ドレス姿を見せてやればグラッドの機嫌は直る――というウィリアムの読みは、半分は  
的中したが半分は大はずれという結果となった。  
 炎と薔薇をモチーフにした飾り布をふんだんに使った緋色のドレスは、確かにロザリー  
によく似合ったし、グラッドも最初はその姿にこの上なく満足していた。  
 だが、いざ会場に向かうと言う段階になり、俺以外の男がこれを見るのが気に入らない  
と文句を言い始めたのである。  
「やっぱりおまえ、いつもの服に着替えて来い。その服は城に戻ってから改めて俺が脱がす」  
 などととんでもない事を言い出したグラッドに、ウィリアムは渾身の力を込めた拳骨を  
叩き込み、囚人でも扱うようにとっとと歩けと背後からせっついた。  
 初めて会った頃は真剣を抜いて切り合うような二人の喧嘩をおろおろと止めたりもして  
いたが、最近のロザリーは慣れっこになってしまい、実に冷静な物である。冷徹と言って  
もいいかもしれない。  
 主の背中を蹴るとは何事だと鬼の形相を浮かべたグラッドと、蹴られたくなかったら  
君主らしく振舞えと嫌味ったらしい笑顔を浮かべるウィリアムの横を素通りし、  
「喧嘩するのは構わないけど恥ずかしいから人目に付かない所でお願いね。連れと思われ  
たくないから先に行ってるよ」  
 と言い残してエスコートもつけずにつかつかと歩き出した。  
 とてもドレスを着た貴婦人の歩き方ではないのが、どこか微笑ましい後姿である。  
「畜生が。あの女に色目使う野郎がいやがったら手袋たたきつけてやる」  
「閣下! ただでさえ、戦場の鬼が来てるって招待客が怯えてるんですから、これ以上  
悪評を増やさないでください」  
「腰抜け共が」  
「こんな野蛮な男が主だなんて……」  
 舌を出して吐き捨てるグラッドにあてつけるように、騎士の恥だとウィリアムが絶望し  
てみせる。  
 しかしはるか先をすたすたと進んで行くロザリーに一切立ち止まるつもりが無いとわか  
るや否や、二人はすぐさま停戦協定を結んで慌ててロザリーの後を追いかけた。  
 連れの婦人を一人で会場入りさせるなど、仮にも貴族であるグラッドや騎士である  
ウィリアムからすれば末代までの恥である。  
 
 舞踏会と言うものを、ロザリーは体験した事がなかった。  
 知識としては一応、踊ったり食事をしたり歓談したりする場だと知っていたが、舞踏会  
の雰囲気と言うものは想像する事しか出来ず、せいぜい親戚を招いて行う誕生パーティー  
を更に豪華にしたような物だとしか考えていなかった。  
 そして、その剣に生きてきた田舎者の貧困な想像力は、会場への入り口の前に立った  
瞬間粉々に打ち砕かれた。  
 招待客は百人にものぼる――と、そう言えばグラッドが言っていた事を思い出す。  
 だが主催者側であるフロージアは、確かささやかな立食パーティーだと言ってはいなかったか――。  
「なに固まってんだ! おら、手」  
「へぁ?」  
「侍女に教わったでしょう。ほら、その通りにすればいいんですよ」  
「あ、あぁ……そ、そっか」  
 田舎者が、とグラッドが嫌味を言ったが、しかりロザリーにはその嫌味を理解できる  
だけの余裕を完全に失っていた。  
 華やかな雰囲気に呑まれてしまう。  
 あでやかなドレスに目がくらむ。  
 楽しげに語らう声が、人々をダンスに誘う美しい音楽が、香水と酒の香りが、この会場  
を満たす全てのものがロザリーの思考力を奪っていくようだった。  
「これはこれは、おぉ、なんと久しい! グラッド卿!」  
 そんな、真っ白なロザリーの頭の中に、会場によく通る声が飛び込んできて、ロザリー  
はようやく失いかけていた視界を取り戻した。  
 はっと視線を向けた先には、見事なあごひげをたくわえたいかにも貴族風の男が両手を  
広げて立っていた。  
 ワインを高く掲げ、まったく今夜はめでたいですなとカラカラ笑う。  
 確か、侍女にくれぐれも注意しておくように――と言われた貴族の一人だ。  
 とんでもない女好きで、確かフランク子爵と言ったか――。  
「貴兄は戦場でしか踊らぬ男と聞いていたが、いやなかなかどうして、かしこまった装い  
もよく似合う」  
 
 にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべながら歩み寄ってくるフランクから、グラッド  
があからさまにロザリーを遠ざけた。  
 半歩後ろに下がる形になったロザリーを、更にウィリアムが背後に庇う。  
 その二人の様子に、フランクがおやおや、と心外そうに眉を上げた。  
「そんなに警戒しなくとも、私もそれなりに命は惜しい。稀代の悪漢グラッド子爵がわざ  
わざ連れて歩くような寵妾にまで手を出したりはせんよ――ところでお嬢さん、お名前を  
伺ってもいいかな。おお、なんと、これは可愛らしい」  
 手を出さない――と宣言した矢先に口説きにかかるとは、中々分厚い面の皮である。  
 寵妾という言葉にむっとして前に出ようとしたロザリーを、しかし再びグラッドは静か  
に制した。  
「これは私の護衛です。ウィリアム同様存在しない者として扱っていただきたい」  
 うぇ――と、妙な声が出そうになり、ロザリーは慌てて口をつぐんだ。  
 まさかグラッドが敬語を使うとは思っていなかったのだ。  
「護衛? またまたご冗談を! あぁいや、しかしなる程、主の寝所を守るにはなかなか  
頼りがいがありそうですな」  
「全く。主君の腹を果物ナイフで貫くような護衛ですからな。私も油断をしていると、  
寝所を守る所かあっさり寝首をかかれかねない」  
 とんとんと、グラッドがすっかり傷の塞がったわき腹を指で叩いてみせる。  
 その言葉にフランクはぎょっとして、まじまじとロザリーを凝視した。  
 そして、ごほんごほんと咳払いする。  
「彼は過去に果物ナイフで刺された事があるんです――女性問題でね」  
 急に態度を変えたフランクを不審に思ったロザリーに、ウィリアムがそっと耳打ちした。  
 なるほど、と頷いて、わざとらしくフランクに笑いかけてやる。  
 フランクは慌てて視線を逸らした。  
「それにしても今回の婚礼、実に残念ですなぁ。あのお美しいフロージア嬢が、まさか  
一介の騎士なんぞに嫁ぐとは……」  
「貴兄も求婚していらしたとか」  
「さすが、よくご存知でいらっしゃる! 私もあの方の夫になれるのであれば、全ての  
恋人と手を切ってもかまわんとさえ思ったほどでしてな。しかしけんもほろろ……」  
「貴兄と真剣に添い遂げたいという危険な思想の婦人が現れたら、ぜひとも早馬を頂きたい。  
その瞬間貴兄の領地に攻め入ってその女性を奪い去って差し上げよう」  
 わざと作ったさわやかな笑顔が、ロザリーには逆に恐ろしく見えた。明らかに本気である。  
 しかしその本気に気付いていないのか、フランクはカラカラと喉をそらせて笑った。  
「全く、貴兄が言うとどんな冗談も全て脅しに聞こえてくる。しかしあのフィリクスとか  
いう若造――どんな手を使ってフロージア嬢に取り入ったのか……一説によるとあの大男、  
力にものを言わせてフロージア嬢の純潔を奪い、半ば強引に婚姻を迫ったと聞きますぞ」  
 急に声のトーンを低くして、フランクがグラッドに囁いた。  
 かっと――堪えがたい激情がロザリーを捉えた。  
 しかしウィリアムに視線で牽制され、足を踏み出すことも許されない。  
「元々悪い噂の多かった男だ。ご存知か。あの男に思いを寄せた婦人が夜に寝所に忍んで  
行き、口にするのもはばかられるような獣じみた情交を結んだ上で、全裸で室外につまみ  
出されたらしい。頂くだけ頂いて後は――と言うやつですな。私も人の事は言えないが、  
しかし婦人を部屋から放り出したりはいたしませんぞ。全く粗暴で感心できん男だ」  
「でしょうな。貴兄はいつも、全裸で部屋を追われる側の人間だ」  
「なんという切れ味! 全く貴兄の言葉はいつも私をずたずたに引き裂いてくださる」  
 そっくり返って豪快に笑うフランクに、グラッドも愉快そうに笑ってみせる。  
 ひどく白々しい光景だった。  
 親友を侮辱された激昂が、脱力するようにしおしおと萎えていく。  
 ロザリーの中に幻滅が満たされつつあった。  
 グラッドの姿を見たくなくて、ついには俯いてしまったロザリーに、また、ウィリアム  
がそっと耳打ちした。  
「堪えて下さい。あとで事情を教えます」  
「事情って――」  
「しっ。黙って見ているのが一番いい」  
 これは命令です――とまで釘を刺されてしまっては、ロザリーにはただ、俯いている  
事しか出来なかった。  
 情けなくて涙が出る。  
 それでは――と、ようやくフランクが話を切り上げた。  
 
