(かんべんしてくれ……)
都は巧の左手を半ば腕枕にするように懐にいる。いや、最初は巧に腕枕させていたの
かもしれない。片手を遠慮がちに巧の胸に乗せ、静かな寝息を立てていた。
弛んであどけないその寝顔が、本当の姉の顔なのだろう、と思う。
細心の注意を払って、都の身体から離れた。それだけで何分もかかってしまう。
あたりはあくまで静かで、誰も起きている空気はない。
ベッドを降り、意識を今見た姉の肢体から無理矢理引き剥がした。
もしこれが環なら、ブラをいじくったりして、『お、84のBなのか……なかなか』
などと後の心配をせずに戯れることもできるのだが。
(幸せそうに寝ちゃってまあ……)
シンプルな水色のそろいの下着と、白くなめらかな身体を布団の中に隠してしまうと、
やっと一度息をつくことができた。ゆっくりはしていられない。さっさと身支度をして、
あたりを窺いながら洗面所に逃げ込んだ。ヘッドフォンをつけ、悪霊退散とばかりにM
Dで最近お気に入りのチャーミーチャフを大音量で聴きながら歯を磨く。
ふと、ヘッドフォンをずらして窺うと、はるかの目覚ましの音が聞こえてきた。よし、
とまたノイズの海に逃避する。
「音漏れてるよ、お兄ちゃん。チャッツー?」
階段の音がしたと思うと、パジャマのはるかがパタパタとスリッパの音を立てて入っ
てくる。どん、と押されて、
「こ、こら、飲んじゃったらどうすんのよ」
押し返す。うがいの最中だ。はるかが楽しそうにさらに押し返して来て、
「今度貸してね?」
コップに水を入れ、自分も歯ブラシににゅるっと歯磨き粉を塗り付けている。
「んー。今日は俺が弁当だろ? 心配しないで寝てろ──ぷはっ」
巧が濁った水を吐くと、
「お兄ちゃん、冷凍食品ばっかりなんだもんっ、あたしがちょっとアレンジするの!」
「だったら全部お前がやってくれよ」
はるかはそれには答えず、ちょっと身体を引いた。
「?」
「お兄ちゃん、お姉ちゃんの匂いがする」
(ゲー……ポーカーフェイス、ポーカーフェイス)
一瞬ビクッとしながら、なんとか平静を保った。ここで迷ってはいけない。
「ちょうどいいや、はるか、おまえあの馬鹿者をなんとかしろ」
「あ……、またお姉ちゃんに苛められたの? まーた、なんか怒らしたんでしょっ!」
少し戸惑っていたはるかは、巧の言葉に納得がいってすぐいつもの顔になった。
まあ、一安心だ。
「怒らしたっていうか……、うーん、とにかく、ベッド占領されるわ、先に寝てたら入っ
てくるわ、嫌がらせもあそこまでいくと──」
「セクハラ?」
「おまえいい言葉知ってるな、はるか」
はるかはきゃはは、と笑って歯を磨きはじめる。
これではるかはなんとか味方にできた。と思う。
(甘いかな? これで姉ちゃんに釘でも刺しといてくれれば言うこと無しなんだが)
堂々としていれば問題ない、当初からのスタンスに、巧は確信を持つ。
でもやっぱりまだ決定的に、足りない。
姉に諦める気がまったくないことはよくわかった。都は巧に、彼の方から手を出させ
ようとしている。手を出した後のことは想像するのも恐ろしい。
だが巧の方も、姉が不可抗力を盾にしているうちは知らん顔をできるわけだ。
降りて来た都は、相変わらず涼しい顔をしていた。
*
改めて考えるまでもなく、巧の作る弁当は、ちょっと寒々しい。
冷凍のしなびたひとくちカツと、隣の席の小さな弁当箱に入っているおいしそうなだ
し巻を、サッとかっさらって取り換えた。
「ああっ!」
残間清美が立ち上がって巧を糾弾しようとした時、
