「気分はどうですか?」
背中に小さな純白の翼を生やした天使が、ベッドの傍らで囁いた。
ベッドには一人の少年が横たわり、彼の首元には魔法使いの証しであるペンタ
グラムのアミュレットが光っている。
少年は蒼白な顔で傍らの天使を見やると、か細い声で答える。
「すみません、天使様。僕が無理を言ってついてきたばっかりに……」
「いえ、カイル。あなたが魔法でサポートしてくれて、何度も助けられました。
そんなに自分を責めないで下さい」
天使は悲しそうに微笑んで、カイルの手を握ろうとするが、彼は手を引っ込め
ると、耐えきれなくなったように目線を逸らせた。
「体はもう大丈夫です。悪魔もだいぶ大人しくしているみたいで」
「よかった……。実は、あなたが眠っている間に、小屋の周りに結界を敷いて
おきました。これ以上長引くのは、あなたには辛いかも知れませんが……」
「こんな所で音を上げたら、名誉挽回すらできないじゃないですか」
カイルがぶすっとした口調で首を振る。天使はくすりと笑って、
「……わかりました。とりあえず、悪魔がどんな手に出るか分かりませんから、
休んで体力を付けましょう。結界の中で、抵抗の意志を強く持っていれば、
絶対に悪魔に操られる事はありません。あと少しの辛抱ですよ」
二人の旅は半年前、カイルの住んでいた小さな町から始まる。
町に現れた悪魔は猛威をふるい、何人もの死傷者を出した。
魔法学生だったカイルの師匠も、悪魔に抵抗しようとして殺されている。
事態を重くみた天界は一人の天使──ミリアムを町に派遣し、
彼女と町の人々との協力により、悪魔は町から追放された。
その後、禍根を残す事を恐れた天界はミリアムに悪魔の追跡と討伐を指示し、
唯一の肉親代わりだった師匠を亡くしたカイルは、彼女に同道する事を決意する。
ミリアムはこれに反対したが、カイルの強い決心に押されて、同行を許した。
長い旅を経てついに悪魔のねぐらと思しき洞窟に悪魔を追いつめ、
手傷を負わせてさらにトドメを刺そうとした瞬間、悪魔はカイルの体の中に飛
び込み、内側から彼を引き裂こうとした。
すんでのところでミリアムが彼に封印を施すと、彼は気絶して、悪魔を体の中
に閉じこめたまま、かろうじて一命を取り留めたのだった。
ミリアムは彼を近くの森の中の無人小屋まで運んで、話は冒頭に至る。
「もう少し眠っておいたほうがいいと思いますよ。まだ疲れが取れていないで
しょうし」
「はい、でも……眠れ……るかどうか、分かりません」
ミリアムが心配そうに彼の顔をのぞき込んだ。
「カイル、少し熱があるのでは?」
カイルの額にすべらかな指を伸ばし、触れようとするが、
「や、やめて下さい!」
カイルに激しく振り払われ、驚いて手を引っ込める。
「あ……いや、その、天使様が悪魔に取り憑かれてはと……」
しどろもどろに弁解するカイルの額を優しく撫でて、ミリアムが笑う。
「あ、ちょっ……」
「もう、心配性ですね。体に触れないで悪魔払いが出来ると思いますか?」
「その……はい、すいません」
指が離れるとすぐカイルは向こうを向いて、毛布にくるまった。
「あの、やっぱり、少し眠ります」
「ええ、お休みなさい。悪魔が何かする様な事があれば、すぐ伝えて下さい」
「……分かりました」
ミリアムはしばらく、彼の寝付くのを見守った後で、彼女自身も小さな欠伸を
して、椅子に座って眠り始めた。
小屋の中から音が消え、二つの寝息の音だけが残ってからしばらくして、ベッ
ドから小さな影が一つ起きあがった。小さく囁き始める。
「ったく、オスの中にいるのなんて、気持ち悪いったらありゃしない。オス
"が"中にいるのは割と気持ちいいけどね、ふふっ」
一人で下品な冗談を呟いては、一人で悦に入っている女悪魔は、その体の半分
以上をカイルの中にめり込ませている。「体」とはいっても物理的な存在力は
ないに等しく、魂だけの存在である。
「にしても、とんだ坊ちゃんに取り憑いちゃったわね。こんな初心坊や、食べ
ちゃうにはモロ好みだけど、扱うのはちょっと面倒だしねぇ」
一人で腕を組んで一人で唸りつつ、片手で印を切ると、カイルの体がのっそり
した動作でベッドの上に上体を起こした。
「さー、こんなやわな小屋なんか、魔法でフッ飛ばしちゃって……あれ、やっ
ぱダメ?助けてくれたら、もっと気持ちイイ事教えてあげるのにぃ」
カイルは何も言わず、うつろな目で目の前の空間を見つめている。しかし、
悪魔にはその返事が聞こえているらしい。
「もー、カタいこと言ってないでさぁ、アンタももういっちょ前の男なら、女
ぐらい知っとくべきだと思う訳よ。アタシの体が欲しくないの?」
悪魔がしなを作ってカイルに体をすり寄せても、その表情には何の変化もない。
「ったく、ンットに扱いずらい……まさかアタシよりあの色気のイの字もない
ような小娘天使の方が良いなんて言わないわよね、
……アレ?」
悪魔がぽかんと口を開けて、カイルの顔を見つめる。次第に悪魔の顔にニヤニ
ヤ笑いが広がっていく。
「なーに、いきなり図星ついちゃってごめんなさいねー。へー、そうなんだ、
ふーん。
そういえばさっきもおでこ撫でられただけで真っ赤になってたもんねー」
こうなると悪魔の舌撃は止まらず、次々にカイルにたたみかける。
「ま、アタシのレッスンの後じゃあ仕方ないか。アンタ、夢の中でアタシから
エッチなレッスンを受けました、ってちゃんとあの娘に伝えてあげた?
