一度気を失ったのか、ぼんやりしたままだったのかよくわからないまま巧は玄関に横
にされていた。はるかがしきりに声をかけてくれているのに気付く。
「あのな……こんなことで救急車なんか呼ぶな」
「いいから!」
都の取り乱した声に目が点になる。
誰のせいだと言いそうになりながら、一応担架に素直に乗せられてみる。
送りつけられた、夕方の病院内を往復した結果、いつのまにか検査入院することになっ
ていた。
(ばか姉ちゃんめ……三日も……あんな大騒ぎしなきゃすぐ帰れたのに)
だが、ギプスに固められた右手が、おとなしくしろと痛みを伝えてくる。
たかが折れただけで意外に消耗するものだと、変に感心する。
鎮痛剤かなにかの作用で頭がはっきりしてこない中、巧は一連の都の行動をぼんやり
思い返す。その裏にあるものに全く気付かないというわけには、やはりいかない。
本気の相手に冗談で応じた罰のようなものだ。
でも、わからない。
なぜ、そうなのか。
そう思いながらも、ゆるんだままの頭で考えている。
姉に触れる方法、姉を喜ばせる方法を。
(一回姉ちゃんにじかに触ってみたいなあ……)
そしてまだそんなことを考えていたりする。
検査は明日からになって、とりあえず病院のベッドで退屈な時間を過ごす。
巧は誤って階段から落ちたと主張したものの、はるかには早々に、都に突き落とされ
たことがばれてしまっていた。
「どう見たって現行犯じゃない。お兄ちゃんいったいどんな怒らせ方したのよう。お姉
ちゃんも! ここまでやるなんて、ほんと信じられない」
ひとしきり騒いだはるかを父の透が引っ張って帰ると、都は時間ぎりぎりまで、と巧
の世話を焼きはじめた。
そのうえ明日は休んで検査に付き合うと言い張っている。
巧は気が気ではない。
都は事の原因には一切触れずに巧の相手をしている。姉が今何を考えているのか、想
像するのも恐ろしい。
病院の真っ白なシーツを引っ張りあげて、姉の視界から逃げる。
(なかったことにしてしまいたい、あー、このまま便所に流してしまいたい……)
目を閉じて考えようとするとイメージにつきまとわれて悶えてしまう。
それでも体力の消耗があったせいか、深く眠れそうな気がする。
「ねむ……」
伝えるともなく言った後にもう、巧は眠っていた。
「……」
巧が眠ったのに気付いて、都はとたんに落ち着きをなくしていた。
張り詰める必要がなくなって、なにをしていいかわからなくなる。
部屋を見渡す。
四人部屋だが、部屋が余っているのか他のベッドに患者はいない。
することがないので、無意識に巧の寝顔に見入ってしまって、気付いて目を逸らす。
顔が熱くなる。何度も見てしまう。
都は何も怒っていなかったし、むしろ、骨折させたことも忘れて、こんな風に人目を
気にせず巧の寝顔を見ていられる状況に感謝し、浸っていた。
巧の綺麗な顔の目元、口元、あごの線。小さい頃のあどけなさが残っている。
左の眉の脇に細い小さな傷があるのを確認する。
小学生の時に他ならぬ都が、ブーメランの角で殴りつけてえぐった傷だ。
それに触れたい。が、いつ目を覚ますかも知れず、時間もあまりない。
記憶の中からひとつ、思い出す。
そういえば、巧が死んだように静かなときは起こしてもなかなか起きなかった気がす
る。
それならばいっその事。
都は少しずつ、重力に引っ張られるように、顔を近づけていく。
(本当に動かない……)
その唇を、見ているだけで熱がこみ上げてくる。
ここまでくればもうそれを受け入れるしかなかった。これはコンプレックスではなく、
恋そのものだ。
(認めるから、今だけ目を覚まさないで……)
なんとか身体の震えを押し隠して、唇を近づけた。
もう少しの所で脳裏に蘇るものがある。
放課後の巧が、あの時はっきりと語っていた。
目の前のこの唇は、都の知らない女と口付けをした。それからどこに触れたのだろう。
目の前の綺麗な頬は、女の子の身体のどこに触れたのだろう。
そして、身体と身体を重ね合わせて、何をしたのだろう。
それでも都はそんな呪縛を突き破り、軽く、唇に唇を載せるように触れ合わせる。
身体全体が激しくしびれた。
反射的に離れてそれをこらえる。あまりの甘美な感触に頭がくらくらして、座りこん
でしまう。立ち上がれない。面会時間の終わりを告げる放送が聞こえた。それをきっか
けにしてかろうじて立ち、変わらぬ弟の寝顔をもう一度見る。唇を見て、もう一度触れ
たい衝動に突き上げられる。
「巧……」
都はたやすく、衝動に打ち負かされた。
一瞬表情を歪めて、さっきより少し強く口付けた。
強烈な刺激が返ってきた。
息が詰まりそうになる。その感覚は極めて純粋な喜びだった。
間違えようがない。目の前の男の子のことが好きだ。このまま抱きしめてしまいたい。
自分のものにしてしまいたい。
でもそれは無理な話だ。
そして巧がちゃんと眠っていることを確かめて足早に病室を出た。
それ以上そこにいたらどうにかなりそうだった。
(どうしよう、どうしよう……)
都は脇目もふらずにまっすぐに外に出て、家の方に歩き出す。
このままでは本当に、弟に普通に接したりできない。そうなれば他の家族にも隠し通
せない。
巧が家に戻るまでに、自分でけりをつけるしかない。
そんなことができる自信はどこにもない。
(まだ起きてたりして……)
病室の中では、巧が目を開けて放心していた。
眠りがまだ浅いうちに唇を奪われたらやはりこうなる。
「あれは……姉ちゃん、だよ、な?」
前髪を無意識にかきあげようとして、誤ってギプスで側頭部を殴った。
右手と頭、両方の痛みをこらえながら、一人きりの病室で悶える。
みっともなくため息をついて、
(俺、酷いことしちゃったのか?)
巧はその思考が本音から逃げていることにまだ気付いていない。
そして消灯まで、延々と答えの返ってこない問いを繰り返していた。
姉の唇の感触は、眠りにつくまで脳裏を離れなかった。