「巧くん、久しぶりに晴れてるからさ、上行かない?」
環が、由美をぶら下げて教室に入って来た。一瞬、教室が静かにざわめいた。
「あれ、もう食べてたの?」
「イヤ、今から」
清美と箸でチャンバラをくりひろげながら、巧は弁当箱をさっと閉じて後ろに隠す。
「あ、ちょっとぉ、逃げるなあ!」
「俺がやったやつ、それカツだぜ?」
カツと聞いて、清美が女の子とは思えないリアクションで自分の弁当箱に戻った。
「ホントだ」
その隙に逃げ出そうとする巧を、数人の男子がつかまえた。
「こら、離せ!」
「頼む、巧! 俺達も連れてってくれ!」
「は?」
「お姉様がたと同席させてくれぇ!」
もう一人がわかりやすく補足するので、巧はどうしたものかと環を振り返る。
よく見ると、環と由美の後ろに三年生らしき女子が何人か連なっている。
どのみち自分達だけにはならないみたいなので、
「ああ。まあいいんじゃないか?」
「同志巧に感謝するぞ!」
「まじ? 俺も行く!」
結局、十人以上に膨れ上がった三年女子と一年男子の一行が、ぞろぞろ大行進をして、
そうして屋上の座れそうな場所をだいたい埋め尽くした。
まるで遠足のようだ。
無理矢理ついてきた巧のクラスメイト達は、なんだかそれなりに楽しそうに『お姉様
がた』と話をしていて、巧はちょっといいことをした気分になっていた。
だが、メインの『おかず』はやはり巧だったようで、
「ねえねえ、君なんだよね、環の彼氏」
友人らしい女子の一人が、興味を抑えられなくなった感じで聞いてきた。
「これ、環にやられたの?」
右腕を差して、言う。
「ちょっと、人聞きの悪いこと言わないでよっ」
環が慌てて口を挟んだ。
それを、男子たちがすかさず聞き付けて、全部そっちのけで巧に詰め寄った。
環は、と巧が見ると、ちょっと照れくさそうな、申し訳なさそうな、そんな目で見て
いた。それには笑って返す。
「どういうことだ、今の話は」
「聞きたきゃそのミートボールを二個よこせ。大橋、おまえはそのレンコンの天ぷらで
いいぞ」
「ふざけるな〜」
「梅干しをやる! さあ話してもらおう」
「ねえねえ、退院した日にさー、結局どこまでいったのー?」
突然、由美がガソリンを振りまくようなことを言って、全員を注目させた。
巧の顔がひきつる。環は真っ赤で、下を向いている。
(一番奥まで……なんて言ったらあとで殺されるんだろうなあ)とそんな環を見ていた。
女子陣も、そんな環を見るのは初めてだったらしい。
「うっそ、環マジじゃん……」
それまで興味深げにしながらも黙っていた女子が言うと、
「あー、そうよ、私はマジです!」
環が立ち上がって拳を固めた。とても環らしくて、巧はそれを見ていると嬉しい。
おおー、とか、やらしー! とか飛び交っている下で、巧の横に来ていたクラスの大
橋守が、
「残間はいいのか?」
そう真顔で聞いてきた。
いつかは誰かに聞かれただろうな、と思った巧は、用意してあった答えをただ、返す。
「悪いけど、俺には何もできない」
「そうか」
大橋は、笑った。
この男はとてもいいやつだった。ナンパをやっていた頃に、巧は何度か一緒に遊んだ
が、女の子にちゃんと優しいし、約束を守る。名前通りというか。なかなかの男っぷり
だ。巧の知る限り、唯一の一人暮しの高校生でもあった。
「おまえ、それが聞きたくてついてきたのか」
「おまえの女が知りたかったんだよっ」
「いいけどな」
笑って、そこで巧は環と目が合った。
環がにっこり笑う。きっちり聞かれていたらしい。それからまた環は、他の女子につ
