったはずなのに……すぐに諦めて、考えるのを止めてしまったわたしがいけなかったの」  
「佐世」  
 握られた手を、強く握り返すように長吉の掌が包み込む。  
「……おれなら、蛇でも怖くないのか」  
 静かに頷いた佐世の唇に、ようやく微かな笑みが浮かんだ。  
「じゃあ、ずっと、ここに──おれのところにいてくれるか?」  
「……はい」  
 自分でもそんな顔ができることを忘れていたような柔らかい表情で、佐世ははっきりといらえた。  
 そして不意に衾の上に居ずまいを正し、着物の裾を整えて正面の長吉を見る。  
「佐世……?」  
「長吉──いえ、沼神さま」  
 佐世は初めて夫にまみえる花嫁のように膝の前に指をつき、楚々とした仕草で頭を下げた。  
「今宵、わたしを──佐世を、あなたさまの妻としてお迎え下さいませ」  
 
 するり、さらりと。  
 僅かに緊張を帯びたぎこちなさで男の手が丁寧に帯を解いていく。  
 一枚一枚着物を解かれ、最後に素白の肌小袖の前がふわりと開いて白く滑らかな柔肌が覗いた。  
「……恥ずかしい……」  
 頬を染めた佐世の消え入りそうな呟き。  
「やっぱり、灯りを消そうか」  
 問われて更に顔を赤くしながらも、佐世はふるふると首を横に振った。  
「あ……」  
 薄皮を剥くよう、そっと左右に襟をはだければ白く細い喉がこくりと息を呑み込んで動き、  
露わにされたまろく柔らかな膨らみが二つ、上がる呼吸と鼓動に小さく震えた。  
 きめ細かな肌の上をさわりと滑った手が背中に回り、慎重なまでにゆっくりと佐世の体を引き寄せる。  
 仄かな青い灯にり照らされて、いよいよ白くなまめいて見える娘の肢体。  
 しかし大きな掌が這わされるその所々には、昨晩までの、強い力で掴まれて鬱血した  
指の跡が薄く残る。  
「すまない……」  
 許しを乞うように項垂れた沼神の顔をほそやかな指がつうっと撫で、次いで回された腕が  
温かな胸の真中に抱き寄せた。  
「いいえ、佐世は──旦那さまとお褥を共にするのは今宵が初めてにございます」  
 はっと上げられた視線の先で、ほのかに上気した女の顔が羞じらうように微笑んだ。  
 
 そろり、探るように互いの顔が近付き、どちらからともなく唇を触れ合わせる。  
 初めて交わす口づけの感触、ふにふにと柔らかい弾力を味わっていた唇と唇が一旦離れて息を継ぎ、  
再び重なった時には僅かに押し付け合う力を増す。  
 今まで触れ合わずにいた分を取り返すかのように執拗と互いを求め合う唇の他方では、  
すっかりと露わになった佐世の肌を沼神の手が這い回るようにして撫でている。  
「んっ、ん………ふぁ……」  
 最初は冷たかった沼神の掌に佐世の体の温かみが移ってゆく。  
 仄かに温む手指で優しく背を撫でられ、脇腹の敏感なところをじっくりと触られて、塞がれている  
佐世の唇が微かに開いて声を上げた。  
 その僅かな隙間をも埋めようとするかの如く、沼神の口づけはいよいよと深くなる。  
 唇で唇を挟んで軽く啄み、そっと吸い立て、舌の先でつっと舐める。  
 一瞬戸惑った佐世もすぐに口元を薄く開き、己の舌を差し出すようにしてその行為を受け入れた。  
「ふ……っ、ぁむ、んんっ……」  
 自分の舌にひたりと触れ、絡んでくるものが沼神のそれだと、やや遅れてから理解する。  
 人より細く、やや長い舌が口腔内に入り込む。  
 巻き付くようにして舌を舐り、つるりと歯列をなぞり、頬の内側、上顎の裏までくまなく愛撫する  
その感触に、耳の内側で響いているような湿った音に、頭をぼうっとさせる心身の昂ぶりに、  
佐世は思わずくぐもった呻きを漏らしてしまった。  
「んぁ…ぷ、ぁふ…………っ!?」  
 口を吸い、吸われる間にもゆるゆると肌を撫で続けていた両の手に、重く張りを増した二つの乳房を  
きゅっと掴まれ、びくりと体が跳ねる。  
 その拍子につい、喉を鳴らして飲み込んでしまったものが自分の唾液なのか、相手のものなのか、  
もはや佐世には解らない。  
 唇を重ねて女の声をほとんど封じ込んでしまいながら、沼神の大きな手は両の乳肉を包み込むよう  
その掌に収め、ゆっくりと揉み、時折外側へ円を描くようにして捏ね回す。  
 しっとりと汗ばみ吸い付くような手触りとなった白い丘の頂には、すっかり淡い紅に色付かされた蕾。  
 柔肉に半ば沈み込むようにしてその重み、その質感を弄り回している手指は時折硬くしこった  
先端を掠め、爪の先で弾くようにして微細な刺激を与えていく。  
 そのたびに塞がれた唇から漏れる声は既にうっとりと甘く、更なる刺激を、もっと深く強いところまで  
響くものを与えて欲しいと希うような色を滲ませ始めていた。  
「……ぁ、ふ……」  
 不意に唇が離れていくのを感じて、佐世はいつの間にか閉じていた目を見開いた。  
 口腔内で執拗に混ぜ合わされていた唾液がつっと糸を引き、薄青い灯りを一瞬弾いて鈍く光る。  
 
