とはいえ巧には秘策があるわけでもなく、はるかを傷つけずに済ませられるような都  
合のいい話もどこにもない。  
「お兄ちゃんはそんな話聞きたくありません」  
 とふざけて言ってみても反応はなかった。  
 間がもたなくて、黙り込んでいるはるかの頬を指でぷすっとやってみると、そこで脛  
を思い切り蹴られた。  
 素足での蹴りだったから、むしろはるかの足の指が痛かったはずだ。  
 歯を食いしばって、痛がっているのか怒りをこらえているのかわからない表情で、今  
にも泣きそうになっているのを見てしまった。だから、ちょっと酷い奴になってみよう  
としていた巧は、たちまちそんな偽悪的なそぶりをかなぐり捨ててしまった。  
 言葉にしたくなかったので、ただ、そっと抱きしめてやる。  
「俺なんかに、一生関係ないんじゃなかったのか」  
「お兄ちゃんが好きだったんだもん……」  
『おまえはまだ子供なんだから、大人になったらな』と言うのも問題だし、『お兄ちゃ  
んもはるかのこと、とっても大好きだよ?』なんてベタなごまかし方も避けたい。『俺  
達は兄妹なんだから』みたいな陳腐なことも言いたくない。だいたい姉のことがあるか  
ら余計にそういう概念に触れたくない。  
「ごめ……ごめんなさいっ、言いたかっただけだから、なにもなくていいから。お兄ちゃ  
んに知って欲しかったの、心細くて、怖くて、聞いて欲しかっただけなの」  
 
 はるかは巧の腕の中でくしゃくしゃになり、剥き出しになったせいでとても姉に似て  
綺麗なことがわかる──自分とは違う心根をさらしていた。  
 自分はこんなに綺麗だろうか?  
 巧ははるかの顔を起こし、丁寧に拭ってやる。  
「なんかあったのか? ……一弥と」  
 名前を出してみると、  
「ないもん……あんなやつに、襲われたりしないもん。触られる前に蹴ってやったんだ  
から」  
(しっかりなんかあったみたいだな)  
 はるかはあまり穏やかではないことを言っていて、心にはひびが入りかけているので  
はないか、と巧は胸を衝かれる。  
「はるか、大丈夫なのか?」  
 と優しく聞いてやったら、  
「うん」  
 とはるかはちょっと嬉しそうに巧に答えた。  
「あいつは?」  
「顔とかお腹とか蹴ってたら動かなくなったから、そのまま逃げてきた」  
(それは、急所攻撃ではないのだろうか……かわいそうに)  
 その巧の感想は顔に出ていたみたいで、はるかがそれを目ざとく咎めた。  
「私はかわいそうじゃないの?」  
「そんなこと、言ってないだろ」  
 
 巧にとってはるかは格好のいじめ相手ではあったが、それはあくまで信頼と安心の上  
でのことだ。これでははるかは姉と同じになる。  
「はるか、環さんと仲よかったっけ?」  
「うん。お姉ちゃんと同じくらい好きだよ」  
「なあ、はるか。どうしてもして欲しいことってあるか?」  
「たくさん……ある」  
「もし環さんの前でも言えるんなら、してやる」  
「環さんの前で言えたら、そしたら、なんでもしてくれるの?」  
「なに言うつもりだ……」  
 巧は頭を抱えたくなった。やっぱりあの姉の妹だ。  
 そこへ──  
「ううん、ひとつだけでいい」  
 とても小さな言い方で、はるかが言った。  
 はるかは、おそらくあまりにも困った顔をしている巧を見て、そう言ったのだと思う。  
「ファーストキス、されちゃったんだから、だから、お兄ちゃんが口直ししてくれな  
きゃ、このままずっと、まとわりついてやるんだから。だから、お兄ちゃん……」  
「あいつが嫌いなのか?」  
「もう嫌い……あいつは、私の好きな人にちょっと似ているだけだもん」  
 巧はもう一度頭を抱えたくなった。  
 はるかのようなまっすぐな妹が、いったいどういう経緯でこんないい加減な兄を好き  
になったりできるのか、巧にはわからない。  
 
 巧は姉の息づかいを感じていた。  
 すべてを聞いているはずの姉の、心の動きを自分は支えきれるだろうか、とふと思う。  
今は少しだけ妹に近付いてやりたいと思っているのだ。  
「お兄ちゃんが好きだったんだもん……キス、してくれなかったら、お兄ちゃんに胸触  
られたこととか、全部お姉ちゃんたちにしゃべっちゃうんだから」  
(ていうか、そのお姉ちゃんは今これを聞いてるんですけど)  
 あれはただの冗談だ、と言ってしまうことは許されない。  
 だから、  
「しゃべっても、いいぞ」  
「ううん、しゃべらない。だから……してくれたら、もう無理なお願いしないから……」  
「──は」  
 はるか、ともう一度言い聞かせようとしたとき、引き寄せられて、唇を重ねられた。  
 はるかの唇はとても熱かった。固さの残るとても雑な唇の合わせ方だったが、それが  
今のはるかの心のあり方を、巧に教えていた。姉と同じ、目を逸らせないなにかを持っ  
ていることを、押しつけたキスだけで伝えてくるのだ。  
 ちゃんと受け入れた証拠に、巧はそっと押しつけ返してやって、それからはるかを身  
体から離した。  
「あの……」  
 はるかがなにかを言いかける。  
 そしてすごく無理をして、やめたように見えた。それから無理矢理に笑って、力尽き  
るように俯いてしまった。  
 
