そこから先。  
 知らない世界。  
 都がそこへ巧を引っ張りこもうとするのを巧は身体を捻って逃れ、その時、ポロッと涙  
をこぼした。  
「あれっ……なんだこりゃ」  
 抵抗をやめて、何が起こったか確かめようとする巧を、都はなんなく押し倒し、その時  
にその涙に気付いた。  
 二人の動きがそれぞれの感情に縛られて止まっていく。  
 都は我に返ったように目を見張り、その雫が自分の手の甲に流れ、染み込んでいくのを  
見つめた。  
 一方の巧は、原因もわからないまま、ともかく涙を都に見せてしまった事で恥ずかしさ  
に顔を赤くし、思いきり都から顔を背けていた。慌てて、  
「姉ちゃん。約束、したからな」  
 苦し紛れではあったが、なんとか言っておくべき事は言えたので巧はほっとする。  
 今のはナシにしておくから、やめようと。  
「ごめんね……」  
 都が、そう言ってベッドから下りた。靴を結局脱がないまま。消え入りそうな声とうつ  
向いた姿に悲痛なものを巧は感じた。  
 
 それを気にしつつ、どの意味なのか巧が考えていると、都はそれを取り繕うかのように、  
「サッカーしばらく、できないよね。……ごめんね……」  
「んー……まあ」  
 巧は少し迷ってから、姉に笑顔を向けた。  
「ま、それに関しては……。試合に出られないのは痛いけど、同じくらい姉ちゃんもきつ  
かっただろ? って事にしとこうカナ。姉ちゃんには落ち度はないって事。なっ」  
 その巧の示唆は都には意外だった。巧にそう思わせたものを、都自身はあまり自覚して  
いない。  
「私の痛み?」  
「って姉ちゃん。俺がいらんことを言ったから、バーストしたんじゃないの?」  
「私は……、昔からずっと、変わらない。変わってない」  
「もしそうなら……」  
 何か言おうとしてみたが、巧はそこであきらめた。  
   
 都の最後の言葉は何か異様な重さを感じさせた。  
 そのせいで巧はその後、都がいなくなって消灯になるまで悶々とし続ける。  
 その間には、入れ違いにやってきたはるか、律儀に見舞いに来たサッカー部主将の遠山、  
話を聞き付けておちょくりに来たナンパ仲間、どんどん増えてたまっていく彼等の相手を  
複雑極まる面持ちで勤め、疲れ果てることになった。  
 
 それは余計な事を考えないで済むぶん、巧にとっては楽だった。  
 ひとりになるとすべてがぶり返してくる。  
 そして何もかもないまぜにして抑え込んでいるうちに、朝を迎える。  
   
 さすがに今朝は姉が来ないということで、巧は肩の荷を下ろしたように開放的な気分で、  
顔馴染みになった看護師達と接していた。もう医師の話を聞いて家に帰るだけ(のはず)  
だ。その優雅な時間に、今度は環と由美が押しかけてきたのだった。  
 少しだけ戸を引いた隙間に環と由美の頭がひょこひょこと覗いたのを見て、巧は肩をが  
っくり落とした。  
「あのー、先輩方。なにしてんの?」  
「学校なら大丈夫。私ら熱出して寝てるから」  
 環が微妙に赤い顔で言うと、  
「にゃっはっは、今頃都ちゃん、あたしたちのこと気付いてバーストしてるかも。あ、ジ  
ュース買ってきてあげるヨ、何がいい?」  
 由美が財布をじゃらじゃらと鳴らしてにんまりと微笑んだ。愛敬のある顔でそういう事  
をするので、小悪魔という感じが強くする。  
「ありがたいっす。オレンジスカッシュがこの階にあるから、それ」  
「ちょっとぉ、朝食時なのよ、巧くん」  
 タイミング悪く、トレイを持ってきた白衣の高野が頬を膨らませて巧を睨む。  
 
