毎学期、始業式の日には席替えが行なわれる。
やっと一学期の困った配置から逃れて、今度はどこか隅っこの方になってくれないか
と思っていたのだが、
「またおまえかよ……」
右に残間清美がいた。
「神様があきらめるなって言ってるのかもね」
馬鹿みたいに屈託のない笑顔が少し挑戦的だ。
よく見ると、さらに右に大橋守がいて、巧の方を見て肩をすくめた。
「……」
真夏と変わらぬ酷い残暑の中で、なにも言う気になれない。
クラスの誰もが夏休みの巧のことを知らない。知られても困るが、もうちょっといた
わって欲しいと思う。清美は、頭に来るくらい健康的に日焼けをしていて、少しまぶし
かった。
始業式の前後の担任吉見の話を聞き飛ばし、巧は久しぶりに参加するサッカー部のミー
ティングのことを考えていた。
朝一で部長の遠山から、システムが変わるということを聞いていたからだ。
ポジションごとに専門職を置くため、このシステムの変更がレギュラーのポジション
争いに影響を与えることが多々ある。
(わざわざ俺のとこにまで来るなんて、まめだね)
進学組ではない遠山は、他の一部の三年生とともに冬の選手権予選にも出場する。イ
ンターハイ予選の好成績に味をしめたのか、今年の三年はあきらめが悪い。
普通新チームへの移行は早い方がいいのだが、巧としては補欠に甘んじ、出番は後に
してもらった方がありがたい。何故なら、このまま順調にいけば春からは姉も環も都心
に出て、気楽に会えなくなるからだ。今はむしろそっちに時間を割きたいと思っている。
それなのに巧はレギュラー組のリベロを言い渡された。
「しかもシステムを4−5−1にしておいてリベロってなんの冗談ですか」
だいたい自分はサイドアタッカーなのに。そもそもリベロというのは、ディフェンダー
なのにボールを持ったらディフェンスを放棄するのが仕事という難易度の高い(イカレ
た)ポジションであり、素人がやるとたちまち愉快なことになる。それに、普通ゴツイ
人がやるものだ。
「トップリベロでもいいぞ。おまえに任せる」
それにしたって、フォワードなのに守備になったらセンターバック並みに守備をしな
きゃならない。イカレ具合はどっちもどっちだ。
「俺、ホケツがいいナー」
「夏合宿ぶっちぎったお前に選択の余地はねえ」
「個人依存のシステムはよしたほうが……」
「大丈夫、代わりはいないから」
意味不明だ。
ミーティングは、なぜかいつのまにか三年と巧だけになっていて、マニアじみたシス
テム談義に巻き込まれ、
(環さんの水着姿一度も見れなかったなー)
などとぼんやりするたびに突っ込まれ、ミーティングは次第に巧をいじめる集会のよ
うになってきた。よってたかってレギュラー陣に叩かれる。
「足だけは異常に速いんだけどな」
「待鳥のオーヴァーラップって変だよなあ」
「変って、フェイントとか全部だよっ、練習でもさ、守っててすげー守り辛いの」
つまり先輩達が言うには、誰もついていけないところに走るし、パスを出すし、得体
のしれない謎の動きをするので味方が誰も反応できなくて、結局孤立して攻撃の形を崩
してしまうのだが、
「あれにがんばって合わせようとみんなやってたじゃん、あれがよかったんだよな」
「なにがなにやら」
「待鳥のとこに大川入れただろ? そしたら、待鳥で酷いボールに慣れてるからちょっ
と失敗気味のパスとかでも綺麗に繋がるようになってさ、面白いように勝てるようになっ
たのよ。そんでだんだん大川のペースに慣れてきたらヘタレちゃって、そこで敗退」
「…………俺って噛ませ犬?」
「評価してるんだって」
遠山がそう言ったように、巧の感覚をベースに組み立てていくつもりなのか、
「おまえの動きは特別にサイドアタック向きの動きってわけじゃなくてさ、相手に予測
させない起点の部分でこそ活きると思ってるんだけど?」
(そりゃまあ、はるかや姉ちゃんの意表をつくためなら、どんな技でもマスターしてき
ましたよ、ええ)
そんなものを当てにされるのも微妙だ。サッカーってなんだろう、と考え込んでしま
いそうだ。
そんな間にも(水着見たいなあ……)と思っている。
「だからってボランチとかトップ下できるほどテクないしな、こいつは」
(気にしてるのに……)
というか、テクニックのない選手を起点にするのはどうかと思う。だから、
「そんなやり方で、ちゃんとしたとこに勝てるとは思えないけどなー」
