2  
   
「姉ちゃん、醤油」  
「醤油がどうしたの?」  
「……あのな」  
「はい、お兄ちゃん」  
 姉ではなく、妹のはるかから醤油入れを受け取りながら、巧は頬をふくらませた。  
「ちぇ、機嫌悪いでやんの。今月二回目の生理か?」  
 ガツン、と硬いものが巧の頭を襲った。  
「ぐあ、痛ってえ! 皿投げるか普通。割ったらどうすんの」  
「あんたが片付けるのよ」  
「もー。やめようよ、お姉ちゃん」  
 はるかが心配そうに巧の頭を撫でながら都のほうを伺う。父は知らん顔をしてテレビ  
を見ている。巧ははるかの手を振り払いながら、  
「そうだそうだ。……だいたい裏表ありすぎだっつうの」  
 ガツン、とまた投げられる。  
「……信じられん」  
 異常に機嫌の悪い姉に、巧は顔をしかめるしかなかった。  
 はるかが顔を向けてきて、  
「お姉ちゃんってもともと乱暴者だけど、本来は直接殴る蹴るが持ち味よね。今朝はど  
うしちゃったんだろ?」  
 
 目の前にあるはるかの顔は、ショートボブのせいもあって心持ち都より柔らかい感じ  
がする。巧はなんとなくその頬を指で突つきながら、  
「まったく、おとなしくしてりゃいい女なんだけどな……」  
 それに応戦して、はるかも巧の耳たぶをくにゃくにゃと揉みながら、  
「一見平静なんだけど、すごい殺気感じることあるよ」  
 それを払いながら巧はトーストをかじり、  
「学校で顔合わす度にさ、……」  
(いい女……)  
 巧とはるかの感じの悪い会話を聞き流しながら、都はその言葉に捕らわれた。  
 その都に巧は時々視線を向ける。  
   
 無意識のうちに、巧の視線は都の姿をトレースする。極々客観的に見ても、かなり美  
人の部類に入ると思う。  
(細い割に柔らかそうなんだよなあ……)  
 つい先日初めて女の身体というものを知って、巧の頭の中はそういうことでいっぱい  
だった。  
(つまんねえの)  
 せっかく美人なのにそれが身内なのがもったいないのだ。  
(姉妹なんてブスでいいから、その分他の女の子に回してもらいたい)  
 
 意味のないことに文句をつけながら、トーストの残りを折りたたみ、紅茶で押し込む  
と、  
「あい、お先〜」  
 巧は一番に家を出る。  
「お兄ちゃん、お弁当持ってない〜!」  
 はるかが慌てて出てくる。かばんにその弁当を押し込んでいるうちに都も出てくる。  
しばらく三人で歩く。中学は方向が違うのではるかが途中で名残惜しそうに手を振って走  
り去る。毎朝のことなのに何が残念なのだろうと、都と巧は同じことを考える。そうして  
後は、二人で同じ校門へ向かってひたすら歩いていく。  
 都の機嫌が悪いときも、特に変わりはないのだった。  
 無理に話をするでもなく、気まずいこともない。話したいことがあればするだけだ。  
 都も巧も、その時間が結構好きだった。  
 お互いにそのことは知らない。  
 
 
 3  
   
 放課後のチャイムが鳴ったとき、巧は最初に今朝の都の事を思い出した。  
(あれって、なんかあった……かな?)  
 特に思い当たることもなく、仲間に声をかけられて、次の瞬間には初体験の時の、相  
手の少女の姿を思い出す。  
「また思い出してるだろ?」  
「ば、馬鹿言え」  
「ちょっとだけ心配してたんだよ」  
「何をよ」  
「おまえの初体験の相手は男になるんじゃないかってな」  
「この野郎……」  
 他の仲間たちも寄ってくる。  
   
「そろそろ俺らも行くか」  
 ひたすらしゃべっていると、仲間のひとりがそう言って立ちあがる。その時に初めて  
巧は、都がまだ通っていないのに気付いた。  
 仲間たちに声をかけて離れる。  
 少し気になって、三年の教室の方に足を運ぶ。どの教室にも姉の姿はない。  
(? 帰った?)  
 何がというわけでもなく、巧は奇妙な感じを持った。  
 
