あれ、段々と頭が……朦朧としてきた。  
不快感は無い。むしろ体がふわふわ浮いているような心地良い感じがする。  
「空白の拷問」から解放されて安心した反動だろうか……  
ああ、今まで何も感じなかった鼻にも、何か、いい匂いがする……  
……意識が……遠くなってく……。眠いんだろうか……。  
ああ、豚が……交尾してる……気持ち良さそうに……。  
豚……ぶた……ブタの、なきごえ……  
ブゥ……交尾……ブヒ、ぶた、ぶた……  
ブタの、におい……ブヒ ブギ ブゥ ブゥ……めす、ブヒ、めすぶた、こうび、ブゥ  
はつじょう ブゥ ブゥ こうび めす ブヒ ブギ フゴ ブゴ  
ブヒ ブヒ ブギィ もう、ねむい ブゥ ぶた   
おやすみなさ        ブヒィ  
 
 
はっと眼が覚めた。なんだか酷い夢を見たような気がする。  
敗北して捕らえられて拘束され、意味不明な動画と音声責めにされたことも夢ならば良いのだが……  
と思ったが、依然として体は動かないし、豚の交尾や鳴き声を見ている途中まではリアルな記憶が残っている。  
残念ながらそれまでの事は夢では無さそうだった。  
しかし、何か寝る前と眼覚めた後で違和感が……と考えて気付く。  
目の前のモニターが……ヘッドマウントディスプレイが無い。  
開けた視界。広そうな部屋。しかし、そこは地下室なのか、窓一つ無くかなり暗く、結局周囲の様子はほとんどわからない。  
ただ……  
「お目覚めのようブヒね」  
視界の中心に人影があった。……いや、それを「人」影と言っていいものなのか。  
二足歩行、基本的な形は人間に近い。  
しかし全身を覆う獣毛が、正面に突き出た鼻が、大きく広がった耳が……それが人間ではないことを如実に表している。  
「……ボアル、か」  
「『将軍』か『様』を付けるのを忘れてもらっては困るブヒね」  
マイクを付けているのか、目の前に立つ二足歩行の豚が鼻を鳴らす音が耳元のイヤホンで響いた。  
 
ボアル将軍……最近台頭し、俺達が当面の敵として対処している怪人組織、秘密結社シュバルツクロイツの上層部、  
組織内では四天王と呼ばれているらしい位置に居る一人……いや、一体。それがこいつだ。  
怪人と一口に言われる中でも、人と動物の中間の特徴を持つ「獣人」と呼ばれる種類。  
その獣人で構成された軍隊を指揮するボアルもまた獣人であり、  
自身もかなりの戦闘能力を有する……という情報を諜報員からの情報で聞かされていた。  
実際に何度か目にしたこともあり、その時はことごとく逃してしまっただけでなく、  
逆に奴のおかげで幾度か窮地に立たされたことも有り、  
少しコミカルですらある外面に似合わぬその恐ろしさはよく知っている。  
丸腰どころか拘束されているような状況でそんな奴と向かいあうのは  
かなり不利……を通り越してどうしようもない事態ではあったが、  
だからと言って弱気になればつけ込まれるだけだ。  
「それは失礼。……ボアル……『自称』将軍」  
虚勢ではあるが挑発的な俺の言葉に、ボアルは不愉快そうに鼻を鳴らした。  
「将軍」を自称してはいるが、正式な軍として組織されているわけではないこの結社の構成員には  
格式的な階級が厳密に定められているわけではないらしい。  
それでも将軍を名乗るのは、肉体同様に肥大したボアルの自尊心がそうさせているのだろうか。  
上級将校が着るような豪奢な礼服に、派手な宝石の飾りや重々しい勲章が散りばめられている、  
という格好からもその傲慢さは見てとれる。  
ただ、元が人間サイズの服なのか、でっぷりとしたボアルの体型には合わず、  
袖が根元からばっさりと切り捨てられていて、さらに服の前面を大きくはだけている。  
下も似たようなもので、布地は太腿の上までしかなく、腰の前で留めるはずのボタンも外され、  
かなり長めのベルトで辛うじてずり落ちない程度に引っ掛かっている、といった風体だ。  
開いたズボンの前から下着らしき布地まで見えている。ほとんど半裸と言って良いような姿だった。  
 
