次の朝。  
「ひょっとしてはるかちゃん、おニューの水着を巧くんに見せたかったんじゃないの?   
もうすぐシーズンだしぃ」  
「だから、そういうことを楽しそうに言わないでください」  
 巧は予鈴前の踊り場で由美につかまった。  
 芋づる式に環と、取り巻きの女の子達と顔を合わせる。気恥ずかしいことこのうえな  
い。目が合う度に環が目を泳がせるので、巧はまた新鮮な感慨を得た。  
 予想以上の意外なあどけなさにくすぐられる。  
 一部女子生徒の鋭い視線にも気付く。勘のいい女の子というのはいるものだ。遅れて  
その『人込み』に突っ込んだ都が怪訝な表情をしたくらい、変なオーラがうず巻き始め  
たので、通りかかったクラスメイトをダシに巧は逃走を計った。  
「お? なんだよ巧」  
「まあまあ、こないだ言ってたデリダキッズのコンサートの話を聞かせてもらおう」  
「今なんか、すごくなかったか? おまえのまわり」  
「気にすんな」  
「腕は大丈夫なのか? おまえ、女を襲って返り打ちにあったんだって?」  
 心配しているような口調だが、顔は思いきり笑っている。  
「……」  
 
 サッカー部の上級生にも出会った。  
「おまえ、階段から落ちたとか言って、水臭いじゃないかよ。そんなにいい女だったか、  
ん? でも無理矢理はよくないよなあ?」  
 巧はがっくりしながら、  
「まさか、学校中……」  
「みんな知ってるな、うん。まあ運動部系はプライバシーないも同然だからな」  
 みんな暇なんだろうが、おまえは普段から目立ってる、と付け加えると、彼は他の友  
人に呼ばれて去っていった。  
 肝心な部分がちゃんとぼかされているのは感謝するべきなのだろうか。  
 人の噂も──というわけでしばらくは我慢が必要だ。だがそもそも、右手を吊って歩  
き回ったら、自分で宣伝しているようなものである。  
(ちくしょう。意地でも姉ちゃんは矯正してやる……)  
 そんなことを考えながら教室の扉を引くと、  
「勇者発見!」  
「きゃー!」  
「おかえりなさい、待鳥クン!」  
 普段そんなに『クラスの中心人物』というわけでもないのに、朝からやたらハイな連  
中が巧を出迎えた。気持ち悪い声を出す者までいる。  
 自分の席まで歩くうち、巧は自分の顔が赤くなっているのを感じた。  
「まさか、信じている奴はいないだろうな」  
 
 革鞄で机を叩いてみても迫力のない事このうえない。そのまま肯定しているみたいだ。  
 無視していればいいのだが、それほど間違ってもいないので、強く出られない。  
(ホームルームが始まるまで寝たふりしよう)  
 そう思って突っ伏していても横からつつかれる。  
「いいかげんに──」  
「きゃっっ!」  
 はたいてやろうと立ち上がりながら、左手で……  
 むにゅっと音がしそうな柔らかいものをつかんだのに気付いた。  
「ざ、残間」  
 ばっと後ずさり、慌ててまわりを見ると、ほとんどの者が巧の方を見て同じような笑っ  
た顔をしている。  
(こいつら殺す)  
 頭にくるけれど、とにかく振り返って、脇に物を抱え、反対の手の人さし指を突き出  
した状態で固まっている隣の席の少女を見た。  
「悪いっ……、おまえがそーいうことすると思わなくて」  
「う、ううん、平気」  
 目をぱちくりさせているのは残間清美という、左隣の席の女生徒だった。女の子を見  
た目で『体育系』と『文科系』の二つに分けるとしたら、十人が十人彼女を『体育系』  
と言いそうなのだが、園芸部だ。  
 