「──すまない、もう…人の姿を保っていられない」  
 佐世に覆い被さるような姿勢で、苦しげな吐息をこぼした沼神の肩がゆらりと震えると同時に、  
周囲に何かざわざわと大きな気配が拡がっていく。  
 首を巡らせれば、淡い明かりを弾いてぬめぬめと光る青黒い鱗が辺りをいっぱいに取り囲んでいた。  
 沼神の真の姿──半ばから人、半ばより蛇。  
 しかし佐世にはもう、どんな姿でも恐ろしいとは思えなかった。  
 褥の上に長々と這う蛇体は周りを幾重にか取り巻くように蟠る。  
 この姿を見れば、ずっとどこか不思議に感じていたこの部屋の造りもなるほどと腑に落ちた。  
 広く衾を敷き詰めた、半蛇の神がゆったりと身を休めるための塒。  
 だのに自分がふさぎ込んでいる幾晩かの間、せっかく設えた臥所に寝む事なく夜の白む前に  
立ち去っていたのかと思うと、佐世の心にはにわかに申し訳なく思う気持ちがこみ上げて来る。  
 ぎゅっと、半人半蛇の夫の体に肌を押し当て白い手足を絡めるようにして縋り付くと、少し  
驚いたような視線と声が降って来た。  
「佐世……?」  
「お願い…です…」  
 首筋に顔を埋めるようにして耳元に囁き、やや襟の緩んだ単の胸に手を添わす。  
 白い内腿に挟まれた蛇の胴が小さく身じろぐのが解る。ざらりと波打つ鱗の感触。  
「今宵より、佐世に共寝をお許しくださいまし」  
 夫を見上げる自分の顔が、今まで浮かべたことのない表情を湛えているのを佐世は自覚する。  
 己にこんな声が出せるとは知らなかった。甘えて、物欲しげにねだって見せる媚態。  
「……ああ」  
 僅かな戸惑いの後に妻の言わんとするところを察したのか、沼神はその背に回した腕に力を込めた。  
 
