4
(何様のつもりよ、巧の癖に)
朝目を覚ますなり昨日のことを思い出し、都は怒り狂っていた。
すっかり立ち直ってしまって、元通りの都だ。
あんな男に何もされてなんていないし、いざとなったら自分のほうが強いんじゃないか。
(私もまた、なんでおとなしく抱きしめられてるの……)
教科書を鞄に叩きつけるように放り込み、乱暴にパジャマを脱ぎ捨てる。
(だいたい、毎日のように部活か夜遊びで、そんな暇あるの?)
その疑問の一部はその日の授業が始まる前に明らかになった。
「や。元気? 待鳥さん」
今年はクラスの違う、サッカー部の主将をしている男が都の所に訪ねてきた。巧が言う
には大馬鹿者だということだが、三年の間では人格者で通っている。その二要素が両立す
ることもあるのかもしれない。
「遠山君……ウチのクラスに用?」
「その冷たい目がいいなあ、相変わらず。君の弟に頼まれたんだけど? 喉元過ぎれば、
で注意を怠らないように、ね」
「……それ、巧が言ったの?」
反射的に都が眉をつりあげるのを見て、遠山は一瞬たじろぐものの、
「へえ、そんな表情もできるんだな」
感心するように都の顔を覗きこむ。あわてて都は席から立ちあがって距離を取る。昨日
からずっとなにかにつけ男性というものを意識させられているような気がする。
「今後運動部連中の目の届く範囲で危ない目にあうことはないと思うから。まあ、最悪俺
がナイトになってやってもいいぞ?」
人懐っこい笑顔が再び近づけられる。
背もそれほど高くなく、威圧感もないが落ち着きがあった。都はそういう男は嫌いでは
ない。ただ、心が動くことがない。
「ごめんなさい。せっかくだけど」
改めて席に座りなおしてバリアを張る。そのまま都がノートを開いて鉛筆を取り出すの
を見て、遠山は軽く肩をすくめ、
「いや、悪かった。でも安心してくれていいよ」
そのまま遠山は自分の教室に戻っていく。
「……」
(何が、俺が守ってやる、よ。他人任せじゃない)
帰ったら巧に抗議しようとじりじりしているうちに、授業が終了する。
多くの者がまっすぐ帰っていく。
都も鞄を取り、帰り支度をしていると廊下に巧がいるのが目に入った。二人の女生徒に
挟まれて楽しそうに話をしている。
学年が変わって都の仲のよい友人は皆隣りの二組に入ってしまった。そのうち二人が巧
を気に入って、こうやってよく絡んでいるのだ。
「やだぁ、じゃあレギュラー当確なの? やっるー」
「なんかヨソのごつい選手にいじめられそう。困ったことがあったらいつでもお姉さんた
ちに言ってきてね?」
「ちょっと由美さんたちじゃ力不足だなあ。もっとこう、俺の魂を揺さぶるいい女でない
と」
終業直後の喧騒の中、聞き慣れた巧と友人たちの声が聞こえてくる。
「言うわね……最近生意気よ巧クン」
「じゃあさ、じゃあさ、やっぱりあの人みたいなのがいいんでしょ?」
二人同時にあの人、と言って近づいてきた都を指差して悪戯っぽく笑った。
巧も都をまっすぐ見て、微笑みかける。
距離が詰まるまでしばらく見詰め合ってしまう。
三人の目の前に来て、都は順番ににらみつけながら、
「指なんて差さないでよ」
「まーた、都、機嫌悪いー」
両横に髪を縛った由美が巧の右腕を抱えこみながら言うと、
「いや、この際都にも確かめておこう」
と反対側、巧の首に腕を巻きつけたまま、長身の環が邪悪な笑みを浮かべる。
巧にぶらさがっている由美はともかく、巧とほぼ肩を並べた環は女子バスケの部長をし
ている。もう知っているのだろうと都はため息をつきながら、
「何もしてくれなくていいのに」
そのまま通過しようと試みる。
当然のように親友二人が両手を引っ張って阻止した。
「まあまあまあ……」
解放された巧が伸びをしている横で、
「んで、そこらじゅうで噂になってるわけよ、都ちゃん」
「わけよ、都ちゃん」
「由美はいいから」
環が慣れた感じで由美を押しのける。
「ちぇっ」
茶々を入れていた由美はあっさり引き下がると、巧の背中にぶら下がり、都の方を好奇