「ホームルームやんぞー」  
 クラス担任の吉見がつかつかと入って来て、やっと皆が座席に散らばりはじめる。  
 輪の中心にいた残間清美は、そこで活発そうな短髪をはねさせて小首をかしげ、  
「ちょっと差し出がましいかなあとも思ったんだけど」  
「は? 何の話」  
 巧は彼女の差し出した3冊のノートを眺めた。  
 受け取って自分も席につきながら、  
「休んでる間の? ありがたいけど、字なんて書けないよ」  
「あ、ご、ゴメンね。じゃああとでコピーして来る」  
「そりゃ悪いって。ていうか、三日分ぐらい別にいいんだけど」  
「そう、ごめん」  
 巧は少し考える。  
「残間あのさ、もし俺が本当に女襲ったとしたら、それでもこういうことしてくれる?」  
「えっ……」  
「冗談です」  
「──なんだ」  
「悪いけど『彼女』とはうまくいってます。怪我は関係ないの」  
 とっさに、すこし冷たく言ってしまった。  
 巧は話をしている間、礼儀上視界に彼女の姿を入れていたのだが、その自分の言葉の  
せいで見ていられなくなって目を逸らした。その時、  
「ヨッシー、聞こえねーよ」  
「あ!?」  
 
 一生懸命ホームルームをやっていた吉見が、その突っ込みに声を荒げた。  
 ヨッシーというのは吉見のことだからつまり、巧と清美の会話が聞こえなくて邪魔だ  
と男子のひとりが口を滑らせたのだった。  
 聞いていたのはごく一部の生徒だったが、それでまた注目が集まってしまった。  
 そんな瞬間に彼女は言う。  
「憎ったらしいな……懐に倒れ込んでやろうかしら」  
「キャー、清美ちゃんやらしー!」  
「な、なによ」  
 聞いていた女子の突っ込みに、笑って言った彼女の言葉に巧は救われる。巧は清美か  
ら改めてノートを奪い取り、  
「今写しちゃうよ、どっから?」  
「お・ま・え・ら〜」  
 吉見が近付いてくるや、ゴン! と巧の脳天に一撃を加えた。清美には出席簿でバシッ  
と一発。  
「ああっ、差別」  
 巧のわかりやすいリアクションに清美は声を上げて笑った。これでいいと思う。  
「いたっ」  
 吉見が、その笑ったのを咎めてもう一発出席簿で清美をはたいた。  
   
 *  
   
 昼休み。  
 朝方派手に降った雨のせいで屋上はむっとしている。  
「二年の先輩がなんで?」  
「学年が関係あるの?」  
「そりゃ、ないっすね。俺三年の人とつきあってるし」  
「! ……そ、そう」  
 会話はそれだけだった。  
   
「うんうん、誰にでもモテ期というのはあるもんだよ、巧クン」  
「なんですか、モテ期って……」  
「そしたら放課後下駄箱に何通か入ってそうね、例のアレが」  
「にゃっはっは。総決算だね」  
「ええっ、じゃあそれって、今日一日で終わり? うち止め?」  
「なにか不満でも?」  
「……ありません」  
「そんなことより」  
 環が巧のシャツをつっつきながら、  
「巧くん、さっきの話し方なんか怖かったな」  
「えっ」  
 
 環は不安そうな眼をする。何故? と思う。いや、不安の色というかなにか、揺らい  
でいる。巧にしてみれば、このタイミングでそんな眼をされるとそれこそ不安だ。心を  
通わせてまだたった24時間が経ったばかり。  
 環達三人がこっそり見ていたから、巧はその二年の女の子をきっちり切り捨てるしか  
なかったのだし、そのために最大限の対処をやった。相手が告白(おそらく)する前に  
こちらの事を言ってしまえば、相手はある意味恥をかく前に引くことができる。心づく  
しじゃないか。スタンドプレイをしたつもりもない。  
「話し方っていうか、セリフがキレキレだったねっ。それになんだか女泣かせな面構え  
になってきたねぇ」  
 由美の言葉に巧はハッと引き戻された。  
「でも、巧クン女ったらしになっちゃだめだよー」  
 なんでそうなるのかと不思議でならないが、頭の他の部分では冴えている。  
 ゆっくり、都の方を見る。  
 都があれからずっと穏やかなのは何故だろう、と思う。  
 それから、環の気持ちを考えてみた。  
 巧には、今度はその眼が、『知らない人にならないで』と言っているように見える。  
   
