剣を振る時の足さばきは完璧なのに、ろくにダンスが踊れない。
古い戦記の英雄の話は延々と続けられるのに、流行の服の話になると人形のように黙ってしまう。
平民の少女にならばよくいるタイプだ。
少年たちに混じって棒切れを振り回し、英雄ごっこではお姫様よりも騎士になりたがる。
だがロザリーは、いかにど田舎の出身といえど、一応良家の子女である。
すっかりロザリー付きの侍女として定着してしまったかしましい侍女三人組は、あらあら大
変とばかりに忙しく駆け回り、どうにかこうにかロザリーにダンスを教え込み、さらに歓談の
場で恥をかかないようにと、頻繁に上がるだろうことが予測される話題やら、披露宴に現れる
だろう貴族階級の名士やらを、ロザリーが泣こうが喚こうが逃げ出そうが徹底的に叩き込んだ。
そんな調子で、瞬く間に二週間が経過する。
その間ウィリアムは時々ロザリーの地獄の特訓の様子を見に来てくれたが、グラッドは披露
宴当日になるまでロザリーのドレス姿は見ないと心に決めているらしく、ロザリーが自室でく
つろいでいる時にしか姿を現さなかった。
そして、フィリクスの結婚披露宴の前日――ロザリーは普段と変わらぬ少年の様な装いのま
ま、腰に剣を携えてグラッドとウィリアムと共に家紋入りの豪奢な馬車に乗り込んだ。
フィリクスの結婚相手は、爵位は無いまでも有数の資産家であり、貴族たちにも広く顔が利
く商家の一人娘だと言う。
グラッドも一度、間接的にではあるが取引をした事があるらしく、是非結婚を祝いたいとい
う旨を伝えた所、快く招待されることに成功したらしい。
ロザリーに届いた招待状は、ジョエルが問答無用で暖炉に叩き込んで燃やしてしまったのだ。
「ベルク家の一人娘フロージア様と言えば、聡明で美しく、また人当たりも抜群である事で有
名です。伯爵からの求婚があったという話も聞きますが、ベルク家の当主クリスト氏は、結婚
相手は娘に選ばせるという主義らしく、身分違いとも言えるこの婚姻が成立しました」
「披露宴の規模もそこらの貴族よりはるかにでかい。招待された人間は貴族を含めて百人にも
のぼるそうだ――正直貴族でもねぇ田舎者のおまえが招待さるようなパーティーじゃねぇ」
「閣下!」
「事実だ」
不機嫌そうに顔を顰めてそっぽを向いたグラッドに、ウィリアムがデリカシーがどうのとガ
ミガミ怒鳴った。
人目がある所では実に従順な従者で頼もしい護衛のくせに、人目がないとまるでじゃれあう
幼馴染である。
「先ほど説明したとおり、ベルク家は地位よりも人物を見る人柄の方が多いんです。ですから、
爵位があろうとなかろうと、フィリクス様のご友人も多数招かれているはず。ロザリーに招待
状が届く事になんの不自然もありません」
「不自然しかねぇだろうが。アホかおまえ。フィリクスとか言ったか。結婚の約束を忘れてる
んだったらそれはそれで相当の猛者だが、覚えていながら招待状を送ったんならいかれてると
しか思えねぇ。舐めたまねしやがって――」
静かに目を細めたグラッドの表情に、暗く影が落ちたように見えた。
はっと息を詰めて瞠目したロザリーに気付かずに、グラッドが狡猾な獣のように唇に笑みを刻む。
「死ぬほど後悔させてやる」
「ッ――やめてよ!」
爪が食い込むほどにきつく拳を握り締め、ロザリーは鋭く怒鳴ってグラッドを睨み据えた。
窓の外を眺めていたグラッドが、目を見開いてロザリーを凝視する。
「なんだロズ……どうした」
「フィルは僕の親友なんだ。悪く言うの、やめてよ。それに結婚の約束は、僕が勝手に信じて、
勝手に待ってたんだ。フィルは何も悪くない」
「おいロズ。本気で言ってんのか? その親友とやらを待っておまえは十年も――」
「そんなのフィルには関係ないんだ! 僕はフィルを祝福するよ。フロージア様だっけ? 綺
麗な人なんでしょ? いい縁談じゃないか。僕なんかと――こんな、剣を振ることしか出来な