心たっぷりに振りかえった。環が話を続ける。
「待鳥都、名前負けしないみんなのアイドル、至高のクールビューティ! その危機に運
動部は立ちあがったのです!」
環はポーズを取って右人差し指を高く差し上げた。
「だからね……」
一転して都の肩に優しく手をかけて、
「安心して。敵ももうあきらめてると思うわ」
手をそのまま都のあごに沿わせ、顔を近づける。
都はもう飽きたという表情で、
「……私に告白なんてしないでね」
「都……あんたそんな目で私を……」
つれない都の言葉に芝居がかったリアクションを返しながらも、環は下がっていって、
由美をぶらさげたままの巧に抱きついた。
「私は巧クン一択なのよ」
言うが早いか巧の顔に両手を添え、唇に唇を押し付けていた。
「ちょっ……環っっ!?」
そう叫んだその時の都の顔を、巧は見損ねたのだった。目の前には目を閉じた環の悩ま
しい表情があったのだから。
「ずっるーい!」
由美の声が廊下に響き渡り、
「私にも貸してよう」
と背中で暴れるのを振り落とし、巧はなんとか環のくちづけも退けることに成功する。
「んが、俺で遊ばないでっていつも言って……」
都の拳がそのゆるんだ顔面に飛んできた。
5
巧と都は、下校途上にある。
「一応しばらくついてるけど、大丈夫だと思う」
「何も聞かないのね、巧」
「姉ちゃんは思い出したいの?」
「お断りよ」
「だろ?」
しばらく考えていた巧が言葉を繋ぎ、
「ここんとこ機嫌悪かったから。はるかじゃないけど俺だって心配してたのよ、これでも」
にっこりと笑う巧の横顔をまともに見てしまって、都は赤くなる。
巧に見られないように顔をそらしながら。
どうしても、一言でも言っておかなければと思って、都は言った。
「……ありがと」
「あ、ああ……」
巧の声が戸惑っているのがわかる。
中学に上がって以来。死んだ母の代わりに弟たちをしっかり育てようと空回りしていたことがあって、それから少し都はかたくなになった。
「姉ちゃんがお礼言った……、こら、け、蹴るな!」
「なによ」
巧が避けたのが都は気に入らない。ぶんぶんと鞄を振り回し、
「だいたい、人の手を借りておいて何が守る、よ」
「おわ! それだって俺の人徳じゃん? それに」
巧の身長が都を追い抜いたのは二年前。今は十センチ以上の差がある。
暴れる都の腕をやっとのことで捕まえて、巧はそのまま引き寄せる。都は自然巧を見上
げてにらんでいる。
「それに、俺ほんとに守るよ?」
そんなことを弟に言われた時に、目を見ていてはいけない。その目を信じたら捕らわれ
てしまうから。
都は目を伏せて逃れると、巧から離れて歩き始めた。
巧がそれに気付いてわざわざぴったりくっつく。むきになって都が足を速めると、巧は
ますます楽しそうについて行く。
「何をやってるんだか」
こっそり後をつけていた由美が環と顔を見合わせる。
「前から思ってたけど。都ちゃんかなりブラコンだったりしない?」
「だよな。おもちゃの巧クンに遊ばれてるし」
「あ、巧君が手振ってるよ。都ちゃんたら気付いてない」
手を振り返す由美の後からふと見ると、巧と目が合う。
(あっ……)
もう、巧は都の相手に戻っていた。
とっさに反応できなくて、環はちょっとがっかりする。
その様子を見ていた由美が、
「私は楽しんでるだけだけど、環ちゃ〜ん?」
「な、なんだよ」
「そっちも前から思ってたんだよね。あんたホントは本気でしょ〜」
「……」
「ありゃ。やっぱり」
「都に言うなよ。……帰る」
「ちょっと、待ってよう」
踵を返した環を小柄な由美はあわてて追いかけていく。
巧は都の心境を、実は結構わかっていた。
環たちが窓になっていつでも覗くことが出来る。それは後ろめたくはないけれど、少し
気恥ずかしかった。
母親を失った時、都は七歳、巧が五歳。そしてはるかが三歳だった。はるかはよくわか
っていなかっただろう。
それから自分たちの小さな世界で暮らしていた。
「姉ちゃん昔、はるかにやきもちやいてただろ?」
