期末試験まで一週間を切り、巧は試験が終わるまでの間、環と会わないことに決めて  
いた。  
 決意を固めないと実行できない軟弱さのあまり、環に宣言してしまった。  
 してしまった以上環にお願いすることは不可能だ。  
(俺って駄目人間)  
 先日虎の子のお気に入りビデオが、姉の手で抹殺されてしまったのも痛い。貯金まで  
崩してボディロックを買ったので、財布の中はからっぽ同然である。かろうじてうまい  
棒が買える。  
 暑くてやる気が出ない時には、一時の慰めにと環の顔を見に行く。  
 休み時間の三年の教室は、一年生が足を踏み入れるにはとても勇気のいる世界だ。  
 出入り口から、綺麗な横顔を本人に見つからないようにありがたく拝み、回れ右をし  
たら目の前に由美がいた。  
「お……おどかさないでください」  
「環ちゃん? 呼んであげるねっ」  
「わー!」  
 慌てて由美を引き止め、  
「いや、御本尊に触れるのはまずいんです。今は耐え忍ぶ時だからして……」  
「巧クン、禁欲してるんだぁ? かわいいことしてるのね〜」  
 
 巧はこのところ、由美の雰囲気が違ってきているのを感じる。こうやって話していて、  
相変わらず年下みたいなあどけない表情もするのだが、そう、仕草や言葉の端々にちょ  
っとした憂いを感じるのだ。  
(だんだん大人になってるってことなんだろうか)  
 漠然と思いつつ、  
「ところであのー、姉ちゃんを戦闘マシンにしたのは由美さんですか?」  
 じとっと見る巧に、由美は一瞬きょとんとして、すぐににんまりと笑って、  
「『後悔しないのが一番』って言っただけだよ〜?」  
「そういうもっともらしいことをさ、悪用できるときだけ言うのがひでーよなあ」  
「あ、そういうこと言うんだ。おかしいなあ、巧くんが一番いい思いしてるはずなんだ  
けどなぁ?」  
(ちくしょう、いつかぎゃふんと言わせてやる)と思うのだが、由美に効果的なネタと  
いうのが、これがなかなかない。  
   
 期末試験は3日間。  
 それが終わるとすぐ終業式があり、その日までに全ての答案用紙が順次返されてくる。  
 巧はそれほど馬鹿でもなく、かといって秀才でもない。補習を受けることはないだろ  
うから、手を抜いてつい夏休みの計画を考える方に頭が逃げるかというと、そうでもな  
かった。  
 宣言以来、環とは挨拶をかわすだけだった。  
 
 近くにいなくても、巧は日々環に溺れていく。それがとても気持ち良かった。『巧く  
んとしかしたくない』  
 巧は別に構わないと言ったのに、そう答えたのだ、環は。  
 その心遣いから、安心感が巧から性急さを奪い、勉強に集中させてくれている。  
 それを煩悩に引き戻して巧を悩ませているのは都だ。  
 有言実行の姉は、『起きないと襲うわよ』という言葉をとても忠実に実行する。法律  
に違反しなければ何をしてもいいと考えるタイプの人間に正論は通用しないのだ。  
 この場合、ボディロックだ。  
(それ以外は何をしてもいいという)  
 試験勉強で夜更かしをして、知らないうちにキスマークをつけられるのはなんだか納  
得がいかない。  
(いや、とにかく試験が終わるまでは我慢……)  
 さらに、制服で布団に潜り込まれ、パジャマを脱がされる。  
(我慢……)  
「姉ちゃん、もしかして俺の目覚まし止めてない?」  
 ふと思って、聞いてみた。  
(ああっ、知らん顔してやがる!)  
 腹いせに朝食時に家族の前で、  
「俺、姉ちゃんに犯される夢見ちった」  
 などと言ってからかうと、久しぶりに皿を投げつけられた。表面上は元通りの光景。  
 
 一枚めくればそこでは果てしなく低次元な戦いが繰り広げられている。  
 だがそんなやりとりもまた巧の心を潤しているのだ。  
   
 *  
   
「いてっ」  
 屋上でぼんやりしている巧を見つけた時、ちょっと腹が立ったので、由美は後ろから  
缶コーヒーを投げつけた。  
「中入ってるじゃん! 信じらんねー」  
「えっへっへ、手元狂っちゃった」  
 このくらいは方便だ。  
 環が遠慮しているので、都と三人でお昼の予定だったが、またなにか生徒会に呼ばれ  
た都がなかなか来ない。  
「頼りない生徒会だよな……」  
「都ちゃんたちだって最初はあんなもんだったと思うけどぉ?」  
「そっか、そうだよな」  
 そう言ったきり、巧がまたぼんやり眼下のグラウンドを見ている。  
 由美は、巧がこういうハマり方をするとは思っていなかった。欲望に忠実なところは  
予想の範囲内だったが、そのベクトルは環だけに極端に偏っている。もうそれははた目  
にも、世界に敵対せんばかりの勢いだと思う。  
 