い野蛮なオトコオンナと結婚するより、その方がずっといい。誰だってわかるよそれくらい」
だから、だからと唇を震わせて、ロザリーは腰の剣を握り締めた。
「もしもフィルに何かしたら、グラッドだって許さない!」
しんと、馬車の中が静まりかえった。
馬車を引く馬の足音さえ遠ざかってしまったように思える。
唇をいびつにゆがめ、吐き捨てるように笑ったのはグラッドだった。
「――へぇ。許さねぇか。それでどうする。腰の剣で俺を切るのか? おまえのことなんざな
んとも思ってねぇ男のために、おまえに焦がれてやまねぇ男を切るってか」
そいつぁいい、とグラッドが大声を上げて笑い出した。
閣下――と小さく、なだめるようにウィリアムが声を出す。
「いいさ。せいぜいお美しい友情を演じて来い。おまえの好きなようにすりゃいいさ。本当な
ら婚約者としてつれて来たかったが、その計画も流れたしな。ったく、新しい護衛はどこまで
も俺をこけにしやがる」
「こけになんか――!」
「ロザリー!」
してないだろ、と怒鳴ろうとしたロザリーを、ウィリアムが鋭く制した。
ぐっと言葉を飲み込んで沈黙し、唇を噛んで自身の両膝を睨む。
「日が暮れる頃にはベルク邸に到着します。閣下の護衛は私がいれば十分でしょう。ロザリー
は自由に行動してかまいません」
「僕だってグラッドの護衛だ。一緒にいる」
「主を切ると脅す護衛が何処にいる」
「閣下!」
ウィリアムに怒鳴られ、今度はグラッドが黙り込む。
忌々しげに舌打ちし、グラッドは再び頬杖を付いて窓の外に視線を投げた。
そして一言、
「寝る」
とだけ宣言して目を閉じる。
それからベルク邸に到着するまで――否、到着してからも、グラッドとロザリーは一言も言
葉を交わさなかった。
***
ベルク邸に到着し、三人はそれぞれに客間をあてがわれたが、ウィリアムは護衛のためにグ
ラッドと同室に寝泊りすると言って部屋への案内を断った。
それならば――とロザリーも同室で構わないと主張したが、護衛といえど婦人が男と同室に
眠るべきでは無いというウィリアムの言葉により、結局グラッド達の隣室に一人で滞在する事
になった。
婦人だからどうのと言うのは建て前で、実際はグラッドとロザリーの仲裁にウィリアムが辟
易した結果である。
たった一人で広々とした客間のベッドに腰を下ろし、ロザリーはそのままどさりと仰向けに
寝転がった。
この屋敷のどこかに、フィリクスがいる。
きっと背も凄く伸びただろう。成長したフィリクスは、ウィリアムのように美しく、頼りが
いがある青年に違いない。
会いたいと思った。
捨てられた事はわかっている。結婚の約束だって、きっともう覚えてなどいないのだろう。
それでも、フィリクスはロザリーに招待状を贈ってくれた。会いに来てもいいと。迷惑では
無いと――そう伝えてくれたのだ。
だが、それゆえに会いたくないとも思う。
結婚の約束を覚えているかと訊ねたら、一体どんな顔をするだろう。
こんな歳になって少年の様な服を着て、グラッドの護衛をしているロザリーを見たら、フィ
リクスはどう思うだろう。
美しく聡明な結婚相手のフロージアと比べられ、ひどいものだと呆れられたりはしないだろうか。
幻滅されたら――と思うと、ひどく辛い。
嘘吐き――と罵りたい気持ちが欠片も無いわけではなかった。だがそれでも、十年も焦がれ
続けた親友に、あの誓いの口付けをくれたフィリクスに、一瞬でいいから会ってみたい。一言
でいいから何か言葉を交わしたい。
騎士になったフィリクスを一目見たい。
強くなったフィリクスと、一度でいいから剣を交えてみたい。
ごろりとベッドに転がってうつ伏せになり、ロザリーは伸ばした両膝を引き寄せて顔をうずめた。
こんな気持ちになるのが嫌だった
だから、招待状を焼き捨てた父を責めもしなかったし、会いたいという気持ちを押さえ込も
