琴子の話は長い。そして脈絡がない。結論もない。  
 そんな話に嫌気が差すこともなく延々と付き合っていられるのは、琴子が「聞いてる?」などと絡んできたりしないせい。  
 それは僕が素っ気のない相槌でもちゃんと聞いていると知っているからなのか、それとも聞いていなくても関係ないのか。  
 どちらなのかイマイチよく判らないけれど、とにかくこの晩酌の時間が、僕は好きだった。  
 
 久本琴子と、僕こと吉見要は、いわゆる幼馴染だ。  
 家が隣で、年が同じで、幼稚園から小中高と同じ学校で。  
 誰にも文句を言わせないスタンダードかつパーフェクトな幼馴染だ。  
 親同士の仲もよく、家族ぐるみのお付き合いなんてことが今でも続いている。  
 お互いの祖父母の家にも泊まりがけで遊びに行った仲なのだ。  
 そんな幼馴染を持っている人間を、僕は僕ら以外知らない。  
 
 
 今日はビールと焼酎の日、と琴子が言ったので、僕はもつ鍋の材料を用意した。  
 牛もつの下ゆでが終わったころに、ビールと焼酎をもった琴子がインターホンを鳴らした。  
 二人でたっぷりのきゃべつとにらを切って、もくもくと切って、豆腐やもつと一緒に味付け済みのだし汁が沸騰する鍋に放り込んだ。  
 しなーとキャベツがその身の質量を減らしながらだし汁を吸収する様を、二人でじっと見つめた。  
 食欲を刺激する、にんにくと醤油の香りの湯気がたっぷりと台所に立ち込めて、口のなかに唾液が溢れる。  
 
 美味しそうだね。  
 琴子が嬉しそうに言う。  
 美味しそうだね。  
 僕も嬉しくなる。  
 
 スープを小皿にとって一口舐める。うん、完璧。  
 もう一口分取って、琴子に手渡す。犬のようにぺろりと舐めた琴子も満足そうに微笑んだ。  
 ついでに一切れ取り出した牛もつは充分に柔らかく煮えていた。  
 ただし口に放り込んだら熱くて喋れない。  
 ほふほふと口内の熱を逃がしてやりながら、右手の親指と人指し指で丸を作って琴子に示す。  
 期待たっぷりで頷いた琴子が、冷蔵庫からグラス二つとビールを取り出してダイニングへ向かう。  
 僕は火を切って換気扇を止めると、鍋つかみとダスタを駆使して土鍋の耳を持ち上げた。  
 ぐっと腕に心地好い熱さと重み。  
 今から琴子と二人でこいつを平らげる幸福な予感に、自然と口元が緩む。  
 ダイニングテーブルの脇には、やっぱり嬉しそうに口元を緩めた琴子が鍋と僕の到着を待ち詫びていた。  
 
 こんなにも息がぴったりなのに、残念ながら琴子と僕は恋人同士でも夫婦でも、家族でもない。  
 限りなく家族に近い異性の友達。  
 大抵の友人が、僕らの関係に首を捻る。  
 いくら捻ってもらっても、そういう友達をもっていない彼らに理解は不可能で、結論なんて出てこないだろう。  
 
 小学校の低学年までは一緒に遊んだり登校やら勉強やらもしたけど、そこはやっぱり男と女。  
 気がついたら朝は別々に登校をするようになったし、学校で会っても挨拶だけになったし、ずっとクラスが違ったから「今日の課題なに」なんて電話も掛ってこなかった。  
 それでも定期的に、どちらかの家で誰かの誕生日食事会なんかが開かれたし、琴子の弟の伊織――僕らはみんなイオ、と呼んでいる――はうちにゲーム目当てで入り浸っていたから、暇を持て余した琴子が格ゲー大会に参戦することもあった。  
 ごく稀に一人で僕の本を借りに来たときには、最近どう、なんて話もした。  
 だからお互いの成績も交友関係も、初めての恋人も、将来への不安なんかも大体把握していた。  
 
