まずい、と都と環が思った時にはもう遅かった。  
 気付いたのは都が先だったが、二人とも間に合わなかったわけだ。  
 巧は真っ赤に跡のついた頬で教室に戻る。吉見がテスト最終日の答案を全員に返しな  
がら、ずっと肩を揺すって笑っていた。  
(何を想像してるんだかね)  
 クラスメイトたちも好き勝手にいろいろ言っていたが、残間清美だけは様子が変なの  
に勘づき、他のネタを振って話を逸らそうとしてくれていた。  
「気使ってもらっちゃって悪かったな」  
「鈍感なやつが多いからよ、そっちこそ気にしないで」  
 清美はにっこり笑って、頬の手形に自分の手をぺたっと乗せた。  
「小さい女の子の手だっ」  
「なんかそれじゃ幼児に手、出したみたいに聞こえるからやめてくれ……」  
 清美の手は夏でも冷たくて、心地が良かった。  
 終業式に出さえすればすぐ着がえてもよかったのだが、今の自分に相応しい間抜けな  
格好だと思って放っておいた。右手を吊った背の高すぎる変な女は、そのままサッカー  
部の部室に入り、大会を馬鹿な理由で棒に振った一年生部員に戻って、校舎の方に取っ  
て返した。  
 なによりもまず由美の姿を探すが、見当たらない。  
 
 環もいない。そのままの勢いで学校からも飛び出していったのだろうか。  
(漫画じゃあるまいし)  
 そこから環、由美の両方とまったく連絡がつかない。  
(ていうか、俺おあずけのままなんだけどな)  
 すぐそういうことを考えてしまう自分が情けないが、生理的な都合上仕方がない。  
 おかしいな、と思ったのは3日ほど経ってからだった。  
   
 ついに裸に貞操帯の格好で、幸せそうに張り付いて寝ている姉を死ぬほど苦労して引  
き剥がした朝、由美の自宅に電話を入れた。つながらない。家族ごとどこかに出掛けて  
しまっているのか。  
 また、環の自宅へは母親らしき女性が電話に出て、「あのコどこ行ったんだっけ?」  
などと後ろでのんきなことを言っていたので、早々に退散する。  
 由美に謝らなければいけないのだが、巧は環にすぐにでも触りたかった。  
 スケベ心からだけではない。このままでは姉を触ってしまいそうだ。  
 なんとかごまかして、一人で遅い朝食を摂った。  
 父はとっくに出勤しているし、はるかはテニス部の夏合宿の前準備とやらで早出をし  
ている。やけになって食べまくっていると、姉が食べるものが何もなくなってしまった  
ので、最寄のコンビニで一番安いカレーパンを買ってきて、マジックで『さんねんにく  
み まちどりみやこ』と書き入れて姉の椅子の前に置いておいた。これ以上くだらない  
ことが思い付かない。  
 
 することがない。  
 いや、あるけどどうしていいかまったくわからない。  
 しばらくぼんやりしていると、後ろからカレーパンを投げつけられた。  
 昼間の姉は、すっかり以前の姉のようで、今の巧にはその順応性とこだわりのなさが  
うれしかった。由美のことでは怒っているらしいが、巧にはなにも言わない。  
「ねえ、由美さんは〜?」  
 今朝もまたそう聞いてみると、  
「知らない。自分で探しなさいよ」  
 と、つれなかった。  
「そうしまーす」  
 暑くていやだが、やはりそのままにしておくには息苦しすぎる問題だ。外出したから  
といってどうにかなるとも思えなかったが、じっとしていられるほど剛胆でもない。T  
シャツにジーンズの極限な格好で玄関に降りていくと、姉がそれをじっと見ていて、  
「あ、待って。私も出る」  
「えー、早くしてくれよ……」  
 姉の着替えを待っているうちにも汗が吹き出してくる。  
 姉はなかなか部屋から出てこない。  
 この日は今年一番の暑さになると予報で言っていた。  
 それからしばらく待って降りてきた姉も、Tシャツにジーンズ姿だった。姉のこんな  
格好を見るのは初めてだったが、少し都の身体には大きめのシャツ、だがそれよりも……  
 
(なんのマネだ……)  
 ペアルックだった。わざわざ同じ色のTシャツを探してこんなに時間を食っていたの  
かと思うと泣けてくる。  
「俺、着がえてきていい?」  
「だめ」  
 腕を引っ張られ、ジーンズと青のTシャツ、加えてトートバッグの姉と出かける。  
「で、どこ行きゃいいの」  
「?」  
 訝しげに見てくる姉に、  
「もしかして姉ちゃん、アテがあるわけじゃないの?」  
「由美がどこでなにしてるかなんて知らないもの」  
 ぷるぷると拳を震わせて、巧はどうしてくれようと、姉の背中をふと見た。  
「これ、俺のTシャツじゃん……」  
   