うとひたすら剣を振っていたのだ。
だけど連れて行ってやると――会わせてやると言われてしまったら、ロザリーはそれを拒絶
できるほどフィリクスを捨てきれてはいなかった。
あの穏やかな田舎の、住みなれた家の、遊びなれた中庭で、確かにフィリクスに焦がれる自
分を切り殺したはずなのに――。
「女々しいやつ……」
嫌になる。
グラッドにもウィリアムにも、きっとひどく呆れられた。
「みっともない……」
吐き捨てるように言って、ロザリーはフランベルジュを引っつかんで部屋を飛び出した。
グラッドの城よりもはるかに優美で、ロザリーの家よりもずっと広い屋敷だった。だがごて
ごてと飾り立てているわけでもなく、それでいて施された彫刻や装飾ははっとするほど繊細で
上品だ。
いい趣味をしていると、芸術に詳しくないロザリーでもそう思う。
赤く燃えるひとけの無い裏庭にたどり着き、ロザリーは隅々まできちんと手入れの行き届い
た庭に溜息を吐いた。
裏庭と呼ぶには抵抗がある、実に立派な庭園である。
すらりと鞘から剣を抜き、ロザリーは沈みゆく夕陽にかざして目を細めた。
夕陽の朱をうけてフランベルジュがきらきらと輝く。
音が遠のいていく。
無音の中、自分の音だけが鼓膜に響く。
掲げた剣を振りぬくと、ひぃん、と澄んだ音がした。
無心に――ただ無心に――。
「――ロズ?」
無音の中に異音が混じる。
間合いは二歩。
踏み込んで、踏み込んで――ロザリーは音の主に切っ先を突きつけた。
気配が驚いたように半歩下がる――グラッドではない。
ようやく、ロザリーはまともに声の主を見た。
「失礼。人違いを――」
したみたいだ、と――恐らく言おうとしたのだろう男の声が、突きつけた剣の先でかすれる
ように消えていった。
身なりは上等。腰に下げた剣には、美しい少女を守るように交差した、二本の剣の紋章が入
っている。
見た事のない紋章だった。ベルク家の家紋でない事も確かである。私兵ではない。
だが、その鍛えられた体つきが、この青年が剣を振る者だと語っていた。ロザリーと同じよ
うに、どこかの貴族の護衛として雇われた者だろうか。
「――こちらこそ失礼を……剣を振るのに夢中で周りが見えなくて」
すらりと腰の鞘に剣を戻し、ロザリーは笑って青年を見上げた。
ごくりと、青年が息を呑む。
容姿は悪くないほうだ。だが、美しいと呼べるほどでは無い。ずっとウィリアムを見ていた
せいで評価がからくなっているのかもしれないが、美しいと呼ぶよりは精悍と表現したい。
だがその、鋭い視線の奥に輝く青い瞳だけは、宝石のように美しく輝いているようだった。
自己紹介をすべきだろうかと、間抜けのように見つめあったまま思う。
そういえば先ほど、この男はロザリーになんと呼びかけたのだったか――。
「……また、一人で剣の練習か?」
「――え?」
唐突に、なんの脈絡もなく男が言った。
感情を必死に押さえ込んでいるように、男が胸を震わせてロザリーを見下ろす。
「おまえんとこのピアノの先生、かんかんになって怒ってるぞ」
一瞬、ロザリーは呆然となった。
面影など、ほんの少しも見出せない。
瞳の色の記憶さえ、かすれてしまって曖昧で――。
「――フィル?」
それでも、ほとんど無意識に呟いていた。
子供のように青年が笑う。
「ロズ! ロザリー! 信じられない! 来てくれたんだな!」
大きく左右に両手を広げ、フィリクスは感極まったような声を上げてロザリーを思い切り抱
きしめた。
背骨を折られそうなその力に、たまらずロザリーが悲鳴を上げる。
「痛いいたいいだだだだだ! 骨! 背骨! 軋んでる!」
「来てくれないと思ってた。いつ到着したんだ? もしロズが到着したら真っ先に私に知らせ
るようにと伝えておいたはずなのに」
少年だと思われたか、とフィリクスが笑う。
