放課後、環が見つからないのでうろうろしていると、元ナンパ仲間につかまって巧は
教室に連れ戻された。当面少し、環と姉のそばにいないといけないと思うのだが、久し
ぶりに仲間達と馬鹿騒ぎをしてみたい気分でもあった。
「巧、バスケの外岡先輩とデキてるってほんとか?」
「キミタチにはカンケーないよ」
やけくそ気味に、不敵に笑ってやると、
「なんだその笑いはっっ」
何人かが憤慨するのだが、
「その話もいいけど、な、昨日の女の子たちなんだけどさ」
「あのカチューシャしてた生意気な女がいたじゃん、あれがさ、まっつんのこと聞いて
きたのよ、俺んとこへ」
「まじで? じゃあ、俺あの仕切ってたコの番号もらってるからさ、今度──」
聞いていると巧は、意外とこの連中はバランスが取れている奴らだと思う。勘がいい
というのか、変な立ち入り方をあまりしない。こういうのが世渡りとか、そういう技術
に成熟していくんじゃないだろうか。
「で、もうヤッたらしいじゃねーか」
「戻ってこなくていいんだよ、お前らは」
巧は、この話を都に聞かれるのが少し辛い。昨日あんな目に合わせたのだ。なんだか
んだ言って、環とのことをあまり耳に入れたくはない。今日はまだ追加授業中だから大
丈夫だろうが。
昨日の姉は今まで自分の知らなかったこと、知らないふりをして避けていたことを暴
き立てていた。
姉は、やはり魅力的だ。
「いーなー、おまえみたいのがいるから俺達は、まだ熟れてない青い実で我慢すること
になるんじゃないかっ」
「おめーはそっちのほうが趣味だろうが! ロリコン野郎」
「15はぎりぎりセーフだよ」
「そーかあ?」
「映画館とかとおんなじで、13未満だべ」
「おかしいって、それ」
(じゃあ俺もロリコンか。年なんかより、見た目がお年頃ならいいじゃんか)
とはいえ見抜けなかった自分の浅さには少し幻滅する。
そんなことを一人で考えていると、目ざとく突っ込まれた。
「あっ、こいつ反芻してやがった」
「反芻? ザッツグレイト」
「も・ど・っ・て・く・る・な」
「なあに、今日はロリコン記念日なの?」
環は、一度は巧達の放課後の馬鹿話を聞いてみたいと、これを密かに楽しみにしてい
た。その割には退屈だったので膨れて振り向くが、都は知らん顔を続けている。
授業が終わると同時に都を引っ張りだし、柱の陰にこっそり隠れていた。
環が抱えているせいか、都は腕の中で妙にそわそわと落ち着かない。
(? なにを過敏になってるんだろ)
一人がナンパの会話術っぽいことを言い出して、その流れから『一番クサいセリフを
考えたやつに全員でオゴる』という賭けになっていた。
陳腐だろうがなんだろうがとにかくクサい者勝ちだ。意外とこれが盛り上がっている。
次々そんな感じの言葉が飛び交って、巧もむずがゆくなるようなことを言った。『自分
の小指の赤い糸を辿っていったら、君に出会ったんだ』
環が声をたてないように苦労して笑っていると、腕の中の都が赤い顔で、小指を出し
てじっと見ているのに気付いた。綺麗に手入れされた小さな指。
その仕草と切れるような美しさが胸をうつ。
心が引き寄せられる。
(か、かわいい……都、あんたはかわいすぎる! ホント、由美ほどの奴が一目惚れす
るんだもん)
同時に、胸が痛くなる。
駄目だ。こんなコから巧を奪った。
こういうふうに巧の日常を覗き見るのは、本当に楽しかったんだと思う。
(本当に、かわいい……なんでこんな)
いいコなんだろう。
巧に関して、環は都から恨み言を聞いたことがない。
(このコを守りたいな)
由美にするように髪を軽く撫でてやっていると、都は怪訝な顔をしたが、されるまま
になっていた。どんなことを考えているのだろう。
教室の中では、お題の『クサいセリフ大会』がなぜか『理論上の女の子最短攻略時間