(練習かったるいし、たまには気にしてみてもいいって感じ)  
 誰かに言い訳するわけでもないのに、頭の中でつぶやく。  
 まだ何ヶ月も通っていない、なじみの薄い校内のあちこちを散策するように歩く。  
 しばらく鞄をしょったままうろうろしているうちに、運動部棟の裏手の方にかすかに  
話し声を聞き取った。  
 姉じゃなければ、何か話のネタの予感。  
 建物に駆け寄る。  
 そして隠密行動のつもりが、何も聞かないうちに巧は立てかけてあったボードに蹴り  
を入れる。  
 大きな音を立てて板は次々と倒れ始めた。  
「ぎょええっ! ……ああ、もったいないことを」  
 なんとか食い止めようと身体を入れてがんばっていると、  
「巧!?」  
(やっぱ姉ちゃんじゃん)  
 姉の都がこっちに歩いてくる。隣りに三年らしき長身の男が張り付いている。  
 
 声を聞いた瞬間、はっとなった。  
(今、声震えてたな……危ないとこを未然に防いだのか、俺。それとも……)  
 名前は死ぬほど呼ばれたけど、震える声で呼ばれたことはない。  
 隣りの男の素性も目を見ただけでわかる。タラシだ。こういうときは、変に絡まずに  
連れ出さないといけない。  
「会長サンがお呼びですが?」  
「……あ。ありがと、行くわ」  
 誘導するように校舎の方へ、都の前を歩いてやる。  
 それを制止するように男が口を挟んだ。  
「待てよ。その学年章、一年だな。一年がなんで呼びに来るんだ?」  
 巧は思わず心の中で舌打ちしていた。頭のいい奴はタチが悪い。ストレートにいく。  
「俺、この人の個人的な関係者だからね。この人の嫌がることはしたらだめですよ、先  
輩」  
「名前を言えよ」  
「俺は、『待鳥』巧です」  
 巧がちょっと挑戦的だったかと思っていると、男はなんだ、と軽く笑って、  
「覚えとくよ」  
 そんなふうに去っていくのが巧には鼻についた。  
(あれじゃ、姉ちゃんは普通にいやがるだろ)  
 
 二人で校舎に入っていって、しばらくして都は思いきり巧の制服の背中をつかんでい  
た。  
「とっ、どうしたの、姉ちゃん」  
「う……」  
 巧が振り向くのに合わせて手を離してみたものの、都は、またすぐに巧の胸元を力い  
っぱいつかんでしまっていた。  
 何か言おうとするのだが、言葉が出ない。態度に示すことも出来ない。  
 顔を伏せたまま、  
(感謝してるって……巧に言うのはどう言えばいいの?)  
 そういうとき、都はいつもこう言うのだ。  
「よけいな事しないで」  
 それは胸元をつかみ上げるいつもの自分につながる。  
「姉ちゃん」  
「何よ」  
「……なんで無理矢理いつも通りにしようとしてんの? とか言っちゃだめ?」  
「……っ」  
 巧の目を見ることができないのはなぜだろう。手を離す。  
 それを追うように巧の手が伸ばされる。  
 都が身体を引くのを抱きとめて、巧はそのまま、姉の身体を腕の中に包み込もうと両  
手を閉じる。  
 
 巧が? と驚く間もなく、都は弟に抱きしめられていた。  
 暴れて逃れようとしてもいつものようにいかない。  
 どうしても力が入らなかったのだ。  
 思いつく理由はどれも正しいような気がする。  
   
「あいつ、クラスの奴?」  
 巧の問いかけに、抵抗をやめて言葉を探す。  
「去年、同じクラスだった」  
「そ。今は何組?」  
「三組って、言ってたわ」  
「三組か……そっか。ウン」  
「?」  
「いや、気にしないで」  
 いつになく丁寧なしゃべり方をする巧の声を聞いていると、気持ちが落ち着いていく  
気がする。  
(巧の心臓の音を聞いているからだ)  
 弟に抱きしめられていることに抵抗は感じない。今しがた悪質の塊から守ってくれて、  
落ち着かせてくれている、血を分けた者への素直な愛情。それを実感する。  
「できることなら、さ。全部ぶっちゃけて欲しいな。協力は出来ると思うし」  
「もう半年くらい、しつこかったわ」  
 
 話しておいたほうがよい、というよりは話したくて都は口を開く。巧にだけ  
は何の誤解もされたくないからだ。  
「もう、放してくれていいわ」  
 背中にある巧の腕から力が抜けて、ゆっくり放される。  
 身体を離しながら呼吸を整える。  
 促しておきながら、弟の感触が消えていくのを強く意識してしまう。  
 都の脳裏には、先日の巧の初体験話が急に浮かび上がってくる。だがそれも、巧の最  
後の言葉にかき乱されていった。  
「これから卒業するまで俺が、姉ちゃんを大事に守ってやるから」  
 そう言って、子供みたいな顔をして笑ったからだ。  

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