「な、何の話?」
「小さい頃さあ。俺が姉ちゃんにべったりで、姉ちゃんは俺とはるかをまとめて面倒見て
て」
「……」
「そんではるかが俺に張りつくようになってから、俺はずっとはるかと遊んでたけど」
車が通りすぎていく。
風に髪をなびかせる姉の歩く姿を眺めて歩く。
「姉ちゃんが甘えて欲しそうにしてたの、知ってたぜ」
姉の顔が少し赤くなるのを見た。
「俺は弟やるより兄貴やるほうがなんか面白かったんだよな。でももっと弟もやっときゃ
よかったかな、と……」
都の反応がないので、続ける。
「姉ちゃんが俺に暴力振るうのって、それで怒ってたんだろ」
「もう、忘れてたわ」
都は一言だけ、そう返した。いつもの落ち着いた表情に戻っている。
「うん、昔の話。だから、こっから今の話」
「え?」
「ほんとに、意地張らないで俺にまかしてね」
逆光の夕日の中でそう言って笑った巧が、都には弟に見えなかった。
「おかえりー。ああっ、お兄ちゃんまたお姉ちゃんに殴られたの?」
「なんですぐ私だと思うの?」
「違うの?」
玄関に迎えに出るはるかとの会話は、だいたいいつもこういうものだ。
「ほらん、言った通りでしょ?」
由美が廊下で待ち構えていて都の肩にぶら下がった。
巧はもう教室までは来ない。あれから一週間何もない。
「環はどうしたの?」
「えー、なんか球技大会の集まりとか言って、すぐ行っちゃったよ?」
「そうだった。私も行くから、じゃあ」
「あん、また明日〜。巧君によろしくねぇ」
由美の声を背中に受けて歩く。
元通りの毎日に戻っていく。巧がたとえ何もしていなくとも、言葉通りそうなったのな
らそれは巧のおかげだと都には思えていた。
ただそれ以上のことは意識しないようにしていた。
何事もなく卒業して、一人暮しをして大学に通えればいいと思う。そうすれば何も心配
はいらないだろう。とりあえずあとしばらくのささやかなイベントを楽しみに廊下を歩く。
いつものように巧たちの笑い声が響いている。
だんだんと話の中身が聞こえてくると、少しでも長く、と都の足は鈍くなっていく。
だが、その日の話は少し勝手が違っていた。
6
巧は最近よく眠れなくて、その理由について考えることが多かった。
もう一度あの少女に会いたい。でもそれは建前で、要するにセックスをしたいだけだと
いうことを自分ではわかっている。
好きになったわけではない。知りたい盛りにめくるめく体験をしてしまって、それっき
り放り出されたままなのだった。欲求不満だ。
ボールを蹴っている時だけは無心になれる。だが一度グラウンドを離れるとすぐに皮膚
に柔らかい感触が蘇ってくる。なりふりかまわなければ相手がいないではないが、ケダモ
ノのように暴走することを許さない何かが頭の中にある。
姉の友人たちにじゃれつかれるのも少し苦痛になっていた。いつもみるみるうちに制服
の前を勃起させてしまって隠蔽工作に難儀する。
(由美さんも環さんも、ついでにはるかも……姉ちゃんも。手出せないのに限ってかわい
いのはなんでだ……)
そんなこともあって、巧たちの下世話な会話には熱が入る。それがすこしエスカレート
しただけだった。少なくとも巧はそう思っていた。
「同じだろ、そんなの」
「ていうかさ、やっちゃいけないことってやりたくなるじゃん?」
「いや、それとは話が全然違う」
「そうだよな、それだとやっていいことなら気持ちよくないのかってことだもんな」
「おまえら理屈はいいんだ。要は『きょうだいでやると普通より気持ちいい』っていう説
が本当かどうか。科学的に検証するのだ!」
「俺はそんなの聞いたことねえんだけどな」
「科学ってなんだよ!」
ひとりが笑い転げる。話が幾つかに分かれ始め、
「ほら、マンネリになったカップルが刺激を求めてSMに走ったりするじゃん。そういう
意味できょうだいでするっていう背徳感。最高の刺激じゃないか」
「見てきたようなことを」
「遺伝子だよ、やっぱ。遺伝子が似てると身体の作りが近いから、アソコの相性もばっち
