環の涙に気付いた時、巧は真っ先にそれを吸いにいった。  
 涙の理由は問わない。どうあれ、これからはすべて一まとめにして環を包み込むから  
だ。胸が詰まる。手を触れてはいけない美術品のような存在だった年上の美女に、「好  
き」と言わせたうえその日のうちにたちまち裸をさらけ出させて、声を上げさせ、乱れ  
させた。その現実味というものがやってこない。だからこそ巧は大胆に行動し、饒舌に  
囁く事が出来る。  
 しばらく体重を完全に環に乗せて、たわむ胸の感触を堪能した。巧が身体を動かすと  
それに合わせてしっとりと熱く張り付いてくる。環の吐息も添えられるとまるでぬるま  
湯に漂っている気分だ。アルバイトなどやったことはないけれど、この行為だけでも丸  
一日の労働分の価値はありそうだ、などと不埒な事を考えてしまう。  
「環さん、平気?」  
 唇に軽くくちづけてから、頬を擦り付けるように頭を隣りに落とした。質問の意味は  
二つだ。環は両方に応えて、  
「とってもいい気持ち。巧くんの重さがすっごくリアルなの。それに……」  
 少しはにかむような逡巡があって、  
「肌触りがね、女の子みたいに柔らかくていいんだ」  
「……なにげに失礼な事言ってない?」  
 
「あははっ、褒めてるのよ? 好きな相手をもっと好きになれるとこ、ひとつ見つけた  
んだから」  
「確かに上半身はまるで鍛えてないけどね」  
 と巧は拗ねたように息を小さくついた。でも、十分に心をくすぐられていて、顔を緩  
ませてしまう。  
「まだまだ知らない事の方が多いし、楽しみにしてるね?」  
 と、環が顔を横に向けてきて、頬にちゅっとやってきた。  
 頬に与えられた感触に痺れながら、さすがに欲情の嵐から解放されていた巧は、そこ  
で後始末に思い至り、身体を横に逃がす。  
「巧くんこそ右手大丈夫なの?」  
「あー、なんか、夢から覚めてシクシク痛くなってきた感じカモ」  
 くちづけをやりかえして身体を起こす。  
 そして聞きにくかった事を聞いてみた。  
「ところでさ。環さんって、女の子好きでしょ」  
「あー」  
 環はしばしそのまま言い淀んでいる。  
 言葉につまったせいか聞かれた内容のせいか、多少バツが悪そうにしながら、  
「隠してるつもりもなかったんだけど。嫌いじゃない、くらいだよ、ほんと」  
 それでも言えたことにほっとする様子で、  
「そうだね。別にどっちでもよかったの」  
 どっちでもというのはもちろん、男でも女でもということだ。  
 
 環がちょっとだけ怯えるような眼をして、顔を寄せて来る。正直に言ってみたけど受  
け入れてもらえるか不安、そんな顔だ。  
 そんなに変なことじゃない。心配はいらないし、それに。それは環らしさの一部だ。  
「俺は、環さんが別に俺だけじゃなくてもいい」  
 巧はフォローのつもりでそう言ったのだが、環はそう受け取らなかったらしい。巧の  
胸に手を当て、少ししつこく撫でてきた。  
「服だって革鞄だって、無理すると歪みが出るじゃない、気持ちだって同じでしょ?   
今環さんがどのくらい俺の方を見ててくれてるのか、それなりにわかってるつもりだけ  
ど、自分ではどうしようもないことってあるし、そういう部分を縛り付けるとしたら」  
 まるで責めてるみたいじゃないかと、心が痛い。  
「それって、恋愛感情以外のものが入ってるよね。虚栄心とか、物欲とか。結婚とかの  
制度的な損得勘定もだけど、俺は現実的になりたくない。だからさ、環さんが好きなの」  
「巧くんって、年いくつ?」  
 環が楽しそうに笑う。  
「そういう意味では都も巧くんのお眼鏡にはかなうんじゃないの?」  
「あのさ、冗談でもそれは言わないで欲しいんだけど」  
 こういう返し方をされるとどうにも情けない声になってしまう。  
 
