逃げ出してしまった。  
 巧は、とにかく姉のその笑顔から逃れようと外に出て、事実上迷子になった。行くと  
ころがない。  
 アパート暮しの大橋守がすぐ頭に浮かんだが、訳ありの一人暮しかもしれない。  
 とにかく電話を入れる。  
 応答がないので、一旦移動する。目立たない小さな公園を見つけて、そのベンチに座  
り込んだ。  
(姉ちゃんを壊した)  
 キスもしなければ「好きだ」とも言わなかったのに、姉はとても喜んでいて、そして  
もはや感極まって、泣き出しそうに幸福な笑みを浮かべる姿に、巧は限り無い衝撃を受  
けた。  
 姉にはそういう表情をつくる能力がないと思っていた。そういう姉ならば、壊れでも  
しなければこういう顔はできないんじゃないのか。  
 自分は姉を犯したのだ。愛したのではない。  
 そのことが重すぎるのだ。  
 家を出る時にも姉は、「どこに行くの?」と縛るようなことも言わず、「早く帰って  
きて」みたいにすがるようなことも言わず、ただ「いってらっしゃい」という笑顔で見  
送ってくれた。  
 
(犯されて喜んでんじゃねえよ……)  
 もう一度泣いて、それから環のことを思う。  
 今目の前に現れたとしたら、速攻で逃げてしまいそうだ。つかまっても絶対目を見て  
話したりできないだろう。  
 戻ってくるのだとしたら、明日のいつ戻ってくるのか知らないが、それまでに居場所  
をつくって隠れてしまいたい。  
 逃げても解決にはならないが、環の言いそうなこと全てが怖かったのだ。  
 三度目にコールした時に、守が電話に出た。  
 幸い時間は空いているというのでとりあえず風呂を借りたいと言うと、快く承諾して  
もらえた。巧はともかくほっとして守の、駅南のアパートへ向かう。  
 直前でコンビニの袋を下げた守に後ろから声をかけられた。  
「まあこれ飲め」  
「サンキュ」  
 冷えたウーロンのミニボトル同士でコツンとタッチをして、  
「大丈夫なのか?」  
 と聞いた。できるだけ迷惑は最小限にしたい。  
「一晩なら。明日は人が来る」  
「いーなー、女付きで一人暮し。人生いうことなしだな」  
「んなわけあるか。炊事や洗濯、全部自分でやるんだぞ」  
「似合わねー……なんで一人暮しなのよ」  
 
「親の転勤についていかなかっただけだよ、せっかく受かった第一志望校だしな」  
 淡々と、守は部屋の鍵を開けて明かりをつけ、巧を中へ通した。  
「ゴミ溜めになってねえ時点でおまえはエライ」  
「いや、その、掃除はあんまり」  
「女がやってるとしてもだな、この年でそういうコを見つけたってのはキミの実力なの  
ですよ」  
「ふーん……」  
 守が買い込んだものを片づけながら、面白そうに巧を振り返った。  
「そんなこという奴は初めてだな」  
「そう? ていうか、思わねえ?」  
「そんなことより、なにがあったのよ、ひでー面して」  
(あ、照れてる)と思いながら、どこまで話していいのか迷う。軽々しく口にはできな  
いし、まだ気持ちの整理もできていない。なんだか現実感がない。環の時のように後か  
ら実感が湧いてきたりするとしたら、たぶん相当酷いことになる。  
 汗を流しながら考えようと思い、  
「とにかく気持ち悪くてしょうがないからシャワー貸してくれよ」  
「OK」  
「お礼にメシつくってやろう」  
「いいアイデアあったらくれ。もうネタがなくて困り果ててるんだ」  
「彼女は?」  
 
 ユニットバスの体裁をとりつくろった守が、  
「毎日来るわけねえだろ……それに、そこまでやらせんのはな。おまえ、女臭いから早  
く入れよ」  
 巧にいいぞ、とタオルを渡して、台所に向かった。  
 巧はそれを見やりながらバスタブに身体を入れ、シャワーのノズルを調節し、蛇口を  
ひねり、やっぱり思う。  
(似合わねー)  
 だが大橋守は、雰囲気の読める男だった。今日もこうやってとても自然に、さも当た  
り前のように巧に応えている。  
 シャワーのお湯に、汗や汚れといっしょに姉の匂いを流していく。  
 ちょっと短かめに切り上げると、さっさと片付けて出る。あとで100円屋で下着類  
を買いにいこうと思う。でもそんなことをして、自分はいったいこの先、どうしようと  
しているのか。よくわからなかった。  
 巧が、守がシャワーを浴びる間になにかつくってやろうと言ったら、どうせなら二人  
でなんかすげえものをつくろう、待ってろと言われ、巧は守の小型のテレビをつけて、  
ぼんやりそれを見ていた。  
 気を遣っているのだろうか、と思う。そういえば、巧は守が自分の事をどう評価して  
いるかよく知らない。一度だけ巧のサッカーを評して、『おまえはサイドアタッカーと  
いうよりはサイドランナーだ』とこき下ろした。  
   