 それを由美がめざとく、  
「あっれ〜、「巧くん」だってえ? 巧クンのえっちぃ〜、看護師さんに何したのよう!」  
 笑い出しそうな声でつっついた。  
 高野に目を向けると、少しどぎまぎした表情をごまかすように、  
「今日は妹さんだったりするのかな?」  
「うーん、おしい」  
 環がしたり顔で答えると、  
「おしくないよっ」  
 明らかに自分の事だろうと由美が反応する。  
 巧はここは高野を助けてやる。  
 ナースセンターで話題にされていることは気付いていたから、彼女がその延長で「巧く  
ん」とうっかり呼んでしまったのだろうことは、看護師達の会話を想像しつつ思う。  
「検査の結果ってもう出てるんだよね?」  
 それを聞いて高野は、  
「あ、うん。でも一応それはセンセイに聞いてね」  
 巧の朝食のトレイを適当なところに置いて、手をひらひらさせながらそそくさと退散し  
ていった。  
 それを環と由美は二人揃って、ジト目で見送り、  
「……それで、年上キラーの巧くん?」  
 二人揃って、巧ににじり寄る。  
 
「都と二人っきりはどんなもんでしたかな?」  
 たちの悪い質問だ。  
「うるさいな、あんたたちはもう、しっ、しっ、そういう人達は退場っ」  
「ご挨拶ね、あなたをこの世で一番愛しちゃってる環様にこの仕打ち……そのうちウチの  
女子バス一年の誰かに刺されるわね」  
「女王様なんだっけ?」と巧が反応すると、  
「おしいっ!」  
 これは由美だ。  
「おしくねえ! 由美、退場」  
 環が喚いて、暴れる。  
 その隣りで、「退場」の言葉に「あ」と何かを思い出したように、由美が行動を起こし  
ていた。  
「ちょっと散歩してジュース買ってくるねっ」  
 由美がそのままさっさと病室から出ていく。それを見た環の方も用を思い出して構えた  
風に、巧には見えた。  
 どうしたのかと環に聞こうとすると、環の方から来た。  
「都お姉ちゃんの唇は堪能できたかね?」  
「げっ」  
 直球ど真ん中の発言に、巧は環の表情を窺った。環の表情は「見た」と言っている。  
 どっちを見たのか?  
 
 それによっては巧の足場に関ってくるのだが、環はそんな巧に、  
「実は昨日も昼休みに抜け出してきたんだあ。そしたらあろうことか」  
 環らしい、悪戯っぽいにんまりした笑みを巧に近付け、  
「眠ってる巧くんに都がちゅーって」  
「こらっ、そこ、再現しない」  
 そのまま口を押し付ける環を巧は手のひらで押し返した。  
「ああっ、ひどい」  
 「傷付いた」ポーズで腰をひねる環に、  
「ややこしくなるから、ちょっとかんべん」  
 巧は頭を抱えた。  
「うー、まったくあの人は……やったんじゃないかと思ったんだよ。起きたらなんか、  
反応あやしかったし」  
「…………その口ぶりだと、それ以外にもヤッたのね」  
 先の反応で、複数回であることがばれてしまっている。  
 環は少し熱っぽく更に巧に迫った。  
 妙な迫力を感じ、巧はベッドの上で後ずさりする。  
(やべ、昨日の姉ちゃんとおんなじ……)  
「あ、あのね、環さん。俺実は話があって」  
「なあに。告白でもしようっていうの」  
「うん」  
 
「へっ……?」  
 環が、欲しいとは思っているが、もらえるとは思っていない言葉だ。  
 環は巧の本音を探ろうと、あらかじめ由美に言い含めておいて、今朝の襲撃を考えた。  
 それを思い出す。  
 臆面もなくうなずいた巧に視線を合わせたまま、表情の作り方を忘れてしまって、環は  
ただ顔を赤くしていた。  
 巧が都にどのくらい近付いているのか知りたかったのだが、自分の気持ちを試すつもり  
ではなかった。  
 だから、巧の言った事が一瞬わからなかった。  
「環さん、俺と付き合ってくれる?」  
 巧は、環に近付き過ぎないように注意深く、体勢を立て直す。  
 由美がちゃんと扉を閉めていったので、心配はなかった。  
   