 環もそこのところは汲んでくれて、  
「あははっ、ただの言葉遊びよ。こういうのは由美が好きなんだ。──あのね、お肌に  
関しては確かに、女の子は好きだけど、なんか女の子は飽きたっていうか。私は女の子  
に愛される趣味はないし、こっちがちょっと触ってやると簡単に気失っちゃうし、手し  
か使わないから、手を洗ったらもうね、忘れちゃうし、何も残らないし」  
「なんか聞いちゃいけないこと聞いてる気がする……」  
「するとね、その度になんか気持ちが凍えそうになっちゃうの。あの子達を玩具にして  
るだけなんじゃないかって思う。だから近付かないほうがいいのよ、もう。ただね、自  
分の中で由美だけはなんか違ってるんだ。首傾げたくなるくらい頭いいし、見すかされ  
るっていうか、空恐ろしくなるくらい。ほら、『ラプラスの魔』みたいな人っているじゃ  
ない」  
「いや、そんなの存在しませんて」  
「そんな由美がね、私が困ってるといつも助けてくれて──あ、私と由美は実は幼稚園  
からいっしょなのよ」  
 環の怪しい告白を聞いている間、巧は天井や壁と環の顔を交互に見て、ぐるぐると思  
考を巡らせていた。その視線をこっそり、裸のままの環の身体に寄り道させながら、  
「へー。姉ちゃんは?」  
「都はね、確か中2からよ、うん」  
「なんか、なんとなく距離感でわかる気がする」  
「そうかね? ふふ、だからね、私は由美にだけは抱かれてもいいと思っていたの。今  
はもう、巧くん以外にそんな気にならないけどね」  
 
 環は“にっこり”と“にたり”の中間のような笑いを見せた。  
「そ、そーすか。姉ちゃんはどうなの」  
「都はまたちょっと違うよね。私にとっては親友。それ以上でも以下でもありません。  
でも、あの子を傷つける奴は絶対許さない」  
「怖いって。俺も気ぃつけないと」  
「巧くんは初めからそんなことしないでしょ? 私に言おうとしてるの、そのことなん  
だよね」  
 それはその通りだ。  
「……まいるなー」  
「ちょっと聞いたけど、最後まで聞かせて」  
「恥ずかしくって死にそうっす」  
 だが、どのみち現実味がまだない今しか、言う機会はないのではないか。環もまっす  
ぐ巧を見ている。なにひとつ見誤らずに受け取ってくれるだろう。  
「ほれ」  
「乳首で催促すんの、やめて……」  
 それを聞いて環の笑いの“にたり”度が高くなったので、巧はやる気になった。  
   
「初めてじゃなくてごめんね。環さんは年上だから、俺は全然気にしないけど、俺、初  
めてってほんの一ヶ月前だったから」  
「……うん」  
 
 その反応だけは窺っていて、大丈夫そうなので、巧は後は続けて話してしまう事に決  
めた。  
「初めてじゃなくてよかったなーって思っちゃったから。もし今日が初めてだったら俺、  
みっともなくて立ち直れなかったかもしれない。それでもかっこ悪かったけど」  
「あ、待って。言わせて?」  
 環のほうからポーズがかかった。  
「巧くん、思い違いしてる。私もそんなに男性経験ないの。場慣れしてるのは認めるけ  
ど、だから、初めてだったの」  
 声が極端に小さくなった。  
「初めてイッたの、巧くんが初めてイカせてくれたんだからね。すごく嬉しかったんだ  
から」  
 巧はここで環の涙の理由を正しく知った。巧の取るに足らないプライドのために恥ず  
かしいのをこらえて言ってくれた気遣いも。  
 やっぱり、何一つ隠さずに言ってしまいたい。  
「環さん、ありがと」  
「って、どこにお礼してんのよお」  
「だってこれに催促されたんだもん」  
「ひどっ」  
 といいつつ環は笑っている。それがとてつもなく優しい微笑みに変わっていくのを見  
ながら、巧はくわえた環の乳首を舌で一なめした。  
 
