深夜に屋敷を飛び出したロザリーを探して、使用人たちは村中を駆け回った。
父であるジョエルは娘を愚弄されたとフィリクスに憤慨し、母はロザリーの心中を思ってさ
めざめと涙した。
十年も想い、待ち続けた幼馴染に裏切られ、“馬鹿なこと”を考えてはいないかと、気がつけ
ば村中総出で探し回っていた。
そして、明け方近く――ようやく空が白みかけた頃である。
幼い頃によく、ロザリーがフィリクスと遊んだ森でロザリーは見つかった。
冬の足音が聞こえる冷え切った森の中に、薄い寝巻き一枚で眠っている所をジョエルが見つ
け出したのだ。
死人のように血の気を失ったその体に自身の上着を巻きつけて、ジョエルは父親としての怒
りと嘆きに涙さえ浮かべてロザリーを抱きしめた。
死んだのならば仕方ない。
遠い地で別の女を愛した事も、責められることではない。
だが、それならば何故、招待状など送りつけてきた。
ロザリーが待っている可能性を考えはしなかったのか。あるいは、待たせていることすら忘
れていたのか――。
家に帰りつくなり、ロザリーは目を覚ます間もなく高熱を出した。
ウィリアムが頻繁に見舞いに現れたが、グラッドは急用が出来たとかで一度も姿を見せる事
は無く、ジョエルは我が子の孤独を嘆いた。
いつか、フィリクスが迎えに来た時に馬鹿にされないようにと剣の鍛錬に没頭し、年頃の女
友達とは疎遠になった。
強くなりすぎたロザリーに打ち負かされる屈辱に耐えられず男友達もいなくなり、いいよる
男も全てその剣で跳ね除けてきたのだ。
ドレスやアクセサリーに夢中になる年頃を、掛け替えの無い少女の時期を、ただひたすら、
十年間も、ただ一つの口約束に捧げてきたロザリーが、なぜ、ただ一枚の招待状で捨てられな
ければならない。
ジョエルは慟哭した。
熱が引き、辛うじて歩けるようになると、ロザリーは何かに追い立てられるように庭に出て、
一日中無心に剣を振り続けた。
だがその真剣さはおよそ日課の鍛錬とは呼べず、ロザリーはまるで誰かを殺し続けているよ
うだった。
そして、招待状が届いてから二週間が経った。
血豆の上の血豆を潰し、目に見えてやつれたロザリーが一心不乱に剣を振る姿には、幼い頃
の甘い約束に浸る少女の面影もない。
それでも、剣をおさめると前と変わらず、むしろ一層明るく振舞うロザリーに、家族のみな
らず使用人たちも涙を堪えずにはいられなかった。
「いい太刀筋だな」
冬の訪れを感じさせる、白く冷えきった午後である。
ひどく懐かしい呼びかけに、ひぅん、と、風を切る音を響かせてロザリーが踊った。
ひたりと男の首筋に突きつけた愛剣は、美しく揺らめく炎。
「間合いの取り方もいい――まるでたけり狂う戦女神だ。そそるじゃねぇか。そんなにおまえ
を捨てた男が憎いか」
唇を吊り上げ、歯をむき出して男が嗤う。
冬の空の下にありながら、その男は相変わらず燃え上がるような熱気を纏っていた。
ロアリーは心地よく乱れた呼吸を白く曇らせながらグラッドを睨み上げ、静かに剣を下ろし
て鞘に収めた。
無邪気な輝きをなくした瞳で、ちろちろとくすぶる戦場の劫火を仰ぐ。
「誰を殺してた?」
「――自分」
ひゅう、とグラッドが口笛を吹く。
「死にたいのか」
「殺したいんだ」
「自分をか?」
「前のね」
「いい女だった」
「もう死んだよ」
くすりと、ロザリーがぎこちなく微笑んだ。
グラッドを見上げて細めた目から、つ、と一筋涙が伝う。
「うずくまって泣こうとすると、君がちらついて涙が出ない。食事も喉を通らないのに、弱く
なるのが嫌で剣を振るのがやめられない」
ぎゅっと剣のつかを握り締め、苦しげに眉をひそめるロザリーの姿に、グラッドは目を細め
て微笑んだ。
「もう、剣を振る理由もなくなっちゃったのに……守るものもなくなっちゃったのにさ……
馬鹿みたい。でも、じっとしてられないんだ。もう僕には剣しかない」
ひく、ひく、と肩を揺らして、ロザリーが青白い頬を真っ赤に染める。
思わず抱きしめようと伸ばされたグラッドの手を乱暴に振り払い、ロザリーはごしごしと涙
を拭って再び真っ直ぐにグラッドを睨み上げた。
「僕を買って」
静かな、だがはっきりとした決意を孕んだ言葉に、グラッドから笑顔が消えた。