 
 浅く、深く、口づけが繰り返される。  
 唇だけでなく、頬に、額に、瞼に、耳元に。  
 首筋を下って、鎖骨に、白い胸乳に、薄紅に色付く頂に。  
 唇に吸われ、舌先で舐られ、吐息を這わされる柔肌はすっかりと上気し、淡く朱に染まってわななき  
皮膚の内側から燃え上がるような感覚に支配される。  
 衾に押し付けられ、圧し掛かる相手の重みを感じることが昨晩までとは全く異なった意味に、  
沸き上がるような歓びの予感と変わって身の内に充ちる。  
「佐世、佐世」  
 降らすような口づけの合間に、上擦って掠れた声が妻の名を呼んだ。  
 それまでその名を呼ぶことを己に禁じていた、声に出せずにいた分を埋め合わせるかのように  
幾度も幾度も囁かれる言霊。  
 佐世も応えようとはしたが、触れられる都度高鳴る鼓動に息が乱れ、か細くしゃくり上げるような  
声が漏れるばかりで意味のある音を作れない。  
 夫の唇と指が肌を滑って佐世の身のかたちを教え、その声に呼ばれれば心の輪郭が明らかになる。  
 囁かれる己が名に体の芯が疼き、繰り返される愛撫に意識が蕩け出す。  
「……っあ、あ、はぁ……っ!!」  
 あえかに声を弾ませて、佐世の全身がぞくりと跳ねた。  
 両脚の間から引き抜かれた沼神の指が、随分と粘り気を増した愛液にぬらぬらと濡れて光る。  
 初めて、明確な快楽を伴い達した体は甘やかな余韻にうち震え、くたりと褥に手足を投げ出した。  
 
「佐世、辛くはないか」  
 気遣わしげな表情で沼神が覗き込む。  
 ゆるゆると撫でる手は火照る肌を宥めるよう優しく触れていくが、一度達してひどく過敏さを増した  
肉体はそれすらも再び熱を点すものと受け止める。  
「……はい……」  
 甘く熱っぽい溜息を洩らして夫を見上げた佐世の目に、微かな淫靡さを宿した光がちろと揺れた。  
「わたしも……」  
「うん?」  
 伸ばされた指先が沼神の顔に触れ、白い腕がするりと首に回る。  
「佐…世…?」  
 上気し、桜色に染まった女の貌の中で濡れたように艶めく唇が動き、小さく笑みの形を作った。  
 見上げてくる潤んだ瞳に、腰椎の辺りがぞくりと騒いで沼神は僅かに息を呑む。  
 口づけられると同時に体が密着させられた。薄い布越しに感じる肌身の熱と上擦った息遣い。  
 首から肩へ、背中へ降りて行った繊手が、脇腹を通って胸に触れる。  
「して…頂くばかりでは……」  
 襟元に滑り込んだ細い指が衣を弛め素肌に這い、首筋に押し当てられた唇はじわりと熱い。  
 白い単の前をはだけた胸の上を、白い指と紅い唇が辿って行く。  
 鎖骨からがっしりとした胸板へ、とくとくと早い鼓動を刻んでいる心の臓の真上から鳩尾へと、  
柔らかく掌と指を滑らせ、その後を追うように唇が触れる。拙いながらも懸命な妻からの奉仕。  
 腹へ押し当てている乳房のすぐ下に、やにわに存在を主張し始めた硬さを感じて佐世の手が  
するすると下帯を解けば、完全に衣の前が開いて男の下半身が露わとなった。  
「あら……」  
 少し驚いたような女の声をどう取って良いものか判じかねた様子で、沼神が微かに身じろぐ。  
 人の男とそう変わらない上半身は臍の──人ならばそれがあるはずの場所の二寸ほど下より  
徐々に青黒い鱗を散りばめた腰へと連なり、両脚にあたる部分からは完全に蛇の胴となっていた。  
 そして人と蛇の切り替わる丁度その辺りには既に隆々とそそり立ち、血の管の筋を浮かべている  
逞しい陽物がふたつ。  
「へ、蛇だから……その、……」  
 両方ともを、女の暖かく柔らかい手に包み込まれる感触を覚えて、どこかしら言い訳めいた響きを  
滲ませていた言葉がやや上擦った。  
「一度には……片方しか使わな…………!?」  
 相次いで左右の先端に触れていったものが濡れて温かい女の唇だということを、確かに感じ、  
目でも見ていた筈なのだがにわかには信じられない。  
「な、何を…佐世……?」  
「……っ、ふ………、んっ、ぅく……」  
 両手の指で茎を撫でられながら代わる代わるに口づけられて二本の雄肉はたちまちに滾り、  
緊張して硬さを増す。加えて、仰向けた胴体に跨るように体を密着させている佐世の胸の、  
ぐにぐにと押し付けられて来る二つの柔肉が胴の中に隠された子種の嚢を圧し、腰から下が  
骨を抜かれてへなと砕けてしまいそうな錯覚。  
 見る間に溢れ出しはじめた先走りの液に佐世は一瞬驚いた風に目を瞬いたが、すぐにまた  
口づけを再開し、更には流れ出すものを舐め取るかのように舌を使い始めた。  
 ぬるりと熱い口腔に含まれる感触に、それまでにも増して腰が跳ねるのを見て取ったのか  
次第に深くまで咥えるようになり、時折舌先で形をなぞったり吸ったりまでをも織り交ぜ出す。  
 今まで人形のように抱かれていた時には欠片も見せなかった、陶然と、己の奉仕で相手の快楽を  
導くことに悦びを覚える表情。  
 きりきりと腰の奥底が引き攣る思いも一瞬の間、遂に陽物がもろともに限界を迎えた。  
 片方は含まれていた口内に、もう片方は握られた手から顔のおもてや胸にまでどろりと濃い子種を  
大量に吐き出してしまう。  
「……っ、すまない……!」  
 慌てて上体を屈め、まだ腕の通っていた単の袖で精に塗れた顔を拭ってやると、佐世は何度か  
小さく咳き込みつつもおもてを上げ、少し恥ずかしそうな笑顔を見せた。  
「…ぁ…ふ……旦那様の、お種……あたたかい……」  
 こくり、小さく喉を鳴らして口の中に残った精を呑み込みながらどこかうっとりと呟く佐世の、  
なんとも艶めいた表情と声音に、胸から腹へと垂れ落ちる白濁に彩られた柔肌の匂いに、  
たった今精を吐いたばかりだというのに蛇の陽物は二つともに再び首をもたげはじめてしまう。  
 抑え切れぬ劣情に衝き動かされた沼神は矢も盾もたまらずに、女の体を掴むと衾の上へと押し倒した。  
 
