(感覚が残ってる)
環はあからさまにならないように、そっと腹の上に手を置いた。
ひさしぶりだったせいもある。
初めてでもないのに、なにか入ったままになっているような感じ。言葉では表せない
幸せな時間だった。まだそれが終わっていないみたいだ。今にもまたその感覚が動き出
して、身体を埋めつくすんじゃないかと思い、軽く背中を震わせた。
(怖いよ、巧くん)
普通に足を運んで歩いてるのに、いつもの空気を吸っているのに、どこかに迷い込ん
だみたいだ。
世界が違って見える。よく言われるような、初めての時にはそんなことはなかった。
つまり、本当に好きな人に初めて満たされることで『違って見える』わけだ。そんな風
に変に納得する。
まっすぐで素直な、誕生直後のカップル。
でも、その眩しい光に照らされて陰になったところがある。姉弟とはいえ親友が惚れ
た男を取ったという事実に変わりはない。
由美はどうしただろうか。
もうひとりの親友のことが気になった。
由美は環だけのためにこういう状況をつくったわけではない。それは由美から聞いて
知っている。環が巧と二人きりになるということは由美が都と二人きりになるというこ
とだ。つまり、そういう事なのだ。
環は由美のために少しだけ祈る。
待鳥家から環の家までは多少距離がある。
コンビニに寄って使う当てもないコロンやリップを物色した。化粧などしたこともな
いが、巧のために遠からずそうしたくなるかもしれない。
(もうすぐ夏だもんね)
期末試験と、女子バスケ部も予選が迫っている。今日はもう行けないが、部長として
はそうそうさぼるわけにもいかない。環達三年生は最後の大会になることもあり、相当
力が入っていないといけないところなのに、色惚けしていたのでは後輩達に申し訳がた
たない。体調は、邪気が抜けたように良好だった。気の巡りが良くなったような気がす
る。そこに思い至って、歩きながら赤くなった。
(欲求不満が解消されたかな、えへへ)
それでも最初の大会を棒に振った巧への気遣いを忘れるわけにはいかない。
待鳥家の夕食を食べ損なったので、環は少し虫抑えをしようと、革鞄からシリアルバー
を取り出し、齧った。部活用にいつも用意してあるものだ。
(はるかちゃん、かわいくなったね。やっぱりみんな似てるし)
真っ赤になってあたふたしていたはるかを思い出し、恥ずかしいけれど、楽しくなっ
た。巧が今頃はるかに何を言っているか、なんだか結構わかる。
もしはるかまで巧を見ていたとしたらどうなるんだろう、ふとそんなことを想像し、
振り払った。
自宅へ向かって最後の角を曲がり、残り電柱二本の道のり。
そして、自宅に一番近い電柱──そこに由美がもたれていた。
声をかけようとしてためらう。
先にかける適切な言葉はたぶんない。由美はゆっくり環の方を見た。
「おかえりー」
いつもの無邪気とは程遠い気の抜けた声で、由美はそれでも笑った。
「ハイ」
環も笑う。十何年もそうしてきたから。
「やっぱり、言えなかったんだ?」
由美の表情は寂しそうだったけど、それは映画の感動巨編を見て泣いた後のような、
余韻のある顔をしていた。だから環にはそう思えた。
「全然それどころじゃなかったもん」
由美が頬を膨らませたが、怒っているようには見えなかった。一見小さい頃のままの
可愛らしい顔で大人びた目をする、この少女を振り回せるのはこの世でたった一人。
「ま、聞かせてもらいましょ。寄るでしょ?」
「あたし、おなか空いちゃったなー」
「ウチの御飯でよかったらたかんなさい、思う存分」
「えへへー」
*
「で?」
「な、なに、お兄ちゃん」
「なんで赤くなってるのかな? はるかさんは」
「お……、お兄ちゃんのバカ!」
(うーむ、あっさり撃退できてしまった。これからはこのテで行こう)
巧は、喚き散らしながら階段をバタバタと駆け上がるはるかを見送り、にっこり笑っ
た。こういうことはなまじ取り繕ったりするから旗色が悪くなるのだ。
「あ」
だがそこで巧は、作戦に大きな欠陥があったことに気付いた。運用上の問題ではあっ
たけれど。あきらめて階段を上がる。
「はーるかちゃーん、晩御飯ー、最後までつくってくーださいなー」
上がりながら声を大きくしていく。
「お兄ちゃんうるさい!」
廊下の一番奥のはるかの部屋は、扉が半開きだった。そこに身体を入れると、ベッド
にうつぶせているはるかの身体が見える。