 巧にできることはない。  
(ありがと、ごめんな、はるか)  
 覚悟を決めて取りかかってなお、はるかの方に無理をさせることでやっとこの場を逃  
れられる、自分はまだまだその程度の男なのだと、思っていた。同時に、本当はそうい  
うことじゃなかったんじゃないかと、気付き始めている。  
『一人じゃ解決できないことを一人で解決しようとしたら、そうなるんだよ』  
 あのとき由美が言った言葉、実は世の中のほとんどのことが、そうなんじゃないのか。  
   
 §  
   
 ずっと壁の裏で話を聞いていた都は、はるかがなにかを言いかけて、言い淀んだとき、  
それがどういう言葉だったのか、はっきりと悟っていた。  
『お姉ちゃんはよくて、私はだめなの?』  
 はるかは巧にそう訴えるはずだった。  
 巧は知らないが、都はその理由を知っている。  
 都は、頼子からはるかに電話があったときその場にいなかったから、はるかにすべて  
が伝わっているということを情報として知っているだけだ。だけど随分と皮肉な伝わり  
方をしたものだと思った。  
 巧はおそらく、はるかは何も知らないと思っている。だからこそ、はるかも結局口に  
することが出来なかったのだ。  
 
 都は、巧が巧自身の気持ちと二人の間のことを受け入れるのにいったいどれだけの覚  
悟が要ったのか、それを感じ切れていない。都自身は真っ先に責任を放棄してしまった  
のだ。だから、はるかに対して自分は何も言う権利がない。  
 少し寒い。  
 身体が冷え始めているし、ここにいない方がいい。都は脱衣所へ引き返して、もう一  
度考えて二階の自分の部屋に戻ろうと洗濯物の始末をした。  
 そのとき玄関でチャイムが鳴った。  
 都はそのままそこにしゃがみ込んで待った。  
   
 §  
   
 チャイムの音に救われて、その場を逃げ出すようにして巧は玄関の扉を開けたのだが、  
そこに立っている高松一弥の顔を見た瞬間に、これは放っておけないと思った。  
 ただし、自分がやってはいけない。これははるかの仕事だ。  
 一弥を待たせて、嫌がるはるかを無理矢理一弥のところへ連れて行った。  
 一弥はいまにも首でも吊りそうな顔をしている。巧が『この世の終わり』という言葉  
を思い浮かべたその顔を見て、さすがのはるかも話だけは聞いてやる気になったようで、  
巧はリビングを二人に空け渡し、姉も自分も二階にいるから必要なら呼べ、と言って、  
それから姉を探した。  
 巧は疲れていた。  
 脱衣所から出てきた姉を自室に帰し、自分も自室に戻った。  
 
(俺達の素敵な計画はいったいどこへやら)  
 一時はどうなることかと思ったが、神経が高ぶっていただけなのか、気持ちを吐き出  
せてすっきりしたのか、最初からキスできたらそれで満足だったのか。あっけなく引き  
下がったはるかに、いなくなってから頭を下げた。  
 助かった。  
 あの姉を見て育った妹とは思えない潔さだ。  
 それとも姉にとって自分がイレギュラーだっただけのことなのか。  
 とにかく、暴走しかけていた自分達を結果的に止めてくれたはるかに心の中で感謝し、  
その一方でどうしたらいいのか、なにかやりきれない焦りのようなものが巧の中に生ま  
れた。  
 姉があれに何も思わないはずがない。  
 そう考えたことで、巧は、自分の中に姉に対する執着が生まれていることに、思い至っ  
ていた。はるかのことを姉がどれだけ気にかけているかを思えば、今こそが、姉の心を  
解放してやれる最大のチャンスなんじゃないか。  
 それを望んでいたんじゃないのか。  
 そして。  
 姉が惜しくなったから、今度はそれに気付かないふりをしようとしているんじゃない  
のか。  
   
 §  
   
 都はすぐに気付いていた。  
 自分とはるかは同じだ。  
 もし自分が弟に邪な気持ちを抱くことなく過ごし、そのうえで今のこの場面に出会っ  
ていたらどうだっただろう。  
 さっき巧ははるかとキスをしたに違いない。だから最後の死闘がはるかの中に起こっ  
た。はるかが巧に今までのことをぶちまけてしまわなかったので、本当にほっとしてい  
た。都は少しだけそのことに胸を焦がし、では環はどうなのだと自分に問いかける。  
 環と話がしたい。  
 そのためにも弟に抱かれて対等になりたいのに、はるかが立ちはだかっていた。  
 ベッドの中に沈み込むと、もう巧の感触に餓え始めていた。  
 もう一度考える。自分とはるかは同じだ。もし巧がそこにけじめを見い出してしまっ  
たら、自分は巧のものではいられなくなる。  
 それは恐ろしい想像だった。  
 壁の向こうにいる弟にすがりつくように、壁紙に指を這わせた。もし想像ではなくそ  
うなのだとしたら、自分はためらわず、すぐに隣の部屋の弟の胸に飛び込むだろう。そ  
こに父やはるかや、他の誰かがいたとしても。  
 ざわざわした胸の奥に、光も温かさも一つしかない。取りあげられたら、ウサギや子  
象のように寂しさで胸が潰れて死んでしまうだろう。  
   
