巧は都の視線に気付いていた。
むしろその意識が結果につながっていたと言えるかもしれない。
最も苦しい四百を、都のために走ったと言ってもよかった。
だから、走った後は姉の顔が見られなかった。勝てなかった悔しさと、姉を意識して
しまった恥ずかしさと環に対する後ろめたさ。騎馬戦の準備にそのまま取り組んだ。
酸素補給はクラスの女子に頼み、由美の話を聞いていた。
毎年行なわれるため上級生ほど有利ではあるが、所詮素人の寄せ集まりである。そこ
までするかと思うくらいに綿密に準備を行なうことでかなり力の差が出てくる。
馬の意志統一、編隊行動、全体行動それぞれの連係がモノを言うのである。
そこで、馬の移動は携帯のナンバープレートの5を中心に見立ててやれば、相対方向
を迅速に確実に上の人間が指示できるので、やること。下の三人は全方位に気を配りな
がら、敵の接近を上に伝える。その馬を必ず三騎一組で動かして、敵を数的優位から各
個撃破する。その三騎編隊をさらに一つの部隊に見立て、相互に連係する。この連絡役
をする馬を一騎用意する。都合十騎を一組にして、できるだけ、優勢な敵には近付かな
い。近くの味方と連係してから対応する。
学年を超えて奇数クラスと偶数クラスに分かれるので、上の学年にも伝える。
──というような内容を、由美に甘ったるい喋り方で説明されて、みんなくらくらし
ていた。
(由美さん、やりすぎ。でも楽しそう)
敵も無策で来るとは思えないし、今回は、やりすぎるだけの理由もあるし。
戦闘が始まると、食べ物の名前を口走りながら突出する馬が続出し、たいていは乱戦
になって損耗していった。だが、冷静な部隊も結構あって、的確に近くの敵を潰してい
くのを見て、巧はその後ろにつけようと、指示を出した。主に後ろに回り込む敵に対応
していく。
最初の馬鹿みたいなつぶしあいが過ぎると、だんだん敵味方共に連係の取れた、動き
のいい部隊だけが生き残り、巧もその後ろにちゃっかり随伴する。
(面白れえな、これ。ミリタリーマニアの気持ちがちょっとわかる)
最後まで無心で戦って、というより逃げ回って、気付くと、総力戦終了の合図のピス
トルが鳴り、巧達は一騎討ち勝負に生き残っていた。
味方が十五騎ほど、敵は十騎ほどしか残っていない。ここから一対一の勝ち抜き戦で
勝敗を決める。一年生の部隊は三騎。巧はほぼ体力を回復していた。
どのみち一年の馬から順に出ることになるので、最後までは残れまい。
(少なくとも一騎は倒したいなあ……)
環たちのいる方向を見た。傾き始めた夕日がまぶしく、いまいち誰が誰やら見分けが
つかない。十五騎のうち、二番目となり、そして一騎討ちがはじまった。
この一騎討ちには、相打ちがある。最初の一騎がその第一号となり、たちまち出番に
なった。一騎目。
「じゃんけ──」
巧が合図を取り、相手が一瞬『?』と警戒して、守ろうと切り替える瞬間に、鉢巻を
かすめ取った。
「ねえ、巧くん今、じゃんけんしてなかった?」
「超奇襲技だねっ、一回こっきりの」
緊張している相手に隙をつくるのは単純な方法ほどいいので、あれは逆にセオリーと
も言える。二騎目はそういうわけにもいかないと思ったら、正攻法でいきなり奪い去っ
た。また一歩勝利に近付いた偶数組が沸く。
「すっごーい」
由美の屈託のない声に顔をほころばせながら、環は都を見下ろした。
都はただじっと見ている。
巧が三騎目も四騎目も倒していくのを、見ていた。
§
「ところで巧くん、ご褒美はいいの?」
五騎目の二年生に負けた巧は、力つきて体操マットの上で寝てしまって、起きたとき
には後片づけもあらかた終わって、戦勝パーティの予約取りにクラス委員が走っている
