朝、大橋守のところで起きてきたばかりだった巧は、それでも深く眠れたわけではな
かったので、素直に頼子の隣で横になった。
巧の見たところでは頼子は二十代前半、大人のはずなのだが、少しでも社会規範に則っ
た様子がまったくない。加えて、食事をしてすぐに寝ている。
頼子に背中を向けるとカーペットが目に入る。これが汚かった。
(虫が飛んでるぞ……)
目を背けて、頼子の方を向いた。
頼子は環と同じように首筋の生え際を見せ、本当に熟睡してピクリとも動かなかった。
(これじゃ悪戯されたってわかるまい)
ため息をついて、巧は天井を向いた。
部屋の中は快適だった。見渡してみると隅で冷風扇と除湿器が静かに働いている。帰っ
てきた時につけた様子もなかったので、これは一日中動かしているのだろう。こういう
ものでエアコンを使わずに効率良く部屋を冷やすことができるらしいことはきいていた。
実際気持ちよかった。
身体から力を抜き、目を閉じた。開けていてもどうせモノクロの世界だ。
見たいものがあるわけでもない。でもちらっと隣の異星人の様子を窺う。
とりあえず男と認識されていないのはありがたいが、安全パイとなめられているのも
癪なので、さっそく悪戯を試みた。
ブラの胸の間に、そのへんに転がっていた牛のぬいぐるみを挟んでおいたら、夕方に
なって起き出した頼子に飛び蹴りを食らった。
別な日に今度はパジャマのズボンを脱がせて、タンスから見つけてきたパンツをもう
一枚はかせて二重にすると、ズボンを元に戻して、寝た。
これは根に持たれた。が、なぜか逆に気に入られたような気がする。
とてつもなく落ち込んでいるはずなのに、毎日妙に静かな気持ちだった。
ちょっと買い物につきあったりする以外はほとんど外出はしない。ギプスが目立ちす
ぎて知っている人間には速攻で見つかってしまうだろうし、なにより外は猛烈に暑い。
目がどうにかなった以外はまったくありきたりな日常だった。どうしてこんなに普通
でいられるのか不思議だった。
頼子は頼子で無頓着に、普通に暮らしている。
部屋の中を飛び回る虫が増えたくらいに考えているのかもしれない。頼子の同僚か誰
かからかかってきた電話に、
「ミニ柴とか飼ってるみたいで面白いよ」
とか言っていたのはひょっとしたら自分のことかと思う。
巧は、そろそろ右腕の検査が一回あるのを思い出し、
「都合のいい日でいいんだよね? 頼子さんの昼勤の日にいっしょに行くよ」
「懐きすぎよ、巧くん。私はいいけどね」
すっかり『巧くん』だ。
その夜はパジャマの中に毛布を入れてパンパンにふくらませてやった。
巧は環の夢を見た。
色のついた夢だ。現実に色がないので、そんなものかと思う。頼子に蹴り起こされた
せいで細部はまるで思い出せないが、夢の中の環は怒っていて、かと思うと泣いていた。
たぶん勝手な思い込みだ。へたをすると、環ではなく姉だったかもしれない。でも、
ちゃっかりセックスしていた気もする。なんとなくありもしない感触が残っている。
頼子に蹴られた脇腹を押さえながらのろのろ起きだし、適当に二人分の朝食を準備し
ている間も頼子の機嫌が悪かった。このところ食事はしょうがなく巧がつくっている。
最初に病院で見た営業スマイルがまったく想像できないダメ女っぷりだ。
そこから出勤までの変身の様は、見ていて詐欺に近い。一緒に出た巧は検査を受けて、
次の検査まで様子を見てそれでギプスを外してもらえることになった。結果を聞いた頼
子は嘘みたいに嬉しそうににっこり笑った。
多少、どうしても我慢できないところを自分で片付けたおかげで、巧はなんとなく、
部屋の汚さが気にならなくなってきていた。
(いかん、これではダメ人間になってしまう……)
とあるとき急に思い、頼子がいないうちに徹底的に片付けてしまった。
その日に頼子が帰ってきた直後に電話があった。巧はそれとなく頼子の話し声を聞い
ている。話の内容も大体わかりそうな電話だった。
