巧が最後に環の顔を見た終業式からもう一ヶ月以上が経とうとしていた。
ベッドの真ん中に沈み込んだまま、身体にかかる圧力の意味を噛み締める。
この重みが自分の現実の中核を成している。
頭を動かして、左右の二人の寝顔を見つめた。
右手の方にいる都。遠足の前の夜の子供みたいな、無邪気な寝顔に見えた。こういう
顔も巧は今初めて見ていた。柔らかい寝息に乗って、姉の匂いがしている。数えきれな
いくらい何度も嗅いできたそのいい匂いを、これも今初めて、悩ましく愛しく捉えてい
る。
左手の方にいる環。ずっと自分の外側に仮定されてきた理想の恋人。やっとそれを腕
に抱くことが出来るようになったのに、今目の前にいる環は、涙の跡をそのままに、泣
き疲れて眠った子供のように頼りなく小さかった。
そしてやっぱり環が好きだと実感した。
でも、姉の事を今までのように見る事もできない。まだ好きだとはいえないけれど、
いつかそれを口にする日は来るのかもしれない。
やっぱりまだそこで立ち止まってしまうのだった。
いいことだとはとても思えなかった。
二人を見ていると、なんとかしなくちゃいけないという思いに突き動かされそうにな
る。だがこれがよくないということだけはもう学んでいた。焦ったときに自然体になる
のはとても難しい。そういうときには欲望を基準に持ってくれば安定するような気がし
ていた。
そこから、視界に入るものをゆっくり咀嚼していく。
案外早く、失ったものを取り戻せるかもしれない。その期待感にもまた心を癒されて
いくはずだから。
できるだけそっと左手を抜いて、環の身体に触れた。肩の体温を指で確かめながら、
引き寄せてくちづける。
身じろぎをして、目を覚まそうとする環から言葉を奪おうと、くちづけを深くした。
息を乱した環が急速に意識を目覚めさせて、巧に応えていいのか戸惑っている間にも
巧は、舌と唇をいっぱいに使って環を刺激していた。
今はこの愛しい女の子に考えさせてはいけない。彼女の戸惑いをねじ伏せて、自分を
求めてくれるようにひたすら繋がった部分に気持ちを込めていく。
環は何度も目を見開き、抗い、それでも痺れたように目を緩ませ、やがて涙をこぼし
て、その後は迷わずに巧の動きに応えて舌を絡めてきた。
自由にしたら環は、自分の言葉に押しつぶされるかもしれない。そんなことは絶対に
許すわけにはいかなかった。感覚だけの世界で相手を許し、いたわる。二人だけで。こ
の世界には姉はいてはいけなかった。環がそれを受け入れてくれたのを巧は感じた。
「環さん、少し離れてもらってていい?」
巧はなんの心配もなく環にそう『お願い』した。
その心の動きに感応し、環は動いてくれる。巧は現実の片方が再び自分の目の前に帰っ
てくるのを感じていた。
環が壁沿いに寄せられたソファに身体を沈めると、巧はまだあまり無理の出来ない右
手を、姉を抱き起こすのに使った。
あの日抱いたときにはできなかったキスで起こしてやるのだ。
まだ朦朧として、理解する前に舌で応え始めていた都は、巧のぎこちなく動かしてい
る右手のことに気付いて、目を開いた。
どんなチャンスも逃さないといわんばかりの獰猛さで、都は巧を捕らえ、そのまま覆
い被さろうとする。そんな姉に、もうとても巧は馴染んでいて、改めて動揺することも
なければ、不快感もなかった。
「姉ちゃん、話があるんだ」
姉の動きを食い止めるのではなく、言葉だけで伝えた。
「だから家に戻って待っててくれる? 俺、今日絶対に家に戻るから。待ってて欲しい
んだ。だから──」
もう一度自分から軽く唇をつけ、
「心配しないでね」
姉の手を引いてベッドから降りると、都はそれに逆らわずに続き、そのまま巧の背中