「ブフン、まあいいブヒ。そんな軽口はすぐに利けなくなるブヒ。ブフフフ」  
ボアルは懐から大きめの手袋を取り出し、口の端に咥えてヒヅメ状の右手をその中に器用に通す。  
手を軽く振ると、中にちゃんとした人の指が入っているかのように手袋の五指がわきわきと動いた。  
人類が知略の限りを尽くしても獣人や怪人を簡単に根絶できない理由の一つがこの高度で不可思議な技術である。  
いかなる高性能のセンサーやソナーを総動員して  
電子観測網で世界中を走査しても本拠となる施設・秘密基地は見つからず、  
大規模な輸送をしている気配すら悟られずに大量の戦闘員が姿を現し、  
時には質量保存則を無視して巨大化する怪人さえ居る。  
現代科学の限界を超えたこの解析不能な技術や能力は何処からもたらされたのかも不明で、  
怪人や獣人に固有の、超能力か魔法とでも言うべき力なのではないか、という説すらある。  
その説を馬鹿馬鹿しいと一笑に付すことはできない。  
元を正せば、怪人そのものが一体何処から歴史の表舞台へ現れたのか、  
という最大の謎さえ未だ明らかになっていないのだから……。  
 
「何を……するつもりだ」  
左手にも手袋をはめ、動作を確認するように怪しく指を蠢かせるボアルの不気味な笑みを前に俺は言う。  
「わざわざ生かしてここに連れてきた、ってことは何か用件があるんだろうな。  
 色々喋ってもらいたいのかも知れないが、そう簡単に喋るつもりはないし、  
 拷問されるくらいなら死を選ぶぞ」  
不安を紛らわすように語る俺。声が震えたりはしていないが、普段よりほんのわずかに早口ではあったかも知れない。  
自分の命が人質代わり……というのは分の悪過ぎる賭けではあるが、他にとれそうな手段も無い。  
こう言って「じゃ死ねば?別に構わん」というような扱いに出るほど俺の価値が軽視されているというのなら、  
どの道、適当に情報を引き出された後には用済みとなった俺は殺されるだけだろう。  
拷問の苦痛を味わうくらいなら一瞬で楽になりたいというのも本心ではある。  
舌を噛み切るくらいはできると思う。口を塞がれるかも知れないが、  
喋る仕草を見せれば、相手としては口を自由にしないわけにはいかないだろう。  
あるいは死んでも行き先が地獄で、閻魔か何かからの更なる責め苦に合うことになるかもしれないが……。  
だが、ボアルはそんな悲観的な覚悟を決めつつある俺を鼻で笑った。  
「ブフッ、拷問? そんなもの必要無いブヒ。オマエは自分から俺達に協力せずにはいられなくなるブヒヒ」  
「何?それはどういう――」  
予想外の発言に困惑しつつ聞き返そうとする俺、だが、聞き覚えのある声がそれを遮った。  
「うふふ……そんなに心配しなくてもいいのよ。『リーダー』」  
後ろから誰かが歩み寄る気配。首を回せない俺にはそれが何者なのか最初わからなかったが、  
俺の傍らを通り過ぎ、視界の中に現れた姿を見て驚愕した。  
「ピンク……!? 生きてたのか!」  
数ヶ月前の戦闘で建物の崩落に巻き込まれ、そのまま消息不明となっていた女性隊員。  
ピンクという呼び名はもちろん本名ではない。スーツの色がピンクなわけでもないが。  
ピンク色のアクセサリーや小物にこだわり、制服や出動時の強化服にまでそれらをあしらっていて、  
迷彩効果などが低下するからやめろと注意されても頑なにそれを拒み続けたことから、  
いつしか「ピンク」が彼女のニックネームとなった。  
頭は悪くは無いのだがどこか子供っぽく、明るく無邪気なその性格は俺達の戦隊のムードメーカーで、  
……だからこそ彼女を失ったあの事件は俺たちにとって大きな衝撃だった。  
死体こそ見つからなかったが、あの状況では誰が見ても生存は絶望的で、  
地下や下水まで巻き込む大規模な崩壊だったので遺体がロストしてもおかしくない、という結論になり  
誰もが悲しみつつもその死亡を疑わなかった。  
俺の心も激しく痛み、事件直後は大いに荒れもしたが、それを怪人に対する怒りに変え、戦ってきたのだ。  
それが何故、こんなところに……。  
しかも……一糸纏わぬ姿で。  
 