 大学への進学と同時に、僕は実家を出た。  
 年に数回帰った時には、琴子とイオがなぜかうちに夕飯を食べにきて、話すことといったら現状よりも昔話ばかりで、照れくさいながらも幸福の形を見ているような気がして。僕は帰省をしょっちゅうしていた。  
 そのまま就職をして、地元への移動願いを受理されたのが2年前。  
 帰るよ、と母親に報告をしたら、あらあらあら困ったわぁと予想外の返事がきた。  
 何でも父親が、地方の子会社の支社長に就任するらしい。  
 
 栄転じゃん、よかったね。何にも出来ない父さんに、単身赴任なんてさせたらだめだよ。  
 家だけ僕に貸してくれない? なんたって筋金入りの一人暮らしだから、ちゃんとやるよ。お隣もいるし。  
 
 僕は別に一人でも困るなんてことはなかったから、母さんにそう伝えた。  
 母さんは、また家族がばらばらね、と少し寂しそうだった。  
 でもそれも、長くて5年ぐらいの話だし。要がちゃんとしてくれるなら、他人に貸すより安心だわ。  
 両親は親から夫婦へ戻っていて、僕は一人の男としての生活がすれ違いに継続された。  
 
 だだっ広い一軒家の一人暮らしは、案外快適だった。  
 掃除だけは大変だけど、一人分の食事や洗濯なんてたかが知れているし、僕を心配した隣のおばさんがしょっちゅう琴子におかずを持たせてくれるから不自由を感じることはなかった。  
 住み慣れた家、歩き慣れた土地、そしてお隣さん。  
 僕の生活はそれなりに充実しながら淡々と過ぎていた。  
 
 琴子が突然、飲まない、とやってきたのは春ごろのこと。  
 それ以前も、帰省のたびに酒の肴に惚気や愚痴を聞かせてもらっていたのだけど、このときはほんとうに突然だった。  
 1ダースのビールを抱えた琴子が玄関先で僕の帰宅を待っていたのだ。  
 飲まない? っていうか、どうしても、付き合ってほしいの。  
 泣きそうな琴子の笑顔は、今思い出しても胸がずくんとする。  
 
 彼氏と別れてちょっと辛くて。  
 そういうときいつも頼りにしていた同僚の親友は現在年下の恋人に夢中で、とても失恋の痛手を分かち合う相手に不適切だ。  
 
 そんなもん?  
 僕は聞いた。  
 そうだよ、と琴子は3本目のビールをあおりながらはっきりと答えた。  
「だいたい」  
 ストーンチョコレートを一粒舐めながら、琴子は続ける。  
「前は隔週で飲みに行ってたんだよ。でも最近は月一なの。ハッキリ言わないからよく判んないけど、たぶん彼氏に気を使ってるんだと思う」  
「うーん」  
 隔週が月一になったからって、全然変わらない気がするけど。  
 琴子にとっては重大なのかな。  
「私が悲しいのは、彼氏を優先にすることじゃなくて、あの子が彼氏くんがどんなひとなのかとか、どこで出会ったのかとか、いつから付き合ってるのかとか、なーんにも教えてくれないこと」  
「そのひと、秘密主義?」  
「違うんだけど、こればっかりは聞いてもすぐに誤魔化すの。不倫でもしてないか心配だよ。  
 なんでなんにも言ってくれないんだろ。私は余計なことまで聞いてもらってきたのに。  
 寂しくって、勢いであんな変な男と付き合っちゃったよ」  
 私ってほんとばか。寂しいってほんとだめ。  
 口の中でぶつぶつと繰り返しながら頭を抱える琴子を、衝動的に抱きしめたくなって驚いた。  
 いい感じに酔っている。酔うと人恋しい。一人で飲んでもつまらないのは、温もりが足りないからだ。  
 
 抱きしめる代わりに、そっと手を伸ばして頭を撫でる。  
 弾かれたように琴子が顔をあげて、きれいなアーモンド形の瞳を真ん丸く見開いて僕を見つめ返した。  
「要?」  
「ん?」  
「なに?」  
「なんとなく」  
「なんとなく?」  
「うん」  
「そっか」  
 くすぐったそうに琴子が笑って、もっと、というように顎を突き出した。  
 そのくちびるにキスをしたくなった自分にまた驚きながら、ちょっと乱暴に琴子の前髪をぐいと弄ぶ。  
 ふふ、と口の中だけで琴子が笑った。  
 