に取り付いた。一度だけ強く両手で抱きしめてくる。それもまた快さを巧の中に残して
いった。
離れた姉に、
「必ず今日帰すからね?」
とソファの環が立ち上がりながら語りかける。
今日の巧の滞りない言葉は今まで以上に環にシンクロし、巧の望みのままに事を運ん
でいる。
都は環のところに近寄って、立ち上がった環をたぶん初めて抱きしめて、言った。
「大丈夫、ちゃんと待ってるから」
不思議なやりとりがすべて終わると、都のいなくなった室内で、巧と環は力の限り抱
きしめあった。
巧の覚えている環より僅かに薄くなったような気のする身体が、腕の中でしなって震
えていた。最後に交わったあのときと同じように環が、自分を求めてくれているのを巧
は知った。
なら、言葉は絶対に後回しにしたほうがいい。
協力しようとする環を制して、巧は自分の手で環の服を一枚残らず脱がせていった。
一枚ごとに環が震え、巧も胸を高鳴らせる。環の身体の綺麗な部分がひとつひとつ明
かされるたびに感触を確かめ、環の表情の変化を窺う。
そのことごとくに喜びが甦ってくる。
ちゃんと仲直りするのだ。
*
ひとり旅先に残った由美と別れて、待鳥家のチャイムを鳴らしたとき、環はそこに巧
がいないなんて思いもしなかった。
帰ると言った明日よりも早く会いに行けば、多少由美の思惑と違う部分があってもな
んとか絆を保っていられそうな気がしていた。
だから、玄関で応対してきた都の異常な姿に、血の気が引いた。
全部わかる。巧と都のやったこと、都の身体の状態、そして、巧の心に起こったこと。
反射的に行き先を聞き、わからないと知ると、逃げるように市街へ出て行った。
いや、逃げたのだと思う。
八月に入ってしまってから、頼子からはるかに連絡が入った。
看護師の高野の事は環も覚えていた。
その高野頼子からはるかを通して情報が伝わったのは、はるかの仲のよいクラスメイ
トに頼子の妹、高野郁美という少女がいたからだった。
「お兄ちゃんかわいそう……」
最初にそう言って、泣きそうなはるかの口から巧のことを聞かされた。
胸が張り裂けそうになった。
「巧くんに振られるんだと思って、とっても辛かったの」
押し寄せてくる感情に流されて泣きじゃくりながら、こんなときに環は巧の背が少し
伸びたことに気付いた。
環は少しだけ顔をあげて、訴え続けた。
「でもそれ以上に自分のしたことで巧くんを傷つけちゃって、もうどうしようもないと
思って、それでも会わなきゃいけないと思って、最後に電話した夜、その日のうちに私、
巧くんのところに行ったのよ? でも巧くんはいなくて、都に会って──そのために一
芝居打ったのに、都を見て、すごく胸が痛かったの。悲しかったの。自分はなにしてる
んだろう、なにしたんだろう、って巧くんを探しまわりながらずっとぐるぐる考えてた。
どんなに探しても見つからないし、もう二度と会えないんじゃないかって本当に怖かっ
た。怖かったの──巧くんを、取り返しのつかないことにしちゃった」
環は、今までに巧からもらった言葉ひとつひとつをなぞり、そしてそのひとつずつに
心の中で謝ってきた。
巧ぐらいの年の男の子の純粋さは言い換えれば単純さということでもある。
それはもう、泣けるほど簡単に振り回すことの出来る、愚鈍で、単純すぎる存在だっ
た。でも、いかに巧が未熟だったからといって、自分達の目的を遂げるために巧の気持
ちを弄んだという罪は消えず、巧も元には戻らない。
だから巧を失うことを覚悟していた。
それなのに、目が覚めたとき、巧は環をただ求めてきただけなのだった。
環の目を覚まさせるために巧が選んだ方法はくちづけだったのだ。
だから嬉しい。
本当に嬉しい、許してくれてその上キスしてくれて、もう、他に生きる理由がなくなっ
てしまいそうなくらいに。