 最初に感じたのは、(都ちゃんがかわいそう)ということだった。  
「腹減ったなー」  
 巧が訴えてくるが、由美は都を待っている。その間、巧が弁当箱を開いて中をちらっ  
と覗いては閉じたりしているのをそれとなく見ていた。  
 髪型や服装が違うので気付きにくいが、都に似ていると思う。  
 姉弟だから当然といえば当然だが、はるかも含めて雰囲気や造りがよく似ている。  
 そういえば、と思い出す。都に見せてもらった待鳥の両親の写真を見た限りでは、親  
は絵に描いたような美男美女の夫婦で、残念ながら出会うことのなかったそのお母さん  
と都は生き写しといってもよかった。その写真に、『都ちゃんと私のこと、応援してく  
れませんか』と願ったことがある。  
「ん、なに? 由美さん」  
 巧に目の前に寄られ、不覚にもドキッとした。  
 切ないけどこれは違う。巧に残っている都の面影に引きずられているだけだ。  
 他意のない眼差しから目を逸らす。  
 都が上がってきて、由美の隣にすっと腰を下ろした。巧ではなく自分の隣だ。都自身  
は特に考えてやっていることじゃないのに、こんなにも簡単に嬉しくなってしまう。  
 それなのに。それ以上に都の気持ちと幸福を優先したくてしかたがないのだった。  
 それを叶えてあげられたら、都を好きになったことに価値を見出せる。  
 そんなことを思っている。  
 
 *  
   
 2日目の試験も全て終わり、なかなかの手ごたえに満足しながら、巧は徹夜組を除い  
た面々で放課後の余裕の一時を過ごした。  
 柱の陰には都、環、由美の三人。小声で、  
「ふーんだ、二人でこっそりこんなことして楽しんでたのね。環ちゃんのいけず」  
「私だって新入りだよ? まあ、まだ二学期も三学期もありますぜ、旦那。ね、都」  
「都ちゃんのエッチ」  
「な、なによ」  
「追加授業受けるのやめたら、先生に怒られるかなあ?」  
「そこまでするのか……」  
『あっはっはっは、馬鹿はおまえだ!』  
 笑い声には巧の声が当然混じっている。  
 試験期間中ということで、テストの話題が出たりもしていた。  
『絶対違うね、そこは』  
『関係代名詞ってさ、要はひたすら入れ子にすりゃいいんだろ? いや、超みっともな  
いだろうけどさ、文法的にあってたらマルくれんだろ』  
「あれ、意外に真面目だね」  
「そうだね、でもたぶんこれも賭けの対象になるんだよ」  
「成績が上がるんならいいんじゃないの?」  
 
「おっ、なんか先生みたいな発言」  
「えへへ」  
『お、じゃあ勝負するか? 明日返ってくる巧の古文の点数一本勝負』  
『丁だ!』  
『じゃあ俺が半』  
 環がぷっと吹いた。  
「成績の勝負かと思ったら……サイコロじゃん」  
『じゃあ、罰ゲーム選択』  
『3番!』  
『3番は──女装! 女の制服でこっそり終業式に出る、だって』  
『まじで? 絶対それ巧にしかできねえよ! 俺は勘弁してくれ』  
『なんで俺ならできるのよ?』  
『なんでって、なあ?』  
 声がいくつかかぶり、巧以外の全員の意見が一致したところで、どうやら区切りがつ  
いたようだ。  
『校則違反じゃなきゃなんでもいいのだ!』  
 三人はそこで退散する。  
   
 *  
   
 3日目の全ての試験の終了した放課後、巧は憮然とした顔で、環に答案用紙を見せて、  
「環さん、貸して」  
「は?」  
「今日、行ってもいいんでしょ? そんで、罰ゲームやるから洗い替えの制服貸して欲  
しいんだけど」  
「あははっ、巧くん、賭けに負けちゃったのね。──ごめん、親と出かけることになっ  
ちゃって。こないだと逆だけど」  
 そんなことを環に言われたら、どうすることもできない。  
「あ、じゃあ、制服だけ借りれたらいいっす」  
 巧は失望を隠せない。  
 体格的に環以外の制服は合わない。そんなわけで、家族に見つからないように制服を  
ちょっとドキドキしながら受け取りに行き、  
「ムネんとこが余りそー」  
「それ、巧くんが言うとヘン」  
 言いながら環が近付いてくるのを、巧は慌てて押し止めた。  
 今触ったらそのままさらってしまいたくなる。環は寂しそうに笑い、  
「また今度、だね。コレに変なことしちゃだめよ?」  
 制服を入れた紙バッグをポンと叩くと、門の中に消えた。巧もすぐにそこを離れた。  
 家に帰ると、はるかが難しい顔をしてリビングのソファで、テーブルとにらめっこを  
していた。  
 