「ね、また飲むの付き合ってくれる?」  
「いいよ。暇だし」  
「遠距離の彼女は?」  
「あれ、言わなかったっけ。ふられたよ。好きな人が出来たんだって」  
「知らないよ。いつ?」  
「半年前かな。もう自然消滅っぽかったし」  
「そっか。私たち、失恋コンビだね」  
「コンビか。そうかもね」  
 その彼女とはもう1年も会ってなかったし、そもそも地元に帰ってくるタイミングで別れたつもりだったから特に失恋の痛手を背負ってはいないけど、琴子が分かち合えると思ってくれたならそれでいいか、と僕はアルコールでくらくらする頭で考えた。  
 
 
 酒に弱くもないけど強くもない僕らは、その日二人でぐだぐだと話しながら深夜3時までかかって10本のビールを開けた。  
 琴子はそのまま居間で寝てしまい、彼女を客用の布団に運んだ僕もそのまま隣で眠ってしまって、翌朝には二人で仲良く二日酔いだった。  
 それでも不思議と気分は悪くなかった。  
 また飲もうね、と顔をしかめながら笑った彼女が、早く失恋の痛手から抜けられたらいいと僕は願った。  
 
 
 金曜か土曜の夜ごとに琴子が酒を片手にやってくる。  
 あの日以来そんな妙な習慣ができてしまった。  
 たまには外に飲みに行くこともあるけれど、僕の家の匂いが好き、と琴子は内食を好んだ。  
 
 
 今日の料理は完ぺきだ。  
 冬に相応しいいでたちの湯気を上げる鍋を見下ろして、自己満足に浸る。  
 取り分け用の小皿もちゃんと用意して。  
 今日の酒盛りの準備は完了だ。  
 きんと冷えたビールで乾杯。  
 ぐいと同時に煽る。  
 ぴりりと突き刺すような炭酸と、幸福の象徴のような苦味が乾いた喉を滑った。  
 うまい。  
 きっと僕は、このために、一週間働いてきたんじゃないかとすら思う。  
 
 もつ鍋の中身を、琴子が取り分けてくれる。  
 はい、と手渡されて、ありがとうと受け取る。  
 琴子が自分の分をとりわけるのを待って、同時に口に入れて、同時にあつ、と眉根を寄せた。  
 
 
 喉が潤い腹が満たされてきた頃に、琴子と僕は取り留めもなく話を始める。  
 学校のこと、友人のこと、趣味のこと。  
 今日の琴子の話題は、半年前に分かれた件の元彼について、だった。  
 
「結局ね、先生やってる私が好きだったんだよ」  
「うん」  
「この仕事、好きだよ。だけど、ちょっと逃げ出したくなるときもあるじゃない?」  
「あるね」  
「別れて半年後に元カノと結婚って、酷いと思わない?」  
「酷いね。同時進行だったんじゃない?」  
「そうかもしんない。琴子なら忘れさせてくれると思ったけど、なんて、甘えすぎ」  
「うん」  
「友達でいてくれる、なんて聞いた私がばかだった。うん、なんて言わないでほしかった。それに囚われてる私は究極のばか。何で結婚してからの方が頻繁にメールくるの?」  
「マズいね。もう拒否ったら?」  
「うん、昨日そうした」  
「偉いね、琴子」  
「ううん、私、ほんとうにばか」  
 
 頑張るなあ、と僕は他人事のように思う。  
 
 琴子は決して恋愛をおろそかにしているわけじゃない。  
 だけどそれ以上に、仕事に熱中をし過ぎている。  
 社会人を数年もやれば、力の入れ所と抜き所が適度に判ってきていて、入社したてのころに抱いていた仕事に対する情熱とか希望とか、青臭いものを恥ずかしい、だなんて判ったように見下したりする。  
 忙しいなんて言いながらご多分に漏れず僕もそうだ。  
 
 だけど琴子は、社会人5年目になった今でも高校教師という仕事に情熱と誇りを持っている。  
 のらりくらりと仕事をいい感じに適当に頑張っている男にとって、彼女はさぞ暑苦しいに違いない。  
 その熱を、自分に向けてくれたら、だなんて考える気持も、実は、判る。  
 
