今日は辛口の白ワインの日、と琴子が言ったので、僕は少し悩んで今日の料理を決めた。  
 生ハムのサラダと豆のポタージュスープと、ペスカトーレ。  
 クラッカーとチーズを用意して、適当な野菜を乗せた数種類のカナッペ。  
 よし、これで行こう。  
 学生時代にちょっとした洋食屋でバイトした経験が役に立っている。  
 
 野菜を切り終えたころに、琴子がワインを2本片手にやってきた。  
 
 サラダとカナッペの制作を彼女に任せて――やっぱり盛り付け類は女のひとのほうが上手だ――湯を沸かしながら、砂抜きしたあさりを洗っていかをさばく。  
 その手つきを、琴子が感心したように覗き込む。  
 べつに魚を三枚におろしてるわけじゃないんだし、そこまで驚かなくてもいいのにな。  
 はらわたは触れるけどゲソの吸盤がイヤ、と主張する琴子をからかいながら、下準備を終えた。  
 沸騰した湯の中にスパゲッティを放り込んで、ぐるぐるとかき回す。  
 店長が「麺類は愛を持って接しないとだめだ」と口酸っぱく言っていたなと、麺をゆでるたびに思い出す。確かに、頻繁にかき回してやると味が全然違うように思えた。  
 フライパンにオリーブオイルを流し込み、強火で少々。つぶしたにんにくを浮かべると、すきっぱらに心地よい芳香が漂う。  
 火を弱めて、赤唐辛子を淹れる。フライパンを耳障りな音を立てながらゆする。  
 ゆで汁を少々加えて、にんにくと唐辛子を抜き出した。  
 
 あさりと白ワインを豪快に流し込んで、蓋をする。  
 この蒸している瞬間が、僕は結構好きだったりする。  
「要って、パスタ上手だよね」  
「まあね。女の子はパスタで落とせって言うじゃん?」  
「……聞いたことない」  
 琴子が落ちてくれるんだったら何でも作るよ、と恥ずかしいセリフがよぎったけど口にはせず、蓋のガラス窓からあさりの様子を伺った。  
 ほんとうに伺いたかったのは、琴子の様子だったけど。  
 
 口をぱかんと開いたあさりは、開けっぴろげで素晴らしい。僕はなぜかわくわくする。  
 スプラッタなイメージの強い、つぶしたホールトマトをまぶして、水分が飛ぶまで煮詰めればソースは完成。  
 スパゲッティが茹であがる直前に、いかとむき海老を加えてさっとゆがいて、キッチンタイマーとにらめっこ。  
 ぴぴ、とけたたましい音を立てたらすぐにタイマーと火を止めて、ざるに上げた。  
 ざっと水気を切ったそれを、ソースの煮えたフライパンに放り込んで絡める。  
 
 あとは皿に盛ってめでたく完成。  
 サラダとカナッペはすでにテーブルに並んでいたし、初めて作ったポタージュスープもいい感じにぐつぐつと音を立てていた。  
 
 料理は二人ですると何倍も楽しい。  
 それが、琴子と酒を飲むようになって知った一番の収穫だった。  
 
 ワインの栓を抜くのは僕の仕事だ。  
 一度琴子に任せたら、コルクをボロボロにしてしまって辟易した。  
 そんな難しい仕事でもないはずなのに。  
 それ以来、幾度琴子が申し出ても頑なに断らせていただいている。  
 ちなみに琴子はワインを注ぐのも苦手だ。しっかりと液だれを起こす。だからそれも僕の仕事。  
 申し分ない役割分担だ。  
 まるで、何年もそうしてきた夫婦のよう。  
 僕がこうやって甘やかすから、彼女はいつまでたってもワインの栓が抜けないまま。  
 
 琴子が僕へのおみやげにどこかで買ってきた、ぶどう柄のワイングラスにきんと冷えた白ワインを注ぎいれた。  
「じゃあ、」  
 二人でグラスを持ち上げる。  
「乾杯」  
「乾杯」  
 かちん、と涼しげな音を立ててぶつけたグラスを、ぐいとあおる。  
 爽やかな渋みと酸味が舌の上で広がって、でもそれが喉を通ると不思議と甘くフルーティ。  
 ワインの味なんてほんとうはよく判らないけど、これは飲みやすくて美味しいと思った。  
 どう、と目で問う琴子に、美味しいと伝えると、アーモンド形の目を細めて嬉しそうによかった、と笑った。  
 