半ば突き飛ばすようにしてフィリクスの腕から抜け出して、ロザリーはぜぇぜぇと乱れた呼
吸を整えた。
ごほん、とわざとらしく咳払いをし、改めてフィリクスを見る。
「久しぶり」
面白そうにフィリクスが笑い、改まって言うと照れくさい、と鼻の頭をかいた。
「遠くから剣をふる音が聞こえてな。見に来たら見知らぬ少年が驚くほど綺麗に剣を振ってい
たから、ついつい近くまで寄って見入ってしまった。剣を突きつけられた時はあまりの気迫に
別人かと思ったよ。だけど見間違いじゃなかった」
「少年って……あのね! 僕はもう十九――」
「そんな装いなんだ。誰も貴婦人とは思わないだろう」
それは確かにそうである。
ロザリーが唇を尖らせて口をとざすと、フィリクスは声を上げて笑った。
「かわらないなロズ。背だってほとんど伸びてない」
「そ――そっちが伸びすぎたんじゃないか! 大きけりゃいいってもんじゃないだろ!」
かっとなって怒鳴ると、とても堪えられないと言う風にフィリクスが腹を抱えて身を捩る。
なんだか自分だけが子供のような気がしてきて、ロザリーは憮然として押し黙った。
「あぁ、すまない。怒ったか? そうだな。私が伸びすぎたんだ。友人にもよく言われるし、
服を仕立てるのにも苦労してる」
「私って……言うようになったんだね」
「一人称か? 学校に入ってすぐ矯正された。子供の頃の私の話し方は、粗野で野蛮だと先生
たちに不評でな」
「騎士になれたんだ……どんな仕事してるの?」
え? と――怪訝そうな声を上げてフィリクスがロザリーを見下ろした。
何か言いたげに口を開き、しかしどこか諦めを含んだ表情で首をふる。
「今はこの領土を治める伯爵様に仕えてるんだ。主な仕事は治安維持で派手な切合いなんかは
ないが、充実してる。おいで。話したいことがたくさんある。お茶を用意させよう」
何か、悪い事を聞いただろうか。
無理に明るさを装うように、フィリクスは駆け出さんばかりの勢いでロザリーに背を向けて
歩き出した。
さぁ、と力強く促されて、ロザリーは少しの間躊躇して、しかし結局フィリクスの後をつい
て歩き出した。
話したいことがたくさんある。それはロザリーも一緒だった。
手紙がどうとか、結婚の約束がどうとか――そんなことはどうでもいい。フィリクスに会え
て、そして話が出来るのだ。
下らない恨み言で、仲たがいをしたくはない。
「フィル」
「うん?」
「結婚おめでとう」
一瞬、凍りついたような沈黙が走った。
その沈黙にぎょっとして、少し先をあるくフィリクスの表情を見る。
「――ああ。ロズはもう結婚したんだろう? 先を越されたな。今日は夫と一緒に?」
笑顔で振り向いたフィリクスの言葉に、こんどはロザリーが凍りついた。
次の一歩を進もうとした足が上がらない。
結局立ち止まってしまったロザリーを、フィリクスは怪訝そうに振り返った。
「……僕は独身だよ」
「――独身? だけどおまえは、もう十九に――」
やはり――約束など覚えてもいないのか。
そう思うとなにか妙に安心し、しかしロザリーは声が震えそうになるのを止められなかった。
忘れているのならば、いい。
フィリクスはロザリーを捨てたわけではないのだ。わざわざその約束を思い出させて、罪悪
感を与える必要もないだろう。
「結婚ね――誰ともしないことにしたんだ」
赤く夕陽に照らされたフィリクスが、大きく目を見開いてロザリーを凝視した。
きっとフィリクスからは逆光になって、ロザリーの表情もろくに見えてはいないだろう。
「それは……どうして……」
「これのせい」
ぽん、と腰の剣を叩いてみせる。
理解できないと言う風に、フィリクスは小さく首を振ってみせた。
「僕ね、僕より弱い人と結婚したくなくて、求婚してくる人をみーんな剣で返り討ちにしてた
んだ。そしたらさ、ほら、グラッド卿って子爵が急に招待しろとか無茶な事言ってきたでしょ?