「あっ……、ちょっと、違うでしょうが」  
「だって、なんかもう、今日は出し過ぎだからこっちだけでもと思って──嘘です」  
「そういう下品なこと言う巧くんはキライ」  
「ごめんなさい」  
「冗談よ。私も言えなくなっちゃうじゃん」  
「あのね……」  
 そういうやりとりがやはり楽しかった。断ち切りがたかったが、巧は言葉をつなぎは  
じめる。  
「姉ちゃんのこと、責任は俺と環さん二人にあると思うんだけど」  
「そう……かな?」  
「俺気付いたもん。環さんが俺にちょっかい出してくる時って、いつも姉ちゃんがいる  
時なんだよね。挑発しすぎ」  
「あは……なかなか鋭いじゃない」  
「笑い事じゃないっす。でも俺のやったことの方が笑い事じゃない」  
「そうなんだ?」  
 環は巧のやったことを具体的には知らない。  
 だからかいつまんで白状した。『欲情してる?』などと聞いてしまったことも、押し  
倒したことも、『慰めてやる』なんて言ってしまったことも。  
 
 思えば環達に出会うまでの悪戯はかわいいものだった。それが環の挑発に倣うかのよ  
うに異性としてのからかい方に、よりによって楽しみを覚えてしまった。そして都の中  
の眠っていた感情を呼び覚ましてしまった。やったのは巧自身だ。  
「俺と環さんは共犯なんだからね。姉ちゃんのことには責任があるんだと思う」  
「巧くんはどうしたいの?」  
 そして巧はまた極端なことを言った。  
「環さん、社会人になったら俺と結婚して。そんで、共働きして姉ちゃん養おう」  
   
「姉ちゃんを更正させて、意地でも幸せになってもらうもんね。それまでは面倒見る。  
もしどうしてもだめだったら、一生面倒見るんだ」  
「巧くんってやっぱり素敵だなあ」  
「環さんの意見は?」  
「もし私が嫌だって言ったら?」  
「ええっ、そんなこと言うの?」  
 環は黙ったまま真顔で巧を見据え、答えに代えた。いや、促した。  
 それに気付き、巧もはっきりと伝える。  
「ひとりでも、やる」  
 この言葉に環は、都に対する嫉妬を自覚した。  
 姉弟というのは正しくはこういうものなのかもしれない。でも、巧は都を大切にし過  
ぎていると環は思う。それに都は絆されたのではないか。  
 想像のつかない未来があることを知り、それを怖れる。  
 
   
 環のそんな思いを知らず、巧は言葉を続ける。  
「俺って、今まで惚れるってわからなかったから、ずっと性欲と恋愛感情の区別がつい  
ていなかった気がする。環さんのおかげで少なくともそのことはわかったんだ。知らな  
い子に手紙貰ったり急に抱きつかれたりして、どうしていいかわからなかったけど、そ  
ういうのも大切にしていけると思う。だから、生まれた時から隣にいた人を大切にでき  
ないわけがない」  
 ひょっとしたら巧は本質的には環を必要としていないのではないのか。  
 環の怖れはそこに集約されていた。  
 確信を持って言える。そこまでまっすぐな巧を自分が見捨てるはずはないのに。自分  
が見捨てた後の事まで巧は覚悟している。  
 自分達の関係は、言ってしまえばまだたった一日の事だ。それをずっと前からそばに  
いるような気になっている。  
(巧くんは、それで平気なの?)  
 そうではないと信じたい。だから、  
「巧くんは一生私の言いなりなのよ? だから、ずっとそばにいて」  
 と環は言った。  
   
 その言葉を過剰に体現して、巧は環を再び求めてきた。  
 巧の舌が首筋をきつく這い、鋭い感覚に環は背中を反り返らせた。  
 たちまち、身体じゅうが燃える。が、  
「お願い、私にやらせて」  
 これ以上巧の腕に負担をかけさせられない。  
 環は力任せに巧を下にすると、巧がやったように激しく抱きついて巧の肌を貪った。  
巧も逆らわなかった。実際右手の分、他にかかった負荷が巧をくたびれさせていた。  
 それでもまだ勃起できる巧も頼もしいと言えるが、環も貪慾だった。エクスタシーと  
いうものを経験して執着が増し、それを与えてくれる恋人に心酔している。  
 身体の表面すべてを同時に擦り合わせられないものかと環は焦れた。  
 いや、もっと切実だ。  
(巧くんと混ざりあいたい。そして、都もそう思っている)  
 それはあまり嫌な感じのしない想像だったが、ただ巧を失うことは怖くてとても考え  
られなかった。  
 身体を押し付け、擦り付けるだけで快感が走り、さらに力が入る。だがこれでは巧を  
ほったらかしにしている、と思うが止められない。  
 その時巧の左手に片尻をつかまれた。股間の皮膚が引き攣れて感覚を生み出す。身体  
の奥が収縮していくのがわかった。たまらず胸を巧に擦り付け、乳首同士がきつく触れ  
あうと、環はたまらず大声を上げた。  
「あああっ! 巧くん、出来そう?」  
 
