「アレッ、巧クン環ちゃんはぁ?」
一階に降りたところで由美が巧に声をかけ、看護師の後について、巧に並んで歩いた。
由美の手には当然のようにジュースも何もない。
「せっかく二人にしてあげたんだから、ちゃんとイイコトしたぁ?」
「あのね……。まあ、いいや、おかげ様で」
巧は思わず開き直って答えてしまった。
由美はそれを見のがさず、にんまりと笑うと、
「巧くんと環ちゃんがくっついちゃえば都ちゃんもあきらめるでしょ」
そう、とどめをさすようなことを言った。
(うう、筒抜け……というか)
「ひょっとして由美さん、後ろで糸引いてましたね?」
「えへへ……」
「褒めてないっす」
「えー」
「だって由美さん、基本的に遊んでるでしょう。あーくそ、またあとで」
そう言い残して、看護師と共に外科診察室に入った巧を見送りながら、由美はその背
中へべーっ、と舌を出して笑った。小さな声で繋げる。
「都ちゃんのためだもん」
環は、由美が戻ってくるとすぐに由美に頭を下げて追い出した。理由は言うまでもな
いので、「交換条件」有りで意気揚々と由美は帰っていく。
「あーもう。入っちゃえ」
朝まで巧が使っていた布団の中に、無頓着に服のままで潜り込む。顔を隠したい。
環は主に恥ずかしさで頭を抱えていた。全部報告する事になるに決まっているからだ。
都のキスを見たせいで、性急になっていたのかも知れない。思いあまって由美に作戦
立案を「依頼」した。とにかく由美は、たぶんなんでもわかっている、常識はずれに利
口な友人だったから、今まで何度も助けてもらって、今また究極に危うい問題をゆだね
ているのだ。
多分由美は誰がどうするべきか、どうしたらどうなるのか、もう全部わかっている。
それをすべて話してくれるということはないだろうが、環に不満はない。本当に危うく
て、助けなければならない時は由美は言ってくれる。
(巧くんに振られちゃったら、代わりに愛してあげるからね、由美)
環はそんな悪戯っぽいことを久しぶりに思った。
「……なにしてんの、環さん」
突然、巧の声がした。現実に引き戻されたのか、夢の中に引き込まれたのかどっちだ
ろうかと思いつつ、愛しい相手の声を聞く。
「やだ、巧くん女の子の部屋に入る時にはまずノックでしょ」
「あのね……着がえるからちょっと出ててください」
「あら、他人行儀じゃない」
「見たいの?」
「うん」
「…………い、いいけど」
(あれ?)と、環はその巧の反応に少しだけ違和感を感じ取って、一瞬首を傾げる。一
瞬。すぐに環にはわかってしまった。環の意識もそこに引き寄せられていたのだから。
巧は、さっきの約束をとても意識しているのだ。
少し胸が熱くなって、環は熱くなったところを手で押さえた。
下着を脱ぐわけではないので、巧にとっては別に恥ずかしい事ではない。
とそこで肝心な事に気付いて、
「あのー。手伝ってもらっていいです?」
出てて欲しいと言ったり、手伝えと言ったり。いつもながら行き当たりばったりで気
ままなものだ。そう思い、そしてそれが果して環にどのように思われているのか、この
とき初めて巧は意識した。
環が即座に「えっへっへ、触ってもいいのね」と飛びつかなければ顔を強張らせてし
まっていたかもしれない。
「巧くん、身体薄いね」
「こういうの嫌い?」
「ううん、あたしマッチョってだめだから。ていうか巧くんの身体の線ってセクシー」
そんなことを言われても、とっさに反応ができない。
(かっこわりぃ、俺)
女の子に服を着せてもらっているからではない。女の子の顔色をうかがっているから
だ。外科診察室でも、巧は医師の説明を上の空で聞きながら、まだ見た事のない環の裸
のことばかり考えていた。胸や太腿の形や感触、そして……。身体を重ね合わせたらど
うなってしまうんだろう。環は何を思ってくれるんだろう。
受け入れてくれるだろうか。一度きりの、一ヶ月前の体験の記憶に縋る。しょうがな
いことではあっても、巧は情けなくて、平静を装うので精いっぱいだ。
(本当に今日、本当に?)