 *  
   
 放課後。  
 
 当然のように下駄箱の前で、  
「お約束って、いったいなんなんでしょうね」  
 憮然としながら、巧は環に振り返った。  
「俺の知らない人が俺に何を期待してるんでしょう」  
 今まで巧は知らなかったが、専門学校へ進む予定の環は受験組の追加授業を受けない。  
また、運動部系の部長は伝統的に非受験組から選ばれる。  
 そんなわけで、部活前の時間を初めて二人で歩く。  
「中見ちゃだめですよ」  
 幸い、一通だけだったのだが、実際それは下駄箱に入っていた。  
「名前だけ──ありゃっ」  
「え、なんかやばい人?」  
 巧がぱっと環から取りあげると、  
「やばい人ってどんなのよ……えっとね、ウチの一年」  
「女子バスケ?」  
「そ。へー、あの娘がねぇ……ほら、あれよ、あれ。朝巧くんを睨んでたコがいたで  
しょ」  
「朝ですか? あー、睨まれてたのか」  
「そうです、睨んでたんです」  
「えっ」「ん?」  
 二人してくるりと横を見る。  
 
 キツイ眼の、いかにもヴァレーやバスケが似合いそうな、環ほどではないが長身の女  
の子。巧のクラスではない。ぎりぎり髪止めを使える長さの髪を、後ろでまとめている。  
 巧たちの方にまっすぐ近付いて来て、言った。  
「先輩、待鳥くんとどういう関係ですか?」  
(待鳥くん? 口きいた事ないよなあ、俺)と巧がじっと女の子の顔を見ていると、環  
がそれに質問で返した。  
「言葉で説明するのと行動で示すのとどっちがいい?」  
 環が意外にも真顔で女の子を見ているのが、巧には印象的だった。  
 その言葉を聞いて一瞬目を見開いた女の子が、  
「両方やってください」  
 とすぐさま言った。見た目通りの気の強さだ。  
(おいおい)  
 逃げ出そうと背を向けた巧を環がギュッとつかまえる。巧を見てにっこり笑った。  
「マジかよ……」  
 それを目ざとく見咎め、慌てて女の子が言い放った。  
「先輩を汚したら、ただじゃおかないから」  
 そこで巧はあれっ、と環と顔を見合わせ、それからにっこりと環に笑い返した。  
 仕返しだ。  
(へっへ、俺じゃなかったね。そうそう面白くされてたまるもんか)  
 環は軽く頬を膨らませながら巧にひざ蹴りをかましてくる。  
 
 そういうことなら、と、  
「残念だなぁ。俺はてっきり、愛の告白をされるのかと思っちゃった」  
 巧は手紙を女の子の目の前に出して、振った。  
「なっ」  
 絶句して顔を赤くするところは、純情そのものだ。それより言うに事欠いて『汚す』  
とは何事だと、とっちめようと口を開くと。  
 塞がれた。  
「や、やだ……」  
 女の子の狼狽する声を聞きながら、巧は環の舌を受け止める。次はいったいいつこう  
してもらえるのか、早くも気になりはじめていたから、この不意打ちに感謝しながら舌  
で応えた。それなのに、あっというまに離される。  
「ねえ、吉田ちゃん。今私と巧のどっちにキスしたいと思う?」  
 環が巧の首に両手を回したまま、薄く笑った。  
 いったい何を言い出すのか、巧は目まぐるしく事態が変化しているのを感じながら、  
目の前の少女──吉田麻理に、自身でも答えを求める。  
 彼女が答えを出しているのはすぐわかった。目が怖い。  
「チャンスは一度だけ」  
 環が追い討ちをかける。  
「ちょ、ちょっと待った!」  
 女の子──麻理が自分の方に来るのを見て、巧は本気で慌てた。  
 
 間に合わない。  
 目も唇も固く閉じて、麻理は文字どおり巧にぶつかってきた。  
 キスそのものが未知の行為に違いない少女の特攻。  
   
 崖から飛び下りるような顔をして、口もきいたことのない男子の唇で、自己紹介もろ  
くにしないでファーストキスをする女。  
 表面の唾液の冷たい感触に、唇を押し付けた瞬間に気付いて、狂おしくそれだけを求  
めた。環の唾液を。  
 巧は、頭がおかしくなりそうだった。  
 吉田麻理は、巧の唾液で汚れた環にくちづけるより、知らない男子との間接キスによっ  
て環に触れる方を選んだのだ。  
   
 離れようとした麻理を、巧は反射的に引き寄せた。半端でなく意地の悪い気分になっ  
ていた。そういう風にコントロールしないと吐きそうだった。  
 麻理は巧の腕に捕らわれた事を知り、暴れようとした。その時に、  
「ねえ、吉田さん」  
 耳もとで語りかけられて、最低限巧に身体が引っ付いてしまわないくらいに力を加減  
する。巧の言葉を待って、聞いた。言葉の意味に身体を震わせた。  
「ねえ、例えば、身体でも同じ事ができるけど? したい?」  
 