「…っ、あぁ………」  
 柔らかな褥に組み敷かれて、佐世の全身が小さくわななく。  
 腰の下には蛇の胴の一部が潜り込んで僅かに浮かされた状態で、大きく拡げられた両脚の間を、  
鮮やかな色に染まって潤んだ秘花を夫の眼前に晒す形にされ、体の内側まで見通されてしまいそうな  
恥ずかしさと同時に欲情を満たされることへの期待とで淡く染まった目元を伏せ、小さく嫌々をするように、  
それでいながら誘うように佐世は体をくねらせた。  
「んっ……」  
 ぬちゅりと水音を立て、しとどに蜜を溢れさせていた肉壺へ陽物の先端が潜り込む。  
「は……ぁんっ!」  
 これまで受け入れてきたときとは違う、充分に濡れて感度を増した隘路に男の猛り立ったものが  
分け入ってくる感触に佐世の体は過剰に反応し、まるで初めて貫かれた未通女のように  
背を反らして全身を跳ねさせた。  
 ずぶずぶと、熱くぬめって絡みつく粘膜の中へ沈み込んだ男の肉は先程手と口で奉仕した時にも  
増して硬く、大きく膨れ上がって腹の奥をぐっと押す。  
「…っ、辛いのか、佐世」  
 低く上がった呻き声に、沼神の声が慌てたような響きを滲ませた。  
「…いいえ、違……ます………っあ、…大き……い……!」  
 体の中で更に硬さと大きさを増したものに驚きと快楽を滲ませた声を跳ね上げながらも、佐世の手は  
するりと下腹まで滑らされ、互いの体が繋がった場所をそっと撫でた。  
 みちみちと音がするほどに押し広げられた花唇を、埋め込まれた雄の付け根を指先で辿り、  
今は行き所無く太股の内側に触れていたもう一本の肉柱をやんわりと握り込む。  
 鈴口が吐いている先走りの汁と、自分の内股を濡らす愛液を混ぜ合わせるようにしてその幹に、  
根元から頭にまで塗りたくると白い腿をぴったり閉じ合わせてそれを挟み、ぬるりと粘液を纏わせた  
手を両脚の間から覗く先端に添えるようにして包み込んで見せると、熱を帯びた眼差しで夫を見上げ  
促すようにゆっくりと頷いた。  
「…もろともに…いらして下さ………っあぁ!?」  
 急に動かれたせいで、佐世の声が揺れる。  
 ずるり、と妻の中から己を半ばほど引き抜いた沼神は再び腰を進めて熱い媚肉に根元まで埋まる。  
すべらかな腿に挟まれたもう一方の分身はぬるぬると張りのある肌の隙間を前後する。  
 初めはゆっくりとしていた動きは次第に早く、激しくなり、抽送を繰り返される花唇はいっぱいに  
拡げられ、捲れ返るほどに嬲られ、淫らな水音を立て始めた。  
 押し殺した悲鳴のような、しかし端々に甘い艶を帯びた佐世の嬌声が小刻みに上がり、  
閉じていた脚からも次第に力が抜けかける。ふらりと離れようとした膝を沼神の手が両側から押さえ  
密着した腿の間で柔肌を抉る疑似抽送はなおも続けられる。  
 胎内で激しく肉襞を貪る怒張が佐世の腹の奥を幾度も突く。  
 脚の間を、陰処の周りを擦るもう一つのそれが、時折陰裂の僅か上でひそやかに膨れ上がった  
肉の突起を責め立てる。  
 油を染ませた布に火を点けたように、見る間に燃え拡がった快楽が佐世の中で弾け、再びの  
絶頂が訪れた。  
「あ、あぁ……ひぁ、あ、んぁっ!」  
 びくびくと全身を引き攣らせ、佐世は白い喉を仰け反らせて快楽の波を受け止める。  
 ぬめる肉襞がぞわり、ぞわりと胎内に包み込んだものを撫で回すように締め付けた。  
「佐世、おれも……っ」  
 佐世の膝を押さえていた手を離し、沼神は身を二つに折るように屈めた。  
 ぶるりと震えた二本の陽物が、女の胎の内に、腹のおもてに熱くねっとりと粘りのある精を放つ。  
 胸乳や喉元、顔にまで飛び散った白濁を浴びて、佐世はしばし呆然と息を荒げていたが、ふと  
我に返ったように自分の体に覆い被さる夫を見上げ、柔らかな笑みを唇に刷いた。  
「……佐世は…あなた様のものになれました、でしょうか……」  
 その目尻に滲む涙を拭い取るように口づけて、沼神は妻の体を抱き締めた。  
「ああ、佐世、お前はおれのものだ……おれの、愛しい妻だ」  
 