 カナッペをほおばりながら、スープを吹き冷ましながら、スパゲッティをフォークにくるくる巻きながら、僕らは取りとめもなく話し始める。  
 
 僕の話題は、隣の席の川上さん。  
 5つ年上の川上さんは32歳独身、大人しくて控えめで、でも仕事は速くて正確だし、たまの主張は的確で重みがある。  
 どんなに忙しくても、理不尽な欲求にも腹を立てたりせずに淡々と仕事をこなす。  
 まさしく絵に描いたような「エンジニア」である。  
 
「川上さんは絶対にプライベートを語らないんだ。  
 昼にさ、食事しながらぐだぐだ話したりするじゃん。プラズマテレビを買ったとか、  
 奥さんと喧嘩したとか、子供の誕生日でとか、そういうどうでもいい世間話。  
 川上さんはね、人の話を聞いて笑ったりはするけれど、自分の話をしないひとなんだ。  
 前は寮に入っていたから、一人暮らしだとは思うけど、夕飯はどうしているのかとか、  
 休日は何をしているのかとか、家族や彼女はいるのかとか、誰も知らないんだ」  
「えー、そんなのどうなんですか、って聞けばいいじゃない?」  
「前に聞いたんだよ。そしたら『いや、別に』としか言わないんだ。会話がそこで終わっちゃってさ、妙な空気で気まずかったね。  
 川上さんは言いたくないのかも知れないしさ、聞けないよね」  
 そうだねえ、と琴子が神妙に頷く。  
「聞けないとなると知りたくなる。  
 たまに川上さんがいない昼休みは、みんなであれやこれや憶測をして楽しんでるんだ。  
 上司がさりげなく尋ねたり、新人にほら聞け、と突撃させたりするんだけど、  
 やっぱり応えは『いや、別に』なんだよ。  
 上司までかわせるあの手腕はすごいよ。ほんと徹底した秘密主義。  
 あんなひと初めて出会ったし珍しいよね」  
「そうだよねぇ。聞かれたら答えるよね、普通」  
「でさ、その川上さんに彼女が出来たんだ」  
「えっ、なんで要がそれ知ってるの?」  
「それはね、その彼女っていうのが取引先の女性社員だから。若いよー20歳」  
「12も年下? 川上さんやるね」  
「やるでしょ。でね、僕もその子とちょっとやりとりがあるからさ、聞いてみたんだ。  
 休みの日、川上さんは何してるの? って」  
「うんうん」  
 
 琴子の瞳が期待に丸くなる。  
 僕の舌はますます軽快に滑り出す。  
「そしたらその子『何もしてませんよ? たまにパチンコに行くだけみたいです』だって。  
 実は川上さんにヒミツはありませんでした」  
「なにそれ。酷いオチ」  
「まだ続きがあるんだ。その子がね『あのう、私たちのことって、そちらの皆さんもうご存知なんですよね?』って聞くんだよ。  
 僕が『そうですね、公然のヒミツってヤツですね』って答えたら、お願いがあるんですけどって言われて驚いた」  
「お願い? 要に?」  
「そう。何ですかって聞いてあげたら、『川上さんに、皆さんが知ってるって言わないでください。  
 あのひと、誰にもばれてないって信じてるみたいだから……』だって。これ食べる?」  
 クラッカーにチーズとサーモンマリネを載せて、琴子に差し出す。  
「食べる」  
 あろうことか琴子は、それを直接僕の手からかじり付いて奪っていった。  
 なんて、猫みたいなやつ。  
 小動物のようにくちをもぐもぐとさせながら、目線だけでそれで、と問う。  
「ああ、えーと。そもそもさ、会社同士の親睦会で、隣同士楽しそうに話してたし、番号交換したのも全員知っているし、  
 川上さん最近見たこともないぐらい浮かれているし、  
 仕事で電話してるときはさすがに普段どおりだけど、話し始めは緊張してるしさ。バレバレなんだよね。  
 だけどヒミツが露呈していたと知ったときの川上さんのダメージは想像つくじゃん?」  
「ああー、うんうん」  
「だからね彼女に判った、みんなに言っときますって伝えたんだ。  
 彼女が『折を見て、私から話します。ご面倒おかけしますけど、宜しくお願いします』って言うからさ  
 『じゃあそのときの川上さんの様子を教えてくださいね』ってお願いしといたんだ」  
 
