ある日、その少年は鉢植えの麦に水をやる老婆を見かけた。少年は学生であり、暮れなずむ夕暮れの時刻であった。  
何故だか彼は、その鉢植えが妙に気になった。まだ暑い夏の盛りである。  
青々とした麦は、いかにもその強さを示しているみたいに風に吹かれていた。  
そうして、じっとその鉢植えを見ていた少年に、気づいたのだろう老婆が声をかけてきた。  
 
「坊や。この麦が気になるのかえ?」  
 
それは奇妙に古風でしわがれた声であったが、不思議と嫌悪の情は沸かなかった。  
少年は老婆に「鉢植えにするには変わっていますから」と良い、老婆は少年の言葉にむっとしたような顔をしたが何も言わなかった。  
その顔に気づいた彼は、慌てて自分の言葉を打ち消そうとするけれども上手い言葉が見つからない。  
けれども、彼は馬鹿なことをしたら謝らなければいけない、と両親から教わっていたので。  
「ごめんなさい。馬鹿にするとか、そういうつもりはなかったんです」と言った。  
 
「ふん、まぁいいさね。きちんと謝ったんだ。許してやる」  
 
老婆はそう言うと、止めていた水遣りの手を再び動かし始めた。  
その麦はそれはそれは真っ直ぐと伸び、青々として元気が良さそうであった。  
少年は老婆に「きっと元気に育ちそうですね」と言うと、老婆はそんな事は無いさ、と返した。  
何でも、麦も丈夫丈夫とは言われても矢張り植物で、手入れを欠かさないと枯れてしまうのだそうだ。  
「大変ですね」というと、「大変さね」と返された。  
 
その老婆は、A市には今時珍しい大きな日本家屋に一人で住んでいた。少年はたまたま覗き込んでいた、と言う按配だ。  
そして、老婆と話している内に気づいた事だが、あたりには沢山の麦の鉢植えが置いてあった。  
どれもこれも、丁寧に手入れされているらしく、時折萎えているものもあったけれども、押しなべて健康であった。  
 
「見せもんじゃァ無いよ、ささと帰りな。茶なんて出さないからね」  
 
今度は少年がむっとする番だった。だが、老婆はこう続けた。  
 
「超高齢化社会なンだ。老人だって社会に甘えてばっかじゃ駄目。なら、子供が社会に甘えっきりで良い理由も無いじゃろう」  
 
少年はむっ、とはしたが確かに老人の言葉は的を得ていた。だが、そのままでいるつもりも無かった。  
ばっ、と勢い良く振り返ると「ジュース買って来てあげる」そう言い置いて走り出した。  
近くにあった自動販売機で、彼が一等好きなオレンジジュースを買い、振り返って先ほどの家に戻ると、  
縁側に座っていたのは老婆では無く、若い娘だった。  
「さっきのお婆ちゃんは?」と少年が矢張り鉢の世話をしている彼女に話しかけると、「奥に引っ込んじゃった」と返された。  
それは彼にとってひどく残念な事だったが、その娘は彼に「お婆ちゃんにきっとジュースを渡してあげる」、と言った。  
 
それが、彼の覚えている限り六十年も前の事だった。  
この後の事は至極単純で、その娘と軽くお喋りをし、手を振って分かれたのだと思う。  
良くは覚えていない。何故なら、彼がその家を見つける事は二度と無かったからだ。  
 
そうして、老人となった少年は今、布団を被り天井を見つめていた。  
時刻は日もまだ覚めやらぬ頃だ。年老いた彼の身には秋口の冷気は少々辛かったけれども、その日は酷く体が軽く感じられた。  
体を起こすと、なんとは無しに昨日逝ってしまったばかりの妻と共に、春が来る度愛でた桜の花が咲く庭を見た。  
今だ子供達とも暮らしてはいるが一人で見る桜は随分と寂しい、そう思った。しかし、それも一瞬だった。  
ぼんやりと太陽と闇とが攪拌された光景の中に、何時かの老婆が居たからだった。  
そして、彼女は重く、頭を垂れ穂を実らせた麦の鉢植えを抱えていた。  
更に言えば、正座した彼女の膝辺りには空になったジュースの空き缶があるのだから、少し可笑しくなった。  
 
「久しぶりですね」  
 
そう、少年が言えば、  
 
「久しぶりじゃな」  
 
そう老婆が返してきた。  
ことり、と敷居を隔てた板張りの縁側に置かれた鉢植えの音が妙に大きく響いた。  
その腰にはきらりと短い草刈鎌が挿してあった。勿論、それをどう使うかなど老人には解り切っていた。  
解りきっていたけれども、もう少しばかり老婆と話がしたかった。  
 
「麦、良く育ったみたいですね」  
「うむ。少々、虫や病気で苦労した時期もあったが、良く実った」  
「妻の麦は、さぞ美しかったですか?確り(しっかり)と収められましたか?」  
「勿論じゃ」  
「麦の種はきちんと又植えられますか?撒かれないままに捨てられませんか?」  
「間違いなく、狂い無く植えようぞ」  
 
うん、うん、と老人は感謝でもするみたいに何度も何度も繰り返し頷いた。  
老婆が言った。「何時かの礼をしたい。心残りなぞ無いかえ?」  
老人は少しばかり考えて答えた。  
「妻は、子供が産めない体でした。今の子供達も立派に育ちました。彼らも勿論私の子です。ですが、それでも彼女との子が欲しい」  
老婆は少しばかり難しそうな顔をしたけれども、頷いた。  
老人は何度も何度も頷いてありがとうありがとうと礼を述べた。  
 
老婆は礼を繰り返す老人に向かって、刈り取る前に一言。  
 
「確かにこれで借りは返した。いや全く、世の中坊やみたいな人間ばかりだと助かるんじゃがな」  
 
 

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