無理よねー、そのエッチな妄想の相手が相手じゃねー」
悪魔の声は肉声ではなく、念話の一種なので、大声で話してもミリアムに聞か
れる心配はないのだが、悪魔はわざとカイルの耳元に唇を寄せて、勿体ぶって
囁いた。
「やーね、隠す事無いのよ。半年間一緒に暮らしてて、一度も襲わないなんて
のがそもそもアタシ的に信じらんないけど、オカズぐらいにはしてるでしょ。
…………。
……沈黙は肯定と見なすからね。以上」
カイルの体が一瞬動揺し、呼吸が浅くなるが、瞳は依然虚ろなままで、覚醒す
る兆しは見えなかった。
「ね、今ってすっごくチャンスじゃないの?アイツ眠ってるし、アタシがどう
やったらアイツをモノにできるか、教えてあげるからさ……」
ぎしり、とベッドがきしる音がして、ミリアムの頭がほんの少し傾ぎ、また元
に戻る。彼女はぐっすり眠っているように見えた。
カイルはゾンビのように緩慢な動きで、ミリアムに一歩ずつ近づいていく。
時々動きが止まりそうになるが、その度に悪魔が耳元で囁いて、また動き始め
ることを繰り返していた。
ミリアムの座っている椅子の間近にまで一歩ずつ、ゆっくりと近づき、
彼女の髪に触れようとした、瞬間──
ミリアムの手が、カイルの手を受け止めて、しっかりと捕まえた。
「……カイルには悪いですが、こうでもしないと誘き出せないと思ったので」
両手に力を込めつつ、ミリアムが顔を上げて、悪魔を睨み付けた。
「どういう手段でカイルをたぶらかしたか知りませんが、聞く前に消し飛ばし
てあげます。残念ですね」
「あーあ、自分の力を過信してる奴ってのは嫌いだねぇ」
悪魔があきれ顔で言い放つ。
「ま、この状況じゃアタシに打つ手がないってのも事実だけど……おっ、
まさか、この坊ちゃん……ねぇ」
悪魔がカイルを見て、何か発見したように口元に笑みを浮かべる。
そうはさせじとミリアムはカイルの両腕を強く押さえつつ、祈りの詠唱を始めた。
悪魔は両手で複雑な印を切り、最後に人差し指をカイルの額に押し当てる。
するとカイルの両眼が緑に輝き始め、体から魔力エネルギーの奔流が迸った。
「な……何を!」
「この子、魔法使いの中でも、百年……いや、千年の逸材かもね。こんな良質
な魔力の泉を体の中に持ってるなんてさ。まあ、アタシはただリミッターを
外してあげただけだけど」
「こんな、カイルが、まさか……でも、どんな魔力だってあなたが使えなけれ
ばあなたに意味はないでしょう」
「それか、坊ちゃんが使う気にならなければ、ね」
「カイルが、私に危害を加えるような魔法を使う筈がありません!」
「……一つ聞くけど、もしアンタがアタシを倒したとしたら、アンタはすぐに
天界に戻る事になるのよね?」
にやり、と口の端をゆがめて悪魔が聞く。
「それと、これと何の関係があるんですか」
「結局のところ、気高い天使様と賤しい人間風情がずっと一緒にいられるわけ
無いものね?両人がどう思ってようとも」
「時間稼ぎのつもりなら、無意味ですよ」
「結局の所アンタ、一時使われただけなのよ。役目が終わったらポイ。
さっき本人が言ってたでしょ?"坊ちゃんには悪いですが"……だったっけ?