そういうこととは限らないじゃないか。そうして、着替えが終わってもぼんやりして
いると、
「心の準備はできたかね?」
覗き込む無邪気な顔があった。
その環のこともなげな言葉に、巧は救われた。本当にあっという間だった。いつもの
自分が巧を動かす。
「片手じゃ出来ない事は要求しないでくださいね」
そう環を覗き返して、行き掛けの駄賃で唇をさらう。
「ああっ」
笑ったまま環は反撃し、巧の唇に軽く歯を立てると、巧の荷物を抱えて廊下に走り出
た。
世話になった医師や看護師の人達に頭を下げ、見送られる。
後ろから巧に抱き着いて急かす環の態度はこっ恥ずかしくくすぐったい。それを後ろ
に追いやりながら、なぜか真顔の看護師の高野の、環に送る視線を追い、(あ、やっぱ
りちょっとはそうだったのかな)と意識を引っ張られる。だがそのことは、それを嫌が
るように露骨に抱きとめる環の胸の感触、その心地よさを欠片も揺るがすことはなかっ
た。
とにかく思いがけず入り込んだ場所から日常の中へ帰っていく。
そして、約束の場所へ近付いていく。
今は二人で、待鳥家へ向かって歩いている。
「はるかはテニスで晩飯の時間、姉ちゃんは定時としてまあ、四時半? 親父はここん
とこ毎晩午前様、つまりオールオッケー」
「なあに、まるまる四時間いっしょに過ごせるって? エッチな巧くんはあたしと何を
したいのかな?」
「セガラリーの二百周耐久アタックとか」
とっさに思い付いたのはなぜかレースゲームだ。
「よし、それでいこう! 負けた方が御飯作るのよ」
「…………ごめんなさい、うそです」
環のあんまりといえばあんまりな反応に、あっさり巧は泣きを入れた。
「ていうか、環さんのつくる飯って……」
「失礼ねー、それに勝つ気でいるの?」
「そうですね、まるまる一周ハンデつけましょう」
「要らないわよ」
「ま、それでも俺が勝つけどね」
「そこまで言うなら、もっと賭けようか?」
話を戻したつもりが沽券をかけた勝負のようになっている。そんな場合か、カッコよ
くエッチ方面に持ち込もうと意気込んだ時、
「負けたら一生巧くんの言いなりになるわ。どんなことでも」
環があっさりそんなことを言った。
巧の頭の中は真っ白になった。あまりに真っ白になったので、
「そういえば由美さんは?」
そんな馬鹿な事を聞いていた。そしてそれなのに環は、一瞬虚をつかれたような妙な
表情をする。
巧はそれを見て、さっき病室で我を取り戻すきっかけになった環の一言や、今の環の
積極性が、すべて由美の扇動によるものではないかと思った。
(由美さんのことをこれからチャッカマンと呼ぼう。……心の中でだけど)
結果として悪い事は何もないのだ、しかもこんな勝負じゃ、負けるなんてあり得ない
のだし。
病室で感じたような切迫したものではなく、ドキドキとワクワクが混ざりあった高揚
感。
それを分け合っている相手に、巧はその重力から脱出不能なところまで深く引き付け
られていくのを感じていた。
一生という言葉をあんな風に使う環の奥底はまるで見えない。
待鳥家の門や玄関、二階の都や巧の部屋に続く階段やトイレ、それらを環はとてもよ
く憶えていた。三年になってからは初めて訪れる。
少なくとも都の部屋へは何度も入った事があった。三人仲が良くなってから、いつも
由美と一緒に。
都の部屋は巧の部屋よりも奥にある。さらに奥にある妹はるかの部屋との間。
家の造りは大きい方だろう。二代前の実家が裕福だったからだとか、環は多少のこと
は都から聞いていた。正確には由美と二人で根掘り葉掘り聞き出したのだが。
今。
環は巧と共に待鳥家の一階のリビングにいる。巧が片手なので、環が手伝って紅茶だ
のケーキだのを用意していた。ケーキは環が道中で買ったもの。ポテチを選択したいと
ころだったが、「コントローラが汚れる」というもっともな理由から却下。もう、すっ
かり二人とも臨戦体勢である。
「片手? 問題ないって。マイハンドルだし」
とハンドルコントローラを持ち出してくる巧を見ているうち、環は笑いが止まらなく
なった。
「一周プラス片手がハンデでOK?」
「コースも環さんにお任せ」
さっきからまるで考えていることを隠しきれていない巧がおかしくてたまらない一方
で、その様子から本当に欲されているのがありありとわかってしまう。環はそのことに
少し胸をつまらせる。
勝っても負けてもその後に待っているものは同じだ。
(巧くんはそうは思ってないだろうなあ……)