「子爵様なら、私兵を持ってるでしょ? 一番下っ端でいいから、僕を雇って。戦場にだって
行くよ。それだけで、君は僕を忘れていい。すれ違ったって無視していい」
「ロズ、おまえは――」
「僕は君より強いでしょ?」
女なんだぞ、と――ひどく月並みな言葉を発しそうになったグラッドは、ロザリーのその言
葉に息さえ止めて沈黙した。
どうして――ただ一言、妻にしろとそう言えば、グラッドは断らないことを知っていながら、
どうしてこの少女は――。
「君が僕にこれをくれたんだ。馬鹿みたいに子供の頃の口約束を信じて、花嫁修業もしないで
さ、約束以外何も無かった僕に、君は戦い方を教えてくれた」
――だから、君のために使わせて。
その言葉が、どれ程激しい殺し文句か、ロザリーはきっと気付いていない。
再び頬に伸ばされたグラッドの手を、ロザリーは振り払わなかった。
息がかかるほど唇を近づけても、身じろぎ一つしない。
「俺のものになるってのがどういうことか――わかってるのか?」
「何でもするし、何をしてもいい」
「娼婦のように犯されてもか」
「恨まないよ」
「妻になれと命じられたらどうする」
「僕から剣を奪うの?」
はッ――と。腹の底から吐き捨てるようにしてグラッドは嗤った。
かがめていた腰を伸ばし、今正に重ねようとしていた唇を意地悪く吊り上げる。
「あぁ、ったく。胸糞わりぃな。なんだこりゃ。折角愛してやまねぇ戦場の女神を見つけたと
思ったら、女神は戦場しか見ちゃいねぇとくる。俺がどんなに焦がれてもお構い無しだ」
芝居がかった調子で両手を挙げておどけて見せ、グラッドはロザリーに背を向けた。
「喜べウィリアム! 一緒に主を罵る仲間が増えたぞ!」
グラッドの視線の先の木立の陰から、きょとんとしてウィリアムが姿を見せる。
そしてかたわらのロザリーを見て、まさか、という表情でグラッドを睨んだ。
「表立って当主を守る護衛は容姿が重要なんだ。だから腰抜けでも顔のいいウィリアムを護衛
にしてる。だがさすがに護衛が腰抜け一人じゃ不安でな」
「――グラッド?」
「護衛として雇ってやる。これからは、俺のために剣を振れ。だがその前に、女として一仕事
してもらうぞ。ジョエルに話をつけてくる。その間に荷物を纏めておけ」
「グラ――」
「ウィリアム! ロズの荷造りを手伝ってやれ!」
これ以上言葉を交わす気は無いとでも言うように、グラッドが鋭くロザリーを遮る。
どこか怒りさえ伺える主君の背中を見送りながら、ロザリーは立ちすくんだ。
駆け寄ってきたウィリアムに振り返り、グラッドの後ろ姿を指差す。
「あの……なんか、護衛として雇ってくれるって」
下っ端でいいって言ったんだけど、と、ロザリーが眉をひそめると、あぁ、と、嘆くような
溜息を吐き、ウィリアムは重々しく手の平で瞼を覆った。
「ロザリー」
「うん」
「二度も、盛大に閣下をふりましたね」
え、と声を漏らして見上げた先に、ウィリアムの複雑そうな笑顔があった。
どういうことかと首を傾げるロザリーに、ウィリアムが脱力して首を振る。
「まったく、ここ二週間の閣下の努力を思うと泣けてくるやら笑えてくるやら――」
「あぁ……忙しかったんだってね」
「それはもう、戦場のように」
ここにいないグラッドをからかうように、ウィリアムが笑った。
そしてロザリーの背をそっと押し、行きましょうと促した。
「閣下は時間にルーズなくせに他人の時間には厳しいんです。急がないと私とまとめて無能扱
いされますよ」
そう言えば、ウィリアムはいつも、なにかというと走っている印象があった。
物静かな性格にそぐわないその印象は、グラッドに小突き回されているからなのか――。
「ねぇ、女として一仕事って言われたんだけど……」
走り出したウィリアムを追いかけて、ロザリーも走り出す。
しかしウィリアムは城に着けばわかりますよと答えるだけで、教えてくれようとはしなかった。
十分後――ロザリーとウィリアムが丁度部屋に帰りついた時、屋敷を揺るがしたジョエルの
叫びは、やはり末代までの語り草となるのだった。
***
娘をよろしくお願いしますとか、娘をそんな危険な仕事につかせるわけにはいかんとか、そ
んなやり取りがあったかどうかはロザリーはわからない。