このまま馬鹿素直に尽くして文字通り指一本触れられない存在になるより、
いまここでモノにすれば……こいつ一生アンタのものよ?」
「何の事を話して……え、
う、嘘、カイル……っ!?」
悪魔がおどけた口調で一言喋るたびに、カイルの目は段々と細められていき、
言葉が終わったと同時に、カイルの口から低い詠唱が漏れ始めた。
「"エル アイル イェイルス……"」
「な、何をしてるんですかっ!正気に戻って下さい!」
胸元のペンタグラムが輝き始め、魔法の発動を告げる。
呪文の末尾が唱えられ、ミリアムは歯を食いしばって呪文に対抗しようとした。
「"大気の糸、織り上げて縛鎖とせん"」
ミリアムの経験した事も無いほどの魔力の渦が大気に張りつめ、その緊張は
瞬時に具体的な力となってミリアムに襲いかかった。
「ぐうぅ……っ!!」
彼女の細い胴がぎゅっと締め上げられ、肺の中の空気が絞り出される。
カイルの腕を掴んでいた手が背中の後ろに回されて、手錠をかけられたように
固く固定される。小さな翼も、一緒に折りたたまれる。
両足もくくられて、バランスを崩したミリアムは勢いよく床に倒れ込んだ。
「かはっ……ぁ……はぁ、はぁ」
「天使に抵抗する暇も与えず"大気の枷"を嵌めるなんて……思ったよりすごい
魔力ねえ。どこぞの自信過剰の天使よりよっぽど恐ろしいわぁ」
床になす術なく転がって喘ぐミリアムを見下ろして、悪魔が嘲笑う。
「何でこんな、ひどい……」
酸欠と悔しさに、瞳に涙を滲ませて呻くミリアム。
「そりゃ、初恋の女の子にフられたらひどいことの一つもしたくなる道理よ」
「え……あ、カイル……が?そんな」
不意にミリアムの瞳に理解の色が浮かんで、床からカイルの顔を見上げる。
変わらずにうつろな表情を見せているカイルにミリアムは語りかけた。
「……ごめんなさい、ずっと気付かなかったんです」
「何もかも手遅れになってから謝るのなんて楽な事よね?」
「でも……私の事を本当に好きでいてくれるのなら……今だけ、お願いを聞い
てくれませんか……?」
「分かってないわねぇ。間心、いや真心の愛じゃなくて、下心の恋なのよ。
相手に尽くしたい、より相手が欲しい、なの。
って、なんでアタシがこんな解説しなきゃならないのよ」
「カイル、あなただって町の人を……師匠様を殺されて、悪魔を憎んでいる
からここまで来たんでしょう!?」
「ホントにそれだけだと思ってるなら、オメデたいわねぇ」
悪魔が余裕の表情を浮かべて余計な合いの手を入れる。
「ま、後で放してあげるにしても今のうちにおっぱい触るぐらいならタダじゃ
なぁい?」
「駄目です、カイル、悪魔の手管ですっ!」
二人の言葉を聞いて、少しの間カイルは逡巡していたが、やがて床に倒れてい
るミリアムの上に、身を屈め始めた。
「やっ……カイル……っ」
怯えた瞳で、もう言葉も途切れたミリアムに、カイルは手を伸ばし……
そっと彼女の頬に手を触れると、優しく唇を重ね合わせた。
「んっ……」
ひゅう、と悪魔が口笛を鳴らして、無遠慮な野次を飛ばす。
「ロマンチストねー。見てるこっちがカユくなるわ」
そして悪魔はカイルの耳元に顔を寄せると、
「ほら、どうやるか教えてあげたでしょ?相手が気持ちよくなれるように、
そっと舌で……そう、愛撫するみたいに、歯茎の裏を舐めてあげて……」
「んっ、ふっ、やぁ、んんっ」
悪魔の指示通りにカイルの舌がミリアムの口の中に滑り込み、粘膜を擦り合わ
せて快感を与える。ミリアムは首を振って逃れようとするが、不自由な身の上、
体を押さえつけられればもうどうしようもなかった。
しばらく唾液の交換が続いた後、カイルがゆっくりと顔を離した。
生まれて初めての、しかも甘いディープキスにミリアムは耳朶まで赤く染め、
両目の端からは涙が筋を残していた。