たとえばはるかはとても自然だと思う。普通に妹であって、巧の多少行き過ぎた悪戯
に対してもバランスを保った反応をする。
都のバランスの悪さは、気持ちが顕在化するずっと以前からのものだ。
変化を生むのはこういう不安定な精神だと物知り顔に誰かが言った。そうだとしても、
自ら強く望んで、自力でつくり出した変化こそが自分を守るのだと信じているのが巧だ。
「──」
状況を説明する環の淡々とした物言いに疑問が湧いた。
(なんで、温泉なんかにいるんだ?)
「巧くん、反省してる?」
意外に言葉が軽いので、巧は少しほっとしながら、
「そりゃもう。姉ちゃんの時にとっくに懲りてなきゃいけなかったことです。タチ悪い
ですよね……。直接由美さんに言いたいんです」
そうだ。およそ他愛のない諍いなのになぜ、こんな極端な舞台ができあがっているの
だろう。
姉は巧を骨折させたことで怒りを相殺されて、結果として冷静になってくれた部分が
あった。由美は平手を浴びせたものの表面だけで、巧におそらくなにひとつダメージを
与え得なかったことで、気持ちの持って行き所をなくしてしまっているのだと思う。と
はいえわざわざ巧から離れたのでは、余計にどうしようもないんじゃないのだろうか。
手加減無しのフルパワーで空中コンボのひとつも決めてくれればいいじゃないか。
「今は言っても聞こえないかもね。あのコずっとお酒飲んでるから。ていうか、つぶれ
てずっと寝てるから」
「未成年……」
「巧くん、ごめんね。私もうちょっとだけここにいる」
「もうちょっと」
「うん」
「俺は今すぐにでも会いたいです……、由美さんに言わなきゃいけないこと、やっぱり
あるし」
本当は環の後ろで由美が舌を出しているんじゃないかと思いながら、話している。
「環さんは、由美さんの方が大事?」
なにをくだらないことを聞いているのだろう。子供みたいだ。だけどもしも、と頭の
奥の方が囁いてもいる。
言ったら絶対後悔するのに、浅はかに考え無しに、口に出した。
「環さん、由美さんとそこで本当はなにしてるんですか?」
環にははっきりわかったはずだ。
巧が何を知りたがっているのか、巧が何を願っているのか、巧が誰を責めているのか。
環が持っている答えは、たぶんことごとく巧の想像通りのはずだ。
「巧くん……、明日、必ず戻るから、待っててね? 巧くんのところに帰るから!」
環の言葉も剥き出しだった。
ブツ、とそこで切れたのに気付いて、巧はゆっくり振り返った。
姉が泣いている。巧の代わりに静かに泣いている。
(勝手に解釈して、泣かないでくれよ)
都はフックを押さえ、自分が切ったとわざわざそう教えていた。
受話器を姉に渡し、巧は熱気の異常にこもった自分の部屋で、ぼんやり考える。
(明日っていつのことよ)
さらに三日、環は戻ってこなかった。
巧はもともとゲイ的な感覚に偏見がない。だから、冷静ではいられない。情報があや
ふやなのをいいことに、楽観的に捉えようとも試みる。
都は途中から巧の電話を階段に座って聞いていた。
由美が仕返しに嫌がらせをしているのだというようにシンプルに考えていては、ハマ
るのかもしれない。姉の一筋縄ではいかない意外なまでのしたたかさに、巧は学習させ
られている。
はるかが合宿で家を空けて二日目となり、巧は生活の大部分の時間を都と二人で過ご
していた。
(環さんは好きにしていいって、俺が言ったんだ)
『両刀のお姉さん』に惚れたときに織り込み済みの覚悟のはずだった。巧は自己評定の
甘さに初めて直面していた。
注意を欠いて、紅茶をこぼしたり、テーブルにつま先をひっかけたりと、感覚的なリ
ズムがかなり狂ってきている。集中できないのだ。「脆弱な自分」という認めたくない
現実が寄せてくる。
(俺は姉ちゃんを拒絶することで環さんを束縛する理由にしようとしている)
それだけはちゃんと受け入れた。