 梅雨明け直後の強烈な暑さは例年通りで、巧はすぐに音を上げた。右手を吊っている  
ストラップさえ煩わしくなり、  
「今日の体力終了、だからもう帰ろうよ〜」  
 とぐずってみせても姉はびくともせず、巧は駅前の繁華街を引きずり回された。  
 ペアルックで片方が怪我人なので目立ってしょうがないのだ。擦れ違う女の子のグルー  
プやカップル、営業のサラリーマン、果ては公園のニットキャップマンにさえ好奇の目  
で見られてしまう。  
 
 駅前のロータリーで運良くパチンコ屋の販促のうちわを手に入れた。  
 駅の反対側に出て、緑地帯の並木でようやく休むことが許され、巧は木陰のベンチで  
ぐったりとして休んだ。  
 目を閉じるとくらくらして、自分は夢でも見ているのかと思いたくなる。この日常は、  
いろんな要素の混じった闇鍋のごとき夢なのだ。この数週間の間にとてつもなくいろん  
なことが起こっていた。  
 いや、今もまだその渦中で喘いでいるところだ。  
 隣から、生温いながらも柔らかい風が送られてくる。都が派手な印刷のされたうちわ  
でゆっくり巧の首へ向けて扇いでいた。  
 薄く目を開けるとすぐ、余りにも優しい瞳が向いてきて、微笑んだ。巧は見なかった  
ことにする。  
「俺たちなにしに出てきたんだっけ」  
「デート」  
「ち・が・う」  
 ずるずると腰を前にずらし、巧はまたちらりと都を見やった。  
 ジーンズ姿というだけでこんなに別人のような魅力を見せる姉の都。細さ白さが病的  
にならずに、強い日ざしに鮮やかに映える。  
 しばし、欲望を忘れて美の化身に見入る。  
(この下に貞操帯をつけてるなんてとても思えない)  
 
「姉ちゃん」  
 吹き付けた熱風に、都はうちわを下ろし、巧の方をじっと見つめた。  
「なあ、もうわかったろ。真面目な話、普通の彼氏見つけて俺のこと解放してくれよ」  
「ひどいこと言わないで」  
「いや、言うね。姉ちゃんはさ、覚悟しちゃってるわけ? そんなことしたらさ、たぶ  
ん真っ当には生活できないよ」  
「夫婦になることはできないけど、夫婦みたいに暮らすことはできるわ」  
「そんな恐ろしいこと平気で言うか……俺には絶対出来ねえよ……」  
「そんなこと、ない」  
「姉ちゃんにわかんの? 俺、本気で姉ちゃんに幸せになって欲しいの。『自分が幸せ  
にしてやりたい』っていうのとは全然違うんだからな」  
「じゃあ巧は、私がどんなことで幸せな気持ちになるのか、本当にわかるの? わから  
ないでしょ。それなら私の言ってることだって信じてくれてもいいじゃない」  
「言ってることは信じてる、と思うよ」  
 煮え切らない言い方をしてしまう。揺らぎを見せればすぐに差し込まれる、それはわ  
かっているのだが、姉の、静かだけど強い口調に刃向かいきれない。  
「それに、二番でいいからって言ったよ、私」  
 何度聞いても姉らしくない言葉だ。  
「責任とか義務とか独占とか、私には全然関係ない。どうしてわかってくれないの?」  
(姉ちゃんこそどうしてわかってくれないんだ)  
 
 こんなに大切に思っているのに。  
「口ではそう言っても、実際には一番の人に取って代わりたいって思っちゃうもんだろ。  
不倫OLとかとおんなじ」  
「思わないわ。環のこと好きだし、幸せになって欲しいけど、それを少し分けてくれる  
くらいがちょうど環らしいから」  
 環は非日常の象徴、打ち込まれた抜けない楔。  
 都は日常的な存在で、それは比べるものではない。  
「だいたい、なにが二番だよ……自分でなに言ってるかわかってねえし、そんなこと自  
分の姉ちゃんに言われて俺がどんな気持ちになるかとか、考えたこともねーんだろ!」  
 言ってから思う。そんなはずはない。  
 姉はなにもかも考えた上で、そんなのが現実的な落とし所だと思っているのだ。  
 その証拠に、今巧の目の前で都は穏やかに、ただ巧の声を聞いている。  
「ちくしょ……、もう決まったことみたいに言いやがって……」  
 頭をのけ反らせて、顔を背けたところで涙がこぼれてしまった。左手でそれを隠した。  
 こんな涙では姉は二度と動揺しない。  
「絶対、はずしてやらねー……」  
「それでもいいよ」  
 あたりまえのように都が言った。  
「これ、一生大事にする」  
 巧は虚しくなって、それには何も言わなかった。  
 