「だからね、私は巧くんの言う通りにする。それでも気が済まないかもしれないけど、
全部私に押し付けて欲しいの。巧くんが別れて欲しいなら別れる。顔も見たくないなら
いなくなってあげるから、だから、……でも、……いやだよ、巧くん、いなくならない
で! 巧くんがいないともうだめなの! お願いだから……」
「環さんは約束通り戻ってきてくれたんでしょ?」
巧が静かにそう言った。
その言葉だけでなかったことにしてくれようとしている。
「環さん、約束してくれる? 無理に自分達の将来の事、約束しようとしないこと。由
美さんも含めて、隠し事をしないこと。この二つだけでいいから、約束して」
「うん……、うんっ」
環は巧のシャツの胸のところをくしゃくしゃにしながら、闇雲に頷いた。
その一方で、巧の身に起こっている異常が未だに頭から離れず、環の心の芯には恐怖
が残っている。
「その上で俺、環さんを今すぐ抱きたいです。時間が少ししかないから、今はちょっと
だけでいいから。姉ちゃんが待ってるから、今日は帰らないといけないし、だから、あ
さって、夏休み最後の日、一日全部俺にください」
「わかった……」
「白黒の環さんも悪くないな。完全に白黒になっちゃうことって滅多にないらしいけど、
でもなんかきっかけみたいなものはつかんだから、もう大丈夫ですよ」
その一言に、ついに環の感情は抑えきれず溢れだした。
情熱の全てを使って巧に応じたいのに、巧の意向で自分で脱ぐことができなくて、狂
いそうにもどかしい。
一枚ずつ、丁寧に脱がされていった。
一枚剥がされるたび、あらわになった部分に愛撫を受けた。巧も緊張しているのだと
思う。同時に今でも大切にされているという実感に涙が出た。一生かかっても償いきれ
ない債務超過の肉体を、惜しみなく与える。
最後の一枚が身体を離れるとき、一本の糸がそこに引かれ、巧がその根元に指を這わ
せるのを、上半身をよじって耐えた。
もう、にちゃりと音が出た。
「巧くん……!」
早くも訴えて、ベッドの縁に手をかけて巧にお尻を向けた。恥もなにもなかった。巧
の虜になっている自分を見せることで、喜ばせてやりたいとさえ思っている。
そんな自分を環は知らなかった。
こんなときにもちゃんとゴムを使って、巧は激しく環の中に押し入ってきた。
今日は確か大丈夫なはずだったが、そんな失礼なことは巧に言えない。雑念にエネル
ギーを使いたくなかった。
恋しくて恋しくてしかたがなかったものに中をいっぱいにされ、環は狂乱した。
罪悪感の混じった灼熱の快楽に身体を躍らせて、巧の動かすのに合わせて懸命に腰を
振った。
(この愛しさがすべて、巧くんに届きますように)
巧を悦ばせられたことを願いながら、絶頂を迎えた。
真っ白になりながら、巧をおいてきぼりにしないよう、狂おしく締め上げていく。
やがて巧の激しい動きが頂点に達し、その力の抜けた全身を受け止めたときに、もう
一度嬉しさに泣いた。
「家政夫代の代わりにここの料金、おごりだって」
「あんだけこき使っておいてラブホ一泊でチャラにする気か……」
最後に交わした会話がそんな他愛ないものだったので、環はさらにもう一度泣きそう
になった。
*
巧がお昼にならないうちに戻ってきたとき、都はすでに『準備』を終えて待っていた。
何を求められても平気なように、万事怠りがなかった。
巧がなにかにつけこういうことに顔をしかめるのが都には心外だったが、自分が冷静
だとも信じていなかったので、比較的気楽に行なって、巧の帰りを待ちわびていた。
午前中のうちに、はるかは今年最後の海だと言って大勢で出掛けていた。
つまり今日もまたちゃんと二人きりになれる。
ただ、巧に引かれるのは悲しいので、さりげないそぶりに徹していた。