 結局温度差が大きくなりすぎて、面倒になった男が別れを切り出す、というのが聞いている限りいつものパターン。  
 例の元彼氏は、とにかく短かったなあという記憶しかないらしい。  
 確か、2ヶ月ぐらいだったかな。  
 その付き合ってる2ヶ月の間で、会った時間はたぶん、合計10時間ぐらい。  
 職業柄、年度の替わり目は忙しいからしょうがない。  
 その時期は、顧問を務めるバトミントン部の卒業生のため、在校生たちと寄せ書きやら手製のアルバム作りやらに追われていたに違いない。  
 「へー琴子さん先生なんだ」と言って近づいたんだったら、そこんとこ理解していないのは究極におかしい。  
 想像力のない人間は、これだから困る。  
 
 目の前の琴子は、泣いてはいないけれど、はぁぁと盛大なため息を落としながら酒を舐めている。  
 恋をして、失恋して、しばらく男はいい、なんて言ってまた仕事に打ち込んで、突然思い出したように合コンやら友達の紹介やらで彼氏を見つけてくる琴子。  
 彼女は人見知りをせず誰とでもすぐに親しくなってしまうし、肩のあたりでふわふわと揺れる髪型やアーモンド形の大きな瞳のせいか、一見柔和で穏やかでどこか頼りなくて、守ってあげなくちゃいけないような気になる。  
 だけど実際の琴子は、実は姉御肌で面倒見がよく、なまじの男よりさばさばと割り切った付き合いを好む。  
 会えないからって無駄に寂しがることはしないだろうし、メールや電話も、毎日はやってられないよ、とすぐに投げ出すし、仕事は忙しいしで、本気の度合いを疑われても致し方ないだろう。  
 当の琴子は、彼氏ができたからって仕事や趣味の時間を削る気はさらさらないし、恋人を置いて女友達と海外旅行に出かけたりもする。  
 そのギャップについていけない男が多いのも、納得はいく。  
 付き合い始めで燃え上がっている時期にそうやって、自分の世界にのめりこんでいる彼女に置いてきぼりにされるとなぜか冷めてしまうものだ。  
 このひとが自分を好きだと言ったのは嘘で、自分がこの子を好きだと思ったのも勘違いだったんじゃないかと。  
 
 僕に言わせれば琴子はちゃんと恋人を大事にしている。琴子なりのやり方で。  
 そのひとに合わせて映画が好きになったり、アウトドアにハマったり、スノボに出かけたり、日本酒にやたら詳しくなったり。  
 おかげで琴子はびっくりするほど多趣味になった。  
 全然無理をしていないところがまたすごい。  
 
 頑張るよなあ。僕なんて、おかげさまで忙しい仕事と琴子の相手で手一杯。彼女を見つける暇もないし、見つけたいとも思わない。  
 
 いつもは別れた男のことなんて、1月もすればきれいに忘れてしまう琴子なのに今回は珍しく長く引きずっている。  
 そんなにも好きだった、とはちょっと違うだろうと、僕は予想している。  
 たぶん、何も始まらずに終わったから惜しいんだ。  
 すぐに結婚をしたと聞いて、逃した魚は大きいとか、考えているんだと思う。  
 
「でさ、結局琴子は、彼氏が欲しいわけ? 結婚がしたいわけ?」  
「結婚」  
 琴子は即答する。  
 まあ年齢的に無理もない。僕らはもう27になってしまった。  
 僕は男だから、まだいいかなーなんて悠長なこと考えているけど、琴子は女だ。  
 一番あせる年頃だし、周りからもさぞせっつかれているんだろうと想像はつく。  
「結婚がしたいの? 結婚式がしたいの?」  
「要……私、そこまで夢見る夢子ちゃんじゃないよ。あのね、人生を一緒に生きてくれる人が欲しいんだ」  
 人生を一緒に? それは大概夢子ちゃん的発想じゃないかなと僕はふと思ったけど、ふぅんとだけ呟いて焼酎を舐める。  
 