「なにはともあれ、決まってしまったものは仕方ない。負け犬は負け犬らしく、両者の  
幸せな門出を妬みつつ新たな出会いを探すとしましょう」  
「美しい花ほど、棘や毒で自身を守るものである事を肝に銘じておく事ですな。ご自慢の  
護衛とて、寝屋の中まで守ってはくれますまい」  
「毒に犯され突き刺されるのもまた一興。では失礼」  
 きざったらしく一礼し、ついでとばかりにロザリーに片目を瞑ってみせてフランクは  
くるりときびすを返した。  
 人混みの中に誰かを発見し、嬉しそうに笑って歩み寄って行く。  
 グラッドが忌々しげに舌打ちし、その後ろ姿を睨み付けた。  
「存在自体がひわいな野郎だ。俺の女に色目使いやがって」  
「君の女じゃない」  
 意外そうに眉をあげ、グラッドがロザリーに振り返った。  
「君の護衛だ」  
「ロザリー……!」  
「よせ、ウィリアム。いい」  
 怒りと言うより諦めに近い溜息を吐いて、グラッドはすいとロザリーに手を伸ばした。  
 身じろぎもせずに突っ立っているロザリーの髪を、くしゃくしゃと掻き乱す。  
「そうだな。悪かった」  
 それが、妙に癇に障った。  
 ぱん、と音が出るほど乱暴に、グラッドの手を振り払う。  
「ロザリー!」  
 さすがにウィリアムが声を荒げた。  
 近くにいた年配の婦人が、あらあら、と唇に笑みを刻んで離れていく。  
「なんだよ、今の」  
「なにがだ?」  
「なんであんな奴と、あんな風に喋るんだよ……!」  
 自分自身を侮辱されたことよりも、フィリクスを侮辱されたことよりも、そんな男を  
相手に平然と会話を交わせるグラッドが嫌だった。  
 剣を抜けとは言わない。  
 決闘を申し込めなんて非常識な事も思わない。  
 だったらどういう態度をとればよかったのだと聞かれても、ロザリーには答えられない。  
 それでも、ただひたすら、なぜか無性に嫌だった。  
 子供を見るような目で、グラッドが笑った。  
「戦場の女神は、体裁を気にするお上品な紳士は嫌いか?」  
 それじゃあ――と呟き、唇に笑みを刻んだまま目を細める。  
「あの野郎を殴りつけて、宴席をぶち壊しにしてやろうか。剣を抜いて首をはねてやろう  
か? 戦争が起こるぞ。困るだろうなぁ、おまえの幼馴染は。それが望みか? 復讐か?」  
 戦場の愉悦に恍惚とするように、グラッドが獣のように唇を舐めた。  
 圧倒的な悪意に射竦められ、ロザリーは下がりそうになる足を必死に押さえて唇を噛んだ。  
 グラッドの瞳にどす黒い炎が宿る。  
「おまえが言うとおりにしてやるとも。言ってみろ。ぶち壊しにしろってな。悲鳴が聞き  
たいか? 血が見たいか? 絶望が見たいか。なんだって見せてやる」  
「違う……なんだよ、それ、やめてよ……」  
「言ってみろよ。壮快だぞ?」  
「やめて……」  
「剣の一振りだ。なんだったら演技でいい。俺とウィリアムが切りあうだけで祝いの席は  
ぶち壊しだ」  
「やめてよ! そんなんじゃない!」  
 しん――と、音楽さえもその場から消え失せた。  
 三人に――とりわけロザリーに視線が集中し、ひそひそと囁きあう声が会場中に広がって行く。  
 にやにやと、グラッドがからかうようにロザリーを見下ろした。  
 さぁ、どうすると言わんばかりのその顔に、しかしロザリーは青ざめて立ちすくむ  
事しか出来なかった。  
 視界の端でウィリアムが動いた。  
 瞬間。  
 ぱしゃん、と、水音が会場に響いた。  
 同時に、きゃあ、と、どこかでささやかな悲鳴があがる。  
 ロザリーは呆然と、ぽたぽたと滴る水滴を凝視した。  
 
「頭を冷やしなさいロザリー。あなたは閣下に雇われた護衛であって、対等な立場ではない。  
閣下の御身を守る以外の目的で閣下に声を荒げるなど言語道断です」  
 水を――ウィリアムに浴びせかけられたのだ。  
 ぐっしょりと濡れた金髪が頬に張り付き、首筋を伝って流れた水がドレスの胸元を  
濡らしている。  
 ひどい、と誰かが囁いた。  
 あれが冷血無比で有名な、グラッド子爵の懐刀ウィリアムか――。  
「いつまで、そのみっともない姿をさらしているつもりです」  
「あ……あ……」  
「下がりなさい。今すぐに」  
 鋭く命じられ、ロザリーはひどくぎこちない動きでグラッドに礼をとり、くるりときびす  
を返してつかつかと歩き出した。  
 せめて泣くまい、これ以上醜態を晒すまいと、しゃんと背筋を伸ばして会場を後にする。  
 グラッドが部下の醜態と非礼をわびる口上を述べる声を背中に聞きながら、ロザリーは  
堪えきれずに涙を零し、一目散に廊下を駆け出した。  
 