つかれてじゃれ返している。
「ところで由美さん、姉ちゃんは?」
「おやあ? 気になるの?」
「今日だけいなけりゃ、一応気になりますよ」
「ホントにそれだけぇ?」
由美は、人さし指をしならせて巧の胸でくねくね遊ばせた。
「で、ね、姉ちゃんは、なにをしてるのかな?」
「生徒会の後輩に呼ばれてまーす」
「初めっから普通に言えないんですか……」
そこへ、
「環ィ、由美が彼氏誘惑してるヨ!」
と楽しそうに言っている声がする。
そんな中で、男子の中でもうひとりナンパ仲間だった男子が、
「待鳥おまえ、こんな年上の彼女がいるのに、なんであんな年下とホテルいったんだ
よー」
と問題発言をした。
「え、ウソー」
「それ、どういうこと?」
さっきまで環をからかっていた女子が、巧を見る。
それをつぶしたのは環だった。
「一ヶ月前の話でしょ。本人から聞いて知ってるわよ? 私たち付き合いだしたの、ホ
ンの一週間くらい前だもん」
「ていうか」
巧は、ちょっとくらくらして、
「……年下?」
「あのときのグループ、俺らの2コ下だよ」
巧はたしか、彼女にリードしてもらってやっとのことで初体験を果したのだ。
「まあ、ふたりっきりの時に聞いてあげるから!」
環が巧の背中を叩いて、そのまま背中を抱いた。
そのおかげで巧はその話からはそれっきり解放されたのだが、(そもそも一体いつに
なったらふたりっきりになれるのさ)と膨れて、環と目を合わさなかった。
早く姉のことを話さなきゃならないのに。
明後日は試合の日だ。
環の集中を乱さないよう、いろんなことに気を使っているうちに、巧はその日は環と
キスもしないで帰ることになってしまった。
*
寝る前に、ドアの前にベッドを移動した。巧の体重が加わるので、絶対ドアは開けら
れまい。寝坊した場合、はるかが大騒ぎをするだろうがしかたがない。テロリストを撃
退するためだ。姉が今クローゼットに潜んででもいない限り、大丈夫。念のため、クロー
ゼットに姉が隠れていないか確認する。
巧は、今夜こそと安心して布団に入った。
それなのに。
(どういうことよ)
巧の隣ですやすやとかわいい寝息をたてて、都は寝ていた。石鹸とリンスと都自身の
香りに脳をかき混ぜられる。
まず姉と自分が接触している部分を確かめた。
都は巧の左手を両手で抱え込んで、巧の足に、足をからませている。
しかも。とっさにビクッと身体を引いてしまってから気が付いたが……
(俺の指、今姉ちゃんのパンツの中に入ってなかったか……?)
一瞬の、『毛』が触った感触が指先に残っている気がする。
それとなんといっても目覚めが爽やかなのが癪だった。人肌うんぬんというウンチク
が頭をかすめるが、
(俺、本当に姉ちゃんに何もしてないだろうか)
ない。これは絶対に姉の精神攻撃だ。
前日よりさらに苦労して、下着姿の姉をはがす。姉の太腿や胸の感触にシャレになら
ないダメージを受けながら、なんとか頭からそれを追い払った。
ベッドから這い出ると、巧は侵入経路を探しはじめた。
見つけておかないと明日もご対面だ。
(ネズミじゃないんだからさ……)
答えは簡単だった。ベランダ経由だ。確かに寝る前に確認しなかったが、巧の風呂の
間かなにかに開けておいたのだろうか。先手を打たれていたのだ。
(マジで信じられん)
予想通り姉の部屋の窓が開いていた。一旦部屋に戻って身支度をすると、そのルート
で下へ降りて、姉はそのまま放置することにする。
それからはるかの目覚ましが鳴った。
そして、その朝も都の『涼しい顔』は徹底していた。