とあくまで正論をかざしてみる。
「そういう真っ当な意見を言うやつがああいうプレイをするのが理解できねえ……」
「ていうかさ、強くなるより、俺ら面白きゃいいんよ」
「おまえだけ倍練習して上手くなれば、面白いついでに勝てる!」
「点なんてなにかのはずみで入るんだからな」
そうだ、もともとそういうところのあるサッカー部だ。つい気が弛んでしまって、
「水着……」
「あ?!」
(やべ、口に出ちった……)
と思ったときには全員に睨まれ、
「そういや、こいつ外岡とつきあってるんだっけ?」
「いや、今はそうじゃなくって……」
「いい思いしたらそのぶん、働くべきだよなぁ」
「俺達の中に何人未体験がいるか知ってて言ってるんだろうな……」
未体験という言い方がもうすでにテンパッている。
巧はなすすべなく突っ伏した。
全員が知っているのは、やっぱりどうかと思う。
§
「というわけで、僕はサッカーに青春を捧げることになりました」
「誰が僕よ」
「姉ちゃんのかわいい弟」
声もなく都が俯いた。藪蛇だ。どんな顔をしていることか。
「今日はもうお勤め終了だから、帰ろ?」
「うん」
姉のはっきり楽しそうな顔をまぶしく眺め、前と少し違った気持ちで、連れ立って帰っ
て行く。歩くときの距離が近くなった。
巧はまだ、本当に自分は折れてもよかったのか、考えている部分がある。
二学期は何事もなかったように静かに始まり、その初日は巧と都は二人だけで帰った。
しばらく、環とも姉ともなにもなく、学校中が文化祭の準備に入った頃、久しぶりに
環と二人きりになる機会を得た。
「で、そんなに水着が見たいの?」
「そういうふうに言われるとマニアみたいでやだ……」
「巧くんがマニアになったら私もいやだけど」
と環は笑い、
「私も、巧くんと海行きたかったな……」
巧は、もたれかかってくる環を狂おしく抱きしめた。その日、環の水着姿を披露して
もらったのだが、
「家の中で見てなにが嬉しいんだよ、嬉しいけど」
と言いながら、(海で見たら絶対、勃つよな……)と思って、複雑な気分になった。
その立ち姿があまりに綺麗で艶かしくて、それを他人に見せたくないと思う。
(姉ちゃんにも同じことを感じるんだろうか)
今ならそうなのかもしれない。
その後その格好のまま風呂に入って、やたらと盛り上がってしまったせいで、環の中
では巧は水着フェチということになった。
「そういえば、巧くん、最近都がやたらもててるの、知ってる?」
繋がったままで、姉の話をしている。とても不思議な時間。
「前からもててはいたような」
「誰かさんのおかげで都、明るくなったでしょ」
「なんか、もともとああいう人だったような気がするなあ。表に出せるようになってき
たっていうかね、いいことなんだろうけど」
「そうなんだ。クールが売りだったのに、すっかりイメージチェンジしたせいで新しい
ファンがついてんのよね。それと由美がね」
「由美さんが?」
「また普通に遊んでくれるようになった」
環は心底嬉しそうに笑った。
だから巧は、あえてそれを腰を突いて崩してみた。
「や、あ……巧くん、ん……まだ由美のこと根に持ってるのね」
「全然。ていうか、むしろ環さんが」
「私、本当はなにもしてないのにな」
「それは、実は気付いてた」
巧は、頼子の部屋で由美の涙を見たときに、そう思った。でなければ、今も根に持っ
ていたかもしれないが、由美自身の事については問題ではなかった。
「キスくらいはあったと思ってるけどね」
「否定しないけどっ」
環はそれ以上は行動で、とばかりに両足を巧の腰に巻き付けていく。
そこからの時間は、また以前のように他人の介在できない二人だけの世界となる。
巧にはそれが一番嬉しい。
§
文化祭直前のある日、巧と都達は首を揃えてある下駄箱の前にいた。
二年と三年の下駄箱の間にある誰も使っていない何列かの『空き地』に、『ごめんな
さいボックス』と呼ばれるところがある。
男子用と女子用の二つ。無地のブルーとピンクの紙が入れてあってよくわかる。教師
の間でも黙認されているらしく、それはずっとそこにあった。
都は毎日のようにそこに通う。もらって開封したラブレターをそこに返すのだ。使用
中の場合はその下に、悪意ある悪戯をするものは少なく、淡々と利用されているらしい。
無関係の人間が見るのはマナー違反だ。
都はもう専用に近い箱の一つを開き、ばさっと今回分を載せる。