 会場に音楽が戻り、ダンスが戻り、人々の話し声が戻るのに、ロザリーが会場を後に  
してから三十秒とかからなかった。  
 むしろ雑談にはより一層熱が入り、先ほどのウィリアムの行動が残酷だとか、それを  
受けたロザリーの態度が毅然としていたとか、主君に声を荒げる護衛などとんでもない、  
あの程度で済んで感謝すべきだと口々に言い合った。  
 その様子に、グラッドが不服そうにウィリアムを睨み付ける。  
「やってくれたな」  
「忠実な護衛として当然の行動を取ったつもりですが?」  
 あくまで飄々として、ウィリアムが答える。  
 グラッドは忌々しげに悪態をついた。  
「俺を巻き込んで悪者になりやがって。そんなに不敬仲間が大切か」  
 もし、あのままウィリアムが何もしなければ、非は主君に声を荒げたロザリーにあった。  
 そして、それを責めずに黙って受け入れれば、グラッドは心の広い主君の名誉を得る  
ことになったのだ。  
 それが、ウィリアムがロザリーに水を浴びせかけ、あまつさえ冷たい言葉で叱責して  
退場させたせいで、祝いの場で可憐な少女に平然と恥をかかせる冷徹な主君の出来上がりである。  
「私は閣下の評判を貶めるために護衛をやってるんです。絶好の機会だったので利用した  
だけですよ」  
「てめぇ、さっき悪評をこれ以上増やすなとかぬかしてなかったか」  
「そんなことより、追いかけて慰めなくていいんですか? 心の隙間に付け入る好機に  
見えますがね」  
「――先を越された」  
 眉間に深く皺を刻み、グラッドはぐいと酒を煽った。  
 え、とウィリアムが聞き返す。  
「フィリクスとか言う野郎だ。俺が謝罪の口上述べてる最中に無視して出て行きやがった。  
あと、あのヒゲ面」  
「非礼に非礼を返されたわけですか。自業自得ですね」  
 ふん、とウィリアムが嫌味を言う。  
 あんな風にロザリーを追い詰めたりするのが悪いのだ。  
 正直に、おまえのために猫を被っているのだと言ってやれば済んだのに――。  
 
「でも、だったらなおさら早く追いかけるべきでは? 正妻にはなれないまでも、妾にと  
言われたら頷くかもしれませんよ」  
「それを今から見物しに行くんだよ」  
「覗きですか……?」  
「嫌なら来るな」  
「いくら悪評を立てたいと言っても、戦場以外での殺人を見過ごすわけには行きません」  
 このままグラッド一人を生かせたら、ロザリーかフィリクスか、あるいはその両方を  
切り殺しかねない。  
 背中に百人もの視線を感じながら、ウィリアムとグラッドは晩餐会場を後にした。  
 
 
                 ***  
 
 
 どこをどう走ったのか、よく覚えていない。  
 とにかく人気のない所に行きたくて、ロザリーは一回の窓から飛び降りて、かがり火を  
避けるようにして裏庭に向かった。  
 そのまま少し走って美しく刈り込まれた生垣の陰で立ち止まり、ぐしぐしと涙を肘まで  
ある手袋で拭う。  
 は、は、と浅く短い息を吐き、ロザリーはその場にうずくまって泣き出した。  
 グラッドは主君だ。  
 自分で、グラッドの女ではないと。ただの護衛だと言い張ったのに。  
 一番下っ端で構わないから雇ってくれと言ったのに、まるで変わらず友人のように接し  
てくれるグラッドを、当たり前のように思っていた。  
 ウィリアムのように公私を分けることも出来ず、公の場で主君を怒鳴り、集まる視線に  
ロザリーは立ちすくむ事しか出来なかった。  
 もし、あのまま何も無かったら、ウィリアムが叱責してくれなかったらと思うと寒気がする。  
 その瞬間、自分はグラッドの護衛ではなく、側に置いて愛でるだけの人形になっていた  
のだ。少なくとも、あの場にいた者は全員そう思う。  
 なんて子供で、なんて愚かで、なんて見苦しい女だろう。  
 頭から被った水と、冬の夜風のせいでいつの間にかカチカチと歯が鳴っていた。  
 上着も羽織っていないドレス姿はひどく寒い。  
 その肩に、硬質な布地が、ふわりとは言いがたい重さで巻きつけられた。  
 暖かさにぎょっとして立ち上がり、生垣を背にして振り返る。  
「頭に血が上ると闇雲に走り回る癖は健在か」  
「フィ――」  
「何故部屋に戻らなかった。私とほぼ同時にフランク卿がおまえを追って会場を出たんだ  
ぞ。こんな暗がりに一人でいては、襲ってくれと言っているようなものだ」  
 咎めるような口調だが、表情は柔らかく穏やかだった。  
 年齢なんてほんのいくつかしか違わないのに、それが手の届かないほど大人に見える。  
 
「――君には関係ないだろ! ほっといてよ!」  
 怒鳴って、ロザリーは肩に掛けられた上着を脱いで眼前の大男に押し付けた。  
 驚いたように目を見開き、フィリクスが押し付けられた上着を受け取る。  
 そして駆け出したロザリーの腕を、フィリクスは慌ててつかんで引き戻した。  
「ロズ! 落ち着け、話を聞いてくれ」  
「痛いな! はなしてよ! なんだよ、哀れみに来たわけ? フロージア様に慰めてこい  
とでも言われたの? 僕が女だから。僕が子供だから!」  
 子供じみた怒りだ。成長した幼馴染と昔から変わらない自分を比べて、劣等感に焦燥と  
苛立ちが募る。  
「どうしてそんなふうに思うんだ。私はただ、おまえが心配なだけだ」  
 なだめるようなその声が、無性に癪に障った。  
 どんなに渾身の力を込めても、がっちりと腕をつかんだフィリクスの手は離れない。  
「来るんじゃなかった」  
「ロ――」  
「君になんか、会うんじゃなかった!」  
 醜態をさらしてばかりだ。  
 ウィリアムに呆れられ、グラッドを怒らせ、二人に恥をかかせてフィリクスや他の招待  
客に哀れみをかっている。  
 こんなつもりで来たんじゃない。  
 女々しくて、惨めで、みっともなくて嫌になる。  
「ほっといてよ……もう、関係ないだろ。花婿がこんなとこで何やってんだよ」  
 ひく、ひく、と肩を揺らし、ロザリーはまた、めそめそと泣き出した。  
 もう、たくさんだ。これ以上みっともない姿をフィリクスに見せたくない。  
 ぐいと、掴まれた腕が静かに引かれ、ロザリーはよろめいた。  
 その肩にもう一度、重たい男物の上着が巻きつけられる。  
「おいで、少し歩こう」  
 がっちりと腕をつかんでいたフィリクスの手が、あっけなくほどけた。  
 身をひるがえそうとして視線を逸らし、しかしロザリーは逃げ出さずに踏みとどまった。  
 ほっと、フィリクスが息を吐く。  
 促されて、ロザリーはとぼとぼとフィリクスの隣を歩き出した。  
 さくさくと、草を踏みしめて庭を歩く。  
 ロザリーが人に見られたくない、と呟くと、フィリクスは人気のない道を選んで歩いてくれた。  
 沈黙が妙に重い。  
「……思い出すな」  
 ふと、沈黙に耐えかねたようにフィリクスが口を開いた。  
「昔、冬の湖に落ちた事があっただろう。その時も、こんなふうにおまえに上着を貸してやった」  
 あぁ、と、ロザリーは呟いた。  
 青い唇で真っ白な息を吐き出して、責めるようにフィリクスを睨む。  
「湖を覗いてた僕を、君がふざけて後ろから突き飛ばしたんだよね」  
「……そうだったか」  
「僕のお父様に怒鳴られたの覚えてないの?」  
「……今思い出した」  
 気まずそうに、フィリクスが視線を逸らす。  
 ふ、と、ロザリーは小さく吹き出した。  
「ほんと、子供の頃は乱暴者だったのにさ。すぐに怒るし、自分から誘ったくせに一人で  
歩いて行っちゃうし、僕が誰と遊んでてもお構いなしに引きずってくし」  
「やめてくれ。子供の頃の自分を殺したくなってきた」  
 あはは、と声を上げてロザリーが笑うと、フィリクスは力なく肩を落として嘆息した。  
 少し、苛めすぎただろうか。  
 ロザリーぼんやりと、どこか拗ねた様子のフィリクスを眺め、こみ上げてくる懐かしさ  
に目を細めた。  
「変わったよね、フィルは。背だって伸びて、力だって強くなって、穏やかで知的で、  
まるで別人みたい」  
「ロズ……」  
「置いてかれちゃった気分だよ。僕ばっかり子供で、ドレスを着て大人しくしてることも  
出来なくて、頭の中もからっぽ。胸もお尻も育たなかったし、女らしさのかけらもない」  
「馬鹿を言うな! 自分を鏡で見た事がないのか!」  
 急に、乱暴に肩を掴まれて、ロザリーはぎょっとして目を見開いた。  
 