 §  
   
 たぶんこのとき、お互いに知らず心の中で複雑なものを抱えてしまって、疲れてしまっ  
ていたのだ。  
 巧も都も、だから階下にいるはるかを感じながらも部屋を飛び出して、廊下で鉢合わ  
せになった。  
 都は冷たい廊下に裸足で立っていて、こんなときに限ってスリッパをちゃんと履いて  
いた巧はそれを見て、小さな声で、  
「姉ちゃん、俺に乗って」  
 そう促してから姉の背後をとって、両足を自分の足の甲に踏ませてやった。バランス  
が悪くて、ふらっと傾く姉を、巧は拒まれないようにゆっくり抱きしめていった。  
 巧が廊下の壁に肩をつけ、それに合わせて都も体重を巧にあずけて力を抜いてきたの  
で、違和感なく身体を寄せ合えたことに、巧はほっとした。  
 そのまま、随分時間が過ぎたように感じたが、下の様子はわからなかった。  
 時々都がぶるっと寒そうに震えるのを見て、そのたび巧は、姉を温めようと大きく抱  
えなおす。その場所から二人とも離れようとしない。物に頼らずに自分達の身体で温め  
あって、そうすることでこの先の自分達の危うさに正面から対峙しているのだ。  
 しばらく、囁くように昔話をした。  
 二階の廊下は、この家のいろんな場所に刻まれた思い出のうち、ふたつを記憶してい  
た。一つは例の階段落としだった。  
 もう一つ、巧は『ピンポンダッシュ』をこの廊下でやっていたことがあった。  
 
 姉の部屋をノックして逃げるというこの実にくだらない悪戯を妙に気に入って、子供  
だから、ばれていないと思っていた。  
 部屋に戻ったら、ベランダから周り込んだ姉に待ち伏せされていて、ぶん殴られた。  
 そう言えば、あの時期姉は手しか出さなかった、と腕の中の姉に聞いてみると、  
「蹴ったのも巧の悪戯が元じゃない」  
 京人形、というまるでパスワードみたいなきっかけで記憶を呼び戻され、巧は低レベ  
ルな悪戯をもう一つ思い出した。  
 ガラスケースに入った人形はデリケートな扱いを必要とし、間違ってもそれを運んで  
いるときに手を出すものではない。そんなときにわざと姉のスカートをめくろうとして、  
姉のバランスを取りながらの見事な回し蹴りを脇腹に食らって、巧はひっくり返って泣  
きわめいた。  
 泣かされたのはあれが最後だったと思う。というかあれは酷い蹴りだった、と訴える  
と、姉は膨れて黙り込んだ。  
 確かにあの年頃の女の子にとってスカートめくりというのは、最もメジャーかつ最も  
深刻な問題なのだった。そのせいでスカートをやめる子がいるのを知り、巧はすぐに、  
一切そういうことはしなくなった。  
 都はむしろそのことを覚えていて、蒸し返された巧は恥ずかしくなって腕の中の姉の  
胸に仕返しをした。  
「……や……」  
 慌てた都はなんとか逃れようとするが、音を立てずに、しかもぴりぴりと身体を走る  
快感に抗って逃れるのは到底不可能だった。すぐに、逆に背中を巧に押しつけてその先  
を求めた。その方が巧も困るだろう。  
 
 実際巧は、両手のやり場に困ってしまって、「ごめん」と都の肩に頭を乗せた。  
 それに都は唇を寄せた。  
 恋人同士のような時間。  
 突然くるっと顔を向けた巧に唇を奪われ、舌で口の中を混ぜられていくうち、たちま  
ち都は腰砕けになる。それを支え、  
「決めた」  
 巧は、いい加減しびれてきた足から姉を下ろし、  
「今夜、やろう」  
 と都の肩をつかんで強く言った。  
「わかる? 今夜、姉ちゃんのヴァージン、いただきます」  
 有無を言わせず、具体的なことはなにもなく、そのまま巧が自室に入ってしまうのを  
都はあっけにとられて見送った。  
 単純に計画が前倒しになったわけではない気がする。  
 都は少し不安だったが、巧の今の力強い目を見たことで、葛藤から解き放たれていた。  
 ちょっとだけ泣きそうになって、自分も部屋に戻ろうとしたとき、階下のリビングの  
ドアが音を立て、それから一弥を見送ったらしいはるかが、疲れた様子で階段を昇って  
きた。  
 廊下に立っている姉に一瞬ビクッとして、それから曖昧に笑って抱きついてくる妹に、  
都はかける言葉がない。  
 動き続けている自分達の時間に、すぐに戻っていきたいのだった。  
 

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