「郁美? そっちはどう、変わったことない」
「彼氏なんかいないわよ、…………あんたの同級生じゃ犯罪になっちゃうでしょ」
「全然平気よ、家事担当やとったし」
「あんたも知ってるでしょ、男なんていらないって、母さんにも言っといて、絶対行か
ないって」
「へえ……なんか大変じゃん」
「そういえば最近はるかちゃんには会ってないなあ」
巧は一瞬(あれ?)と思うが珍しい名前ではない。ただ、少し会いたくなった。
「あと一年で受験でしょ、高校……後で泣けっ」
がちゃっと乱暴に切ると、頼子は部屋の中を見渡して、
「泥棒でも入ったの?」
と言った。
「どういう言い種だ……」
巧は暴れ出したくなるのをこらえ、
「看護師のくせに不衛生すぎ。ていうか女の部屋じゃねえ」
「細かいわねえ。ま、いいわ、今夜は君にもつきあってもらうわよ」
「酒? メシも食わないで?」
「合体させればいいのよ」
いつものことだ。頼子は自分でかってにがぶがぶ飲んでできあがるので、巧が気を遣っ
てつきあうこともない。と思っていたら、絡まれた。
「だいたい君、誰が本命だったの? 三人くらい取り巻きがいたわよね」
「いません。本命っていうかそれは」
「『環』ちゃん? それとも『都』ちゃん? 寝言で言ってたからどっちかよね」
「う、嘘だ、そんな寝言言ってないねっ」
「あっはっは! いい反応ね、君。二股だったからなの? それとも……なんかいけな
い関係だったとか? その年で不倫とか」
「二股で両方人妻とか? 逆に小学生とか」
「なに自分で穴掘ってんのよ、このすけこましは」
「すけこまし……」
「巧くんってテクニシャンよね」
頼子は畳み掛けるようににじりよってきた。目がすわるほどには酔っていないようだ
が、目から邪悪なオーラを出している。
「寝ぼけててもあんなことができるんだもの」
「なんの話ですか……」
頼子に対し、じりじり後退する。
「いつもあんなことやってるの?」
「知らないっつーに」
「あー、そう」
そこでビールがなくなったので、頼子はせっかく巧が片付けた台所を引っ掻き回して
焼酎を持ち出し、
「そろそろ話してもらおうカナ。でないと君が寝ぼけて私にしたこと、全部彼女たちに
話しちゃうわよ」
巧の前にもグラスを突き付けた。
「飲まねーっての」
グラスを突き返し、機嫌が悪くなった頼子に張り付かれると、
「だいたい頼子さん、どうして俺を病院に連れていかないんですか?」
「検査は行ったでしょ」
「…………真面目な話、俺はどうなっちゃってるの?」
「現実が受け入れられなくて、心が萎縮してるだけよ。ウチには精神科はないもの」
「なにそれ。今もこうして頼子さんの嫌がらせに耐えながら現実をたくましく生きてる
じゃん、俺」
「このままもし彼女達に会ったら、どうなるかしらねえ〜」
「……」
(会えるわけないじゃん)
心のどこかでは逃げられないことを知っていても、今会ったのではもっと酷いことに
なるに決まっているから会えないのだ。でもそれがわかって、頼子は巧をお持ち帰りし
てきたのかもしれない。
「だから俺がなにしたっての」
頼子が脅しになるような材料を持っているならとっくに言っているはずだ。巧は、あ
くまで突っぱねる。
「連絡先はもう押さえてあるんだけど?」
「ちょ……職権濫用じゃないの、それ……」
「病院は関係ないわよ? 個人的なコネで調べ出しましたっ」
「えらそうに……」
頼子は、それでもプロの看護師であり、本質的に患者というものを見極めているよう
なところがあった。
「君が現実を受け入れないといけない。でないと、君が弱いせいで周りの人を不幸にす
るわよ?」
(弱い……)
他人に言われたらとても辛い言葉。自分が一番よく知っている事実。
話そうという気には、とっくになっていたのだ。
「全然わからないんです。どうしてこんなに自分が脆弱なのか、いつそんなふうになっ
てしまったのか。ガキだっていうのはわかります。でも、こんなふうに、今までやって