「おまえが会場に現れた時、真っ先にフランク卿が飛んで行っただろう。あの方は好色だ  
が、飛び切りの美女にしか興味を示さない事で有名だ。私だって、こんなに可憐な夫人を  
見た事がない。広いホールのきらびやかな婦人の中で、おまえを目で追わずにいられる男  
がどれだけいると思う」  
 そりゃあ、と呟き、ロザリーはぎこちなく口元が歪むのを意識した。  
「頭から水を引っ掛けられた婦人なんて、あの場じゃ僕しかいなかっただろうからね」  
 一瞬、フィリクスは言葉を忘れて呆然とロザリーを見下ろした。  
 そのフィリクスの瞳に自身の卑屈な苦笑いを見つけ、ロザリーは慌てて俯いた。  
「その……フランク卿だけどさ。すごく感じ悪いんだ。嬉しそうに人の悪評喋ってさ。  
まるで君が暴漢みたいなこと言うんだ」  
「――婦人を、裸で放り出した話だろう」  
「……なんだ、知ってたんだ」  
「事実だからな」  
 え、と、ロザリーは目を見開いた。  
「騎士などをやっているとな、不倫目的の貴婦人からの誘いは多い。私は全て断ってきた  
が、ある貴族の開いた夜会に招かれたおりに、あてがわれた部屋のベッドで半裸の夫人が  
待っていた」  
「い、いいよ! 説明しなくていい!」  
「退室を願ったが、話を聞かずに服を脱ぎだしたので――」  
「フィル!」  
「放り出した」  
 それきり、フィリクスは沈黙した。  
 あれ、と、真っ赤になってそらした顔を再びフィリクスに向け、たっぷりと疑問を含ん  
だ表情で首をかしげる。  
「あの……それだけ?」  
「いま思えば、私が部屋を出れば済んだ話なんだがな。動転してた。私がその婦人の誘い  
を受け入れた事になっているだろうが、実際は何もしていない。申し訳無い事をしたので、  
公然と否定はしていないが……」  
「あの……じゃあ、なんでその……君がその人と、いたしちゃった事になってるの?」  
「恐らく、恥をかかせた報復だろう。よくある話だ」  
 都会は恐ろしいところである。  
 ロザリーは表情をひきつらせた。  
「でも……だったら、じゃあ……し、しちゃえばよかったのに。だってそうすれば、その  
ご婦人だって恥をかかずにすんだし、フィルだってそんな噂流されなかったのに……」  
「――結婚の約束があったんだ」  
 ぎくりと、ロザリーは肩を強張らせた。  
 フィリクスの顔が見られなくて、無意識に視線を逸らす。  
「そ、そうなんだ。誠実なんだね。相手はフロージア様でしょ。そりゃそっか、相手が  
あの人なら、他のご夫人なんて道端のカボチャだよね」  
 あぁ、そうだな、とフィリクスが呟いた。  
 顔を上げられないロザリーに、フィリクスの表情は分からない。  
「手紙を……な、探していたんだ。届いていないならどこにあるのかと」  
 唐突に、フィリクスが話題を変えた。  
 他の話題を探していたロザリーは、安堵して顔を上げ、しかし直後にこの話題もまずい  
事に気付いてうろたえた。  
「そんなの、みつかるわけないじゃないか。ばかだな。だって、出しちゃった手紙なのに  
さ、家の中なんて探したって――」  
「おまえは、そう考えるのか」  
 どこか呆れさえ含んだ口調で言われ、え、とロザリーは問い返した。  
 だって、と口を開きかけ、その先の言葉をさがして口ごもる。  
「私は……誰が、どこへやったのかと考える。私の周りの人間もそうだろう。私でも鈍い  
方なんだ。手紙の返事が来なくなった時点で、私は疑うべきだった」  
「疑うって……それじゃ……」  
 みつかったの、と思わず聞いたロザリーに、フィリクスは静かに頷いた。  
 一言、  
「暖炉の中に」  
 ロザリーは眉根を寄せ、愕然としてフィリクスを見た。  
「騎士の称号を拝し、私はすぐにおまえを呼び寄せようとした。もちろん、両親にもその  
事を伝えた。二人とも祝福してくれた。認めてくれたと思っていた」  
 だが、と低く言葉をつなぎ、フィリクスは拳を握り締めた。  
 
 聞いてはいけない話だ。  
 自分は、約束を忘れた事になっているのだ。この話を理解してはいけない。  
「腹の中では、祝福などしていなかった。ただ、反対すれば私が抵抗すると知っていたの  
だろう。母は下男を抱きこんで私の手紙を手に入れ、全て燃やしていた。手紙を託してい  
た下男を問いただしたら、あっけなく白状したよ。良家の子女との婚姻が家のためになる  
と、私のためでもあるのだと……」  
 そうだ。  
 貧民でない――と言うだけで、地位も名誉もない田舎娘なんぞと結婚するより、地位も  
名誉もある聡明で美しい女性と結婚するほうが、家のためにもフィリクス本人のためにも  
ずっといい。  
 だから、祝福しに来たのだ。  
 美しい婚約者を。  
 騎士の称号を。  
 誇れる仕事を。  
「よく、わからないけどさ」  
 青ざめた唇で真っ白な息を吐きながら、ロザリーは困ったように微笑んだ。  
「君のお母様は、正しいと思うよ」  
 フィリクスが表情を硬くする。  
 その変化に気付かない振りをして、ロザリーは続けた。  
「だってさ、幼馴染って言ったって、僕は一応女なわけでしょ? 独身の騎士様が故郷か  
ら女を呼び寄せたりしたら、そりゃあ変な噂も立って女の人もよりつかなくなっちゃうじゃん」  
「……そうか」  
「鈍感だなぁ。普通に考えて、この状況だってまずいんだよ。結婚前夜の男がさ、薄暗い  
裏庭で若い女と二人きりなんて……今すぐ会場に戻って婚約者の側にいるべきだと思うよ。  
常識的に考えて」  
「そうだな」  
「だからほら、僕のことはもういいからさ。会場に戻りなよ。僕も部屋に戻って、暖炉に  
あたってあったまるからさ」  
「ロズ」  
「うん?」  
「グラッド卿やウィリアム様に、いつもあんな扱いを受けているのか?」  
 ふいに、フィリクスの瞳から穏やかさが消えたように思えた。  
 思い出したように風が吹き、水気を含んだロザリーの髪を氷のように冷やして行く。  
「ううん。いつもはもっとずっと、凄く仲いいよ。でも、今回は特別。たくさん人が集ま  
るところで、護衛が主君を怒鳴ったんだ。あれくらい、当たり前だよ」  
「当たり前まえのように、あんな扱いを受けているのか」  
「ちが……だから、普段はほんと、あんなんじゃないんだ。今回は僕が主君を怒鳴ったか  
ら、だから――」  
「いくら護衛といったって、おまえは女なんだぞ! それを、あんなふうに辱めるなど、  
いくらなんでもやりすぎだ! 例えおまえが男でも、あそこまでやられて平然としていら  
れる者などいない」  
「それは、だって、咄嗟のことだったし……」  
「ロズ。おまえは世界を知らない。夜会で婦人に声を荒げさせたら、それは男の責任だ。  
怒らせるようなことをしておいて、相手の夫人を罰するなどありえないことだ」  
「だから、僕はただの護衛で! 婦人とか、そういうくくりじゃないんだ! だいたい、  
護衛の仕事だって無理言ってさせてもらってるんだし、それに――」  
「ロズ!」  
 グラッドを庇うような言葉を連ねるロザリーの肩を、咎めるようにフィリクスが掴んだ。  
 ぎくりとして肩を竦めたロザリーを、フィリクスが真剣な目で睨む。  
「――私のところに来い。私なら、おまえにあんな思いをさせたりしない」  
 愕然と、ロザリーは目を見開いた。  
 どくどくと、耳の奥で脈打つ音が聞こえる。これは、歓喜による胸の高鳴りか、あるい  
は罪悪感による緊張か――。  
「夕刻、おまえの振る剣を見た。覚えているかロズ。私が騎士になったら、私はおまえに  
剣を教えると約束したんだ。だが、そんな必要は最早ない。その実力を私に貸してくれ。  
また、一緒に剣を振ろう」  
「……ばかな……冗談、やめてよ……」  
 ぎこちなく微笑んで、ロザリーは静かに首を左右に振った。  
「僕はグラッド卿の護衛だ……全部、あの人にもらったんだ。あの人は僕に戦い方を教え  
てくれた。だから僕は、あの人に仕えるって……だから……」  
 