ところだった。
すぐそばに環が一人で腰を下ろしていた。
姉はいない。校内では環が公認彼女なので、こうなるのは妥当なのだろう。
「うーん、例えば、まだ早すぎて言えないコトとか」
「婚約指輪、とか」
「それは飛び過ぎ」
「あは、そっかあ、そうだよね。巧くんにはまだ二年あるんだもんね」
「いや、あの、俺はその気ありますよ」
その巧の言葉に、しばらく見つめあった。
「ただその前にね……」
巧の話の続きを促すように、環は巧と並ぶ体勢になった。巧はそれを待って、
「俺、姉ちゃんが好きかもしれない」
「そっか……」
「俺は姉ちゃんを甘く見てたよ、もうしぶといのなんの」
「振られたら、そこでもう人生終わりだもんね……死に物狂いになるわよね」
「それなんだけどね」
巧はマットにまた身体を倒し、環が横に続くのをまた待って、
「姉ちゃんが女の子に見えないわけじゃない、でも、『姉ちゃん』って部分がまだまだ
大きすぎると思ってた。でも今日の姉ちゃんは……純粋に綺麗だなって思ったし」
「たぶんそれは巧くんのせいだよ」
「どうして?」
巧は、競技で離れている間の都のことを環から聞いた。
半年前なら笑い飛ばしていたかもしれないが、今の巧には冗談ごとではなかった。
今どき映画でもそんなベタな話はない。だけど、胸が熱くなる。
「俺なんてただのスケベなガキじゃん。なんで?」
「それは、私にも言ってるのよね?」
咎めるような、環の抑揚のない言い方にドキッとして巧は顔を向けた。
環はにんまり笑っていた。
「……」
どうにも、環のこの手口には慣れない。そもそもこの人には顔向けができないはずな
のだから。
環はそんな巧を見放すことがない。
「巧くんはさ、もし巧くんが都のこと好きになっちゃったら私が離れていくんじゃない
かって思ってない?」
「ちょっと、思ってる」
「やっぱりなー……ちょっと寂しい」
「ごめん。でも、本音だし」
「そうだね。──ね、巧くん」
環が巧の手を取った。約束をしたがっている手だ。巧は、決して拒むまいと思う。
「私を奥さんにしてくれたら、一生二人を守ってあげる」
「うん」
「二人を白い目で見るような人とか、社会とか、なにもかも、全部から守ってあげる…
…」
「そんなわけにもいかないよ、環さん──」
「やるんだから、私だって今はそれしか考えられないんだからっ」
「うん」
巧は、静かな気持ちで、環の言葉を受け止めていた。
「ま、だいぶ先の話になるけどね」
それは、魂に刻みつけるような、そんな約束だった。
「巧くん、都と、するんだね」
「うん」
あれから、機を見て環には話してあった。ゴムを隠されて頭に来て後ろでやったと言
うと、案の定大笑いをされたのだが、これで本当の意味で環と都は対等になる。
環は、着がえてくる、と部活棟の更衣室の方へ消えていった。
§
それからすぐにというわけにはいかなかった。
初めての場合、ゴムは女の子の苦痛を大きくするらしいという話を聞いて、またスケ
ベ心が湧いてきて、ゴムなしを決意し、
「姉ちゃん、安全日見つけといてね」
と、身も蓋もないことを言った。
そのときの都の表情は巧にとっては永久保存ものだったのだが、残念ながら手元にカ
メラはなかった。
受験シーズンに突入し、大半の三年生が慌ただしい生活を送る中、巧の周りはいたっ
てのんびりしたものだった。
由美は東大早慶どれでも合格確実のお墨付きだし、都も推薦が決まっていた。環は専
門学校へ進んで、美容師になるという。巧がヤンキーのなる職業だと言うと、こればか
りは環に殴られた。
そして、巧の方はサッカーの予選を戦っている。