りで気持ちいいんだよ、多分」
「ソレだ!」
「言い訳なんじゃねえの?」
その巧の口から出た一言に、一同が注目した。
「な、なんだよおまえら」
なぜ自分のときだけ、と抗議する巧に何人かが詰め寄る。
「詳しく言ってみな、ん?」
「何言ってんのよ。悪い事したと思ってるから快感のせいにしてるだけじゃん? なんか
気持ちよかったつもりになってるだけだろ」
離れたい話題なので、巧は冷たい。
「おまえの嘘臭い意見はいい。問題はだ」
ひとりが話を引っ張りにかかる。
「おまえがあの麗しのお姉さんに何も感じないのかってことだ」
「そんな話だったか?」
「この際そっちを追求するか」
「おまえらな……」
巧は本当に、そのことに触れたくない。姉や妹じゃなければ声をかけたくなるに決まっ
ている。それも単純に欲望の対象としてだ。そこに大きな壁がある。
(恋愛感情があるっていうなら、ちょっとは考えないでもないけどな)
現実にはそれもどうだろうか。
「エロ漫画の読み過ぎなんだよ、おまえら」
「なあ巧。こう考えるとどうだ? もしかしたら本当にきょうだいでする方が気持ちいい
んじゃないだろうか、だとしたら、弟とか妹とか、そういうのがいる奴だけが至福の快楽
を得られるんだ。これは特権だぜ」
「おまえ、頭おかしいんじゃねえか?」
「いいから黙って言わせれぇ!」
他の一人が興奮して巧を黙らせている。
「どうだ。あの姉さんだけじゃない。おまえには妹もいただろう。巧、おまえはせっかく
の環境を宝の持ち腐れにしているんじゃないのか?」
「お……」
「何、妹もいたの? どんなのよ、写真!」
「俺知ってる。姉ちゃんはちょっと近寄りがたいけど、あの子はすげえいいよ! かわい
いし普通に口きいてくれるし」
「名前は?」
「うるせえ! 名前はキム子で身長2メートル。林檎を握りつぶす逸材だ」
「おおっ、必死に隠してやがる! ひょっとしたら巧、その妹が好きなのか!」
「そういうことなら話は早い。押し倒して事の真相を報告するのだ!」
「わかった、もういい……」
巧は根負けして机にへなへなとうつ伏せた。
「おまえらの言う通り姉ちゃんも妹も押し倒してアソコの具合とか反応とか相性をつぶさ
に報告するからもういいだろ?」
場が巧のまさかの発言に固まり、間があって色めきたとうとした瞬間、巧が、
「なんて言うと思うか、この駄目人間ども!」
と立ちあがって、こきおろした。
一気に全員からブーイングが起こった。
「まあな、正直うちの姉ちゃんは申し分ないいい女だしな、考えなくもなかった。ちょっ
とやる気出てきたぞ。だが、おまえらはほんのチョッピリも楽しませてやらん! こっそ
り一人で楽しませてもらう!」
ついには靴のまま机に上って踊りながら巧は煽りまくっていた。
てめー、この野郎、と怒号がうずまいて、誰もがいつにない元気さだった。
(うーん、ちょっとやりすぎか)
そう思いつつもやめられない馬鹿騒ぎに巧は時間を忘れる。
都は柱の陰から一歩も動けずに固まっていた。
目を見開いて、今までで一番酷い動悸に胸を締め付けられている。
下品な会話とインモラルな題目、理解の外側にある無秩序。
巧がその場のノリを最大限に利用して遊んでいたことを、都はどれほども理解していな
かった。そして自分が何に衝撃を受けているのかもよくわかっていなかった。
(あのときみたいに……)
邪な者から守ってくれた時みたいに。
(もし巧が目の前にいたら、私はたぶん何かを言ってしまう)
自分でも気付いていない何かが口をついて出てきたらどうするのだろう。
(行かなきゃ)
階段を降り、迂回路を通って生徒会室を目指す。
頭の中で、全ての人間関係の再定義を始めてしまいそうだった。
父の屈託ない笑顔が浮かぶ。
はるかの笑顔。そして、巧。
いつも必要以上に巧にまとわりつくはるかの、イメージに語り掛ける。
(はるか……はるかは巧のことが好き?)
答えが返ってくるはずはない。つぶやきながら歩く。
「私は、嫌いよ……」