 
 柱の裏にいた由美は、胸を震わせた。  
 誰より吉田麻理の魂に共振し、同時に乖離する。  
 隣の都にそんなことは知られたくない。  
   
「君はさ、もうちょっと自分のやってることの意味を考えようよ」  
 巧が最後に言ったその言葉で麻理は、おそらくこの場ではあきらめ、立ち去った。  
「はー」  
 環は感心していう。  
「アドリブであんな風に合わせてくれるなんて、嬉しいな、巧くん」  
 環は、腕の中に取り入れながら「おあずけの分」と唇を指で突いて、巧を受け入れよ  
うとする。  
 巧はそれに照れ笑いで応じながら、ゆっくり見つめ返した。  
 心の中で、口にはとても出せない怖れを語る。  
(環さん。俺、今日一日でもうこれだけ女の子に攻撃的になってる。やっぱりこれって  
スタンドプレイだよね? 俺は環さんにそれを見て欲しいんだ)  
 巧の顔を覗き込む環は、変わらず優しい目をしている。  
(でもあんなことされて、どうしていいかわからない。環さん、俺はこんなんで本当に  
いいのかな?)  
 巧の揺らいだのをおそらく察して、環が表情を弱めた。それから笑って、  
「ごめんね、でも私だって巧くんにいいとこ見せたいんだからね」  
 と気持ちを晒した。少なくとも巧はそれを心情の吐露だと感じた。  
 
 もう一度ゆっくり、環を見る。  
 そういう環の表情はいつも信じられた。今も巧の心を穏やかに鎮めていく。  
「はいはい、お二人さん、出てらっしゃいな」  
 環がそう言って柱をゴツゴツと叩いた時には、巧はいつもの巧だった。  
 いつもの無邪気な由美と、環と、自分と──都は相変わらず静かだった。  
   
 *  
   
 夜。  
 巧がレトルトをベースに調子に乗ってつくったスペシャルエスニックカレーは、大顰  
蹙を買った。  
 とにかく辛いのだ。  
 怒ったのは都。泣いたのははるか。  
 それでも、もりもり食べまくる巧を見ているうちに二人ともがんばって食べ始めた。  
怒りながら、だらだら汗を流して食べていた都は完食したが、ミルクでごまかしながら  
半泣きで食べていたはるかは半分もいかずにギブアップした。ミルクの飲み過ぎだ。  
「お兄ちゃんのバカ!」  
 ミルクでたぷたぷになったお腹を押さえながら、はるかがバタバタ階段を駆け上がる。  
「ああっ、はるかのやつ明日の朝の分まで飲んだな?!」  
「しょうがないでしょ」  
 
 都が巧を睨んだ。巧はおそるおそる、  
「ね、姉ちゃん、汗拭いてあげよう」  
「要らない」  
「悪かったって。でも偉いと思わない? 片手でここまで作ったのよ、俺?」  
「あんなにつくって後どうするの?」  
「ああ、親父が食ってくれるから。残ったら親父と俺の弁当にしちゃっていいよ、密閉  
できるやつあったよね」  
 父の透は巧以上に辛いものに強い。  
「あーうまかった」  
 おいしかったし、都の態度がまるで以前のようでほっとする。激辛カレーのおかげだ。  
ただ、今度やったらひっくり返されかねない。  
 そうして。  
「お風呂入る時は言ってね」  
 先に都が言った。昨日と同じように二人の時間をこなす。  
   
 湯舟の中で弛んだ身体を揉みながら、巧はため息で振り返った。昨日に続いてせわし  
ない一日だったが、最後に思い出したのは、自分の言った言葉だった。  
『もうちょっと自分のやってることの意味を考えようよ』  
 そうだ、意味をちゃんと考えて、やらなきゃいけない事がある。  
 そう思ったが、都からはあまりに何もない。自己解決してくれたのか、由美が変えて  
くれたのか。巧は、そうして少しずつ、気を緩めようとしていた。  
 それなら自分も少しずつ、姉に気を遣ってやりたいのだ。  
 不器用ながら水気をちゃんとバスタオルに吸わせて、下着とズボンに足を通す。それ  
からシャツを中途半端にかぶってリビングに戻ると、都は待っている。  
 

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