例のフォーメーションで緒戦をなぜか大勝した桐高サッカー部は、その勢いのまま三
回戦まで勝ち抜いていて、そこで正念場を迎えた。
(これでいいのか、高校サッカー)
などという心配も、優勝候補を前にして、もう必要ないと思われた試合。
主将の遠山がいきなり、
「待鳥、右ウィングやれ」
などと言い出し、春の最初の頃の布陣で望んだことにより、敵が混乱した。プレイメ
イカーをつぶすのは守備の基本だが、相手がそれをそれまでの試合の巧に見立てていた
とすれば、さぞかし守りにくかったのだろう、焦点を絞り込まれないうちにかけた速攻
で、巧のセンタリングから先制し、前半を終えてしまった。
「びっくりですな」
巧に代わり、そのポジションに入って敵をおちょくっていた二年の大川がとぼけてみ
せると、
「このまま後半、持たないよなー?」
よりによって遠山が呑気なことを言う。
巧はこっそりトイレに逃げ出し、外で時間いっぱい環といっしょにいた。都はスタン
ドにそのままいるらしい。これは無理もないことなのだが。
巧としてはサッカーは楽しいけど、十分楽しんだし、もう勝ち上がりたくない。
「そんなこと言わずに頑張ってみれば?」
同じ体育系の環はそれを少し惜しいと思っている。
巧の言い分としては、クリスマスはいっしょに過ごしたいので、それまでに姉との約
束を果しておきたいのだ。時間の余裕があまりない。
そしてその日はすでに確定していた。
明日だ。
明日の月曜、昼間をずる休みして空ける予定なので、勝ち進んでその日も練習なんて
ことにはなって欲しくない。
(10日ほどの安全期のうち、誤差とか考慮して本当に絶対どうしても安全なのは三日
ほどで、それが土曜〜月曜、ベスト・オブ・安全日と思われるのは日曜、つまり今日……
ああ、貴重な一日が流れていく……)
無理矢理聞き出した話では姉は滅多に狂わないということだが、それでも心理的には
ぎりぎりで、だからといって周りの人間に説明するわけにもいかないし、どうしても明
日以外にない。
──とかいうことは、そもそも巧のスケベ心から出た事態なので、環にはとても言い
にくい。『私は結構狂うから駄目だなー』なんて普通に返されるのもある意味困るし。
その気持ちの高ぶりを環とのキスでごまかした。
罰当たりだがしかたがない。それを罰当たりと感じる心を変えていかないといけない
のかも知れないし。
後半のキックオフの直前までそんなことを考え、スタンドのどこかにいる姉を思う。
(勃ちませんように)
そのお祈りが効いたのか、落ち着いて、巧は後半も切れのいい動きを続け、敵陣の左
サイドを脅かし続けていた。マークがさらにきつくなって、やがて、悪質なバックチャー
ジを誘った。
(最低だな……)
そう相手の選手に対して思っていたはずが、自分に対する評価にすり替わっていた。
欲望を優先する汚さが、なぜ女の方から求められているのか、そしてそれにつけこむ
ように自分はそれを良しとしている。
かなり深い位置からのフリーキックとなり、闇雲な波状攻撃を繰り返した末に、思っ
てもみない二点目が入った。
そこでチームの気持ちが少し変わった。
もしこれに勝てれば、ずっと上にいけるかもしれないという緊張感。つまりプレッ
シャーだ。
『全国』を意識して、それを乗り越えられるほど、チーム力はなかった。
「あれ、姉ちゃんは?」
巧は、試合後のミーティングをほっぽって環達のところへ飛んでいったのだが、
「試合が終わったら、あっという間に逃げちゃった」
環がひとり楽しそうに笑っていた。環には明日やるとだけ言ってある。
「今からさっそく準備でもするんじゃない?」
「……」
想像できてしまうのが困る。