「こら、俺片手なんだからさ、はーやーくー、──スカートめくるぞ?」
「やっ」
てきめんだ。がばっと起きるや、巧の横をすり抜けてまたバタバタと駆け下りていく。
「バカバカ、お兄ちゃんのエッチ! 変態!」
「なにおう」
つけっぱなしのはるかの部屋のライトを消してから、
「おまえだってそのうち一弥の奴とするんだろう? エッチな事」
トントンとゆっくり降りていく。
「な、なんであんなのとそんな事しなきゃならないのよ! わたし、もっとかっこいい
人じゃないと付き合わないもんっ!」
振り切れっぱなしのはるかの顔はもう完全に真っ赤だった。
待鳥家のはす向かいには、高松一弥というはるかと同い年の少年が住んでいる。保育
園以来のつきあいらしい。はるか自身がどうなのか知らなかったが、巧は彼に相談を受
けた事があった。もちろんその類いの相談だ。巧は、なんとなく自分に似たその少年が
嫌いではなかった。
(今日の所は話を逸らすために活用させてもらいましょう)
「陸上やめてテニス部に入ったんだよな、あいつ。健気なもんじゃん」
「よくあーいうことできるわよっ、キモイ! あれじゃストーカーじゃないっ」
「幼馴染みなんだからさ、もうちょっと優しくしてやれば?」
はるかは少々一弥に厳しい。
勝手に弟分にしている巧としては結構気になっている。
「俺に似て純情だし」
「お兄ちゃんは……、お兄ちゃんはふ、不純だもんっ!」
「不純で悪かったな」
「でもその……、いつから、あの」
だんだん好奇心が勝って来たらしい。
「ごめん」
と肩に手を乗せると、はるかはびくんと跳ねた。巧はすぐにその手を引っ込めると、
「なるべく気をつけるから、内緒にしといてくれよ」
「……お姉ちゃん、に?」
「ハイ、女王様に。今怒らしたら俺殺されると思います」
巧が促すとはるかは思い出して料理の続きを始めたが、手元が怪しい。気にしながら
リビングでテレビをつける。ニュースばかりでちっとも逃げ込めない。
(自分で話題戻してどうする)
「きゃっ!」
「怪我すんなよー」
「うるさいな、お兄ちゃんと一緒にしないで」
「何つくってんの?」
「お兄ちゃんの嫌いなもの」
「そりゃないぜセニョリータ」
「きゃっ、急にこっちこないでっ」
「人間はほんとはグリーンピース食べちゃいけないんだぞ?」
「お兄ちゃんの嘘つき!」
はるかがぶんぶんとお玉を振り回すので、退散する。だが「肉じゃがにグリーンピー
スを入れるのは間違ってる」というのは本音。
その時、玄関で音がする。
父の透ということはありえないので、姉の都だ。
「お姉ちゃんだ」
はるかがお玉を持ったままリビングの方に来る。
「こら、垂れてるって」
「やっ」
はるかがバタバタしているうちに、都は二階に上がって、すぐに降りて来た。着がえ
るのが早い。
と思ってちらっと見て、巧はびくっとした。都はパジャマを着ていた。
「あれっ」
はるかが気付いて戻ってくると、都は、
「ちょっと熱っぽいから、寝るね」
と言うとすぐまた二階に上がってしまった。
(び、びっくりした)
巧は『下着は外して寝ろよ〜』とかつい言ってしまいそうになるのをこらえ、複雑な
気持ちを飲み込んだ。改めて思えば正直かなり寂しいけれど、そうしなければならない。
(確かに──)
都は少し目が赤くて腫れぼったい感じだった。でも、どことなく晴れやかな顔に見え
た。目の前で座っていた巧に拘泥するでもなく、穏やかに去った。
巧がやろうとしている事にとって──環との事を逐一都に言ってしまうのがいいのか、
言わない方がいいのか、巧にはまだ判断がつきかねている。
だからすこしほっとする。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんのぶんはとっとくんだから、食べちゃだめだからねっ」
「へーい」
軽く返しながら巧は、炊飯器の電源が入っていないのをはるかにいつ指摘するか、笑
いそうになりながら考える。
*
環の部屋で、しゃべるだけしゃべって、食後だというのにスナックを食べるだけ食べ
散らかして、環のベッドに潜り込んでしまった由美を、環があっけにとられて見ていた。
「太るっての」
とため息をつきながら、肩まで布団を上げてやる。
『あたし、感動しちゃった』
そう言いながら都の話をする由美は痛々しいこともなく、投げやりでもなかった。名
女優の一人芝居を見ているようだった、と由美は言った。