「中学の時と同じなんだよね、これって」
由美が普通に話し掛ける。中学では人を介して行なわれていたこの風習が、奇妙にシ
ステマチックなのがおかしい。
「こういう定着する習慣って面白いよね〜」
巧は下駄箱の蓋をじっと眺める。もし自分が姉に対する気持ちを認めるなら、やはり
自分から告白するべきだろうと思っていた。まだ認めてはいない。
(どうせ毎日顔突き合わせてるんだから、あえてこういうラブレターみたいなのも、い
いのかもね)
ふと、姉の視線を感じて思考を振り払う。
考えたことがばれてやしないか、ドキッとした。
それでも、普段巧達のうち誰かしら都のそばにいるせいで、直接都を呼び出す勇気の
ある者は少なかった。いたとしても、屋上に呼ばれて、
「私、好きな人がいますから」
と都に頭を下げられたら、涙をのんで引き下がるのみだ。
巧は環と連れ立ってこっそりそれを立ち聞きしたりしたが、そういう時の姉の目には
まるで曇りがなく、誇りのようなものさえ感じられた。
たまに、食い下がる者がいる。
「その好きな人って誰? 教えてくれないとあきらめきれないよ」
本当に真剣な、そういう訴えかけにも、都は毅然と受け答えをした。
「私自身の気持ちの問題だから。あの人には一切迷惑をかけられません」
それでも引き下がらない者の中に、実力に訴えようとする者があった。
都がそのとき手のひらではなく拳を用いたのには、覗き三人組も驚いて顔を見合わせ
てしまった。巧は姉の存在を感じないわけにはいかなくなってきていた。
それでも。
やはり不自然なのだ。
一対二の関係もそうだし、姉弟ということもそうだ。
目の前の姉の鉄壁ぶりを見るにつけ、その心を大きく動かす誰かの出現を願わずにい
られない。だが姉の目はすべての男をはねつけてはばからない。
文化祭の当日になり、巧はサッカー部の催しにかり出され、なぜか園芸部を手伝わさ
れ、ろくに遊べないままにもう夕方になろうという頃、何人かの男につきまとわれてい
る都と由美に出会う。
その時にさえ、巧が割って入る間もなく都は他校生らしきその男達を鮮やかに撃退し
た。
(あ、すげえ……、俺も食らったことないぞ、あーいうのは)
一人を殴り、もう一人がその腕を掴むと、即座に頭突き。さらに反対の男に蹴り。
いわゆるお約束の「このアマ!」が出ないうちに巧は連れていたサッカー部員といっ
しょに間に入ったが、なにもさせてもらえないのもなんだか寂しいと思った。
サッカー部で三年生のいじめに耐えながら日々を過ごしていると、相対的に環より姉
と過ごす時間の方が多くなり、そういう機会も増えることになった。
休日にはできるだけ環と過ごし、普段は、練習に疲れて寝ていると潜り込んでくる姉
を、腕の中に入れて眠る。朝ははるかに見つからないよう、早いうちに起き出す姉が起
こしてくれる。
姉は露骨に求めてくることはなかった。
(気を遣うことをおぼえてくれてなによりだ)
実際には、姉は今はそういう安らぎを求めているだけなのかもしれない。
(でも俺は辛いんですけど……)
姉の身体に対する思い入れが強くなる。
腕の中の姉は性急さの消えた自然な柔らかさを巧に伝えてくる。
幸せになって欲しいという気持ちが第三者的なものかどうかはまだわからない。
§
中間試験の直後に、体育祭が行なわれる。
もともと足だけが取り柄だった巧は期待されていて、当然のように短距離走とリレー
にノミネートされてしまった。出場組は巧と環で、都と由美は応援組だ。
一年の間ではクラス単位の大掛かりな賭けが組まれていて、優勝したクラスは他のク
ラス全体からファミレスをおごってもらえることになっていた。
運動部員を多く抱える一組が言い出したのだが、ギャンブル好きが多かった五組と六
組、こちらもメンバーに自信の三組、これらのクラスが乗ると、即決した。
巧達は六組だ。
「だから、な」
「な、じゃねえ……」
巧は七種目に出場する羽目になっていた。環たちにウケた。
「私たちがマネージャーしてあげる」
受験モードでやる気のない自分達のクラスそっちのけで、都と由美、出場種目のない
ときは環も。
「なんか間違ってると思わねえ?」
羨ましげに不平を言うクラスメイトに、
「七つも出しといて勝手言ってんじゃねえ!」
と、このときばかりは巧は姉達をそばに置いておくことに躊躇しなかった。
(誰かバイト代払え……)
その憤懣をそのままぶつけて最初の百メートルを軽くこなしてくると、次は男子リ