「ボアル様に助けていただいたのよ」  
「ボアル……『様』!?」  
その言葉が真実なら確かに命の恩人として感謝してしかるべきかも知れない。  
俺だって彼女が生きていたこと、彼女が救われたことに少しは感謝したいくらいだ。  
だが、彼女の言葉の響きはそんな程度なものとは明らかに異質だった。  
今まで死闘を繰り広げてきた相手との和解、それだけでも本来なら実現し難いはずだ。  
彼女の声音にはそれどころか、畏敬、いや、崇拝にすら近い感情がこもっていた。  
「ええ……ボアル様はそれだけでなく、私を助けてくれただけでなく……素晴らしいことをしてくれたの」  
うっとりとしているような視線でボアルを見つめ、語るピンク。  
「素晴らしいことだって……?」  
「そう、とても素敵なこと……知らなかった世界に私を目覚めさせてくれたの……」  
かつて様々な髪型を作り出していたピンク色のリボンは今は無く、  
下ろした髪と潤んだ瞳の内には、童女を思わせるような以前の彼女のあどけなさは鳴りを潜めていて、  
恍惚を含んだ吐息は妖艶ささえ漂わせていた。  
「それで、私はボアル様についていくことに決めた……。  
 その素敵なことを、リーダーにもしてあげる。きっとリーダーも気に入るわ。  
 だから……ね? ボアル様達の……私達の仲間に、なりましょう。リーダー」  
「そうブヒ。悪いようにはしないブヒよ?」  
……なるほど、なんとなく状況が掴めてきた。恐らく……彼女は洗脳されているのだ。  
いや「洗脳」と言う表現は言葉が悪いし、一方的に決め付けるのもなんだが、  
彼女がボアルに心酔してボアルを全肯定してしまうような「何か」をされたのは事実なのだろう。  
そして彼女を使って、元の仲間である俺を説得、あるいは篭絡できればそれで良し。  
できなかった時は、彼女に行ったのと似たような「勧誘」を俺にも行う……そういう目論見だろう。  
だが……どんな手段を使われようと、自分が心を強く持っていれば恐れることは無いのだ。  
まして、  
 
『その手の洗脳手段は、本人が洗脳されていると気付かぬうちに施してこそ』  
 
なのだから、俺が狙いを看破してしまった今、本来の効力の数割も発揮できないはずだ。  
 
 
俺は余裕を取り戻し、苦笑混じりの溜め息を一回吐いてから、  
「……駄目だ。ピンク。そいつらの仲間になるなんて、それは有り得ない」  
自分自身に言い聞かせるように、相手に付け入る隙を与えないように、断言する。  
「どうして? どうして、『仲間になれない』と、そう思うの?」  
ピンクは俺に問いかけ続ける。悪いがピンク、それは無駄な努力だ……。  
「当たり前だ。そいつは怪人、獣人だ。ケダモノで、豚なんだから。俺達とは違う」  
正直、俺は種族そのものを嫌悪や蔑視しているわけではないが、  
今は「俺達と奴らは違う」ということを明確にするために、敢えて悪し様に表現する。  
「……じゃあ、あなたは何だって言うの? 獣人や豚とは違うあなたって、『何』?」  
悪あがきにもなっていないと思えるような、当たり前の答えしか出ない問いを放つピンク。  
いっそ哀れも思えてくるが、俺ははっきりと答えてやる。  
「聞くまでも無いだろ? 俺は――」  
――俺は、人間だ――  
 