きたことが全部否定されてしまうなんて、納得がいかない。理由が知りたい。もし俺が
自然淘汰されるはずの子供だっていうなら、頼子さんにこうして守ってもらう価値だっ
てないんだ……」
頼子がひどく優しい目をして見ていた。
「友達の話ってことにしといてください──」
それからの長い時間を巧は頼子の腕の中に囲まれて過ごした。他になにをするでもな
く、話をしていた。
相変わらずだらしのない頼子に辟易しながらの毎日が過ぎて、お盆があけると、巧の
ギプスはようやく外され、サポータだけで過ごせるようになった。
ロードワークだけでなく、手を使わないプレイなら全く支障がないくらいまで、回復
していた。
巧はそれでも、頼子のところにいた。
頼子が出掛けに必ず用事を言い付けるので、ついついそれをこなしてしまう。
頼子が買ってきた子供用のサッカーボールで少し足を慰めた。感覚はそれほど鈍って
いない。下の階に響かない程度にリフティングをした。ここに本当にミニ柴がいたら、
御主人様がいない間の遊び相手に、大いに喜ばれたことだろう。
それでも巧は、まだ白黒テレビの中の人だった。
頼子には全部話してしまった。気は楽になったが、事態は変わらない。
今の巧には敵味方のユニフォームの判別すらできない。
このサッカーボールだって、おもちゃ屋で売っている蛍光ピンクやイエローのボール
かもしれないのだ。
(受け入れなきゃならないことって何?)
そこから始めないといけないらしい。
時間は容赦なく過ぎていった。
もうすぐ夏休みが終わるという日に、夜勤明けで帰ってきた頼子に叩き起こされ、
「君を引き取ってもらうことにしたから」
突然そんなことを言われた。
子犬じゃないのだ。押し倒してやろうかと思ったら、頼子の方から押し倒され、
「一回やっとく?」
と顔を思いきり近付けられた。
(やっぱりハッタリだったんじゃないかよ)
と思いながら、のしかかってくるやわらかい身体に初めて興奮する自分を感じた。
記憶の中から頼子の髪や肌の色、嗅いだことのある匂いを思い出してみる。
モテないようには見えないし、巧から見てもとても色っぽい。
そう言ったら素直に喜び、キスしようとしてくるのを手のひらで止めた。
にこっと笑ってやると、意味ありげに笑い返してきた。まだまだ底が深そうな、とて
も魅力的な女性だった。このまま離れるのが惜しいと思わせるくらいに。
「頼子さんって、酷い目にあったこと、ある?」
「あるわよ。君のしてくれた話なんて、お笑いぐさにしちゃえるくらいキツイのにね」
そう曖昧に笑って、巧の上から降りて、お湯を沸かしはじめた。
「最後だしさー、私がとっておきをごちそうしてあげよう」
「食べられますように」
「そういうこと、言うなー!」
しゃもじが飛んできた。
こういうところは自分の姉のようであり、別の面では環のようでもある。足して二で
割って、年令の分プラスアルファしたような。
「君の料理、悪くなかったわよ?」
「嬉しいな、あれ褒めてくれる人いないんだよね」
頼子がじっと目を止めて、
「本当に嬉しそうにするんだね。君がモテてるのはそれなんだろうなー」
「単にモテ期だと言われましたが」
「あははっ、そうかもね」
頼子がつくったのはとっておきもなにも、普通のシチューだったが、視覚的影響を和
らげる配慮がしてあって、巧にもとても美味しく食べられた。
それでもやっぱり後片づけは巧の仕事になっていた。
(まったく……)
そう思いながらも、一抹の寂しさを感じる。この調子なら元に戻ることも難しいこと
ではないのかもしれない。
「そんなわけで、この件に関する最重要人物を呼んでありまーす」
「ええっ! 今?」
「今」
「それ誰よ?!」
心の準備をする暇もない。ほどなく、玄関のチャイムが鳴った。
バタバタと玄関に走る頼子を見て、巧はベランダかバスルームに逃げ出したくなった
が、それよりも早く室内に、桐高の女子の制服を着た小柄な影がすべり込んできた。
由美だ。