「必要条件ってある?」  
「あるよ、あるある」  
「どんな?」  
「煙草吸わないひとのほうがいい」  
「へー」  
「あとスーツで仕事に行くひとがいい。出来たら眼鏡」  
 形から入るタイプの琴子らしい。僕はこっそり笑った。  
 しかし眼鏡でスーツの男なんてたくさんいると思うけどな。そういう僕も、そのスタイル。  
「それでね、白衣着てたら最高。でもお医者さんがいいってわけじゃない」  
 白衣。なぜ白衣。  
 そのフェチズムは理解に苦しむ。  
「僕は会社で作業着のジャンパー着るけど」  
「作業着かあ。2割減だなあ」  
 でも8割は残してもらえるわけか。  
「琴子、見た目ばっかりだね」  
「……そうだね…………えっとー、例えばね、デートで電車に乗るじゃない?」  
「うん」  
「で、目的の駅で、うっかり乗り過ごしちゃった時に、じゃあ予定変更して行けるとこまで行ってみようよって、言ってくれるひとがいい。  
 その先に、思いもよらなかった楽しいことがあるかもしれないじゃない?」  
 
 琴子がグラスを揺らして、焼酎に浮いた氷がかららんと涼しげな音をたてた。  
 へえ、と僕は呟く。  
 まあ琴子はそうだよな。明日からアメリカに転勤ですって言われても、満面の笑みで行きますと即答して、行ったらすぐにその土地に馴染んでしまうに違いない。  
 人生を楽しく過ごす術を、琴子はよく知っている。  
 その楽しい人生を一緒に生きる男はどんなヤツなのか。  
 嫌な想像に僕は眉根を寄せて、ぐい、と残り少なくなってすっかり味の薄くなった芋焼酎を煽った。  
 
 早く見つけないとね。  
 僕のグラスに新しい氷と焼酎を注ぎいれながら、琴子が言う。  
 いつまでも要に甘えていらんないもんね。  
 はい、と差し出されたグラスを受けとって、僕は曖昧に微笑んだ。  
 
 いつまでも甘えてくれていていいのに。  
 琴子が望むなら、いつでも甘えさせてあげるし、そばにいてあげるし、絶対に琴子を悲しませたりなんかしない。  
 僕は煙草を吸わないし、琴子の好きな眼鏡とスーツだし、電車を乗り過ごしたら乗り換えるのが面倒になると思う。  
 あいにくジャンパーだけど、なかなか琴子の好みに合致してるんじゃない?  
 だけど琴子が望んでいるのはそういう僕じゃないんだろう。  
 
 
「ああ……出会いってどこにあるんだと思う?」  
「どこだろうねえ。その友達の彼氏さんの友達とかは?」  
「だめ。イオより年下だって。弟より年下は、ちょっと無理」  
「じゃあ合コン?」  
「うーん、あのね、私気がついちゃったんだ」  
「うん」  
「合コンって悪くないんだけど、なんか駆け足でしょ。駆け足は悪くないんだけど、なんか違うの」  
「違う?」  
「こう、気がついたら好きだった、みたいに、穏やかに始めたいんだなー。そしたら穏やかにゆっくり続いていきそうな気がするじゃない?」  
 
 琴子はやっぱり夢子ちゃんだ。  
 まだそんな思春期みたいな発想を持っているんだ。  
 
「あ、いい年してって思ってるな?」  
「思ってないよ。そういう恋愛だったら、職場とかじゃない?」  
「今の学校、若い独身の先生がいなくて。あとは生徒?」  
「それはマズいね」  
「でしょ。懲戒解雇ものだよ。第一、高校生なんて図体だけ大きくて子供だもん。そこが可愛いんだけど」  
 
 そういえばこないだ山井がね、と生徒の話を嬉しそうに琴子は始めて、出会いの話は宇宙のほうへと押しやられていった。  
 
 だから僕は、――僕にしとかない? なんて、恥ずかしいセリフを、酔った勢いでうっかり吐いてしまわずに済んだのだった。  
 
 
*  
 
 眠い、と琴子が目を閉じそうになったので、とりあえず歯を磨きにだけ行かせて客間に布団を敷いた。  
 これもすっかり琴子専用になってしまった。  
 隣に帰れないぐらい酔っているとはとても思えないけど、外に出ると酔いが覚めて嫌だと琴子は我がままを言って、3回に1回はここで眠ってしまう。  
 酔った勢いのまま眠るために、事前に入浴まで済ませてくる周到っぷりだ。  
 戻ってきた琴子にお休みと挨拶を交わして、僕は入れ替わりに居間を出て風呂場へ向かう。  
 