あの人に剣の腕をかわれてね。護衛として雇ってもらったんだ」
「護衛……? 護衛って――ロズが、グラッド子爵の?」
「うん。最初は求婚者の一人だったんだけど、一戦交えたら剣の腕見込まれちゃってさ。実は
ね、僕の招待状、お父様が間違って燃やしちゃってね。そしたらグラッド卿が、ベルク様とは
一度取引した事があるから――って、無理やり招待とりつけてくれてさ。それにひっついてき
たんだ。だから、僕が到着したって連絡が行かなかったんだと思う」
「いつから――」
みるみる、フィリクスの表情が青ざめていく。
それとも、すっかり夕陽が沈みきり、辺りが暗くなり始めたからそう見えるだけなのか――。
「グラッド卿に会ったのはほんの一年前だよ。正式に雇ってもらったのだって最近で――」
「だったらどうして――返事をくれなくなったんだ」
「――え?」
ギリリと、フィリクスが奥歯を噛んでロザリーを睨んだ。
「返事って……なんのこと?」
「手紙の返事に決まってるだろう! 私は……おまえが、誰か他の男を愛したから……だから、
私の手紙が煩わしくなったのだと……だから――」
意味が――よく、わからなかった。
手紙なんて――。
「手紙なんてもう……何年もくれなかったじゃないか。学校を卒業して、誰か、どこかの騎士
様の弟子になって――僕はその先の君を一切知らない。騎士になれたかどうか不安で、怪我し
てないか、病気になったんじゃないか、戦場で死んじゃったんじゃないかって――」
「ロズ。おまえが何を言ってるのかわからない。手紙は毎月――この一年は月に何通も送った
じゃないか。一通でいいから返事をくれと――煩わしくなったのならそう言ってくれと――!」
「そんなの知らない。手紙なんか来てない。僕は受け取ってない」
「そんな馬鹿な! 私は確かに――」
「知らないって言ってるだろ!」
はっと目を見開いて、フィリクスは唇を手の平で覆って絶句した。
「……受け取っていないのか」
ごく静かに、フィリクスがそう尋ねる。
ロザリーは涙を堪え、唇を噛んで頷いた。
「住所は……」
「変わってない」
「それじゃあどうして――!」
「やめてよ! もう、手紙なんてどうでもいいだろ! 君はフロージア様と結婚して、僕はグ
ラッド卿の護衛として生きて行く。それだけの事じゃないか。今更手紙がどうとか言ったって
なんの意味も無い」
「意味が無いだと! まさか覚えていないのか? 私たちはあの森で――!」
「――フィル? どうしたの大きな声を出して」
愕然と息を呑んだロザリーの耳に、優しげでたおやかな女性の声が滑りこんだ。
はっとしてフィリクスが顔を上げ、声の方を振り返る。
「フラウ……あぁ、いや……なんでも――」
つやつやと輝く美しい黒髪を、たっぷりと腰まで伸ばした女性が、心配そうに首をかしげて
立っていた。
フラウ――というのは間違いなく、フロージアの愛称だろう。
この女性が、フィリクスの婚約者――。
美しい女性だとウィリアムは言っていた。正しく、眼前の女はそれ以外に形容が見つからな
いほど美しい。
「だめじゃない。そんなに小さな男の子を怒鳴って――あら、やだごめんなさい。可愛らしい
女の子ね」
申し訳無さそうに笑って、フロージアがロザリーを見る。
「紹介して? あなたのお友達ね」
「あぁ、彼女は――」
「グラッド子爵の護衛で参りました。ロザリーと申します」
まぁ、とフロージアが口元に手を当てる。
「信じられないわ。こんなにかわいらしい女性が、戦場の鬼と名高いグラッド卿の護衛を?」
戦場の鬼などと呼ばれていたのかと、ロザリーは内心吹き出した。
実にお似合いのあだ名である。
「閣下は表立って連れ歩く護衛には、実力よりも容姿が重要だと――」
まぁ、とまたフロージアが目を見開く。
そしてくすくすと、それはそれは楽しそうに笑い出した。
「あの方は信頼している臣下ほど粗末に扱うと有名ですからね。その若さでグラッド卿からそ
んなにも信頼を買うなんて、余程お強くていらっしゃるのね」
ふわりと、フロージアが柔らかく微笑んだ。
その笑顔の優しさが、美しさが、ロザリーの心をずたずたに打ちのめす。
かなうわけがない。
あぁ――よかった、と思った。下らない嫉妬心がおこる余地もない程に、フロージアは美し
く聡明で、女のロザリーから見ても完璧な女性だった。
「すっかり日も落ちてしまいました。そろそろ部屋に戻らないと、護衛の怠慢だとグラッド卿
にどやされる」