 はるかのところでも期末試験が行なわれ、いつものようにこうやって都にわからない  
ところを聞いたりしているわけだ。  
「うう、わかんない〜」  
 たぶん台所にいる姉に向かってぐずるはるかに、後ろから、  
「また俺の勝ちだな」  
「昔のお兄ちゃんよりはできてるもん!」  
「いや、そんなことはありえないね。俺の方が上、おまえより十万点くらい上」  
「お兄ちゃんの大嘘つき……」  
 難題が頭の中でぐるぐる回っているのか、覇気があまりない。  
「あれ、姉ちゃんなんでまだ制服着てんの?」  
「帰ってすぐはるかにつかまったのよ」  
 都がトレイに紅茶を乗せてやってくる。確かに都の革鞄もそこにあった。  
「あたしはアリアリだよ」  
 とはるかが白く濁ったものを取ると、あとひとつ。それは都の分だろうから、アリナ  
シ、つまり砂糖アリのクリームナシ。都はここに、直前に普通のミルクを軽く入れる。  
「俺のは?」  
「葉っぱ足して今やってるから」  
 と、都は空のカップとティーポットを巧の前に置いた。巧はいつもナシナシのストレ  
ートティーだ。  
 巧は、しばらくそれを眺めていて、「おし」と移動してダイニングの棚を開けた。  
 
「あー! お父さんのウィスキー」  
 紅茶の上に足すのだ。  
「ちょっとだけだよ」  
「巧」  
 都がちょっと睨んできたが、それ以上なにも言わなかった。  
「はるかのも入れてやろう」  
「やー!」  
 慌ててごくりとやったはるかは、やけどしそうになってミルクを取りに走る。  
「そうだ、姉ちゃん」  
「なに?」  
「ちょうどいいから、これの着方教えてくれ」  
「?」  
 部屋に行って出してみせると、どんな反応をされるかと思ったが、姉は少し笑った。  
(? あれ……笑ってる)  
 少し酔いが回ってきているかもしれない。手っ取り早く説明を受ける。  
「ホームルームを乗り切ったらばれないと思うからさ」  
「担任は吉見先生でしょ? たぶん大丈夫」  
「……鈍感?」  
「ううん。あの先生、本当は生徒にすごく近いから」  
「ああ──」  
 
 説明している、脱いでしまうほど本格的に実演しているわけではないが、都の腰に、  
鮮やかなレモンイエローのものががちらついた。下着ではない。巧のつけた件のボディ  
ロックだ。裸になってそれだけをつけた姉を見てみたいと、急に思った。  
(いけね、酔ってる)  
 急いで引き上げると、そのままばったりベッドに倒れ、安心して眠ってしまった。  
   
 次の朝は、終業式だというのに朝早くから登校するはめになった。  
 部室で女子の制服に着がえるのだ。  
 環や由美のものまねをして遊びながら、着がえて鏡を覗いた。  
(へー、姉ちゃんみてーだ)  
 当然教室では大騒ぎになる。男子よりむしろ女子が騒いでいた。やけくそ気味にしな  
をつくって遊んでいると、  
「うくくく……。全然男に見えないよ、待鳥くん。あんた、吉見に告白してみない?」  
 隣の清美が苦しそうにそんなことを言う。  
 その吉見の反応が一番ひどかった。一目見るや爆笑して、  
「待鳥、先生ちょっとおまえにときめいた。──告白してもいいか?」  
(あんたそれでも教師か)  
 結局このままここはうやむやになって、無事終業式の女子の列の後ろの方に並んだ。  
居心地の悪いことこのうえない。貴重な体験だ。それよりも女子がちらちらこっちを見  
て笑っているのが困る。なぜか、他のクラスの女子も見ている。  
 
(教頭はともかく、学年主任……なんで気付かないんだ)  
 校長の念仏のような話を聞き流しながらおそるおそる周りを見渡した。三年の列が目  
に入る。こうして見ると、なんていうわかりやすい三人組だろう。  
 一番前の方に由美、列の中程に姉の都、一番後ろに環。  
 それぞれ身長が150、161、170だから並べただけで結構いい絵になる。  
 そういえばまだ彼女らに見せていない。  
(いや、あんまり見せたくないけど、後でうるさいし)  
 終業式が解散となった雑然とした昇降口で、巧は最初に由美とはち合わせた。  
 その時の由美の顔は見物だったと思う。  
 後から思えばそれは当然の反応だったのだが、巧は、今しかないと思った。  
 姉の立場で誰かをからかうとしたらこういう感じだろうと前に思っていたことが口を  
ついて出た。由美の肩を捕えて目を覗き込み、  
「由美、愛してる」  
 と情感を込めて囁いた。  
 その時一瞬真っ赤になった後で由美の目に走った激しい怒りを、由美の後ろから来て  
いた都と環の表情を通して、悟った。  
 使える全エネルギーで由美は右手を振り抜き、巧の顔が一瞬で真横を向いた。  
 強烈。  
(マジビンタ……)  
「この怒り方はつまり……」  
 
 巧は露ほども知らなかったのだ。  
 死に物狂いでひた隠しにしてきた少女の気持ちを、パンツの色を賭けてスカートめく  
りをするような気軽さで暴き立ててしまった。しかも、めくったらパンツを穿いていな  
かったくらいにキツイ。  
 走り去った由美を環が追っていった。一瞬巧を見た環の目は、謝っているように見え  
たが、巧はその表情になにか奇妙な違和感を感じていた。  
 女子の制服を着ていることも忘れ、そのまま教室へ戻る流れに乗っていった。  
 
 

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