 ワインボトルを掴んで軽く振る。  
 空になりかけたグラスの足を、琴子が細い指で握ってこちらに差し出した。  
 とく、といい音が響いて、ぶどう柄のグラスに透明に近い黄金色のワインが満たされる。  
 口元を軽く拭った琴子が、それを軽く含んでごくりと飲み込む。  
 喉が上下をするさまに一瞬見ほれて、僕はまた口を開く。  
 
「この前たまたま電話したら、『言いましたよ』って彼女が教えてくれた。  
 川上さんは見ててかわいそうになるぐらい動揺してて、  
 一日中『そうかあ、みんな知ってるのかあ』って繰り返してました、だって」  
「……ちょっと可哀想だね」  
「可哀想なんだけどね、職人で背中がぴんと伸びてる感じの川上さんが、肩を落として、そうかあ、そうかあって繰り返してる姿を想像したら、ちょっと笑えた」  
「それは……可愛いかも。要、このペスカトーレ美味しい」  
「そう? よかった。昨日川上さんと残業しててさ、『吉見くん……あのさ、いいや、何でもないです』って3回ぐらい繰り返すんだよ。  
 たぶんハッキリ聞きたいんだろうけど、僕もなんて言ったらいいのか判らないからそのままになっちゃってるんだ」  
「うわー、川上さんちょっとした拷問だね。でもソレなんて声かけていいか、ほんと判んない」  
「うんうん、そうなんだよ。川上さんはさ、自分から話題を振ることがないから余計どうしていいか判んないんだろうね。  
 こないだ珍しく声をかけてきたと思ったら大真面目な顔で  
 『吉見くん、萌えってなんですか』って聞かれてさ、ちょっと返事に困ったよ。  
 『好きの一種じゃないでしょうか』って返事しといたけど萌えってどう説明するの?」  
「要がいま川上さんに抱いている感情は萌えに近いんじゃない?」  
「そうかな? 川上さん萌え? ちょっとキモくない?」  
「うん、ちょっとキモいね、だめだめ。でも私も川上さん萌えかも」  
 二人で萌え、と言いながら盛大に笑った。  
 
 そんな萌えさせてくれる川上さんは、とんでもなく仕事が出来る。  
 彼の引いた図面は無駄がなくて美しい。  
 一枚の芸術作品を見せられている気になる。  
 僕が行き詰って、ちょっと川上さんに見てもらうと、川上さんはするすると正解を導き出して僕を正しい方向へと進ませてくれる。  
 あまり下を育てたりするタイプじゃないけれど、川上さんは間違いなく素晴らしい職人だ。  
 あと5年したら川上さんみたいになれるのか? と我が身に置き換えて問いかけてみても、そんな自信はまったくない。  
 
 そんな川上さんが、最近丸くなった気がする。たぶん、恋人の影響なのか。  
 川上さんの彼女は、人あたりも愛想もノリもよくて、声も笑顔も可愛い。癒されるタイプだ。  
 正直、なぜあの子が川上さんと? と思わなくもない。  
 あの川上さんが、女の子に愛を囁いている姿が想像できなくてまた笑えて来た。  
 
「そういえば、琴子の秘密主義の友達は、何か教えてくれた?」  
 指についたレーズンバターをぺろりと舐めながら、琴子がんー、と声をあげる。  
 もう一口ワインを含んで、ううん、と首を振った。  
「茜は秘密主義じゃないよ。聞けば教えてくれるもん。  
 モトカレのことも初恋のひとも、今読んでる本も寝る時間も知ってるよ。  
 ただ今の彼のことだけ教えてくれないだけ」  
「今の彼だけ?」  
「そう。その話題になるとすぐ話を逸らすの。  
 たとえば窓を指差して、あ、って言うからさ、そっち見るじゃん? で、何もないからどうしたのって聞くと  
 『UFOかと思ったけど見間違いだった。UFOといえば未確認飛行物体の略で夜間発光体の目撃が多くされているが、  
 私の大学時代のゼミ仲間がホタルイカ等自発光体の研究をしていてな、光る金魚の育成に情熱を注いでいたが、在学中はお目にかかれなかった。  
 あの研究は続いているのだろうか。ぜひ光る金魚を見てみたいと思わないか?』って一気にしゃべるの。  
 何を聞かれたのかぜんぜん判らなくなっちゃってさ、あれ? って思ってるうちに『じゃ、忙しいから』って逃げちゃうの」  
 