決まり悪そうに自宅の玄関に止まる巧を、背中を押してとりあえずリビングまで押し
込んだ。
早く部屋まで追い込みたいが、今日は久しぶりの日常のふれあいもちゃんと実感して
みたい。都は、ほとんど恋人のような気分でいたけれど、巧がはっきりと自分の気持ち
を認めているわけではないことも知っていた。
クーラーを聞かせたリビングで、いつも通りの紅茶をいれて、静かに過ごしていた。
初めてのこそばゆい時間を体験していた。
つまりお互いに相手の挙動を意識して、牽制しているような期待しているような、ま
るで異性を意識しはじめた中学生のようなぎこちない時間を送っていたのだ。
間を持たせようと都がいれる紅茶が三杯目になったとき、
「姉ちゃんもたまにはゲームやんない?」
と巧が助け舟にならないことを言って、
「興味ないから」
と却下する段になって、ついに都はしびれを切らした。
ティーカップを投げつけようとして思いとどまり、手元にあったクッションを投げつ
けると、顔面に浴びてそれを取り除こうとする巧の死角から、いきなり接近してソファ
の上に弟を押し倒した。
「いつになったら押し倒してくれるの?」
なりふり構わない言葉を叩きつける。
「あのな……、これでも心の準備ってもんが必要なの」
「早く済ませて」
都としては、巧に最初に告白したときから恥なんてないも同然なのであり、巧の往生
際の悪さは見苦しいばかりだ。
「大体、家で待ってろって言っただけじゃん」
などと巧が言うので、頭に来てTシャツを引っ張ると、派手な音を立ててそれは見事
に裂けてしまった。
予想外のことだったが、はだけた巧の上体を見て、都は理性を飛ばしてしまっていた。
はっきり自覚できるくらいに欲情してしまった心と身体が、巧に見えていないはずがな
い。あえて手を出さず、身体を押しつけていく。そんなことを都はすでに覚えていた。
巧を誑かすためならどんなことでもできる。
「なにされても大丈夫にしてあるから」
と、くるりと背中を向けて、そのまま身体の背面で巧の身体を押しつけた。
すでに硬くなりきっている巧のものをお尻の下に感じ、情欲に身体をしびれさせなが
ら息を乱していく。ここからは欲望が勝手に身体を動かしてくれる。
「姉ちゃん……」
巧が息を荒くしながらも、押し止めてきて、
「まだ気持ちがはっきりしているわけじゃないんだ。姉ちゃんのこと好きかどうかまだ
はっきりわからないんだから、待ってよ」
その困っている様がまた、都の欲望を刺激しているのを巧は知らないだろう。
「でも、姉ちゃんを抱きたいっていう欲望はまちがいなく自分の中にあるんだ……、だっ
て、実際姉ちゃんはエロイんだもん。そりゃヤリたいって思うよ、健康な男だもん。身
内の女が心底エロくていい身体してたら、誰でもちょっとぐらいは思うでしょ、身内じゃ
なかったらなあって」
巧の方もあからさまな言い方をわざとしているのに都は気付いて、更に身を焦がして
いた。まるで、巧を求めて、肌が自ら巧にすりよっていくようだ。だが、巧を犯したい
のではない。早く、巧に犯されたいのだ。
巧のやっている『心の準備』と都の身体の動きが二人を交互に追い込んで、
「本当に好きかどうか、わからないんだ。でもヤリたいんだ。それだけでもいいなら、
姉ちゃんに受け入れて欲しい。姉ちゃんと一つになりたいんだ。先の事はわからないけ
ど、自分の気持ちとか、変わってしまうかもしれないけど、今は姉ちゃんが欲しい。そ
れでいい?」
「うん、……いい」
もう脱がないと汚れてしまうと思い、都はジーンズを下ろした。それをきっかけに巧
が都の上になり、クーラーの冷気にひんやりとさらされた下半身を押し拡げられていっ
た。拡げられるときのその高揚感が都を快楽の熱の中に取り込んでいった。