 巧のごり押しで、『デコレーションチキン』なるものをつくることになった。デコレー  
ションケーキそっくりにするのだ。  
 味付けした鳥と根菜を中心にし、スポンジのかわりに食パンを敷く。鳥の皮で周りを  
囲む。プチトマトを苺のごとく飾ることにし、  
「生クリームの代わりはマヨネーズのハーフ。マヨネーズはバーナーで炙る」  
 と巧が締めると、  
「食いたくねー……」  
 と守は即座に言った。  
「余ったら彼女と仲よくごちそうになってください。ちなみにうちでやったときはひっ  
くり返されそうになったけど」  
「マヨネーズさえどうにかすればいいんだよ、この味覚音痴」  
「おまえな、いつも思ってるけど、本当の事ならなんでも言っていいわけじゃねえぞ。  
サッカーのときだって、なにがサイドランナーだ、俺だってセンタリングぐらいできる  
んだよ」  
「あたりまえだ。つーか、気にしてたのか……」  
 意外に元気な巧にほっとした顔を見せながらも、守は目の前の強い匂いを出す物体に  
脱力する。  
「マヨネーズくせー……、持って帰れ、こんなもの。十秒で」  
「悪いが俺は宿無し。まずは食うんだよ、文句言わずに」  
「家出とは違うのか? いったいなにやったんだよ、ひょっとしてお姉さん襲ったとか  
そういうレベルなのか?」  
 
「ひ・み・つ」  
 そう言いながら、巧はやっぱりこの男を巻き込めないと思った。  
 部屋の隅っこに毛布を借りて一夜を過ごすと、守が起きるのを待って、  
「今度来たらカレーをつくってやろう」  
「あれか、あれならまた食いたいな」  
 守は屈託なく笑っていた。  
   
 そんな友人のおかげで少しは気が楽になっていた。だが、一人寂しく公園の鳩に因縁  
をつけているうちに虚しくなって、ちょっとウチに電話してみようと思った瞬間のこと  
だった。  
 最初に姉の顔が浮かんだ。  
 まずい、と思った時には遅く、頭痛と吐き気で立っていられなくなり、すぐそばにあっ  
たトイレに駆け込んで、しのいだ。  
(なんだこれ……)  
 姉のことを考えようとすると駄目なのか。  
(環さんなら……)  
 だが、少しずつ、環の方にも実感が押し寄せてきた。  
 そして頭が割れそうになる。心と身体のすべてが現実から逃げ出そうとしているみた  
いな感じだ。うずくまって嵐が去るのを待つ。  
 
 こんな所にいては駄目だ。  
 人のいるところ、人の多いところ、他人と関わって気を紛らわせる場所。  
 繁華街なら、最後はナンパという手もある。思い付いてから、なにを性懲りもなく痴  
れたことを、と自嘲しながらもアーケードへ向かって歩く。  
 なにかおかしい。  
 感覚が普通じゃないのに気付く。  
 交差点まで差し掛かり、さらに奇妙な目眩を感じた。平衡感覚がおかしいというより  
も視覚情報が不正確でそれに惑わされている感じだ。  
 それはだんだんと弱くなってやがてすっきりとした清浄な世界を感じた。  
 信号を渡ろうとしたその時、強い力で引き止められ、叱責と共に引き倒された。  
「待鳥くん! どこを見てるの?!」  
「どこって……おや、高野さん」  
 ナース服の上からサマーカーディガンを羽織った看護師の高野が真上から覗き込んで  
いるのが見えた。  
「倒れるとは思わなかったわ。ごめんね」  
「いや、ちょっと無防備でした」  
「ていうか君今、信号見てなかったの?」  
「赤で渡ったりしてないけど。──高野さん、制服ピンクじゃなかったっけ」  
 高野が巧をじっと見た。  
「どうしたんですか?」  
 
