朝早くから目を覚ましていた巧は、布団の中で困り果てていた。  
 下半身の硬直したものがどうにもならなくなって、びくともしない。  
 朝の生理現象とは違うものだ。  
「なんてこった。ていうか、すげえ」  
 姉が女性として魅力的なのはわかりきっていることで、つまり、問題は自分の内側に  
ある。  
 蹴られた時にパンツが見えたとか、同様に、殴られたときに胸の谷間がのぞいたとか  
脇からブラの紐が見えたとか。すれ違ったときにとてもいい匂いがしたとか。今まで素  
通りしていた記憶にいじめられる。  
(ひでえ。拷問だ)  
 手の出せないものにはフィルターをかけて、普通に(人並みに)見えない振りができ  
ていたのに、今の巧は姉に対して完全に無防備だった。  
 ふと気がつくと、朝食を運んできた看護士の口元を凝視してしまっていた。  
「なあに、待鳥さん」  
「え? いや、綺麗な唇だなって」  
「年下の癖に、生意気よ」  
 その声は咎めるでも喜ぶでもなく、ニュートラルだ。  
「検査は時間通りだから。起きててね」  
 
「ねえ高野さん、そのまま退院できないの? 俺」  
「だめです。結果出るまではおとなしくしてて下さいね」  
「ちぇっ。頭なんか打ってないのにさ」  
「あら、こぶ出来てるの見たけどなあ? かわいいお姉さんがすごい慌ててたから、びっ  
くりしちゃった」  
「……いや、姉ちゃんは騒ぎすぎだから」  
「悪かったわね。それに看護士さんの名前を覚えてどうするつもり?」  
「げ」  
 いつのまにかそこに都がいる。  
「あら、おはようございます」  
 すかさず高野と呼ばれた看護士は、都ににっこりと微笑んだ。  
「あ、どうもご迷惑をおかけしました」  
 都はさっき聞かされたばかりの自分の醜態を思い出しながら、少し赤くなって応じる。  
「いえ、まあ大事な人が怪我したらあんなもんですよ」  
 その明るい感じの看護士は、穏やかな口調に徹していた。少しくだけた話し方ではあっ  
たが。都のほうもなんだか今日は落ち着いたように見える。  
 その普段通りの姉の物腰がなまめかしく見えて、巧の股間をさらに刺激する。  
「ほら、食べて」  
 都に促されて味の薄い朝食を摂る。  
 都は見たことのない薄いブルーのワンピースで、凛々しささえ感じるいつもの姿とは  
多少趣が違っていた。  
 
 身体のラインがわかるし、素足に靴で、膝頭が覗いている。  
(まさか、わざとやってないよな……)  
   
 都は病院食のフォローに持ってきたらしい包みを解いている。  
「これ、はるかが作ったやつ」  
 小さな入れ物にはなにやら隙間だらけの黄色いものが入っている。  
「卵焼きってさ……こんなすかすかになってるもの?」  
「それ、伝言していい?」  
「だめ。結構うまいよ、コレ。うん」  
 そうするうちに、巧は都の雰囲気の柔らかさの方に気を取られはじめる。  
(一晩の間に何があったんだ。なんでそんなに楽しそうなのよ、あんたは。こっちは薬  
臭いおじいちゃんの要塞に隔離されてるんだぞ? 看護士さんは綺麗だけど)  
 口に出して言ったらまた姉の機嫌が悪くなりそうなので、おとなしく食事を済ませる。  
 その不味さに目をさまされて、巧は大事なことを思い出していた。  
(予選は無理、だよな)  
 軽く、右腕を振る。  
 またたく間に湧き出す痛みに顔をしかめ、  
(まっすぐ走れるかどうかも怪しい)  
 すっぱりとあきらめる。  
 いや、本当はそうはいかないけれど、そうするのだと言い聞かせる。  
 
 後からダメージが来ても、と巧は都の穏やかな顔を見ながら得心していた。  
(姉ちゃん見てるだけで結構……)  
 そこから後を、巧は噛み殺した。  
 思わず、顔が赤くなりそうだ。見られていたら、良くない方向に……。  
 都が反応したのは、右腕を振った時のしかめっ面にだった。  
「だめ」  
「わかってるって」  
 巧は、都の制する手の力が入り過ぎているのを嬉しく思った。  
   
 都が目を離した隙に巧はトイレに脱出し、「用」を済ませる。  
 病室に戻ると、照れ隠しに、  
「病院食が不味いのってさ、やっぱりぼけた神経醒ましたいんかなあ」  
「そんなわけがないでしょう」  
 応えたのは、都ではなく年輩の知らない看護士だった。  
「ありゃ、高野さんはあ?」  
「あれ、おばちゃんで悪かったね」  
 そう言って、看護士はけらけらと笑った。だがそれよりもその肩ごしに、都の矢のよ  
うな視線が飛んできて痛い。  
(わかりやすすぎて怖いよ、姉ちゃん。もう不幸に片足つっこんでるじゃん)  
 巧の思い入れは複雑だ。  
 
 姉は自分の人生に直接関与する人ではなかった。  
 無責任でいられるからこそ、姉の、からかわれて怒った顔や慌てた顔を見るのが好き  
だった。  
 そうして今姉を自由にできるボタンを握っているのを実感する。  
 それには震えがくる。  
 検査を終えると、病室に戻り、周りのことは都に全部任せ、目を閉じる。  
 なるほど、怪我人というものを最大限にいたわるこの仕組みはありがたいものだと巧  
は感じる。それ相応の代価は必要になるが。  
 医学を背景にした信頼感と、家族を背景にした安心感。  
(知らないことはまだたくさんある)  
 それこそ怪我人らしい弱気さで、巧は現状を受け入れていた。  
(姉ちゃんの事も、ちゃんと知らないといけないってことだよな。押し倒しちゃえば手っ  
取り早くて、実益にもつながる……じゃなくて、でも、全部吐き出してもらったほうが  
本当にいいんじゃないか)  
 手段が自分にゆだねられているということだけ注意していれば、何も心配することは  
ないのではないか? そう巧は感じた。  
(ていうか、余計な事言った環さんのせいだ。そうだ、そうに決まり。あれで知らん顔  
できなくなったんだよ)  
 天の邪鬼で軽率な自分の行動を棚に上げて怒ってみる。  
(なんてな)  
 そして子供のようにまどろむ。  
   
 

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