の考察』に変わり、さらに『チンコスペック談義』にシフトしていた。
(なんでこうなるかな、男子は)
男子バスケの連中もこういう感じだ。
突然、一人が衝撃的告白をする。『俺の、なんかつんつるてんらしいんだよね』
『どういう意味よ』
『全然張り出してないの、先ッちょが』
『あ、それってやっぱり不利なんかな?』
『相手によるし、やりかたにもよるんじゃない?』
どうもこの連中は恥を忍んで乞うような相手に弱いらしい。我も我もと自慢しあって
いる時の感じとは違い、なにやら真摯にアドバイスを送っているのがおかしい。『俺も
スペック不足感じることあるぞ?』
巧だ、と環は耳をそばだてた。都が同時にピクッと動いたので、また笑いそうになっ
てこらえる。
『ホントに?』
『いや、だまされるな、こいつはエリンギだ!』
(ちょっと待って……)
環は慌てた。さすがにこれは笑い声を押さえられないかもしれない。身体を起こそう
としたら都に押さえられた。『細いっての?』
『違う、竿が普通に太くて、でもエリンギなんだよ!』
妙に熱い主張だ。怒っていると言ってもいい。巧が訝しげに、
『あ、おまえ久我森だっけ、中学。……もしかして修学旅行んとき、居た?』
『居た。っていうか、大浴場にノギス持ち込んだの、俺』
『やっぱそうか! 俺あんとき優勝した奴のチンコ忘れらんねーよ……やっぱ世界は広
いわ』
チンコ談義は終わらないが、赤い顔の都と目が合ってしまい、環はそのまま目が離せ
なくなってしまった。
なんとも表現しがたい、奇妙な長い時間。こっちも赤くなる。
これを横で由美が見ていたとしたら、誤解されてしまったかもしれない。
チャイムが鳴った。
三年の追加授業用の短いチャイム。
(ほら、逃げないと!)と都を追い立てて上の階へ逃げる。
「今度由美も連れてこよう」
と言ったら都は睨んだが、顔が赤いままだったのでしまらなくて、悔し紛れに叩かれ
てしまった。
「環」
「ん、なに?」
「巧をどこにも連れていかないでね」
都が急にそんなことを言った。おやと都に見入る。さっきの表現しがたい時間と繋が
って、今日の都のらしくなさに思い及んだ。それはなにか、ついこのあいだまでの『私
の巧を取らないで』と言っているような目とまったく違っていた。
(これはぜひ、巧くんに聞いてみないと)
巧はあっさりと答えた。
「昨日、絶対間に合わないと思って、まあ買い物しつつだけど、そのままウチに帰った
の。そしたら帰ったとたんに襲われたんだよ、姉ちゃんに。大丈夫、姉ちゃんは封印し
たから。これで」
ミーティング後の部室棟の脇で、キスしたりべたべたしながらそんなことを聞いてい
た。巧が折り畳まれた紙を見せてくれた。『ボディロック 取り扱い説明書』
「て……貞操帯じゃないの、これ?」
「風呂にはそのまま入れるしトイレにもちゃんといけるから大丈夫」
「巧くん……」
環は尻餅をついてしまって、巧を道連れにして制服を砂だらけにしてしまった。今日
はもう笑いすぎだ。
「チタンワイヤー製のネットをラバーで覆ってあってね、金属でかぶれないし錆びない
し動きも制限されない。鍵がないと絶対外せない優れもの」
「あは、あははは、はははっ! わかった、説明しなくていいから、いや笑っちゃいけ
ないんだけど、あははははは、あはっ!」
「環さん、いくらなんでも笑いすぎ」
転がったまま散々はーはー言ってからやっと環は立ち上がり、
「今日の都は、それが原因だったのね」
砂を払いながら巧を起こし、
「都をグラウンドの方に待たすから何かと思ったら、でもさ、それ、使い方が逆よ」
「役に立てばいいんですよ」
けど、と巧は本来の『使用目的』を思ってみる。
『二番でいいから、私にもして……、お願いだから離れていかないで、ねえっ!』
そう言ってすがるのを巧は結果として突っぱねた。
これは意地だ。同時に環に掲げられる最大の誠意だと思っている。