 頷いてしまえたら、どんなにいいだろう。  
 また一緒に、昔のように、妻になんてなれなくても、親友としていられたら、どんなに  
心満たされるだろう。  
「――もし、おまえが望んでくれるなら……」  
 ぐ、と、フィリクスがロザリーの肩を掴む手に力を込めた。  
 その指が、緊張で震えているのが分かる。  
「私は、騎士でなくても構わない」  
 今度こそ、ロザリーは完全に言葉を失った。  
 その、フィリクスの言葉の意味は――。  
「おまえは、本当に――昔からどうしようもなく、嘘の下手な女だな」  
 ひどく不器用に、フィリクスが笑った。  
 寒さとは別の、だがそれよりも抑えられない震えが足元からロザリーを揺さぶる。  
「待っていてくれたんだろう?」  
「ちが――」  
「十年も、手紙が途切れてからもずっと、私を信じていてくれたんだろう」  
「やめてよ、フィル。だめだよそんなの、だめ――」  
 力強い腕に抱きすくめられ、ロザリーは息を詰めた。  
 泣くまいと、涙を堪えて唇を噛む。  
「やりなおそう、ロズ」  
 奪ってしまう――と、ただそう思った。  
 美しい婚約者を。  
 騎士の称号を。  
 誇れる仕事を。  
 十年かけてフィリクスが作り上げてきた物を。全て。なにもかも。  
「……うそつき」  
 こんなつもりで来たんじゃない。  
 ただ、幸福なフィリクスに、自分も幸福だと伝えて安心させたかっただけなのに――。  
「うそつき、うそつき、うそつき……!」  
 ずっと待っていたのに。  
 ずっと信じていたのに。  
 うわぁぁん、と声を上げ、ロザリーはフィリクスの胸にすがり付いた。  
「迎えに来るって言ったじゃないか! 会いに来るって言ったじゃないか!」  
 結局、フィリクスの両親が村を出て街に移り住んだだけで、フィリクスは一度も村に  
帰ってはこなかった。  
 すまない、すまない、とフィリクスが耳元で繰り返す。  
「結婚しよう……って、言ったじゃないかぁ……!」  
「すまない……ロズ。すまない」  
 抱き合っていた体をわずかに離し、フィリクスがふいに腰を屈めた。  
 唇が触れそうになり、慌ててロザリーは顔を逸らす。その顔を、半ば無理やり上げさせ  
られて、ロザリーはぎゅっと唇を噛んだ。  
 その唇に重なった温もりに、ぎくりと体を竦ませる。  
 ロザリーが唇を開くまで、フィリクスは根気よく、ついばむようにロザリーに口付けた。  
「ん……んん……ふ……」  
 くちゅりと、唾液が絡まる音がした。  
 怯えるようにわずかに開いた唇に、フィリクスの舌が無遠慮に押し入ってくる。  
 これは罪だ。裏切りだ。  
 グラッドに対する裏切りだ。  
 フロージアに対する裏切りだ。  
 ロザリーはぼろぼろと涙を零しながら、どんどんとフィリクスの肩を叩いた。  
 だけど一度受け入れてしまった舌は、ロザリーを逃がそうとはしない。  
 どれくらいそうしていただろう。ようやくフィリクスが唇を離したころ、ロザリーの  
涙はすっかり枯れ果てていた。  
 ぐったりとフィリクスの腕に体重を預け、熱く濡れた唇を開く。  
 
 パン、と、乾いた音が夜に響いた。  
 
 立て続けに、皮膚と皮膚を打ち合わせる乾いた音が、植え込みの影から吐き出される。  
 音と共に姿を表した無骨な影に、ロザリーは血の気を失い、呆然と立ち尽くした。  
「見せ付けてくれるじゃねぇか。感動のクライマックスだ! 涙無しにはとてもじゃない  
が見てられねぇ。覗きなんて低俗なまねして正解だった。こいつぁ一級の戯曲に勝る」  
 
 おどけた様子で喝采の声を上げながら、グラッドが脅すような笑みを浮かべて立って  
いた。その瞳が、怒りとは違う感情に彩られ、責めるようにロザリーを睨む。  
「グラ――」  
「だけどな。フィリクス――つったか。でかいの」  
 ふいと、ロザリーから視線を外し、グラッドが静かにフィリクスを見た。  
 その背後に、どこか悲痛な表情でウィリアムが控えている。  
「そいつは俺の女だ。俺の護衛だ。俺が見つけて、俺が育てて、請われて俺が受け入れた  
女だ。俺が焦がれて、焦がれて、毎晩夢で犯しても手が出せねぇほど惚れた女だ」  
 すいと、グラッドがウィリアムに手を差し出す。  
 次の瞬間、ロザリーは瞠目した。  
「一回捨てた女だろうが。それを拾った男から、その女を奪おうってんだ。筋は通しても  
らうぜ、騎士様よ」  
 見慣れた装飾の、美しい鞘がグラッドの手に握られていた。  
 グラッドの手にあると、細身の剣がより一層小さく見える。  
「剣で奪えと、そうおっしゃるのですか」  
 はは、と、グラッドが声を上げて笑う。  
「その女はな。自分より弱い男とは契りを結ばないんだそうだ。元を正せば、それも全部  
おまえのためらしいがな。おかげで俺も、その女に手がだせねぇ」  
 ちらとロザリーに視線をやり、グラッドは剣をロザリーに投げ渡した。しっくりと手に  
馴染む、使い慣れたフランベルジュだ。  
 胸に抱きこむように剣を受け取り、ロザリーは唇を噛んで首を左右に振った。  
「戦え。決闘してみろ。その女を俺から奪う資格があるのは、その女を打ち負かせる者だけだ」  
「馬鹿を言うな! ロザリーは女で、しかもドレスなんだぞ! 決闘なんて成り立つものか!」  
「そう思うなら、剣を抜け。そんなに実力に差がありゃぁ、傷つけずに勝つことくらいで  
きるだろう。もし、本当にロズがおまえに負けるような事があったら、俺はそんな弱い護  
衛はいらねぇ。そんな弱い女に興味もねぇ。連れて行くなり、犯して捨てるなり好きにす  
りゃいいさ」  
 愕然と、ロザリーはグラッドを凝視した。  
 いらない、という言葉が、信じられないほど痛い。  
「どうする? 女相手に剣を振るのは騎士道とやらに反するか。それとも、女に打ち負か  
されるのが怖いのか」  
 なんなら――と、はじめて、グラッドがまともにロザリーを見た。  
「わざと負けちまってもいい。甘んじて敗北を受け入れるような女も、俺はいらねぇ。後  
始末は全部俺がしてやるさ。町を出る馬車も、支度金もくれてやる」  
 さぁ、どうする――とばかりに、グラッドが口角を吊り上げた。  
 わざと負けるという選択肢が存在する事すら、ロザリーは考え付かなかった。  
 そうか、ただ、剣を落とせば、それで済んでしまうのか――。  
 すらりと、フィリクスが剣を鞘から抜く澄んだ音が夜に響いた。ひゅぅ、と、グラッド  
がいつものように口笛を吹く。  
「抜け。ロザリー」  
 グラッドがロザリーに命じた。  
 かたかたと、胸に抱いた剣が震える。  
「抜け」  
 重ねて、グラッドが鋭く命じる。  
 青い唇が白くなる程噛み締めて、ロザリーは鞘から剣を引き抜いた。  
 かがり火の赤が反射して、夕日のようにフランベルジュが美しくきらめく。  
「グラッド」  
「――なんだ?」  
「……ドレス、ありがとう」  
 言って、ロザリーはドレスの裾を、腿半ばまで乱暴に引き裂いた。  
「ロズ! 何を――!」  
 思わず剣を降ろしたフィリクスの声を無視して、ひらひらと揺れる飾り布も引きちぎり、  
腰を落として剣を構える。  
 ウィリアムが前に出て、決闘の開始を告げ――瞬間、ロザリーはドレスの赤をひらめか  
せてフィリクスに切りかかった。  
 愕然と目を見開き、フィリクスがロザリーの剣を受けて後退する。  
「十年だよ、フィル」  
 