「今度、ふたりで少し遠出をしよう。父上と母上にも佐世を見せたいから」  
「父神さまと…お母さま?」  
 腕の中で豊かな黒髪がさらりと波を打ち、向きを変えた佐世が沼神の顔を見上げた。  
 交わりを終えた褥の中で、うち重ねられた衣の内で、ぴたりと身を寄り添わせて過ごす初めての夜。  
「おふたりとも一つ山向こうの淵にお住まいなんだ。あちらは元々、お加減の優れなかった母上が  
静養なされるための別邸だったけれど、今はもうすっかりお健やかになられたから、先だって  
沼神の座を退かれた父上とご一緒にゆるりと過ごされている」  
「でも、お母さまは私の前の代の巫女なのに、まだお元気でいらっしゃるの?」  
 沼神に巫女を捧げる慣わしは八十八年ごとだから、先代の巫女が存命だったとしてもとうに齢は  
百を越えていることだろう。人の世では頑健な者でも六十、七十まで生きるのも希なことであるから、  
佐世が不思議そうな顔をするのも無理からぬ事ではあった。  
「元は人でも、神の住処に暮らしてそこの食べ物を口にしていれば、次第とこちらの者に近付いてくる。  
それに……その」  
 沼神がやや言い淀んだように目を伏せ、あたりにうねうねと這った蛇の尾がぱたり、ぱたりと揺れた。  
 するりと佐世の輪郭を辿るように動いた手が細い体を引き寄せ、腰から腹の辺りを優しく撫でる。  
「こちらの者と交わって精を受けたり、子を孕んだりすればもっと早く」  
 佐世は目を瞬き、自分を抱き締める夫の体をまじと見た。  
 広く逞しい胸に手を触れ、脇腹から人の胴と蛇の胴が繋がる腰の辺りまで掌を滑らせる。  
 ざらざらとした鱗の手触りも今はもうおぞましくなどはなく、ただ愛しいひとを形作る一部だと思えた。  
「わたしも……?」  
「蛇になるのは嫌か」  
 心配そうに覗き込んだ夫の首に佐世は腕を絡め、ぎゅっと抱き寄せて「今のうちならまだ…」と  
躊躇いがちに言いかけた唇を塞ぐ。  
「…っ、佐世…」  
「いいえ、あなたとこうして、永らく添って行けるのでしたら……蛇にでも、魚にでも喜んで」  
 花が咲き綻ぶように微笑んだ妻を、改めてかき抱くよう腕の中に収めながら、若い沼神も心から  
嬉しそうな笑顔を見せた。  
 