吐息が抑えられなくなり、下着が股間に張り付いて限界を訴える。巧がそれに気付い
て、下着の上から擦ってきた。
強い快感がビリビリと身体を駆け上がる。背中を捻って堪えた。そのうねらせた身体
に合わせて下着を引き抜かれた。
下ろされていく下着と弟の手が、太腿から脛にも快感を走らせる。
都が身体を動かすたびに身につけたものが剥ぎ取られ、股間からは抑えようもなく愛
液が溢れていく。ソファが汚れてしまいそうで気にしていると、巧が破れてだめになっ
たTシャツを都の腰の下にあてがうのが見えて、遠慮なく快感に身をゆだねた。
巧の行為にも遠慮がなくなった。後ろから絶え間なく胸を揉みしだかれ、入れられな
いまでも肉棒をお尻の谷間にこすり付けられている。
男性的欲求が自分をどのように求めているのかはわからなくても、欲望の対象にされ
ているのがたまらなく嬉しい。自分と弟は今まちがいなく裸の女と男なのだ。
気付いたときには巧も完全に裸だった。
ここはリビングだ。見られれば完全に言い訳はきかない。
巧が背中を吸い始めてきた。これだけはどうしようもない。たちまちどろどろに狂わ
され、めちゃくちゃに掴んだソファの背もたれを剥がしそうになる。
そして、それに合わせるように巧の指がアヌスを刺激し始めた。
初めてのときにやったっきりだから、やはり怖い。セックスそのものがまだ慣れない
のと、あの後、とてつもない苦痛を味わったことが身体を怖がらせている。
それでも、一度やっていることだし、ナンセンスではあるけど巧が彼女の純潔に愛情
表現を重ね合わせているのを感じているから、そこでの交わりにすすんで応じていく。
穴が十分に拡げられるころには早く入れて欲しくてしかたがなくなっていた。
巧もゆっくりしていられる状態ではなかったのだろう。すぐに突き入れられてきて、
熱い塊が都の中をいっぱいにしてきた。
午前中に環と交わって、環を喜ばせてきたに違いないその肉棒の動きは意地悪だった。
都はだんだんと前と同じ快感と動きを思い出してきて、巧が同じように思い出してく
れるのを感じ、嬉しくて自分からお尻を押しつけるのだが、不安定なソファの上で、まっ
たく快感が得られなかったり、かと思えば強烈に弾けさせられたりと、まるで千鳥足の
酔っ払いのように少しずつ快楽の階段を昇っていった。
どうせ行為の後には激しい痛みが待っているのだ。もっともっと狂わせて欲しい。
ついに、はしたなく口に出した。
「もっと、もっと突いて! かきまぜて、イカせてっ、めちゃくちゃにしていいから…
…ッ!!」
それが巧にどのような刺激となるのかもわからなくなっていた都は、すでに荒れ狂う
絶頂を味わってのたうちまわっていた。
巧のくれる最高の贈り物を、身体の奥底にこそ欲しいと懇願し、それを果されてまた
意識を弾けさせた。体内でまき散らされた弟の精液は、この後、穴からこぼれ落ちて、
もう一度都を震わせることになる。それまで、弟と身体を密着させて、最後の最後まで
一体感に酔った。
巧が身体の汗や体液を拭ってくれて、二人で裸のままソファにもたれているとき、都
は、巧に聞いてみたかった質問をした。
「巧、環とするのってどんなふうに気持ちいいの? 私は?」
そのときの巧の顔がとてもおかしくて、都は夜までそれを引きずった。
「普通にはしてくれないのね」
「姉ちゃんが好きだって確信が持てたら、したいと思う……やらせてくれるならだけど」
セックスについてそんなことを言った。
もうひとつ、額の二つ目の傷の話をした。
都は初めて巧につけたあのブーメランの傷をとても気にしていて、それ以来巧をうま
く叱れなくて悩んでいたことがあった。
これを自分は覚えていたのに巧が覚えていなかったので、頭には来たけれど、これが