 半ば呆然としてロザリーを見詰めるフィリクスに、ぎこちなく笑ってみせる。  
「これが、僕の十年だ」  
 すべて、この男のためだった。  
 こんな形でさえ、フィリクスと剣を交えられる事が、笑い出したくなるほど嬉しい。  
 フィリクスの瞳に、ようやく闘争の色が宿る。  
 その色に、ロザリーは歓喜が体を満たすのを意識した。  
 叫んで、ロザリーは白刃を振り下ろした。  
 その剣を、やすやすとフィリクスが受ける。押しのけるように後方に弾き飛ばされ、  
ロザリーはドレスに振り回されるようによろめいた。  
 大きく、フィリクスが踏み込んでくる。  
 踏みとどまり、フィリクスの剣を受け流し、ロザリーは泣き出した。  
 なんて綺麗で、なんて真っ直ぐで、なんて力強い剣だろう。  
 これは人を守る剣だ。グラッドの振るう、奪うための暴力とは違う。  
 
 だが、弱い。  
 
 絶望が、ロザリーの心に食らいついて離れなかった。  
 人を傷つけまいとして振られる剣は、悲しいほどに無力だ。  
 これに負けるのは簡単だ。お互いに、毛ほどの傷もつかずに勝負は終る。  
 ただ、剣を落としさえすればいいのだ。  
 なのにどうして――。  
「どうして――どうして!」  
 悲しみが苛立ちに、苛立ちが怒りに変わる。  
 なぜ、腕を狙って切り付けない。  
 なぜ、傷つけまいとするように剣を引く。  
 茶番だ。こんなものは決闘ではない。こんなものは戦いではない。  
「うわぁあぁあ!」  
 踏み込み、ロザリーは容赦なくフィリクスの腕を切りつけた。  
 だが、浅い。  
 更に追い討ちをかけようと剣を振りかぶったロザリーの眼前に、白刃が割って入った。  
ぎぃん、と鈍い音がして、ロザリーの剣が止められる――フィリクスのものではない。  
「終わりですロザリー。あなたの勝ちだ」  
 ウィリアムの声だった。  
 腕を押さえてうずくまったフィリクスは、もう、剣を握ってはいない。  
 呆然と、ロザリーは剣を降ろした。  
「腕を。止血をしますから、医者を呼んで縫ってもらうといいでしょう。肉を抉られてい  
るだけで傷は酷く残るでしょうが、今後も剣を振るのに支障はないはずです」  
 ウィリアムが剣をしまい、フィリクスの側に膝をつく。  
 白いシャツが真っ赤に染まり、腕を伝った血液がぱたぱたと地面に滴っていた。  
 青ざめた顔で、フィリクスがロザリーを見上げる。  
 あぁ、やはり――とロザリーは思った。  
 やはり自分は、あの日、あの庭で、恋に焦がれる自分を切り殺していた。  
 フィリクスに焦がれる心よりもはるかに強く、闘争の愉悦を奪われた怒りと虚無感が  
ロザリーを揺さぶっている。  
「弱いなぁ、フィルは……」  
 ぽろぽろとこぼれる涙を止められず、しかしそれでも、ロザリーは昔のように笑って見せた。  
「ロ――」  
「ピアノやダンスの稽古ばっかりしてるから、全然剣が上達しないんだ。そんなんじゃ、  
いつまでたっても僕に一勝もできないんだから」  
 剣を振って血を払い、鞘を拾い上げて刀身を納める。  
「幸せに。フィル。さよなら」  
 フィリクスに背を向けて、ロザリーは静かに歩き出した。  
 その肩をグラッドが軽く叩く。  
「――よくやった。それでこそ、俺の女神だ」  
 ぱん、と音を立ててその手を振り払い、しかしそれだけでロザリーはまた歩き出した。  
 
 ロザリーが立ち去り、ウィリアムとグラッドが立ち去ってからも、フィリクスはしばら  
くそこに座り込んでいた。  
 ロザリーに切られた腕が、燃えるように熱く痛む。  
 