 なかなか鮮やかな手際である。  
 川上さんの鉄壁の交わし文句といい勝負だ。  
「冷静になって思い出してみると、全然たいしたこと言われてないんだよね。でもなんていうか、あの子は口調が無駄に重々しいの。  
 無表情で淡々としてるから、すごい迫力あるの。ずるいよね、あれ」  
「や、僕会ったことないし」  
「そうだっけ? 今日なんて酷いんだよ。クリスマスは予定があるの? って聞いたら、なくはない、って言うからさ、  
 誰とどう過ごすのか聞いてみたいじゃない?」  
「うんうん」  
「いい加減教えなさいよーって詰め寄ったら、突然、『あ、お疲れ様です』ってお辞儀したの。  
 あれ後ろから誰か来たのかなって振り向いたら誰もいなくてね、向き直ったらまた誰もいなかったの。  
 あの子走って逃げたんだよ。私思わず走って追いかけちゃったよ」  
 
 走って逃げる高校教師と、それを走って追いかける同教師を想像したら、またものすごく可笑しくなってけたけたと笑った。  
 箸が転がってもおかしい年頃が、アルコールのおかげでまた巡ってきているのかもしれない。  
「すぐ追いついたんだけど、とっさに出てきた言葉がね『廊下は走らない!』だったの。テンパってて結構大きい声で叫んじゃった。  
 茜もびっくりして『はい、申し訳ありません』なんて言うからさ、二人で笑っちゃって。  
 あーまた今日も誤魔化されたなーって思ってたら、急に真剣な顔で、琴子、って呼ばれてね」  
「うん」  
「『落ち着いたら絶対に話すから、それまで待っててほしい』って言うの」  
「落ち着いたら?」  
「うん、今はどうしても話せないんだって。納得いかないから『まさか不倫じゃないでしょうね』って聞いた」  
「…………琴子ってストレートだよね」  
 その思い切りのよさを少しぐらい僕に分けてほしい、と思いながらボトルを傾けて、残り少なくなったワインをすべて琴子のグラスに注いでしまう。  
「そのくらい普通だよ。あ、ありがと」  
「で、どうだったの?」  
「不倫じゃないって。そんなこと絶対にしないって言い切ってくれたから、すごく安心した。あと、心配かけてごめんって言われた。  
 だからもう聞くのは止めにして、待つことにした」  
「え?」  
「待つの。茜は大丈夫。ばかじゃない。間違えたりしない」  
 
 琴子はじっと僕を見据えて――まるで僕がその茜さんであるかのように見つめて、そうだよね、と問うようにくちびるを薄く開く。  
 
「――――――うん」  
 
 沈黙に耐えかねて、僕は頷いた。  
 琴子が、肯定を欲しがっていたから。  
 根拠も確信もなにもない、ただの慰めで、ほんとうの優しさなんかじゃないのかもしれないけど。  
 案の定琴子は、ふ、と息を抜くと嬉しそうに微笑んで目線をワイングラスに落とした。  
 
「あーでも。クリスマスなんてなくなればいいのに。去年は海外に逃亡できたけど、今年は他人の幸せを直視しないといけないんだ。憂鬱」  
「それまでに彼氏を見つけるって選択肢はないの?」  
 言ってからしまった、と思った。  
 うんそうする、なんて琴子が頷いたら、僕はどうしたらいいんだろう。  
「んー、そっちも焦んないことにした。焦るとロクなことがない。そう思わない?」  
「……そうだね」  
「要は? どうするの? なんか予定ある?」  
「ないよ、うち仏教だし」  
「仏教は関係ないの。ん、えーと……赤とスパークリングどっちがいい?」  
「両方。じゃあローストチキン作ってみようかな」  
「え? 買うんじゃなくて?」  
「ネットで見てさ、うちのオーブンで出来そうだから一回やってみたくって。  
 問題は丸ごとの鳥をどこで買ってくるか」  
「え? ほんとに作るの? ほんとに? すごい!」  
「作るよ。琴子がちゃんと手伝った上にたくさん食べてくれるならね」  
 食べる食べる、とは嬉しそうに何度も頷いたけれど、ついに一度も手伝うとは言わなかった琴子と、今年は一緒にクリスマスを過ごせる。  
 幸せな約束に、僕のアルコールで鈍った頭の中はまるっきりピンク色だった。  
 