巧は、姉の思い入れの強さに接するたびに、いまだ不安になる。姉を抱いてしまって
からも本当に環はずっと自分の隣にいてくれるのか。そんな風に笑っているのは、どう
してなのか。
環が巧の表情を見て、ちょっと来て、と物陰に誘った。
巧は、正直なところ明日を心待ちにしている。これは事実だ。だがそれは下半身の事
情であって、巧という人間を構成する魂の大部分は環のものなのだ。
それをわかって欲しいとずっと思っている。
『彼女公認の浮気』なんていう、それこそ浮ついた言葉を思ってしまった。
まったくこういう気分には慣れない。
その『彼女』に引き寄せられて、巧は労われるように、環の唇を受け止めた。
「巧くんはまだ私のこと信じてくれてない」
咎められて、巧は言い返せなかった。
「普通じゃないかもしれないけど、これだって現実なのよ?」
「信じてますよ。でも明日のその先は信じてないのかも」
「都に、そんなにまで愛されてるって思う?」
「あの人はもうずっと溢れかえってますよ。それに流されてみたくもあるんです。だか
ら、それにまでつきあってもらえる自信はない、ってことかなあ……俺自身が」
「私……たぶん、巧くんにはわからないかもしれないけど、表現が違うだけで、あの子
より私の方が巧くんを好きよ。自信があるわ。絶対放さない。だから──」
環は顔を伏せ、
「離れていかないで……」
しがみついてくる環を、胸を詰まらせながら強く抱きしめる。
そこまで言わせてしまって、そうしてやっと、巧は安心して姉のことを受け入れるこ
とができる。
§
都は玄関で、少しふらついた。
用事があって応援にいけないと残念がっていたはるかは、まだ帰っていない。
逃げるように帰ってきてしまった都は、自宅に誰もいないので少しほっとしていた。
お膳立てがすでに整えられていることを意識して、巧の顔をとても見ていることがで
きなかったので、逃げてきた。今からこんなことでは心臓が止まってしまうかもしれな
いと思う。
自分のベッドにうつぶせて、顔が弛んでしまうのを止められなかった。
たまらなくなって、丸めた布団を抱え込んで抱きしめてみる。
イメージに追いつかない。思いあまって巧のベッドに押しかけ、シーツに残った弟の
匂いを吸い込んだ。
初めて巧に抱きしめられてからもうすぐ半年になる。
あのときから、裸のままでそうしてもらいたくて、本当に諦めずにがんばってきた自
分を愛おしむ。胸が潰れて、死んでしまってもいいと何度思ったか。
下着が汚れてしまって、シャワーでごまかし、また新しい下着を汚してしまった。
あと何時間ぐらいだろう。
下着を取り換えるのをあきらめ、欲情に任せて目を瞑っている。
そこに唐突に弟が現れた。
「……どうして?」
部屋に入ってきたジャージ姿の弟は、自分のために他の用事をすべて飛ばしてきたの
だと思い、身体を起こして迎えようとする。
それを逆にベッドに戻されて、抱きしめられた。
どうして、と思いながら切なさに押し流されていく。腕に限り無く力を込めて、弟の
重みに応えた。
もう今から始めて、明日のそのときまでお互いを感じ続けるのだ。
「はるかの目を盗めるだけ盗んで、明日まで一秒でも多く二人で過ごそう」
と巧が言うのを、言葉よりも唇で直接返していく。
「明日になったら、姉ちゃんを俺のものにするんだからな。あんなにまでして強引に俺
のことを手に入れたんだから、全部俺に独占させてもらうから。……なにもかも、姉ちゃ
んの初めては俺がもらうから……」
巧の汗の匂いを吸いながら、言葉の意味を受け流していった。
(そんなこと、あたりまえじゃない)
都には本当にあたりまえのことだった。
今までも、すべてそのとおりになってきたのだから。