 ずっと、森での約束を想って生きていた。  
 会いたい気持ちを抑えて騎士になるためにひたすら学び、同じ手紙を何度も読み返して  
必死に剣を振ってきた。  
 だが、ある日ふと、唐突に手紙の返事が途切れた。  
 何があったのかと不安に思い、だが、それと同時に、ずっと恐れていた一つの可能性を  
考えずにはいられなかった。  
 誰か、他の男を愛したのではないかと。  
 幼い日の約束が煩わしくなったのではと。  
 そう思うと恐ろしくて、手紙の返事が来ない日が続けば続くほど、ロザリーに会いに  
行く事が出来なくなっていった。  
 フロージアに出会い、だが、それでもロザリーを想い続けたフィリクスを、フロージア  
は平然と愛し続けてくれた。  
 きっと、ロザリーは他の男を愛したのだろう。  
 別の誰かと幸福になったのだろう。  
 そして、フィリクスはフロージアを愛したのだ。  
 ロザリーはずっと待っていたのに。フィリクスのことを疑いもせず、手紙などなくても  
ずっと、待っていてくれたのに――。  
「フィル。そこにいたのね」  
 寒そうに声を震わせながら、白いドレスをひらめかせてフロージアがフィリクスの前に立った。  
 困ったように首をかしげ、フィリクスの腕に視線をやってまぁ、と口元に手を当てる。  
「大変。お医者様に見せないと」  
「――裏切っていたのは私の方だ」  
 抱き起こそうと屈んだフロージアに、フィリクスは震える声で囁いた。  
 え、と、フロージアが動きを止める。  
「フィル。あなた、泣いてるの?」  
「信じていてくれたのに、信じられなかった。待っていてくれたのに、迎えに行く勇気も  
なかった……!」  
 あらあら、呟いて、フロージアがそっとフィリクスを抱き寄せる。  
「そう。あの子が、あなたの言っていたロズだったのね」  
 ロザリーと名乗ったから、わからなかったわ、とフロージアが溜息を吐く。  
「その上私は……おまえまで、裏切って……わたしは……!」  
「いいのよフィル。二番目だって構わないって、言ったじゃないの。一番好きな人が目の  
前に現れたら、誰だってそっちを見るわ。私は、子供みたいに正直で、自分に嘘がつけな  
いあなたが好きよ」  
 だからほら、と促され、フィリクスはようやく立ち上がった。  
 激痛が腕を焼く。  
 幸福であると思っていた。迷惑でなければ、ロザリーが幸福に笑う姿を見てみたいと  
思った。夫はどんな男か、子供はもういるのか、想像するたびに苦しくて、それでも  
ロザリーの幸福を想像することが喜びだった。  
 それが――ロザリーは戦場の鬼の護衛として現れた。  
 剣に生きる事にしたのだと、手紙など受け取っていないと、ロザリーは平然と、さも  
当然のように言ったのだ。  
 憎かっただろうに。自分を裏切った男の幸福を目の前にして、唾を吐きかけたかっただ  
ろうに、それでも、ロザリーは友人として、笑顔を見せてくれたのだ。  
 自分は約束など覚えていないと。  
 だから、なにも気にするなとでも言うように。  
「奪い返す力も……私にはなかったんだ」  
「そうね。奪うのは、守るよりもずっと大変ですものね」  
 さらさらとした手袋で、フロージアがフィリクスの涙を拭う。  
 でもね、と言い聞かせるように、フロージアは微笑んだ。  
「奪おうとする男がいて、その男に奪われたいと本気で願ったら、女は力づくでも奪われ  
にいくものよ」  
「……私は、力ずくで跳ね除けられた」  
 くすくすと、肩を揺らしてフロージアが笑う。  
「ふられちゃったのね。頭がいい人。こんな最低の人でなし、普通の人なら愛すれば愛す  
るほど傷ついてしまうわ」  
「私は……! 私はただ……」  
「優柔不断で、未練ったらしくて、諦めが悪くて、思い切りが悪くて、ひたすら頑固で、  
我が侭で、さんざん人を振り回して傷つけるくせに、人を傷つけるのを怖がる臆病者」  
 
 ついと、豊かな黒髪を耳の後ろに流し、フロージアが優しく微笑んだ。  
 そして、ほっそりとした指でフィリクスの傷を撫でる。  
「いいきみ」  
 ふふ、と、フロージアが笑う。  
「言ったでしょう? あなたは騎士には向いていないわ。優しすぎるもの。それでも、故  
郷にいる幼馴染に恥ずかしいからって、頑張って騎士になったのに、その人を裏切って、  
逃げられて、ばかな男ね。ばかな人」  
「フラウ……」  
「グラッド卿は素敵な方よ。一途でまっすぐで、ひねくれ者でとても強い。約束を取り付  
けるのは難しいけれど、守らなかった約束は一つもないというわ」  
 あなたより、ずっと上級な男よ。優良株なんだから、と、フロージアはからかうように  
フィリクスの耳に唇を寄せた。  
「だからあなたは、罪悪感よりも嫉妬心に身を焼きなさい。うらやましいってダダをこね  
るあなたを眺めて、私は毎日をすごすから」  
「それじゃあまるで……私は道化師だ」  
「あら、だってお姫様を助けにいって、そのお姫様に打ち負かされたんでしょう?」  
「見ていたのか」  
「女のかんよ」  
 笑って、フロージアはフィリクスに口付けた。  
   
 
               ***  
 
 
 部屋に足を踏み入れるなり顔面めがけて飛んできた果物ナイフに、グラッドはさすがに  
苦笑いも浮かばず閉口した。  
 木製のドアに突き立った果物ナイフには、ロザリーの殺意がありありと見て取れる。  
「俺は選択肢を与えたぞ」  
 言って、グラッドは果物ナイフを引き抜いて後ろ手にドアを閉めた。  
 ボロボロになった赤いドレスを纏ったまま、ベッドに身を伏せて泣いているロザリーに、  
ゆっくりと歩み寄る。  
「男より剣を取ったのはおまえだ。おまえが――俺を選んだんだ」  
「君なんか選んでない」  
 すぐさま、鋭い否定が入る。  
 あぁ、そうかよとはき捨てて、グラッドは果物ナイフをもてあそびながら柔らかな  
ベッドに腰を下ろした。  
「フィルは僕を切るのを怖がってた……」  
「あぁ、とんだ腰抜けだ」  
「あんなふうにたきつけて! あんなふうに戦わせて! あんなふうに傷つけて! あん  
なことしなくたって、僕は逃げたりしなかった。君に仕えるって決めたんだ! 裏切った  
りしなかったのに!」  
 叫んで身を起こしたロザリーは、グラッドの襟首を捻り上げて荒々しく食らいついた。  
 涙で化粧の落ちた顔が滑稽で、思わずグラッドは吹き出してしまう。  
 グラッドの瞳に映った自分の姿に気がついたのか、ロザリーは顔を真っ赤にして  
グラッドの頬をひっぱたいた。  
「出てってよ! もう! 君なんか嫌いだ! 大っ嫌いだ!」  
 また、ベッドに顔をうずめて黙ってしまう。  
 その、大きく開いたドレスから覗く白い肌に、グラッドは果物ナイフの切っ先を滑らせた。  
 びくりと、ロザリーが肩を震わせる。  
「動くなよ。傷がつくぞ」  
 言って、グラッドは刃物の切っ先でドレスの肩紐部分を切り裂いた。  
「――パーティー会場で、話しかけていたヒゲ面な。腕利きの護衛を雇ってから、やたら  
と決闘沙汰を起こしてるんだ」  
 シーツを掴んだままぴくりとも動かないロザリーの背に、再びナイフを滑らせる。  
「決闘を挑んだり、挑まれるように相手を煽ったりと、やりかたは色々だがな。前々から、  
俺とウィリアムに目をつけてやがる。俺達のどちらかに勝てば、そりゃあそれだけでたい  
そうな名誉だからな。おまけに、俺に命令できる権利付きだ」  
「……我慢してたの?」  
「俺はあの手のゴシップは反吐が出るほど嫌いでな」  
 
 ぶつん、と、もう片方の肩紐もナイフで切る。  
 ドレスの背を編み上げる紐をナイフの切っ先で解きながら、グラッドはロザリーの  
すべすべとした背中に唇を落とした。  
 ぺろりと、舌を出して軽く舐める。  
「やだ……」  
「動くな」  
 逃れようと身を捩ったロザリーを押さえつけ、紐の緩んだドレスの背を大きく開く。  
 その、肌とドレスの隙間に指を滑りこませ、グラッドはすべすべとしたわき腹をなでさすった。  
「あの男に唇を許しただろう」  
「……酔っ払ってるの?」  
 お酒のにおいがする、と、ロザリーが震える声で呟いた。  
「そうだな。少し酔ってる」  
「だから……僕を抱くの?」  
 だから――には、繋がらないだろう、この場合、とグラッドは苦笑いを浮かべた。  
「嫌か」  
「……お好きに。閣下」  
「は……これだよ。ひでぇ女だな、ったく」  
 笑って、グラッドはロザリーから手を放した。  
 その代わり、ベッドに突っ伏しているロザリーの手をとって、無理やり膝の上に抱え上げる。  
 完全に怯えきり、今にも泣き出しそうな少女の顔があった。  
 そんなにも恐ろしいなら、嫌だと、はっきり言えばいい。その方がずっと、投げやりに  
差し出されるより奪いやすいと言うのに――。  
「好きなだけ他の男にかまけりゃいいさ。好きなだけ剣を振り回せ。だがなロズ。俺は何  
があろうとおまえを手放さねぇぞ。百人の男に傷つけられて、百戦の果てに戦に飽きたら、  
剣を捨てて俺の妻になれ」  
 ロザリーの震える唇に自らの唇を押し付け、グラッドはその幼い唇を味わうように  
甘噛みし、緊張してがちがちに固まった舌を絡めるようにそっと誘い出した。  
 こうやるんだと教えるように、根気よく、じっくりとロザリーの緊張をほぐしてやる。  
「それまでは、これで我慢してやる。唇や指でおまえに触れても、純潔は奪わないと  
誓ってやる。例えおまえが他の男で純潔を散らしても、俺はおまえが心から頷くまで決して  
お前を汚さない」  
 耳たぶ、頬、ほっそりとした首筋に、真っ直ぐに伸びた鎖骨。  
 順々に舌を這わせて甘噛みし、グラッドはもう一度、ロザリーの唇に口付けた。  
   