 
 柔らかな光を湛えた水の天蓋を、魚たちがひらり、ひらりと泳いでいる。  
 
 水底の御殿ではいつにないせわしさで、家人や侍女たちが廊下を行き交っていた。  
「まだ──生まれぬのか」  
 御殿の主である沼神が先程から幾度目か解らない問いかけをする。  
 浄衣を着たその肩が気忙しげに揺れるのに合わせ、産屋の内いっぱいにうねうねと広がる青黒い  
蛇身もぞろりと落ち着かぬ風にのたくった。  
「旦那さまはせっかちですこと。もう少し神さまらしくなさらねば、吾子に笑われてしまいますよ」  
「しかし……」  
 まだ何か言い募ろうとした沼神だったが、優しくたしなめるような妻の視線を受けると途端に  
黙ってしまった。  
 その様子にくすくすと笑い出した妻を見て、ふと心の臓が弾むような心地を覚える。  
 はじめから美しい娘だったが、共に暮らす内、日に日に大人びて美しさを増し、子を身篭もってからは  
より一層美しくなった。  
 元より色白だった肌は淡い光の中で過ごす内に透き通るほどにも色を薄くし、唇は化粧などせずとも  
紅を含んだようで、黒々とした髪は豊かに、艶やかに背へと流れている。  
 今は産婦のための白い衣を纏う体の線はまろく、みっしりと豊かに重たげな胸と卵を孕み膨らんだ  
腹は衣の上からでも全く隠しようもない。  
 そして着物の裾からすっと伸びた胴は雪の如く純白にきらめく鱗に覆われ長々と──  
「まあ、また尾の方ばかりじろじろとご覧になって」  
 口を尖らせた妻の言葉にはっと我に返る。  
 こんな咎めるような表情をして見せても妻は、佐世は綺麗で可愛い──いや、それはさて置いて。  
「う、いや、もうすっかりとこちらの者らしくなったなと……」  
「旦那さまにたんと可愛がって頂きましたもの」  
 言いながら佐世はほんのりと目元を染め、愛おしげに自分の膨らんだ腹を撫でた。  
 腹の中では次代の沼神となる子がいよいよ軟らかな卵の殻を破ろうとしているのか、時折母体の  
意思とは関わりなくぷるりと揺れて、その度に佐世は僅かに辛そうな吐息をこぼす。  
「あっ……」  
「どうした?」  
「…吾子が……お生まれに、なります……」  
 苦しげに眉をひそめた妻に手を伸ばすいとまもなく、すぐさま取り上げの支度を始めた侍女たちに  
脇へ追いやられた沼神は所在無さげに見守っているしかない。  
「旦那さま…」  
「ああ、大丈夫か?」  
「…お側に、いて下さいませ……」  
 初産の苦しさに波打つ真白の蛇体がくねり、ゆらゆらと震える尾の先端が寄り添うようにしていた  
青黒い尾に絡む。  
 
 いらえる代わりに妻の体を優しく撫で、沼神は我が子の産声を待った。  
 

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