「どういう、意味で?」  
 環は、おそるおそる言葉を返す。信じきれないでいる自分を感じる。  
 大部分は女の子だったが、告白された事は何度でもあるし、した事もある。それとは別  
物のような、深く震える感じ。それを巧から隠せているだろうか。  
「極端に言えば、俺環さんと一緒に暮らしたい」  
「巧くん……キスしていい?」  
 返事の終わらないうちに身体を近付けていくと、巧は慌てて、  
「わあっ、えっと、その、うん」  
 
 言葉が終わる前に、唇が巧の唇に軽く触れる。じっと巧の目を見て、すぐまた今度は少  
し強く触れた。いつも冗談半分で襲っていた巧の唇の、本当の柔らかさに触れた気がして  
魂が震えるような思いだった。そして、  
「私のことが好き?」  
「好きだよ」  
 巧にそれ以上の事を言わせないで、今度は口を開いて巧の唇を吸った。そしてまた巧が  
反応する前に離れて問いかける。  
「都より?」  
「待った……なんで姉ちゃんが出てくんの……言いたい事はわかるけど、俺は男と女の話  
……環さんだけ……」  
 巧の言葉を遮るように何度も巧の唇を襲った。  
 そのたび途切れた言葉をつなぎながら、巧が気持ちを伝えてこようとしている。  
 それを次々と愛しげについばんでいく。  
 巧のそれは間違いなく本音だと環には思えた。  
 繰り返す口付けのたびに巧の唇が開いていって、やがて舌と舌が擦れた瞬間に、二人は  
身体をぶつけあうように抱きしめあって、布団の上に転がりながらお互いの舌を味わいは  
じめた。  
(巧くんの熱くて柔らかい舌、巧くんの唾液、巧くんの本当の気持ち)  
 環の口の中にそれが流れ込んでくる。  
 そして動き回る舌に口の中をかきまわされる感触が、環の身体の奥に熱いものを呼び覚  
ましていった。  
 自然と身体が、巧に押し付ける動きになってしまう。  
 
 発達した胸と、白い太腿と、そして熱い部分が巧を求めている事を、巧の身体に教えて  
いく。  
   
 その動きが激しくなったために、巧はめくるめく口付けを中断せざるを得なくなってい  
た。  
 なぜなら……  
「た、環さん……」  
「ふふっ、わかってるわよ、巧くんの感触」  
 二人の唾液で濡れ光った唇を動かして、環が、  
「ごめんね。早いとこ用事済ましちゃって、こんなとこサヨナラしよ」  
「あっ、やべ、そろそろ時間かも」  
 検査の結果は聞かなくてもわかる。手続きという煩わしいものに一応付き合わないとい  
けないだけだ。  
「今さら言うのもなんだけど」  
 環が、落ち着きのない様子で、  
「ここは頑張ってスイッチ切っちゃうね」  
「環さん、ばっちり入ってたよね? なーんか、しおらしい環さんって、かわい……」  
 そういう巧に、格にもなく環は照れて唇を押し付けて言葉をちぎった。しかし、  
「……巧くん。ひょっとして都にそういうからかい方、してないよね?」  
「えっと、……この怪我を御覧ください」  
 巧は憮然と右腕を動かした。  
「なるほど。そういうことなんだ。……私でも怒るかも」  
「あ、ひっどいの。でも俺、環さんはからかってない」  
「そういうことにしときましょ」  
 