病院では、姉の気持ちを受けないとはっきり伝えた。同時に、何をしてきても逆らわ
ないとも言ってしまった。
あのボディロックでそれが実現できるのだと思えば、買い物は安かった。
姉の理性じゃなく心が諦めるまで姉の苦しみにはつきあう。
だが、昨日の夜から今日に至るまで、都が巧に見せていた従順さと嬉しそうな顔はど
うだろう。
(ひょっとすると、姉ちゃんはとてつもなく自分に都合のいいように解釈してるんじゃ
ないだろうか……)
つまり姉は今、鍵を持っている巧に独占されているのだという──
(頭おかしくなりそうだ…………)
環も違和感を感じたはずだった。
「ねえ、環さん」
「逆効果だったかもね」
環は巧が怖れている通りのことを言った。
でも大丈夫だと思う。
「このまんまで時間が立てば姉ちゃんも悟ると思うんだけどな」
「じゃあ、ずっとつけっぱなしにさせるつもりなの?」
「姉ちゃん次第っす。ていうか、環さんまだ笑ってるし」
「だってさ──」
環のバスケ部での活動も基本的に終わりだ。進学しない関係で後輩達に教えることに
はなるだろうが、自分のためにプレイすることはなくなる。
「お疲れさま、環さん」
巧が手を差し出すと、環は少し顔を歪めて、でもすぐにっこりと笑って手を握り返し
てきた。その一瞬の泣き笑いのような顔は、昨日の名残なのだろうと思った。出来るな
ら一年の頃の環のプレイを見たかったと思ったが、それは言わなかった。
グラウンドに出ると、まだ勝ち残っているサッカー部が激しい練習を行なっていた。
(うっわー、行きづれー)
組織力が増して、歴代のチームの中でもいい線を行っているという評判だ。
巧のポジションに入った選手の動きを見ていても、自分より劣っているとは思えない。
全治2ヶ月の巧にはチームがどこまで勝ち進んでも出番はない。それがわかっている
から、監督や主将の遠山も厳しいことは巧に言わなかった。
期末試験も目の前だった。
担任の吉見から特別にマークシートのテストを作ってもらえることになっている。
「姉ちゃん一年の時のテストとか持ってねーの?」
「真面目に勉強しなさい」
「そーだね」
「環さんまで、冷たいなー」
待ちぼうけていた姉を拾って、環と姉に挟まれて帰った。環が急に笑い出したりしな
いかちょっと心配したが、そういうこともなく、それぞれの家に向かう。
*
都は、環に思い焦がれる吉田麻理のことを思い出し、環にキスをする自分を想像して
みた。ピンとこない。
それよりもこの『拘束具』の意味が問題だ。
何が起こったのか理解できないうちに、巧に『高かったんだから、大事にしてよね』
なんてことを言われたので混乱してしまった。
昨日巧に触られたところが熱を持ったまま、いつまでも疼いていた。今までと違う領
域に踏み込んだのだ。そこには巧だけが入ってくる。環は入ってこれない。
弟のものになったという妄想が頭から離れない。
さすがに、巧がそのつもりでやったわけではないことはわかるのだが、身体のどこか
から湧き出してくるこの嬉しさは理屈では抑え切れない。
こんなのは普通じゃない。もちろん初めからそうなのだが。そして、どこまでもこう
やってはぐらかされていくのも。
腹が立って、巧の左手を取り、自分の右手と組ませた。明らかにわかっていてこっち
を見ないが、拒まないので、さらに胸に当たるまで腕を巻き込んだ。
腰を包み込んでいる違和感が、着実に何かに育っていた。
試験勉強の細かなストレスは、身近なもので晴らされる。
夜巧の部屋を訪れて、珍しく教科書に向かって唸っている巧に後ろから抱きついてや
れば大抵、紛れてしまう。
巧は抵抗しなかった。部屋にも自由に出入りできた。
無視を決め込むつもりなのだ。
外堀を埋めた代わりに城壁が高くなっていた、そんな城攻めのような日常になぜだか
心が躍る。