 自分でもはしたない言葉だと思うが、止められない。聞くしかないのだ。巧の目を見  
ると、熱く環を求めているのがわかった。欲望を受け入れてくれる巧に奥底から酔い、  
目を覆わんばかりの拙さで防護を施して、一気に、文字どおり巧をくわえ込んだ。  
「う、くー、痺れる……」  
 巧がかすれた声でそう言うのが麻痺した脳に心地いい。  
 恋人をベッドに押し付ける初めての姿勢で身体を貪る。  
(そういえば、本当に初めてだ)  
 ぎこちなく動き出すと、巧も応えてくれる。その巧とて慣れないことに四苦八苦して  
いる。二人して出来損ないのロボットみたいで少しおかしい。その予想できないお互い  
の動きが意表をついた刺激を生むので気が抜けない。不思議な緊張感がある。  
 自分のやりたいように動いているのに、巧に身を任せるだけより遥かにもどかしい。  
 その時巧が上体を起こしてくる。それが二人の間に呼吸を生み出していった。  
 ただ馬乗りになっているだけより動きが制限されるので、かえって正確に性感を高め  
あっていた。自分が泣き笑いのような顔をしているのを意識しながら、環は少し低い巧  
の唇に上体を屈めてくちづけていく。そうする間にも腰を打ちつけあって、唇が激しく  
すれ違う。苦労してその口をとらえたところで環は巧の頭を抱え込んだ。巧が口を環に  
任せ、環は腰を巧に任せた。  
 上と下でつながり、一輪となって快感を互いに流し込む。  
 先だってイカせてくれたときと変わらず巧の肉棒は環の内側で暴れ、環を狂乱させた。  
まがい物ではなかった。本物に抱かれている。愛でられている。  
 
「イク、またイク……」  
 それがすでにあたりまえになっていた。  
 巧を喜ばせる声が、とめどなく溢れ出ていく。  
「あ、あ、っあ、あああああっっ!!」  
 それが巧を刺激しているのがよくわかる。恥ずかしい。でもそれが自分を気持ち良く  
もする。奇妙な幸福感。  
「あ、あ、巧くん、お願いっ! ああっ、来てっ! あああっ! イク、くあああっ!」  
 お互いの口が完全に相手をロストし、声で名を呼び合う。環さんと巧くん。  
 意識がどろどろになって、時間や肩書きや、すべてのゲシュタルトが崩れていった先  
で、繋がりあった性器の描く軌跡だけが焼きつけられていく。  
 完全に満たされる。  
   
 気がつくと、巧に強く胸元を吸われていた。  
 痺れるような痛みがあって、その跡を温かく舌が這うのを感じる。マークは二つ。  
「二人でイッた数」  
 巧がひたすら照れくさそうに、でも楽しそうに言った。  
 それは二人が共有したセックスの本当の数だ。  
 巧がティッシュとゴミ箱と引き寄せて、あれこれと二人の身体の世話を焼いている間、  
環は邪魔をしないように巧の空いている肌を撫でた。股間をぬぐわれると、小さく声が  
出てしまう。  
 