 それから僕らはまたぐだぐだと話し始める。  
 漢字検定のこと。携帯電話にかかってきた間違い電話のこと。キリンはモーと鳴く。  
 クリスマスのケーキを予約したいお気に入りのあの店は名前が読めない。結局シンプルがベスト。  
 陰気なアメリカ人もあたりまえだけど存在する。  
 ベトナムで見つけたへんな入れ物の用途。  
 アンコール遺跡で結婚式をしていたカップルは、何に誓いを立てたのか。  
 即身仏について。  
 演歌歌手としてデビューする同級生。  
 ウォーリーの眼鏡はありかなしか(なし、らしい)。  
 エクセルの機能熟知度自慢。教師は何故かワードではなく一太郎を使う。  
 子供のときどちらがより多く迷子になったか。ビタミンDを「びたみんでー」と言うのはおじさん臭い。  
 ヒャドは家族に気を使う。琴子のお父さんの愚痴を誰よりも辛抱強く聞いてあげるのは彼である。  
 インフルエンザの予防接種は何故か痛い。僕は針を凝視できない。先端恐怖症かもしれない。  
 
 
 そんなようなことを、取りとめもなく、つらつらと。  
 
 日付を越えるころに、琴子がまた、眠い、寝てくと言い出して。  
 僕ははいはいと席を立って客間に布団を敷きに行く。  
 琴子にはちゃんと歯を磨きにいかせる。僕はもしかしていつの間にか琴子の保護者になったのか?  
 
 歯磨きを終えて戻ってきた琴子に、案の定一緒に寝ようと期待通りに誘われた。  
 暖かくてよかったから気に入っちゃった、と屈託なく笑う。  
 琴子の中ではあくまで代理ヒャドなのか。  
 はいはい、と下心を見抜かれないように出来るだけそっけなく返事をする。  
 僕もとりあえず歯だけは磨いて、いそいそと客間に戻る。  
 もぐりこんだ狭い布団の中でまるで恋人同士のように身を寄せ合って、ぼそぼそと交わす声音が薄闇の客間に響いた。  
 
「今年は、年末の旅行行かないんだ?」  
「うん。だって茜に断られたもん。茜以外に一緒に旅行する相手って思いつかなくて」  
「……琴子ってさ、茜さんのこと、ものすごく好きだよね」  
「うん、好きだよ。茜は男前でカッコイイの。ちゃんと自分の足で歩いている感じがする。  
 でもすっごい可愛いとこもあって、すごく、すごく素敵なの」  
 ふぅん、と頷きながら、僕は見苦しく嫉妬する。  
 美人で男前でかっこよくて、琴子の同僚で親友で、年下の彼がいるらしい茜さんは見も知らない僕に呪いを飛ばされて、さぞ迷惑をしていることだろう。  
 
「茜と私はね、どっちかが男だったらよかったんだよ。そう思う」  
「………………どうして? 男と女だったら、話もしなかったかもしれないじゃん」  
「上手く言えないんだけど、そんな予感がするの」  
 女のひとは運命とか予感とか、そういうのが好きだよな。  
 肘で頭を支えながら、へぇ、と呟いた。  
「だからね、試しにキスしてみたんだけど、やっぱり性別の壁は大きかった」  
「は? キス?」  
「うん。キスしてね、あ、無理なんだって思ったの」  
「待って、なんでキス? 女のひとでしょ?」  
「やだ、そんなすごいキスじゃないよ。高校生の頃とかってふざけて女の子同士でキスしたりするじゃない? あんな感じ」  
「女の子ってそうなの?」  
「うん、みんなじゃないと思うけど。でもあの時はふざけてなかった。真剣に、確かに性的な意味を込めて触れた。私たちは知りたかったの」  
「なにを?」  
「えと、試してみてアリだったらそういう人生もあるんじゃないか……って。キスしたら色んなことが判る気がした」  
「………………何か、判った?」  
「……駄目だって、判った。無理なんだって。  
 がっかりしたけど、同じぐらいほっとした。やっぱり自分が異常だって認めるのは辛いじゃない?  
 で、違ったって二人で言いあって、それで、おしまい。そんだけ」  
 