あらあら、噂どおりにお厳しい方なのね、とフロージアが困ったように眉をひそめた。
実際は、今日一日は自由に行動していいとウィリアムに言われている。
「お二人の未来に幸多からん事を、心よりお祈り申し上げます」
そう、堅苦しい礼をとり、ロザリーは二人に静かに背を向けた。
ありがとう、と、幸福そうにフロージアが礼を言う。
「ロザリー様。今夜の晩餐は屋内でささやかな立食パーティーを用意していますから、もしよ
ろしければ、わたくしとも是非おしゃべりしてくださいね」
立ち止まり、振り返った先でフロージアがふわりと笑う。
喜んで――と半ばつられるようにしてロザリーも笑い、冗談でダンスにお誘いしますよとま
で言ってのけた。
すっかり暗くなった庭にはいつの間にかかがり火が点り、様々な動物の形に刈り込まれた植
え込みを赤く照らし出していた。
静かに裏庭を横切って屋敷の角を曲がり、少しずつ速度を上げて、最後には走り出す。
走らなければ、叫びだしてしまいそうだった。
フィリクスは手紙を出したと言い、ロザリーにはそれが届いていない。
それどころか、なぜ返事をくれなかったとロザリーを責めさえした。
痺れを切らせてロザリーが出した手紙もまた、フィリクスには届いていないのだ。
「ロザリー!」
聞きなれた声が聞こえ、ロザリーは立ち止まって振り返った。
心配そうな表情で、ウィリアムが駆け寄ってくる。
「どうしたんです? 血相変えて。裏庭で何か――」
「覚えてた」
「――え?」
「約束……フィルは覚えてて……手紙も、出してたって……でも、僕の所には届いてなくて、
僕の手紙もフィルには届いてなくて……!」
息を切らせて捲くし立てるロザリーを、ウィリアムは落ち着くようにと優しく声をかけなが
ら肩を叩いた。
「順をおって話してください。フィリクス様に会ったんですね?」
こくこくと頷き、それで、それでと繰り返す。
「……フロージア様……が、綺麗で……」
フィリクスが約束を覚えていた。
手紙も、フィリクスはずっと出していたと言う。
だけど自分は手紙なんてしらなくて――。
「幸せそうで……」
だから、なんだと言うのだろう。
自分は手紙なんか知らないと主張して、それに何の意味があると言うのだろう。
「ロザリー?」
「……ごめん。なんでもない」
「ロザ――」
「でも、ちょっと……泣かせて」
ぎゅうとウィリアムの胸にすがりつき、ロザリーは声を上げずに泣き出した。
手紙の行方はわからない。
だが、フィリクスが手紙を出し続けていたのは事実だろう。
そしてフィリクスは、一向に返事をよこさないロザリーが、きっと誰かに恋をして結婚した
と思ったのだ。
そしてそれでも、せめて親友として、結婚式に来て欲しい。
そうして出された最後の手紙は――どういうわけかきちんとロザリーの元に届いたのだ。
だったら、ロザリーは演じなければならない。
フィリクスとの約束を忘れなければならない。待っていたなどと悟られてはならない。
手紙が届いていようといなかろうと、全ての結果は変わらないと思い込ませなければならない。
「ロザリー。もし閣下に見られたら、私は決闘を申し込まれます」
「うん」
「この暗がりですと、明らかに成人男性と少年に見えるでしょうから、衆道家と間違われる危
険性もあります」
「うん」
「その場合、護衛二人にそういう趣味があると言う事で、必然的に閣下もそういう目でみられ
ますね」
「うん」
「決闘を申し込まれる価値はあるな」
堪えきれずに、ロザリーは泣きながら思い切り吹き出した。
「もう! せっかく人が悲劇に浸ってるのに、笑わせないでよ!」
「私はいつも、閣下を陥れる事を第一に考えて行動してるんです。知らなかったんですか? 閣
下の悪評を流すためならなんだってします。あぁ閣下……そんな、意地悪しないで、もっと激
しくぅ」
「やめてぇ! 気持ち悪い! 死ぬ! 笑い死ぬ!」
腹を抱えてげらげらと髪を振り乱し、ロザリーはやめてやめてと悲鳴を上げた。
上手いもんでしょう、とウィリアムが胸を反らして自慢げに笑う。
「行きましょう。今夜は婚姻の前夜祭です。あなたのドレス姿を見れば閣下の機嫌も直るでし
ょうから、早いとこ着て見せてやってください。ダンスのステップは忘れてませんね?」
たたん、と軽快にステップを取り、行きましょう、とウィリアムが走り出す。
頬を湿らせる涙のあとをごしごしと拭い去り、ロザリーもまた、息を切らせて走り出した。