だがジョエルは、ロザリーが家を出る事について反対も賛成もしていないようだった。
どこか致し方ないと言うような、諦めを含んだ表情をしていたように思う。
ロザリーは泣いて縋る母親と、唇を引き結んで抱き合った父の背中を抱きながら、必要最低
限の物だけを鞄に詰めて迎えの馬車に乗り込んだ。
護衛は主君と同じ馬車に乗るものらしく、道中ロザリーはウィリアムとグラッドとずっと一
緒だったが、グラッドはむっつりと黙り込んでウィリアムともほとんど口をきかなかった。
ただ、ウィリアムがほんのすこしでもロザリーに触れると、明らかに仕事の説明上必要だっ
たにも関わらず、グラッドは容赦なくウィリアムを蹴った。
しかしグラッドがそんな行動を取ると決まって、わざとらしくロザリーに触るウィリアムも
負けてはいない。
ロザリーとしては、二人のじゃれあいを眺めて笑えるような気分ではなかったのだが、二人
を見ていると気を張っているのが馬鹿らしく思えてくるのも事実である。
便宜上護衛と呼んではいるが、実際は執事のような仕事が主だと言う。
ロザリーはウィリアムの補佐的な――いうなれば執事代としての仕事をする事になるだろう
から、覚える事がたくさんありますよ、とウィリアムは意地悪な笑みを浮かべてロザリーを怯
えさせた。
執事や執事代は普通、男がやるものなんじゃないのかと問うと、護衛だって普通は男しかや
りませんと切り返される。
だから下っ端の兵士でいいって言ったのに、とロザリーが唇を尖らせると、グラッドがそん
なもったいねぇこと誰がするかと鋭く吼えた。
「大体なぁ、おまえは剣をもたせりゃそりゃ強えぇが、例えば寝込みを数人の男に襲われたら
ひとたまりもねぇんだぞ。おまえが隊に入った次の日にぼろぼろに犯されちまうことくらいわ
かれ馬鹿!」
「でも、君だって僕を娼婦みたいに犯すって言ったじゃないか」
同じだよ、とロザリーが顔を顰めると、隣に座っていたウィリアムが唖然とし、直後に烈火
のごとくグラッドを罵った。
さすがに自分の発言の下品さを理解はしていたのだろう。
グラッドが必死に言い訳を募る姿は、珍しくも面白い。
馬車での移動中は絶えずそんな雰囲気で、グラッドの領地に入る頃にはロザリーもすっかり
緊張がほぐれ、声を上げてげらげらと笑うようになっていた。
ウィリアムとグラッドがロザリーに気を使ったわけではない。
だからこそ、その自然な雰囲気が、ロザリーの強張った心を解していくようだった。
城――と言う単語だけを聞いてロザリーが思い描いていたのは、御伽噺でお姫様が住んでい
るような、そんな繊細できらびやかなものだった。
しかし実際グラッドの城を見てみれば、出てくる言葉は難攻不落の城塞だ。
「三代前の当主が作った城だそうだ。当事この辺りは国境が近くてな。もともと軍人だった曽
祖父がその防衛に一役かって子爵になったらしい」
「はぁ……なるほど。確かに、うん、守れそう……」
城塞都市――と呼ぶのだろうか。
高くそびえ立つ頑丈そうな隔壁のその向こうに町並みが広がっており、その家々のはるか彼
方に、どっしりとした石造りの、優美さの欠片もない城が建っている。
少し高い位置にあるように見えるのは、土をもって丘を作ってあるのだろうか。
どうやら掘りもあるらしい。
生活する人々にも活気があり、平々凡々たる田舎町とも呼べない田舎村しか知らなかったロ
ザリーは、開いた口が塞がらなかった。
こんど街を案内してあげますね、というウィリアムの口約束が、ついつい信用ならないと思
いつつも楽しみで仕方がない。
先に降りたウィリアムに促されて馬車から降りるなり、ロザリーは鳴り響いたラッパの音に
面食らって硬直した。
「主が戻った事を城内の人間に知らせてるんです」
そう、ウィリアムが耳打ちしても、あぁ、そう、と答えるばかりで固まった体はほぐれない。
最後に馬車を降りたグラッドを振り仰ぎ、しかし相変わらず貴族然としていないグラッドに
なんとなく勇気付けられ、ロザリーはちらちらと送られてくる好奇の視線に内心びくびくと怯
えながらも毅然とした態度でグラッドに付き従った。
グラッドはいつもと変わらないからいいとして、ロザリーが度肝を抜かれたのはウィリアム
の変わりようだった。