 そんだけ、と言われても。  
 反応に困って押し黙る僕を置き去りにして、琴子が盛大にあくびをする。  
 目じりに滲んだ涙を、子供のように目をこすって拭った。  
「それ、最近の話?」  
「違うよ、2年ぐらい前かな。……要、ドン引きしてる?」  
「ドン引きはしてないけど、琴子って誰とでもそうやって試してみるの?」  
「誰とでもなわけないでしょ。茜は特別だもん。それに、試して駄目だったのに友達を平和に続行できるのは女同士だからだよ」  
 
 特別、なんて言葉に、胸がざわざわとした。  
 なんだよ、と面白くない気分だ。まるで子供だけど。  
 気がついたら僕は、息のかかる距離で琴子を覗き込んでいた。  
 
「じゃあ僕は?」  
「………………え?」  
「試して、みる?」  
「かな、め?」  
 琴子の声が遠い。  
 アーモンド形の黒くて大きな目が、さらに大きく見開かれている。  
 
 その顔を見て、僕たちはもう、二度と元には戻れないと知った。  
 それは琴子も同じだったと思う。  
 これで駄目だと知ってしまったら、違ったねと言い合ってそんで終わり、というわけには絶対にいかない。  
 
 でもいいや。もういいや。  
 前に進むにも終わりにするにも、これは絶好のチャンス。  
 精神的にも年齢的にも、この不毛な関係を続けるにはそろそろ限界だった。  
 ――大人なんだから、ちゃんとしろよな。  
 ついでに、イオのふてくされたような声音も耳の奥に蘇る。  
 
 そうだ。ちゃんと、しないと。ちゃんと、確かめないと。  
 僕の気持ちを。  
 琴子の本音を。  
 
 胡散臭い笑顔で琴子をじっと見つめて発言のタイミングを奪って、そっと顔を寄せて、目を閉じてキスを受け入れざるをえなくする。  
 琴子が思っているよりずっと、僕はずるい人間なんだ。  
 居心地を良くして、ぬるま湯の関係を作り出して、琴子が離れていかないようにずっと策を凝らしていたんだ。  
 ぬるま湯はそこから出ると寒い。だからって身を沈めたままでいると、どんどん温度は下がっていく。そして余計出られなくなる。  
 僕の心は、いい加減風邪をひいてしまいそうだった。  
 なのに好きだという勇気はなくて。  
 僕はほんとうに、ずるくてだめな男だ。  
 
 くちびるが触れ合う。  
 顔の横についた手が、みっともなく震えていた。  
 乾いた僕のくちびるは、まるで心臓のようにどくどくと脈打っていて、ふわりと重ねた琴子のそれも小刻みに震えていた。  
 いい年して青春真っ盛りみたいだ。胸が痛い。  
 今まで触れたどんなものよりも柔らかいそのくちびるに、酔いの回った頭がくらくらする。  
 
 キスで何が判るのか、僕は知った。  
 やっぱり僕は琴子が好きだ。  
 琴子は家族じゃない、友人じゃない。  
 僕は、琴子が欲しい。  
 
 
 長い長いキスを終えて、名残惜しみながらそっと顔を離して琴子を覗き込む。  
 ゆっくりと目を開いて琴子は、先程まで触れ合っていたくちびるをそっと開いて掠れた声を絞りだす。  
「……要……どうしよう…………」  
「ん?」  
「もう一回……」  
 伏せた長いまつげ。丸い鼻、スポンジのように柔らかそうな頬。  
 ケーキよりも甘そうな突き出された赤いくちびるに、僕は引き寄せられるように触れた。  
 