アナログスティックを親指でぐりぐりと回しながら、少し緊張している身体をほぐし
てみる。空いた右手を胸に持っていって、服の上から軽く揉んでみた。想像をめぐらし
てやると、じわりと湧き上がってくるものがある。心地よいかすかな快感を楽しみなが
ら、リビングの大画面テレビにセッティングされていくゲームマシンと画面上の疑似世
界に視線を向ける。
「あのう、環さん?」
「なあに?」
「一体何をしてらっしゃるんで」
「ふふっ、準備運動、かな」
「それって……」
絶句して顔を赤くした巧を見て、環はそれ以上巧をからかうようなことはするまいと
思った。そういうつもりでしたんじゃない。ただ気を落ち着かせたかったのだ。それが
リラックスするのに一番お手軽な方法だったというだけで。
「俺、勝つからね」
その巧の一言を背に、画面にカウントダウンの数字が躍った。
「環さん……」
「なあに?」
ほとんどうめき声で、巧はじったりと環を見た。
「ハメましたね?」
「巧くんてば、情報収集が甘い」
へたった巧の横に立ち上がって、環は胸を張ってくっくっくと見下ろす。
その強調された胸を、怨めしそうに巧が見上げた。
二百周どころか、七十周ほどで巧はギブアップした。その時点で環は巧を四周の周回
遅れにしている。差し引き三周のリードだ。
「まさか、この時のために密かに陰練積んでた……なんてわきゃーない」
巧はハンドルを握ったまま、まだ固まっている。
「ありえねー」
「はいはい、勝負はあたしの勝ち」
「ひでー……」
言い続ける巧の頭を撫でたくなるのをこらえ、
「とりあえずお茶入れ直してもらおうかなっ」
ソファにひっくりかえって、その時予想外の巧の言葉を聞く。
「前の彼氏とやってたとか?」
「えっ……うん」
とっさに声に出してしまったが、環は巧の方こそ言ってしまったことを後悔し、気ま
ずそうにしているのに気付いた。
かぶせてしまわなきゃ、と思い、
「巧くんはそういうの気にする方?」
まっすぐ巧の顔を覗き込む。
ずるい聞き方だ。だからさらにかぶせて、
「ううん、ごめん、彼氏じゃない。ちゃんとつきあった憶えないし。巧くんにはつきあ
うって言ったよ?」
「わかった」
巧はそう笑って、いつもの悪戯っぽい表情にあっさり戻った。
こういう勘の良さも環が巧を好きな理由だ。巧がそういう嫉妬じみた言葉を使ったの
は正直意外だった。そこにはむき出しの心がある。それはころころと表情を変えていく。
本能的に隠し事をしないでいられるのだ。震えそうになって巧の身体を支えにする。
「環さん、苦し──」
これは全部あなたのものだと、環が体重を巧に載せていくと、巧は熱い眼と息とで迎
え、環を抱え上げようと腰を上げた。
環がそれを制していっしょに立ち上がると、身長の極めて近い二人の顔は、普通にし
ていても目の前に向き合う事になる。
一時も間を置かず、唇を捻り込むように突き合わせ、たちまち舌を絡めあった。肩や
背に拙く動くお互いの手がもどかしい。
巧が足を動かしたので、環はそれに合わせて身体を引いた。一歩また一歩と空間をず
らしていく。意思が通じているのを感じる。唾液に混じるクリームの甘味や紅茶の渋味、
それもまた相手の個人情報の一部だ。二人でいっしょに食べて、飲んだ。
相手の唇と舌を貪り合いながら、ゆっくりリビングを横切っていく。掛け時計のムー
ヴメントの音が横へ流れていって、巧の右手がドアに当たって確い音をたてるのを聞き、
環は手さぐりで乱暴にノブを回す。少しだけリビングより冷たい空気が流れ込んで来て、
こっちだと行き先を告げている。
環は巧の怪我を気遣わない。巧とのくちづけに溺れる事が環の誠意だ。少しずつ歩く
角度を変え、階段の方へ。そうする間にも、環の身体は痺れ続けていた。もう身体の中
は熱いもので溢れている。二人分の布地越しに、巧の硬く盛り上がった股間が触れてき
て、離れる。その度にスイッチが次々に入っていく。
後ろ向きだった環の踵がやっと階段のステップに触れた。快楽へ駆け上がるための階
段。そう思った次の瞬間には、環は本当に駆け上がって服を脱ぎ捨てたくて、巧に訴え
かけようとしていた。顔が熱い。だが、巧の方が早かった。
「環さん、行くよ」
その言葉尻が流れてしまうほど急に、巧が左手で環の手を取り、駆け上がりはじめた。
転びそうになりながらも追随する。環は、その勢いに呑まれる事を身体の奥底から望ん
でいた自分を、祝福した。
巧の部屋の扉が目の前で開いていて、ベッドは目の前にある。