 熱いシャワーを浴びて、もどかしい思いを抱えたまま髪をトニックシャンプーで豪快に洗いながら、そして飛び散った泡を一人虚しく洗い流しながら考えるのは琴子のことばかりだった。  
 
 
 琴子と僕は幼馴染だ。  
 恋人じゃない。  
 家族じゃない。  
 友人、というのもまた違う。  
 
 付かず離れずの微妙な関係。  
 例えるならイトコが一番近いんだろうけど、それにしては距離が近すぎて繋がりが薄すぎた。  
 
 琴子はたぶん、僕のことをイオと同列に考えているんだと思う。  
 だけど生憎、僕にはとっくに結婚した兄貴が一人いるだけで、同列に並べるべき人間が一人もいない。  
 姉か妹でもいたらまた違ったかもしれないけど、最近の僕は琴子の定位置を決めかねている。  
 
 あの日抱きしめたくなった琴子は間違いなく女の人で、家族だったはずなのに僕にとってはどうしようもなく女性で。  
 でもいきなりそんな感情を抱いては、琴子に申し訳ない気がした。  
 
 琴子の初恋の人だって知っているし(ちなみに僕の兄貴だ)、いつまでおねしょをしていたかも、初めての彼氏も、ファーストキスの場所も、なぜか初めてのセックスの相手も知っている。  
 もちろん琴子も、僕の人生のほぼ全てをなぜか把握していてくれている。  
 こんなにもお互いを知りすぎている関係を変えてしまうには、今さら過ぎた。  
 
 例えばこれが10年前だったら。  
 もう少し何も考えずに、とても素直に想いを告げられたはずだ。  
 だけどあの頃は、お互い違う恋人がいて、違う夢を持っていて、違う人生を歩き始めていた。  
 だから琴子は琴子でしかなくって、恋人や好きな人、なんてカテゴリにはとても入れられなかった。  
 今はただ、そのことが悔やまれる。  
 
 結局、僕たちは、年をとりすぎてしまった。  
 大人になって大きな間違いを起さなくなるのは、守りに徹するようになるからだ。  
 喪失は絶望で、変化は恐怖だ。  
 大切であるがゆえに、僕は琴子を失いたくない。  
 臆病すぎると自分を罵るものの、無くすぐらいなら現状維持で、なんて後ろ向きな思いを、27年の人生の中で一番強く抱いている。  
 強がりなんてひとかけらもなく、そう考えている。  
 
 彼女が求めているのは男としての吉見要じゃなくて、家族としての僕なのだ。  
 人生を頑張って生きている琴子の、安らぎでいたいから、僕は僕の感情に気が付かないフリをする。  
 もうずっと、そんな平和な嘘を続けている。  
 
 でも、琴子がもしも結婚をしてしまったら、僕はどうするのだろう。どうなるのだろう。  
 兄貴が結婚を決めた時に抱いた感情とは、絶対に違うだろう。  
 あの時は単純に、兄貴の幸せと家族が増える喜びが湧き上がってきた。  
 だけど琴子が結婚をしたら、もう、こんな風に二人で酒を飲んだりなんて絶対に出来なくなるだろう。  
 琴子が、人生を共に生きる伴侶だよ、と紹介するその男に、僕はなんて声をかけるんだろう。  
 
 ますます後ろ向きな想像にぼんやりと浸っていたら、くしゅんと大げさなくしゃみがもれた。  
 壁にシャワーを打ちつけながら動きが止まっていたらしい。  
 溜息をひとつついて、風呂掃除を続行する。  
 掃除はいい。  
 一つ泡を流す度に、心の淀も一つ流れていくような錯覚を抱ける。  
 