 
              ***  
 
 
 翌日、フィリクスとフロージアの挙式は滞りなく行われ、二人はその足で、湖のはずれ  
に建築したという二人の新居へと旅立っていった。  
 招待客にはその後も酒や料理が振舞われ、ロザリーたちも、呼び集められた芸人たちが  
自慢の芸を披露するのを楽しんで眺めていた。  
 芸人など見た事がない田舎育ちのロザリーは瞳を輝かせてそれを喜び、ウィリアムと  
グラッドはその姿をほのぼのと眺めながら、たまには遠出も悪くないなと頷きあった。  
 ふと、一人の道化がロザリーに歩み寄り、おどけた調子で一輪の花を差し出した。  
 そして、また飛び跳ねるようにして差って行く。  
 注目を浴びて恥ずかしそうに顔を赤らめ、ロザリーは花を手にしたままおろおろと  
グラッドたちのところにかけ戻った。  
「どうした。もう見なくていいのか?」  
 ゆったりと椅子に腰掛けながら、グラッドが笑う。  
 うるさいな、どうでもいいだろ、とぼそぼそと呟きながら花をもてあそび、ふと、  
ロザリーは花びらの中を覗き込んだ。  
「……なんか入ってる」  
 花びらの中に指を突っ込み、引っ張り出す。  
 するとそれは小さく畳まれた紙切れで、ロザリーはこれでもかと言うほどなんども折ら  
れた紙を苦労してもとの形に戻し、うわ、と呟いて後方の道化師に振り向いた。  
「手紙だ」  
 
「道化師からか?」  
「えーと……フラウさんから」  
 誰だ、そりゃ、とグラッドが顔を顰める。  
 ロザリーはひょいと肩を竦めて見せ、直後にフロージアの愛称を思い出して戦慄した。  
 意識せずに唇を紙、緊張した面持ちで文面に目を落とす。  
「で? なんだって?」  
 聞かれて、ロザリーは意味不明なものを見た時に人がそうするように、困惑して吹き出した。  
 グラッドがますます眉間の皺を深くして、ロザリーの手から手紙を奪う。  
「なんだ、こりゃ」  
 まったく意味が分からないと、グラッドは手紙をウィリアムに押し付けた。  
 無論、ウィリアムにもその意味が分かるはずなどない。  
 
 ずっとおまちしていましたのに、ダンスに誘ってくださいませんでしたわね。  
 私の心はあなたを想い、千千に乱れて夜風を彷徨っておりました。  
 あなたとおしゃべりをしたくて、私は夜もろくに眠れませんでした。  
 つきましては、私の新居にあなたをお招きしたく存じます。  
 来てくださらなかったら、私から押しかけてしまうかもしれませんわ。  
 いつでも、あなたのお好きなときにいらしてくださいね。いつでもおまちしています。  
 追伸・八針も縫いましたわ。感動したので、私とお友達になってください。  
 
「恋文ですか……?」  
 八針? 縫う? と、ウィリアムが首をかしげる。  
 たまらず、ロザリーは吹き出した。  
「ウィリアム。フロージア様って変な人じゃない?」  
「はぁ……? いえ、そういう噂は聞きませんが……」  
「だと思った。うわぁ、都会って怖い」  
「おい、怪文のせいでロズが壊れたぞ」  
 なんとかしろ、とばかりにウィリアムを睨むグラッドに、ご自分でどうぞ、とウィリアム  
が嫌そうに顔を顰める。  
 抜けるように青い空を見上げて、ロザリーは眩しさに目を細めた。  
「お幸せに」  
 心から、本当に心からそう願う。  
「よっしゃ! 僕も幸せになるぞぉ!」  
 両腕を空に突き上げて、ロザリーは叫んだ。  
 くすくすとさざなみのように笑いが広がり、私の愛人にしてあげるわよ坊や、と、  
どこかで妖艶な声が上がる。  
「よしわかった。それじゃあ早速城に帰って婚姻の準備を――」  
「そんなわけでウィリアム。今度いい人紹介してね。出来れば粗野じゃなくて乱暴じゃな  
くて出会った初日に人様の服を引き裂かない優しい人がいいな」  
 身を乗り出しかけたグラッドを無視して、ウィリアムににこにこと笑いかける。  
 堪えきれずに思い切り吹き出し、ウィリアムは肩を揺らして苦しげに腹を抑えた。  
「ロズ! てめぇ――!」  
「好きなだけ他の男にかまけていいんでしょ? 十年分の恋を取り戻すんだもんね」  
 もうだめだ、とばかりに、ウィリアムが声を上げて大笑いをはじめた。  
 なんと、ウィリアムが笑っているぞと、どこかで恐怖に戦慄した声が上がった。  
 今夜は嵐か、いや吹雪か、と囁き合う声がする。  
 
「なんなら、ウィリアムが恋人になってくれてもいいよ。先輩護衛と交配の恋。なんだか  
恋愛小説みたいじゃない?」  
「いえ、私は故郷に妻がいますので――」  
 え、と、ロザリーが硬直する。  
 去年子供も産まれたんですよ、と人差し指を突きたてる。  
 だが、叫んだのはグラッドだった。  
「聞いてねぇぞウィリアム! てめぇ、主君を差し置いてよくも――!」  
「閣下が三十も過ぎて妻を娶らない悪いんでしょう!」  
「よぉしわかった! ロズ! 今すぐ城に戻って式の準備だ! 男遊びは俺と婚姻を結ん  
でからにしろ!」  
 遠巻きに見守っていた人々が、グラッドの宣言にどよめく。  
 おお、ついにあのグラッド卿が――と囁く隣で、だが、あれは少年ではないのかと息を  
呑んだ。  
 はっと、昨晩と同様に、自分に視線が集まり始めるのをロザリーは意識した。  
「あら! よく見たら昨晩の赤いドレスの子じゃない!」  
「なんと! 装いをかえるだけでこんなにも印象が変わるのか……!」  
「ちょ、ちょちょ! ちょっとまって、待ってください! 違うんです! 僕はただの  
護衛で――!」  
 ぽん、と、ウィリアムがロザリーの肩を叩く。  
「招待客は貴族を含む名士百人――明日にはきっと、祝いの品が山のように届くでしょう。  
こうなったら、もはやどうにもなりません」  
「そんな……だって、そんな……!」  
「約束は約束だからな。初夜は後回しでいい」  
 それならば構わんだろうと、グラッドが鼻を鳴らす。  
 おめでとう、おめでとうと、口々に言い合いながら、あちこちでグラスを合わせる音が響いた。  
 ぐらりと、眩暈を覚えてふらふらと後退する。  
 割れんばかりに鳴り響く拍手のなか――ロザリーは声の限りに絶叫した。  
 
 

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