そういうものかもしれない。環とは違って、都が巧に片思いしていたのは気の遠くな
るような長い時間だろうから。人目を引く鋭い容貌で、芝居ではない本当の恋を唄った
少女に、聡明な由美といえど、何を言えばいいというのだろう。由美は都に告白するは
ずだったのに。
*
次に起こった問題は、これも意外に繊細な問題といえた。
巧は片手で風呂に入ることになる。
父が帰ってこないかと、一応待ってみたが、23時。
苦労して包帯の上にビニールをかけていると、はるかに見つかった。
「お兄ちゃん、そもそもお風呂なんか入っていいの?」
「バカ言うな、これだけはもう我慢ならん。今日もさんざん汗かいて──」
巧はそこまで言ってあわてて口をつぐんだが、逆にそれではるかには意味がわかって
しまった。
「こ、これだけ、ちゃんとつけてあげるね」
ごまかすようにしながらも、輪ゴムとクリップを使い、締め付け過ぎないように気を
使いながら手際よくはるかが動く。巧が感心しながら見ていると、思い直したのか、
「背中だけでも流してあげようか?」
「はるかのエッチぃ」
「み、水着着るもんっ」
「そうだとしても俺は裸だぞ? いいのか?」
「ううー……っ」
「ひとりで出来るに決まってんじゃん、ばーか」
「ばかじゃないもん!」
「じゃあ、お利口さんはお勉強ちてくだちゃい」
言い返す代わりにぼふっ、とクッションを投げ付けると、はるかは湯気を立てながら
ぷりぷりと階段を上がっていく。
「風呂上がりに水着なんかでうろちょろしてたらおまえが風邪引くだろうが」
「べーだ!」
「お、できた」
準備を整えて、下着を取りに二階に上がる。はるかが部屋に引っ込んだのを確認して
から下着やパジャマを右手のビニールの上に乗せ、部屋を出て、そして……
ぎょっとして階段で止まった。
「な、何してんの、姉ちゃん」
「お風呂入るんでしょ?」
「いや、大丈夫」
なんとかそう言ってやりすごそうとするが、できなかった。
「ていうかなんで起きてんの」
「もう五時間寝たから」
「……」
巧がまたそうっと逃げようとすると、都は人さし指で巧の右手を突いた。
「だ」
あっけなく着替えは階段に散らばり、巧は急いで拾おうとするもすべて都に奪われて
しまった。そして、都はすたすたと先にたって風呂場の方へ歩いていく。
(な、なんだこりゃ……帰って来た時のあれは)
巧は呆然と見送り、『嵐の前の静けさ』という言葉を思い浮かべていた。
パジャマを人質に取られたので、行くしかない。
(ちくしょう、いったいあの悪戯娘に何吹き込まれてきたんだ)
変な汗が出て来そうだ。
脱衣所でまたぎょっとする。都はいつのまにか体操着になっていた。女子の学校指定
はシンプルな短パンだ。
「ほら」
早く済ませてくれと言わんばかりに、普通に急かされる。
(?)
何か企んでいる感じもしない。巧のシャツを手伝うと、それからダイニングの方に行っ
てしまった。その間に巧は全部洗濯機に放り込んで、風呂場に入ってお湯を被りはじめ
た。確かに、自分一人ではかなり苦しいと巧は思う。情けない。
ブラシタオルと石鹸を前に悪戦苦闘していると、唐突に戻ってきた都がそれをそっと
巧から奪い、静かに泡立てはじめた。
その手つきは本当に都らしかった。
「じゃあ、先にやっちゃうね」
その言葉も生来の柔らかい喋り方で、よどみがない。
左手では絶対に洗えないところ──つまり左手・左肩と、背中だけを流すと、都はさっ
さと出ていった。
ほんとうに素っ気無いくらい普通だった。
(えっと。……これも由美さんマジックなのかな?)
拍子抜けはしたが、おかげで巧は滞りなく身体を洗い終え、湯舟に浸かって本当に久
しぶりのくつろいだ感じを味わう事が出来た。思わぬ緊張も味わったが、そこから一気
に神経が鎮まっていくのが心地いい。
頭を空にする。
(ホアキンになりたいなあ)
子供じみた憧れが浮かんでくる。ホアキン、ルーケ、シモン、雲の上のスタープレー
ヤー達に肩を並べられるようなテクニックは望むべくもない。サッカー漬けの毎日を送
るなんてことは考えられないし、だからこそ試合に出られなくてもこの程度のヘコみ方
で済んでいるのだろう。
じゃあ自分は何になるのだろう。なれるのだろう。二年も先を歩いている恋人につい
ていくのは結構辛いのかもしれない。
(姉ちゃん、毎日あの調子でやってくれるつもりかね)
それを少しこそばゆく思いながら、湯から上がった。
やっとこの長い一日が終わる。