会心の一撃になったのだった。
「巧はファーストキスはいつだったか覚えてるの?」
「いきなり、なんだよ、いいけどさ、中二の夏休み前だったっけ。休み時間で英語の先
生に、隙だらけだったから思わず悪戯したくなって、ちゅーって」
「じゃあ、完全に忘れちゃってるのね」
「えっ……」
巧はほとんど悪夢を見ているような顔で都の話を聞いた。
つまり。
子供の頃、先にキスしたのは巧だった。
巧のファーストキスの相手は都なのであり、このときの諍いで、ファーストキスを巧
に奪われたことでキレた都が巧を本気でぶん殴った、それで巧がソファの肘置きで頭を
強打した結果が二つ目の傷だったのだ。このときも額が割れて大変な騒ぎになった。
このことで吹っ切れた都はことあるごとに平気で巧を殴るようになった。
ただ、最初の二つの傷以外で巧が顔に傷をつくることはなくなった。
「ちょっと…………ひとりにしてもらっていい?」
巧がよろよろと自室に引き上げるのを見送ってから、都は急いでリビングの証拠隠滅
を計り、それから傷の秘密を今の今まで隠しておいた自分に拍手を送った。
この夜、都は一晩中泣いた。
嬉しくて、嬉しくて、都は報われて、この日のことを思い出すだけで生きていくこと
ができると思って泣き続けた。
巧を困らせてやりたくて、嫌がらせに巧のベッドに潜り込んでいた日々の最後に、そ
れなのに求められて、あのときは本当に嬉しかった。
初めて抱かれて、これで巧がいなくなっても大丈夫だと思ったけれど、今、さらに巧
が歩み寄ってきてくれて、本当の意味で巧のものになれたのが嬉しかった。
ようやく人生に意味を得たのだと思う。
*
巧はほとんど諦めつつあった。
(簡単に認めちゃったら、今までの俺はどうなるんだ)
そう思って必死に守ってきた心の拠り所はことごとく粉砕されていた。
白黒の世界から脱出して生まれ変わるために、すべてが必要なことだったとしたら、
今の自分が本質なんだと思う。
二人を順に抱きながら、その感触を通して現実感を噛み締めようと、懸命に二人の身
体に溺れた。正確に確実に慈しんで、言葉と身体を使い、心に本当の事を思い出させて
いくのだ。近いうちに自分は元の世界に戻れるだろう。
自分は姉の本当の魅力を知ってしまった。
人生には決定的な分岐点といえるものが必ずあって、それがその人の人生のいつどん
なときにあるのか、それは人によってまちまちであると同時に、その結果は人生に大き
な影響を及ぼすのだという。
そういう意味で姉が一生に一度の恋をしているのは疑いがなかった。
至福のみを追い求めるその姿は実際美しかった。
その至福を得る最大の機会に都は弟を相手に選び、由美は女の子を選んでしまった。
とても難しい選択の中で、自分が至福を得るためには相手の至福を奪わなければならな
いことに由美は絶望した。
そのあとの事は本当に一本の道なき道だった。
でも、全部終わった。終わってしまった。
確かに、由美のやったことによってしか、自分達三人がみな幸せになる方法はなかっ
たのかもしれない。その極めて分かりにくい道を案内し終わった今、由美は静かに離れ
ていこうとしている。
(由美さんはどうするの?)
それだけが、染みのように心に残っている。
今は、巧にはどうしようもなかった。おそらく姉にも、環にも。
だから、忘れないように心にしまっておく。
自宅にようやく帰った夜。
ファーストキスを巡る衝撃の新事実にくらくらしながらも、巧の頭から離れないのは、
セックスする場所と機会の安定供給という微笑ましい問題だった。
とりあえずあさっての環とのデートをどうするのか、思いをはせた。
ふと気がついたときは、世界は、いつもの世界になっていた。