環との電話の後の三日間で巧は神経をすり減らし、都を心配させていた。
待たされる感覚、宙ぶらりんの立場ほどじわじわ人の心を痛めつけるものはない。
『明日』という約束が反古になり、キツイ方に現実が傾くと、頭痛がし始めた。
気分転換にサッカーもできない。悪い条件があまりに揃い過ぎている。
夜、姉の勧めにしたがって、久しぶりに背中を流してもらうことになった。
巧は多少身構えたが、都は裸で入ってきたりはしなかったし、前と同じように穏やか
に巧に接して、深入りはしてこなかった。
そう感じながらなにげなく姉に尋ねる。
「姉ちゃんは俺の傷、いくつくらい覚えてる?」
弟の狼藉に対して姉が行なってきた過剰制裁の、十年間の記憶。
「全部覚えてるよ」
即答だった。
「だって私がつけたんだもの」
たぶん姉は本当に、薄くなったり消えてしまって巧自身が忘れてしまった傷だって覚
えている。なんとなくそのことが染み込んでくる。
そうやってお湯の中に浸かっていると、ようやく安らぐことができた。
(姉ちゃんが電話切ったとき環さん、なんか言おうとしてなかっただろうか)
それを、妄想じみた記憶のすり替えだと感じる。
巧はクーラーを避け、網戸にしてベッドに転がった。
うだるような暑さもこうしてみれば気を紛らわせる刺激になる。
だが、なんだ大したことじゃないじゃないか、と思った瞬間に痛みが襲ってくる。
(姉ちゃんも由美さんも、残間や吉田もみんなこんなものを抱えて、ちゃんと生活して
るんだな……)
そう考えると自分が劣っているように思えてきてヘコまされる。
隠してあった『鍵』を取り出して、片手で玩んだ。最後の一線の物理的象徴、巧の精
神的限界。元の場所に戻し、目を閉じると環の感触に思いを馳せた。
*
巧は髪を切ることにして、駅前の最近流行の千円でやってくれる散髪屋へ向かった。
客層はやはり値段につられた大学生やサラリーマンがメインだ。修行中の美容師見習
いのようなスタッフが多く、結構若者的には評判がよい。巧ももう何度かここで切って
いる。残念ながら、そういう店の常としてスタッフの入れ代わりは激しい。
ここで面白い組み合わせに出会った。
先払いの千円をカードに替えていると、正面に並んだ二つの理髪用の大きな鏡が目に
入り、そこに大橋守と残間清美の顔が並んでいたのだ。
大橋がにっこり笑ったのと対照的に清美は挙動不審になった。
「なんかいいもん見ちゃったなー」
にやにや笑いながら、清美の後ろから鏡にジェスチャーを出してからかい始めた。敵
は散髪中であり、一方的に攻撃できる。
「お、覚えてろよ……」
「おまえが凄んでも全然こわくないぞ」
「目ェ潤ませて、『ごめんなさい、許して』とか言わねーとな」
横から守が口を挟んだ。
「大橋ィ〜、あんたがいるからいけないのよ」
「ちょっと、お願いします、前向いててくださいよ〜」
清美を担当している女性が情けない声を出すので、清美はしぶしぶかしこまって前方
の鏡を向いた。当然薄ら笑いの巧が視界に入る。
「〜〜〜ッ!!」
「やー、残間最高」
「巧」
守の声に思い直し、巧は黙って下がった。
それを清美が興味深そうに見ている。
「残間がなんか入ってくの見かけたんでな、後つけて俺も入ったの」
守が意味ありげに言うと、清美がなにか言いたそうにその顔を見て、最後に、
「あんたって、馬鹿みたい」
と少し嬉しそうに言った。
二人ともなかなかにシャレたカッティングをしてもらって、機嫌がよさそうなので、
巧はちょっと和んでいた。
手を振って清美が去って行った後で、巧は、
「おまえ今の、残間に」
「いや、あいつの望み通りになったろ、あれで」
つまり守はこの暑い中清美を映画に誘って、清美が守ののびすぎた髪にけちをつけた
のでここに入っていたのだ。彼女はこの千円バーバーを知らなかったので、お試しで便
乗したらしい。
「フツー、デートで散髪には行かねー」