 しばらく考え込んでいた高野は、  
「ちょっとついてきて」  
 と巧を引っ張り、病院の方へ歩き始めた。  
 高野が勤め、巧が二泊三日の間世話になった木塚総合病院は駅のすぐ南にある。巧は  
まっすぐに外来入り口から連れ込まれ、  
「ちょっとロビーで待ってて。私夜勤明けだから、着がえてくる」  
「? いいけど」  
 少しだけ懐かしい総合受付の前を横切って、待ち合い席の外来患者達に混じって座る。  
右手を吊っている外見的にはまったく調和が取れていて、なんとなく苦笑した。  
 そうじゃなくても今は病人のようなものだ。高野に連れてこられた理由もなんとなく  
わかっている。理屈はともかく、自分も壊れかけているらしい。  
 ほどなく高野が戻ってきた。私服だった。  
「あれ? 俺を医者に見せるんじゃないの?」  
「夜勤明けって言ったでしょ。モーニングつきあってもらって、それから──」  
 どういうことかまるでわからないが、どのみち巧には行くところはない。私服に着が  
えて別人のようになったこの看護師に、さらわれるのもいいかもしれない。  
「おごってくれるんですか?」  
「ま、しょうがないわね」  
 聞いたこともない名前の怪しいファミレスで、オーソドックスな朝食を摂った。  
 味覚は完全におかしかった。  
 
 そういうところも、高野には観察されているような気がする。  
「このあとはどうなるんですか?」  
 巧がそう聞くと、高野はそれには答えず、  
「変な味がするでしょ?」  
「……ちょっと。なんで?」  
「食べているものの色が君に見えていないからよ」  
 確かにその通りだ。期待通りの味がしなくて感覚が混乱している。  
「見覚えのある怪我人が歩いてるから、すぐ君だってわかったわ。全然迷わないで突っ  
込んでいくからさ、自殺かと思っちゃったわよ」  
「いや、赤じゃないと思ったから」  
「そういう死に方した人知ってるからね、ちょっとびっくりしちゃった。驚かせてごめ  
んね」  
「俺、もう大抵の事じゃ驚かないと思うな。空も真っ白だし、今高野さんが着てるその  
色っぽいデザインの服も真っ黒ですね。それ以外はどうでもいい気分」  
「ありがと」  
 そう言いつつ、高野は真顔で巧を見据えていた。  
 ちょっと居心地が悪い。高野は、身長は姉よりちょっと低いぐらい、ショートカット  
で明るい感じだが、環あたりと比べても大人の雰囲気充分だった。イヤリングと指輪が、  
彼女が表情を変えるたびキラキラ光っている。  
 ノースリーブの腕に絡まれて、  
 
「このあとどうなるか知りたい?」  
「俺は寝る場所を提供してくれる人なら、どこでもついて行っちゃいます」  
「んー、つまんない反応ねえ。まあいいわ、ウチにおいで。好きなだけいていいから」  
 ファミレスの階段から歩道に下りると、高野は言った。  
「私は高野頼子、私んちでは高野とは呼ばないでね、頼子さんでよろしく」  
「頼子さん」  
「うふふ、そっちは『巧くん』よね」  
 腕を環のように取られ、そのことで少し胸がきしんだが、頭痛は来なかった。  
 コンビニで買い物につきあい、また腕を取られて歩いた。とりあえず気は紛れている  
けれど、これでいいのだろうか。判断に自信が持てない。  
 本当に巧をマンションに招き入れた頼子は、適当に服を脱ぎ散らかしながら、シャワー  
も浴びずにさっさと寝巻きに着がえた。  
「私は今から爆睡するから、君も寝ること。ただし、悪戯しないように。後が酷いよ」  
 とカーペットの上に敷きっぱなしの布団を指差した。  
「ベッドとかないの? ていうか、俺の分は?」  
「あたしといっしょじゃ不満なの?」  
「いえ、とんでも」  
(なにもかもむちゃくちゃだ……これで看護師なのか……)  
 いっしょの布団を強制して悪戯禁止もなにもないだろう。なにもしやしないのだが。  
(どうなることやら)  
 とは思ったが、とても大人に見えない頼子の振る舞いも、はしたない格好も、大した  
ことではなかった。  
 とりたてて苦痛はなく、過ごしてはいけそうだった。  
 頼子の姿見で自分の有り様を確認してみる。  
 なにもかも変わってしまったのに、なにも感じてないみたいな自分の顔が悲しかった。  
 いつから自分はこんなに弱くなってしまったのか。  
 

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