 お返しに巧の背筋にそって爪を這わせたり、耳朶をつまんだり。  
「あのー、邪魔してないつもりだろうけど、ていうか邪魔にはなってないけど、めっちゃ  
やるせないんですけど」  
 環は声を上げて笑い、巧に協力する。  
 少し弾け過ぎているのを感じ、自分にコントロールを促す。そうすると心の中が、目  
の前の恋人に対する愛しさだけにまとまっていき、ほっとする。  
 巧が環の身につけたものを集め、着せようとしているのに気付いた。そういえば、脱  
がされるというのはよくあるが、でもそれは無理だろう。立場が逆だ。  
「怪我が治ったらね」  
 巧を押しとどめ、自分が巧に服を着せていく。それから布団で巧に目隠しをして手早  
く身なりを整えた。巧の不満の声が聞こえる。言い分はもっともだが、これはけじめの  
ようなものだ。  
 環は窓際に寄って、カーテンを少し持ち上げた。暗くなってはいない。なってはいな  
いが……。  
「環さん、五時半……」  
 巧が伏せてあった目覚し時計を起こしてよくわからない表情で言った。  
「大丈夫、都は由美が確保してるはずだから」  
 巧がさらになんともいえない顔になり、ベッドに突っ伏した。  
「俺、明日由美さんの顔見れねー」  
 
「大丈夫、由美の予言通りになっただけだから」  
 言ってから後悔する。本当にこっぱずかしいものだ。  
 見つめあってしまって、「最後だよ」と念を押してから、唇を巧にあずけた。巧のた  
めにも、際限なく溺れるわけにはいかない。  
 舌を舐められた時、包丁がまな板を叩く音を聞いた。  
   
 *  
   
「げ……はるかだ」  
 巧は頭を抱えた。  
 入院していたから食事当番のズレ等、その間家であったことは皆目わからない。  
 はるかは食事当番の時、早めに部活を切り上げてくる。慌てて自分達の姿を確認し直  
し、考える。  
(帰って来たらただいまとか言って、まず部屋戻って着がえて、そんでもってシャワー  
とかして、それから……てことわ)  
 だらだらと汗が吹き出しそうだ。  
 
 腕の中の環も気付いていた様子はない。が、  
「あいさつしてから帰ったほうがよさそうね?」  
「……楽しそうな顔しないでください」  
 トントンと階段を降りていくと、途中で包丁の音が止まった。巧も固まってしまう。  
包丁も再開しない。  
 よくない反応だ。  
 開き直って階段を下り切る。  
 よく手入れされた小さな革靴が玄関の隅に揃えられていた。はるかの学校の制靴だ。  
巧も去年までは使っていた。巧と環の靴も反対側の隅に寄せられている。  
(靴見てこっそり入ってきたのか、まったく)  
 どうしようかと考えていると、環に引っ張られた。  
「わー、ちょっと待った、っこら、なんでこういうことになると遊ぼうとするん」  
 だよ、と言う前にダイニングに引き込まれる。  
「おじゃましてまーす」  
「あ、た、環さん、お久しぶりです」  
「花屋敷以来じゃない? この家も半年ぶりだし」  
「あ、お姉ちゃんはまだみたいなんですけど」  
「都はね、由美とおデートだから」  
「何がおデートか」  
 
「お、お兄ちゃん……」  
 状況はまったく予測通りだったようで、はるかの目が泳いでいる。そのうえ真っ赤だ。  
後のフォローを今から考えはじめる。しかし、  
「包丁なんとかしてくれ。頼むから」  
 固まってしまったように右手に握りしめられた包丁をはるかは両手で引き剥がしてシ  
ンクに転がした。戻って来て、  
「あの、環さんも、食べていきませんか。おね、お姉ちゃんももう、帰ってくると思う  
し」  
「いや、それは……」  
 さすがにまずい。はるかが環の口元や手を目で追っている。何を想像しているかまる  
わかりだ。  
「巧くん退院するのに付き合っただけだから。じゃあ巧くん、明日からまた学校だね」  
「あ、うん」  
 『突き合った』だろう、などとは間違っても言えない。礼儀上「送っていく」と巧は  
言った。このままはるかと二人にされるのも厳しい。  
「それじゃあべこべよ」  
 爽やかに返され、そそくさと玄関に下りて靴を履く環の、いつもむき出しのままの綺  
麗なうなじを追いかけながら、(キスマーク、あそこにつけてやればよかった)と思う。  
 と、環がくるりと振り返ったので巧はどきっとしながら、  
「あ、じゃあ、名残惜しいけど。また」  
 そんなささやかな仕返しをした。  
 
 

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