*  
 
 髪を拭いながら居間へ戻ると、常夜灯の薄ぼんやりとした明かりの中にみのむしのように布団にくるまった琴子の姿が浮かび上がっていた。  
 小さい頃から今でも変わらず、琴子は左を下にして海老のようにくるりと丸まって眠る。  
 左手がしびれたりしないのかな、と不思議だけど、どうやら平気らしい。  
 
 そっと枕元に跪いて、その寝顔をのぞきこんだ。  
 幸せそうな眠り姫。  
 人の気も知らないで、どんないい夢見てるんだろうな。  
 
 手を伸ばして、指先でそっと前髪を撫でる。  
 ぴくりと瞼を震わせた琴子が、振り向いてうっすらと眼を開けた。  
「……ごめん、起こした?」  
 ううん、と掠れた声で首を振った琴子が、ずる、と身体をずらして、あろうことか布団を持ち上げて僕を招く。  
「………………いいよ、自分の部屋で寝るから」  
「……寒いの」  
 ぼんやりとした寝ぼけ眼で見上げられて、胸の奥が痺れた。  
「琴子」  
「だってヒャドがいないもん」  
 ヒャドっていうのは琴子の家で飼ってる猫の名前だ。  
 拾い主のイオが、俺がイオだからこいつはヒャドな、なんてふざけた主張をしたがために、残念な命名をされた彼を琴子は溺愛している。  
「家に帰らないからだよ」  
「……要のいじわる。いいじゃん、一緒に寝よ? ヒャドいないもん」  
 ぐっと僕の寝間着の袖をつかんで、琴子が誘う。  
 あくまでヒャドの代理ですか。  
 
 大げさにため息をついて、そっと琴子の温もりで満たされた布団に忍び入る。  
 くすぐったそうに琴子が笑って、おやすみ、と言い切る前に目を閉じた。  
 すぐに規則的な寝息が聞こえてくる。  
 相変わらず寝つきのいいやつ、と笑いそうになった。  
 押し殺した吐息を察したように琴子が、のそのそと身を寄せてきて、温かくて滑らかな足が、僕のそれに密着をする。  
 
 あのさ……琴子。まったく、僕をなんだと思ってるわけ?  
 
 そっとあたまを撫でて、つむじにくちびるを落とす。柔らかいシャンプーの香りが、鼻腔をくすぐって胸の奥がどくんとした。  
 琴子って無防備だよね。  
 聞こえないように囁く。  
 もちろんこの無防備さは相手が僕であるが故なんだろうけど。  
 5年前だったら襲ってたかもしれないけど、今の僕は余裕な大人なのだからそんなケダモノみたいな真似は出来ないのだ。  
 後のことを考えると、やっぱりね。怖気づいてしまうんだ。  
 
 
 寝るときに絶対琴子の布団に入ってくるらしいヒャドは、今日はどうしているんだろうとか、どうでもいいことを考えて気分を落ち着けつつ、そっと僕は眼を閉じた。  
 
 
*  
 
 インターホンが鳴ったような気がして、意識が浮上した。  
 だけど薄らぼんやりしたあたまと身体は起きてはくれず、もう一回鳴ったら布団から出ようかと諦め悪くぬくもりにしがみついて、ふと、腕の中に琴子がいない、と気がついた。  
 ぱたぱたとスリッパで小走りに駆ける音がして、彼女はもうすっかり目を覚まして、元気よく動き回っているのだと知る。  
 しばらく後、押し殺したような話声が聞こえてきた。  
 
「…………ら、静かにね」  
「んー判った」  
「で、あんた何しに来たわけ?」  
「姉ちゃんの朝帰りを迎えに。暇だからさ」  
「ばか。お隣だから朝帰りじゃないよ。ね、ちゃんぽん作るけど、イオも食べてく?」  
「食う食う」  
 
 そんな会話を片耳で聞きながら、いつまでも仲がいい姉弟だよなと改めて感じる。  
 じゃあ要をそろそろ起こしてきて、と、琴子のミドルトーンが響いた。  
 
 イオの気配が近づいてくる。  
「要にいー」  
 イオの起こし方は乱暴だ。  
 いい年をして、ダイビング・ボディ・プレスの後に腕ひしぎ十字固めなんてしてくれたりする。  
 これがまた半端なく痛いのだ。  
 危険を察知した僕は、寝返りを打ってイオを仰ぎ見る。  
「……起きてる」  
「あそ。おはよ。昼飯はちゃんぽんだってさ」  
「うん」  
 答えたところであくびをひとつ。  
 喉の奥を見透かされてしまうんじゃないかと思うぐらい大きなそれを終えて、上体を起こすと、あぐらをかいて枕元に座っていたイオが、いつになく真剣なまなざしで僕を見ていた。  
 