「ちぇっ」  
   
 その後も環は椅子ではなく、巧に並ぶようにベッドに腰を下ろしていた。  
 今までの事を、差し障りがない程度に話している。  
 放課後の馬鹿話や、巧が都を怒らせる数々の方法。環も、巧が知らない自分の話をする。  
中学時代の環たち三人の話。  
「けど、ひどいことするわねー」  
「環さんが姉ちゃんにいらんこと言うからいけないんだよ」  
「巧くんでしょ。……でも都のやつは、ほんとに勇者だって事がよくわかったわ」  
「正直言って、ちょっと怖すぎ」  
「なにが」  
「入院初日にさ、実は一回目」  
「黙ってさせてたの?」  
 これは率直な環の気持ちだろう。巧は少し嬉しく思う。  
「うとうとしてたんだよ、いきなりだったし、そのあと姉ちゃん速攻で逃げるし。まった  
く。そんで次の日頑張って起きてたけど寝ちゃった隙に環さんが見てたっていう……」  
「笑えなかったわよ、あれは」  
「そのうち俺、犯されちゃうカモ」  
 巧のオカマポーズに、環は軽く拳をぶつけながら、  
「わかった。それで私に……」  
 
「違う!」  
 巧が急に大きな声を出してから、自分で気付いて、  
「と、ごめん、違わないかもしれないけど、別に姉ちゃんから逃げる口実で環さんに声か  
けたんじゃないからね。前からすごく気になってたし、環さん、その、すぐ引っ付いてく  
るから、胸とか……じゃなくて」  
 そこで一旦言葉を切る。そうすると、続く言葉は決まっている。環は巧の視線を精一杯  
正面から受け止めた。  
「環さんが好きだから」  
「あー、わかった、ごめん、面倒くさいこと言わせて。私はね、両方ありだと思うから、  
それでいいのよ。それと、わざわざ改まってちゃんと言ってくれるのはやっぱり巧くんだ  
なあ。……ありがと」  
 そう言ってそのまままた、スイッチが入りそうになるのをこらえている。  
「じゃあ、私も言っとくね。実はね、入学してくる前から巧くんの事知ってたし、好きで  
した」  
 その一見、いつになくいっぱいいっぱいに見える環の告白の有り様に、巧は環の本質的  
な魅力を十分に感じることができた。素直で、自分を隠そうとしない。そしてそれが男心  
を震わせる見事な肢体に納まっている。すべてがバランスよく外側を向いている。巧が本  
当に欲しかったのはやはりこういうものなのだ。  
「環さん、ウチ来た事あった?」  
「何回か、ね。都が巧くんの話嫌がるから、そん時から怪しいと思ってたんだ」  
「信じらんねー、姉ちゃん」  
「その時は巧くんまだ子供だったからね」  
 
「二つしか違わないじゃん……」  
「凄く違うわよ。それに比べたら高校入って来たときの巧くんって……」  
 そこまで言って環は真っ赤になって口を手で押さえた。  
「ほんと、環さんのそういう普段あんま見せない女の子っぽいとこがたまんない、俺」  
「普段はどうだって?」  
「普段は女の人って感じ」  
「ふーん」  
 環はその曖昧な感想に、曖昧に微笑む。  
 それを見て巧は、気持ちの整理が案外簡単についた事を環に感謝したい気持ちになって  
いた。  
   
『この後、巧くんの部屋に連れてってね』  
 年輩の看護師が現れて巧を連れていった後、環は自ら話の最後に巧に持ちかけた言葉を  
思い出して、ひとり赤くなっていた。奔放にふるまってはいても、環とてバスケット一筋  
の高校生活を送って来た、さほど経験もない普通の少女に過ぎないのだ。  
 巧と、巧の部屋ですごす。  
 都の親友をやっている以上そんなことはしないだろうと漠然と思っていたのに、他なら  
ぬ都の暴走から機会を得る。  
 布団に残った巧の熱に触れながら環は、あの巧との口付けの時の都を思い浮かべる。  
 
 

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