「俺が連れ出しただけ。だからさ、おまえに見られて困ってたじゃん、あいつ」
「その気の使い方はおかしいんじゃねーの?」
巧はそう言いつつも、(いや、あれはあれであのコに対するアピールになったのかも)
と思って、守の健闘を賛えた。
「俺様が100円屋でごちそうしてあげよう」
「100円屋かよ──いや、珍しいじゃん。なんかあった……って顔だよな、それ」
巧は肩をすくめて一応肯定してみせた。
「別に相談とか愚痴とかじゃなくて暇つぶしたいだけだし、ウン」
「おまえは見かけの割にカタイんだよ。だからさ、人に迷惑さえかけなきゃどんどんバー
ストすりゃいいんだ」
「迷惑の基準ってなによ?」
守は巧をじっと見た。何かを考え、
「傷つけさえしなけりゃ何をしてもいいんだよ」
少し先読みしたような言い方をしてくる。
「そーいうもんかね」
「そ」
「……法律に違反しなけりゃ何してもいい、ってのとだいぶ違うよな……」
「意味深だな、それ」
「いや、流してくれ、お願い」
(そういや由美さんは、後悔しなけりゃ、て言ってたな。いろいろあるもんだ)
「おまえって結構苦労してるわけ?」
別れ際に巧はそう聞いてみた。
守は楽しそうに笑う。
「俺は苦労から逃げるのに命賭けてるんだ。苦労しなきゃなんでもいい」
(なんだそれ)
少しばかり涼しくなった頭を意識にしながら、巧は年寄りみたいに日陰から日陰へ、
辿りながら歩いた。
(逆に言うなら)
都にしろ、環にしろ、由美にしろ。
(傷つけたら駄目ってことだろ。……無理だろ、それ)
そのとき、やっと首のキスマークのことを思い出した。
やっとのことで家に帰り着くと、都はリビングで居眠りをしていた。
そうっと二階へ上がり、下着を出してきて水浴びをする。千円バーバーではシャンプー
はしてくれないので、大抵頭に細かい毛が残っているのだ。水を受けている間だけは夏
も気持ちがよく、巧は水風呂に切り替えてたっぷりと時間を使った。
まだ少し頭痛があった。
やっぱり自分は痛かったり辛かったりするのは苦手だ。大橋守の言うような苦労しな
い人生、という基準がちょうどいいと思う。
誠実にやろうとしても周りが許さず、苦労することばかりだ。でもだからといって誰
も傷つけたくないのだ。
(どうしたもんかね、姉ちゃん)
なにをするにもバイタリティが要る。巧にとってその力の源は環だった。
環の声が聞きたい。
環の身体が欲しい。
風呂場を出ると電話が鳴った。
三日ぶりの環の声を聞き、だけど心は晴れなかった。
「巧くん、明日帰るね」
空々しく聞こえるのを知っていて、淡々と言っている。
明日になってからかけてきて、「今から帰るね」と言ってくれればよかったのにと巧
は思った。
その方が信じられる。
めっきり、心が狭くなった。
ぺたぺたと廊下を歩き、暑さに辟易しながら自室に戻った。
もう一人、何を考えているのかわからない人物がベッドを占領している。巧が戻って
シャワーを浴びているのに気付いて懲りずに移動してきたのだろう。
うつぶせで四肢を投げ出し、小さく寝息を立てていた。
この日もジーンズにTシャツを着ていて、身体の、特に下半身の曲線が綺麗に伸びて
いた。背中から尻に、ブラとボディロックのラインが見える。髪が流れてシーツの上に
大きくひろがっている。ジーンズで押し上げられたお尻の形が目に焼き付いた。
官能的だ、と思ってしまった。
逃げられないようにするにはどうしたらいいだろう。
(肩と腰を押さえる)
姉の目が覚めたらなんて言おうか。
(鍵を外して欲しいかどうか聞く)
自分の一番やりたいことはなんだろう。
机の引き出しを取り外し、その奥の板にテープで張り付けておいた鍵をむしった。
都は眠ったまま動かない。
(姉ちゃん、起きて止めてくれ。それが姉の仕事だろ)
憤りや焦りと理性が相殺された今、残っているのは欲望だけだ。