「あのさ、要にいちゃん」  
「…………何、気持ち悪いなあ」  
「要にいって、姉ちゃんとヤってんの?」  
 条件反射でイオを殴り倒した。  
 床に額を打ち付けて、イオがいてぇと呻く。  
 琴子を見やると、キッチンでざーざーと水を流してこちらの様子にはまるで頓着をしていない。  
 僕はほっと息をついた。  
「お前な」  
「だってさ、姉ちゃんしょっちゅうここに泊ってくじゃん。とーさんもかーさんも、どうなってんだか心配してんだよ。相手が要にいならむしろ安心なんだけどさあ」  
 で、どーなの、とイオが興味しんしんで、額を床にこすりつけたままこちらを見上げる。  
「ご期待に添える関係じゃないよ」  
「付き合ってないの?」  
「…………付き合ってない」  
「付き合ってないけど、ヤってるとか?」  
「付き合ってないし、ヤってない。……イオ、再起不能なぐらい殴り倒していいか?」  
「ヤメテ、要お兄さま」  
 
 がば、とその身を起こしたイオが、ちょっと目を細めて睨むような視線で僕をまた見つめていた。  
 
「…………二人とも、いい大人だとは思うけどさ。いい加減不自然じゃね?」  
「なにが」  
「そうやってさ、要にいが琴子を甘やかすからアイツ結婚できないんだよ。琴子が要にいに構うから、要にいが彼女作んないんだよ。そういうことだろ?」  
 大人なんだから、ちゃんとしろよな。  
 
 誰に言われるよりも、胸に刺さった。  
 
 家族みたいなもんだろ、甘えて何が悪い、とか。  
 そんなこと、僕が一番よく知っている、とか。  
 じゃあ僕は琴子が好きだけど、あいつにその気があるように思う? とか。  
 今くっついたら、お手軽に済ませたんだ感がぬぐえないよ、とか。  
 琴子と僕がセックスするなんて、琴子とイオがそうするぐらい気持ち悪くはないか? とか。  
 
 一瞬にして様々な返答が頭を廻ったけど、どれもこの場には不適切で、二日言酔いでないはずの頭が痛んだ。  
 
「せっかく、俺が……、」  
 
 イオは何かを言いかけたけど、押し黙った僕をみて、結局はくちびるを引き結んだ。  
 ごくりと唾を飲んだ後、こんなこと言いたくなかったと呟いた。  
 
「ごめんな」  
「イオ―! 要起きた? ごはんもう食べれる?」  
 僕の謝罪を掻き消すように、琴子の呑気な声が、キッチンから響いてきた。  
 
「おー!」  
 イオが張り切った声をあげて、腰を上げた。  
 逃げるように客間を出て行く。  
 
 僕も、それにゆっくりと続いた。  
 ダイニングに足を踏み入れて、キッチンの中の琴子と目が合った気がして、おはよう、と出来るだけナチュラルに微笑んだ。  
「おはよう、要。眼鏡、テーブルの上だよ」  
「ああ、ありがとう」  
 ぼんやりとした視界は、今の気分にとても相応しいけれどせっかく琴子が教えてくれたので素直に眼鏡を装着する。  
 
 手伝うよ、と踏み入れたキッチンは整然と片付けられていた。  
 昨夜二人で散らかした食器類はすっかりと洗い終えられて、水切りかごのなかにきれいに納まっている。  
 まるで、なにもなくなってしまったようだ。  
 昨夜の会話もはすべて夢だったんじゃないかとすら錯覚する。一緒に眠ったことも、すべて。  
 
 ぐつぐつとつゆが煮えたぎる土鍋と、琴子の晴れやかな笑顔だけが僕をぬるま湯の現実へ繋ぎ止めていてくれる気がした。  
 

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