いつもの温和な雰囲気はどこへやら、いかにも護衛で腹心ですと言わんばかりのその姿はも
はや別人である。
これからは、毎日この完全無欠の騎士様と比べられて暮らすのか。
そう思うとロザリーは心底からげんなりした。だから下っ端がいいと言ったのに――と心の
なかで恨み言を連ねるも、実際問題として他の兵士に輪姦されるのは嫌である。
グラッドは城の中を、恐らく自室へと向かって真っ直ぐに突き進んだ。
護衛と言うからにはやはり、有事にはすぐに主君の元に駆けつけられるように控えの間など
が用意されているのだろうか。
それならば、ロザリーの部屋もグラッドの部屋のすぐ近くということになる。
護衛が城で迷子になるなどと言う末代までの恥を晒さぬようにと、ロザリーは平静を装いな
がらも道順を覚えるのに必死だった。
そして、優美な装飾の施された扉の前にたどり着く。
たどり着くなり、グラッドは重苦しい弾息を吐いてちらとロザリーを見下ろした。
「入れ」
短く命令して、さっさとまた歩き出してしまう。
え、と思わず零して付いていこうとしたロザリーを、しかしウィリアムが静かに制した。
「どうぞ中へ。あとで様子を見に来ます」
「でも、あの……でも、護衛じゃ……」
にこりと、ウィリアムがいつもどおりに微笑んで、がっしとロザリーの腕を掴んだ。
そして、無情にもドアが開かれる。
その扉の隙間から放り込まれるようにして室内に足を踏み入れ、ロザリーはたたらをふんで
ウィリアムに振り返った。
「そちらの令嬢がロザリー様です――あとは任せましたよ」
明らかにロザリー以外の者に対して言葉を発し、ウィリアムがドアを閉める寸前、まるでグ
ラッドに対するような意地の悪い笑みでロザリーを見た。
「これがあなたの初仕事です――頑張ってくださいね」
ばたん、と扉が閉まる。
仕事って一体――と、改めて室内に視線を走らせると、三人の若い侍女とがっちり視線が交
差して、ロザリーはさっと青ざめた。
その、侍女達の側にある――燃えるような緋色のドレス。
「見て、抜けるように肌が白くていらっしゃるわ」
「なんて綺麗なおぐしかしら。まるで輝く金糸のよう」
「お人形みたいに可愛らしいわ。飾りたくってうずうずしちゃう」
しずしずと、しかし主君同様の図々しさで侍女達がロザリーに歩み寄り、有無を言わせぬ優
美さでロザリーを部屋の中央に引きずり出した。
お化粧はどんな感じがよろしいかしら、バージンロードの花嫁よりも可憐にしろとの命令で
すわと、ロザリーを囲んで好き勝手に相談を始めた侍女たちに、ロザリーはたまらず悲鳴を上
げた。
「ちょ、ちょっと……まってよ! なにこれ、どういうこと?」
きょとん、と目を丸くして、侍女達が顔を見合わせる。
三人のその態度にまるで自分だけが何もわかっていないような印象を覚え、ロザリーはしど
ろもどろになった。
「あの、ぼ、僕はグラッド卿の護衛として雇われただけで……ど、どうして護衛がドレスだと
か……!」
「あら。半月後に開かれるご友人の結婚披露宴に着ていくために決まってますわ」
「十年の歳月が過ぎても薄れることのない、幼い日の男女の友情――憧れますわ。なんて素敵」
「その感動の再会を美しく飾る花にせよとのグラッド様の命令ですわ。見てくださいませこの
ドレス。この二週間、グラッド様ったらロザリー様を飾る宝石やドレスのことにかかりっきり
で、このドレスを脱がせる日が楽しみだなんて――」
きゃぁ、と、三人がキンキンと甲高い悲鳴を上げて身もだえする。
城につけばわかるとか、二度も盛大にグラッドをふったとかいうウィリアムの言葉が、今な
らばはっきりと理解できた。
じりじりと後退するロザリーを、同じくじりじりと三人の侍女が追い詰める。
「さぁさぁ、そんな少年のようなお洋服、さっさとお脱ぎになってくださいませ」
「まずはお風呂で隅々まで綺麗にして差し上げますわ」
「半月後の披露宴までに、ドレスを着慣れていただかないといけませんからね。しばらくは護
衛なんてなさらないで、ダンスにでも興じていてくださいませ」
うふふふ、と甘ったるい笑みを唇に乗せて、三人がロザリーの服に手をかける。
まるで父ジョエルのように、ロザリーは城全体に響きわたる声量で絶叫した。