レー。障害物と二百を終わらせて戻ると、もうふらふらになった。さすがにこのところ
の部活でのしごきでスタミナがついているのだが、きついものはきつい。
昼はみんなで持ち寄った弁当を死ぬほど食べさせられ、そしてクラスメイトに特等席
を用意させてそこに環と陣取った。
「百とリレー取ったからもういいだろ、午後は誰か代わってくれ」
「馬鹿か、おまえは。トップの可能性がでてきたんだ、全部走り通せ」
クラスの女子までが『ファミレス』に目を血走らせて、
「待鳥くん、パンチラでもなんでもしたげるから、がんばるのよっ!」
完全に尋常じゃない。
全七組の全員で持ち寄った一人千円の資金を考えると、クラス全員が好きなものを好
きなだけ食えることは疑いなく、みな必死だ。
(パンチラ、別に見たくないし)
「がんばんなきゃよかった……環さん、なんかご褒美くれる?」
「都と二人でサンドイッチしてあげようか」
「…………いらない」
「ちょっと間があったけど?」
環はにっこりと笑う。
「い・ら・な・い」
「待鳥くん、赤くなってるよ」
横から突かれると、
「残間、うるさい」
午後一の混合リレーで彼女からバトンを受ける。そのすらっとした体操服姿を見てい
ても、やっぱり陸上部かなにかが似合うと思うのだが、文化祭で熱く(なぜか)盆栽を
語っていた表情は本物のようで、巧同様あくまでイベントとしてこの体育祭を楽しんで
いる。
巧が三位で受けたバトンを二位で完走し、六組はじりじりと順位をあげた。
そして、最後の騎馬戦を除けば最大の難関といえる四百メートルに挑む。
巧が走り出したとき、都はそれまでの競技と同様、まばたきを忘れて巧の姿に見入っ
ていた。
巧は昔から足だけは速く、それだけで子供の頃というのはもてるものだから、当然運
動会などでは人気者だったのだが、いかんせん天の邪鬼だった。
巧のこういう姿をちゃんと見るのは初めてといってよかった。
都は本当に、普段のたちの悪い悪戯ばかりする巧とはまるで違った真摯な顔を見せる
巧の姿に溺れていた。躍動する姿は美しくさえある。
本職の陸上部には届かず、これも二位に終わるが、そんなことはどうでもよかった。
都は泣いていた。
「巧が……好き……大好きなの……」
本当に巧がかっこいいと思う。かっこよくて、優しくて、どうしようもなく愛おしい。
横でいっしょに応援していた環に気付かれ、抱き寄せられる。
溢れるものがまるで止められなくて、都は吐き出し続けた。
「こんなに好きで堪らなくて、もうどうしようもないと思ってたのに、あの子が受け入
れてくれて、嬉しいの、本当に嬉しいの……受け入れてくれるなんて、欲しがってくれ
るなんて……もう、どうにかなってしまいそうなの」
よしよし、と撫でてくる環のことにも気持ちは広がっていく。
「環、ごめんね、環、私、どうしてももう、やめられないの、あの子がいないともう生
きていけない……」
「わかってるって」
環は、涙のまったく止まらない都と、反対側に来ていた由美の頭を押さえ、戻ってく
る巧にかける言葉を自分自身失っていた。
言葉で伝えられるような気持ちではないのだと思う。使える言葉などもうとっくに使っ
てしまっているのだ。
「さて、コンスタントに点数を稼いだわが六組は、騎馬戦で一組より上にくれば優勝!」
「んなことはどうでもいいから、酸素くれ、酸素」
盛り上がっている横で、女子が持ってきたボンベに飛びついてようやく一息つきなが
ら、巧はその騎馬戦にも出ることを思い出した。
「待鳥は上でいいぞ」
「戦闘中は上の方が疲れるんだっての」
もううんざりという顔をする巧に、
「しばらく後ろに隠れて回復してていいんじゃない?」
由美がうちわをぱたぱた振りながら、巧を労う。
実は、由美が作戦に口を挟み、その作戦の出来のよさでクラスの主力陣を唸らせてい
て、さかんに打ち合わせをしていた。食い放題がかかっている。
トラックを含む広いエリアが空けられ、ほぼ男子の全員が出場する騎馬戦が始まった。
とにかくこれで解放されるのだと、巧はそれだけしか考えていなかった。
どこから持って来たのか、怪しげな戦意高揚音楽が大音量で流れ、アナウンスに合わ
せて全部隊が全学年奇数組と同偶数組にさっと分かれ、紅白の鉢巻を巻く。
(いいからはよ終われ、まじで)
ふと目に入った環にいいかげんに手を振って、巧の乗った馬は、最後尾についていた。