   
 そのまま家に帰った。  
 はるかが帰ってきて、いつものように軽くちょっかいを出しながらも意識は姉の方へ  
引っ張られていた。こういう別な難題があって、環に触りたくて触れない疼きを紛らわ  
せている。  
 現実逃避を兼ねて、姉にバラバラにされたビデオテープを冗談で(半分本気で)、発  
掘された土器のように復元していると、目の前でまた姉に踏まれた。今度こそ再起不能  
になった残骸は不燃ゴミのシューターに放り込まれてしまった。  
 兵糧攻めだ。溜まったもののやり場がない。  
 そして、しょうがなくリビングで、録り溜めしてあった海外サッカーのビデオを見て  
いると、両側を都とはるかに挟まれた。  
(…………)  
 いかんともしがたかったが、待鳥家では、父・透の家長命令によりクーラーの同時使  
用が禁止されている。  
 じっと画面に映し出される試合を見ていると、やっと気持ちが落ち着いてきた。  
 巧たちのサッカー部は過去最高の予選ベスト4まで駒を進め、そこで敗退した。巧も、  
走るのに支障がなくなればすぐにロードワークを再開する予定だった。秋から始まる次  
の予選には十分に間に合うだろう。隅の方でそんなことを思いながら、しばらく画面上  
のゲームの成りゆきに没頭していた。  
 ハーフタイムで一息入れて、おやつを漁っていると、たちまち都とはるかが動いてお  
茶をやってくれて、ガンガンにクーラーを効かせた中、優雅に後半戦の観戦をする。  
 
 右に座ったはるかが、ぽてっと頭をもたせかけてきた。  
 はるかは初めのうちは難しい顔をして見ていたものの、だんだん一心にボールの行方  
を目で追っていて、さすがに疲れてきたのかもしれない。休憩だらけのテニス中継とは  
だいぶ勝手が違うのだろう。ふわふわとあくびをしたと思うと、こっくりこっくりやり  
はじめる。  
「重いんだよ、はるか」  
「ん〜」  
「寝るなら部屋で寝ろ」  
「やだ、暑いもん」  
 と、はるかはそのまま巧の膝を占領した。  
「……嫌がらせか」  
 そこで、そこまで静観していた都が、じーっと巧の顔を見てきた。  
 巧は知らん顔をして画面に集中する。  
 気持ちよさそうに寝ているはるかが重い。姉がなにやら隣室に行くのを見てから、  
「はーるかー、起きねーとつっつくからな」  
「だめぇ……」  
 一応まだ聞こえているらしい。本当に邪魔なので、  
「うらうらうら」  
 人さし指で、はるかの胸元を連打した。  
 飛び起きた。  
 
「やっ、お兄ちゃんの馬鹿、エッチ〜!」  
 飛び跳ねて床に転げ落ち、バタバタと逃げる。  
「悪いのはおまえだ、まじで、そっちの一人掛けで寝ろ」  
「エッチな人がいるところで寝るほど馬鹿じゃないもんっ」  
「ホントかよ……」  
 都がタオルケットを持って戻ってきて、それを受け取るとはるかは、そのままくるまっ  
てすぐ眠ってしまった。  
「わけわからん……」  
「妹ならいいんだ?」  
「姉ちゃんもわけわからんこと言うな」  
「わかってないのは巧だけかもよ」  
「そりゃ二年分くらいは姉ちゃんの方がわかってんだろーよ」  
 画面を見ていても、もう試合内容がろくに頭に入らなくなってしまった。  
 都は巧の左肩とソファの背の間に頭を突っ込んできた。首を捻って巧の方に顔を寄せ  
る感触がある。巧は意地にかけても反応しない。姉の行動を黙殺することに決めたのだ  
から。そうしないともう本当に『ノーフューチャー』である。  
 その時廊下の電話が鳴った。  
 都が出ようとするが、それよりも早く立ち上がってその行く手を塞ぐ。受話器を取っ  
たが、何も聞こえてこなかった。巧も、「もしもし」とも言っていない。  
 
 多少の間があって、  
「……巧くん?」  
 間違いなく環の、でも少し変に聞こえる声がした。  
「環さん、なにしてんの?」  
 苛立った声が出たことに巧は自分で驚いていた。これで順番もなにもめちゃくちゃに  
なってしまった。  
「由美さん……は?」  
「いるよ」  
「今どこに──」  
 都が後ろから抱きついてきた。身体が緊張し、都が脇にまわす手に、寒気のようなも  
のが走る。  
 巧は、夏の軽装ではどうやったところではっきりわかる場所を、強く吸われていた。  
 

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