「俺は、豚だ」  
……え?  
人の言葉にかぶせて別のことを言う程度の低い悪戯か、と一瞬思ったが、  
今の言葉は間違いなく俺の声で、俺の口から出た言葉で。  
「……今、なんて言ったのかしら? もう一度言ってみて?」  
「ブヒヒヒッ! 今度は『言い間違え』ないように、大きな声ではっきりと言うブヒ!」  
……そうだ。言い間違いに決まっている。嫌な汗をかきながら、俺はもう一度口を開いた。  
――俺は、人間――  
「俺は、豚……ッ!?」  
――人間、にんげん、ニンゲン!――  
「豚、ぶた、ブタぁっ!?」  
混乱する俺を眺めながら、目の前の二人、いや一人と一匹は冷ややかに笑っていた。  
「なんだ、あなたも豚だったんじゃない。なら仲間になれないなんて事ないでしょう? 同類なんだから」  
「ブヒハハハ! 歓迎するブヒ! 新入りの豚くん! ブーヒッヒヒ!」  
……なんで、どうして、こんな……?  
くらくらしてきた頭が完全にパニックになるのをどうにか抑えつつ、考える。  
こうなったのには原因があるはずだ。何があった? 何が変わった? 何をされた?  
……何をされたか、と言えば……  
今さっき目覚める前、そのまた前の眠りにつく前の一連の……!  
「……まさか、サブリミナルか!」  
思い至った一つの事象を口に出した俺の言葉に、ボアルがチッと舌打ちした。  
奴は舌も口も大きいので、より正確に言うならチッと言うよりベッとかブヘッとかそんな感じだったが。  
「ブヘッ……察しがいいブヒね。つまらんブヒ。  
 自分に何が起こってるのかも分からずに、恐怖と混乱で泣き叫びながら精神を疲弊させていき、  
 自分から泥沼に嵌ってどんどん侵食されていくのを見るのが面白いのにブヒ……」  
「ふふふ、私がして頂いた時は、丁度そのような感じだったのですよねボアル様。  
 ボアル様を楽しませることができたのなら、幸いです……」  
正常な思考を奪われたピンクの姿に心が少し痛むが、まず必要なのは冷静に判断することだ。  
「やはり、あの動画や音声に何か仕込まれてたのか……」  
「ブフフン、その通りブヒ。動画数百コマにつき一コマずつ紛れ込ませた、時間にして六十分の一秒も表示されない一瞬の画像。  
 大音量で流れる豚の鳴き声の後ろに、小さなボリュームで忍ばせた暗示音声と、  
 可聴領域を僅かに下回り催眠状態を誘発する低周波……エトセトラエトセトラ、ブヒ。  
 有意識下では知覚も認識もできないブヒねぇ。でも無意識下には強くつよーく訴えかけていたブヒ。  
 ……『オマエは豚だ』とねブヒヒーッ!!!」  
高らかに鼻を鳴らしながら得意げに話すボアルに、ピンクが首をかしげる。  
「あら……よろしいんですかボアル様? トリックであるとバレたからと言って  
 わざわざタネを懇切丁寧に説明してあげることなどないでしょうに」  
「構わんブヒ。大体、知ったところで何ができるブヒ?」  
……そう。状況は最悪だった。  
 
『その手の洗脳手段は、本人が洗脳されていると気付かぬうちに施してこそ』  
 
……まんまと……やられた……  
「そう。もう、手遅れブヒ」  
 
 

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