 軽く触れて離れるたびに、琴子がもう一回と囁くから、僕らは数え切れないぐらいたくさんのキスをした。  
 途中で眉根を寄せてもっと、なんて言うので、何がと聞いてみたら、ぷいと顔を背けられてしまった。  
「いじわる」  
 苦笑いを浮かべながら、拗ねたように頬を膨らます琴子の頭をそっと撫でて機嫌を取る。  
 やっとこっちを向いてくすぐったそうに笑ったくちびるを啄ばんだ。  
 薄く開いた隙間から舌を差し入れて、深く、深く口付ける。  
 舌同士も恐る恐る触れあって、様子を伺うように絡み合って、熱くぬめる口内の温度を楽しみあう。  
 琴子の口の中は、歯磨き粉のミントの味がした。その爽やかさはとても彼女に似つかわしい。  
「…………ん、」  
 重ねたくちびるの端から、どちらのともつかない息が漏れる。  
 最後に、甘いくちびるを軽く噛んで僕らはようやくキスを終えた。  
 
 アルコール交じりの吐息も絡めあって、琴子がうっすら潤んだ瞳でぼんやりと僕を見上げていた。  
「…………琴子?」  
 囁くように呼ぶと彼女は、ゆっくりと瞬きを繰り返して、腫れてさらに赤くなったくちびるで僕の名を呼んだ。  
「要、どうしよう……」  
「どうしたの?」  
「……気持ちいい。もっとしたい」  
 いいよと寄せた僕の頬に、琴子の手が触れて違うのと小さく聞こえた。  
 僕はキスの変わりに額をごつんとぶつけて、うっとりと溶けたようなその瞳を覗き込む。  
「違うの?」  
「キスだけじゃなくて、もっと、したい…………どうしよう、どうしよう、わたし、」  
 琴子はちょっと顔を持ち上げて僕のくちびるに軽く噛み付くと、すぐに離れてほう、と息を吐いた。  
「……わたしって、要のこと好きみたい」  
 その言葉に息がつまった。  
 背筋を、ぞわりとした何かが駆け上がって、一瞬遅れて落ち着きを見せ始めた心臓がまたばくばくと高鳴った。  
「要って、男のひとだったんだね」  
「…………なんだと思ってたの?」  
「判んない。要だと思ってた。ね、要はなんで試してみようと思ったの?」  
「なんでだと思う?」  
「…………んー……そこに顔があったから?」  
「はずれ。正解はね、」  
 
 僕も、琴子が好きみたいだからさ。  
 
 照れくさいのではやくちに告げて、僕らはもう一度キスをする。  
 今度はお試しなんかじゃなくって、楽しむためのキスを、何回も。  
 
 物足りなくなってくびすじに舌を這わす。  
 ぺろりと舐め上げると、琴子の小さな身体がびくりと震えて甘い声が漏れた。  
「……あっ…かなめ……」  
 耳たぶを口に含んで、軽く引っ張る。  
 琴子がくすぐったそうな吐息を漏らす。  
 
 肩を撫でて、胸をなぞって、服の裾から手を差し入れようとしてふと、現実に気がついてしまった。  
 
 はあ、と盛大なため息をついて、琴子の肩に額をうずめる。  
「……要?」  
 不安げな声で呼ばれて、ああいけない、と僕は顔をあげて彼女を覗き込んだ。  
「…………今日は、ここまで」  
「どうして?」  
「えーと……ないから」  
 琴子は何が、というように眼をきょとんとさせて、だけどすぐに僕の言いたいことが判ったようで、恥ずかしそうに目を逸らしてそうだねと頷いた。  
 急に、僕らがしようとしていたセックスという行為の生々しさを自覚して、僕もとたんに照れくさくなる。  
 
「ごめん」  
「んー……要が常備してたら、ちょっとショックかも」  
「あ、そういうもの?」  
「うん、なんとなく」  
「ふーん。まあ、今日は、残念だけど」  
「残念だけど、また今度。ちょっと、自分の気持も、整理してくる」  
「その方がいいかもね。そうして」  
 いい加減腕が疲れてきたので、僕は琴子の隣にごろんと寝転ぶ。  
 琴子が猫のように身体を摺り寄せてきて、僕の腕に触れた。  
「ね、要。ぎゅってして」  
「ん?」  
 お望みのままに、華奢な身体を抱きしめる。  
 腕の中で琴子が嬉しそうに笑った。  
 僕も嬉しくなる。  
 おやすみ、と耳元で囁いて目を閉じる。  
 琴子の耳慣れた声が、おやすみと今までにないくらい近くで響いて、僕はさらに嬉しくなった。  
 
 

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