都は、一応は考えてみた。
でもそれは考えるようなことではない。巧と、世界を構成する残り全てを比べて、ど
うするのか。
まどろんだ巧の寝顔に気付くと、もうスイッチが入った。
額にかかった前髪をなでつけてやると、巧が少し身じろぎをする。細かな挙動がたま
らなく愛しかった。
近付いて目を閉じ、呼吸の音を聞く。
今病室の扉は開かれていて、それ以上の事はできない。廊下の人通りは多い。
都は昨晩決めた事を思い出す。
待っている時間は長い。
「ねえ、環ちゃん聞いた?」
「巧クンの話ならとっくよん。都もやってくれるよねえ。昼休み、どう?」環が由美の
方を見て、にやりと笑う。「カメラ携帯持参で」
「いや〜ん、環ちゃんったらエッチぃ」
「担任経由で遠山の奴が聞いて来てさ、あいつががっかりしてたからな、結構重傷かも
しれない」
一転して心配げな環の表情を見て、
「環ちゃん、大丈夫だよ」
由美が大きな目を動かしながら環に笑いかけ、
「バスケット、予選始まったら必ず応援行くからねぇ〜?」
環の背中に抱き着く。
環は、由美のこういう慰め方が好きだった。
背が低くて可愛らしい外見のせいか中学生(かそれ以下)に見られがちな由美だが、
これでも浪人生を含めた全受験生対象の全国模試で二桁順位を誇る大物だ。バカっぽい
言動も、巧の言うように突き抜けて一周してきた思考によるものなのかも知れないと環
は思う。
そして由美は誰になんと言われようと彼女らしさを忘れない。
環にとって由美は温かさそのものだ。
「由美……都はあれで結構チャレンジャーだから」
にっこりと由美に笑い返してやる。
「目撃者にならないとな。あ、遠山が放課後行くって言ってた」
「チャレンジャーっていうかぁ、勇者だよね」
「あははは!」
170cmの環と150cmの由美が昼休みの喧噪の中、学校の裏門を抜け出してい
た頃、都は、少しうとうとしては目を覚ましてあれこれ文句を言い出す巧を、なんとか
寝かし付けられないか思案していた。
病室の引戸は一応閉めている。
「だいたいだな、姉ちゃんがもっと冗談を冗談として理解してくれればいいんだよ。ほ
ら、はるかを見れ」
「なんでも冗談ですまそうとする方が悪いわ」
「だからそういう声を出すのはやめれ。あれは悪かったって。もうおどかしたりしないっ
ス」と両手を掲げて「降参」する。「不法侵入だったし」
正直なところなので、都も信じてくれる事だろうと巧は期待する。
「けど、寝心地だけは結構いいのな、このベッド」
「そう」
「どう、いっしょに寝てみる?」
舌の根も乾かぬ内に巧がそう言うのを、都は固まりそうになりながらも受け流した。
今の都は違う意味で冗談を流せなくなっている。
本当に巧の言う通りにしてしまいかねない。
布団の上から巧の腹に一発叩き込んでから都は病室を飛び出した。
(シュールだ……)
巧は、ブルーのワンピースを着た美少女がベッドの病人にボディブローを喰らわせる
光景を人ごとのように思い浮かべ、一人で笑い転げる。
それからひとりになったところで昨日の事を考える。
(姉ちゃん絶対狙ってるぞ、あれは。とりあえず寝ないようにしないと)
それは巧なりの「大人の対応」のつもりなのだ。
都は頭の中をうず巻く妄想と向き合いながら廊下を歩く。
自分で胸や腰を触って、気にする。
胸の大きさ、お尻の大きさ、形、巧はどんな女の子が一番好みなのか、女の子にどん
なことをしたがるのか。発想が中学生のように煩悩山盛りになっているのは、これは経
験のない彼女なりに必死なのだった。
だがそこには相手が弟だという認識が抜け落ちてしまっている。
ゴン、と曲り角の柱に衝突し、都は妄想から覚めた。
「なにやってんだ、ありゃあ……」
到着した病院で、近代的なつくりとまだ新しい内装を、不謹慎にもものめずらし気に
鑑賞し回っていた環が、都を見つけてその有り様に頭を抱えていた。
「なになに、都ちゃんいた〜?」
由美がしなだれかかってくるのを、
「ちょっと面白いから遠くから見よう」
そう指差して持ちかける。
しばらくこそこそと怪しげに追跡を続け、ひとしきりウォッチングしてから、由美が
今にも笑い出しそうな顔で、
「ねえねえ、ひょっとしてあれは、『巧君看病イベント』で舞い上がっちゃってるの?
都ちゃんかわいい〜ん!」
そうして頭を環の二の腕にぐりぐりと押し付けるので、
「そういうのは巧クンにしてやんな」
「環ちゃんいいの?」
「やっぱりだめ、私のだから」
「都ちゃんに報告むむっ」
環の素早い攻撃に口を封じられた由美は、環を促して次なる行動に移りはじめた。
「ほへへっほ」
「あ? おお、病室に行かんと」
そして担任から聞き出した病室が見えるところまで来ると、環は、
「このへんにしよう」
ソファのある一角を押さえて、
「由美、途中の待ち合い室に自販機あったよね、なんか買ってきて」
「あ〜ん、先に言ってよぉ」
そう言いながらも、由美はあっという間に今来た方へ消えていったが、少しタイミン
グが悪かった。
周りを気にしながら都が病室に入るところだった。
その不自然さが環のツボに入った。
(あっはっはっは! なによあれ、まるで犯罪者じゃん! 由美、はやく)
声を出さずに笑いながら、自分はそろりと病室に近付く。
都はまったく期待していなかったが、少し離れている間に巧はすっかり寝こけていた。
不幸な事に、今度は現場を押さえてやろうとがんばっていた巧は、病院の空気にあて
られたかのようにすっかり、本当に眠ってしまっていたのだった。
とたんに都の頭の中で、邪な発想が沸騰していた。
スライド式の入り口のドアが少し動くくらいではまったく気付かず、都はまず一度軽
く巧の頬に口付けると、唇に強く唇を押し付けた。
その異常なまでの甘美さに味をしめてしまって、怖いものがなくなって。
さらに指で巧の薄い肩に触れ、鎖骨をなぞっていく。
そこで動けなくなった。
そこから先に進むことの意味を知っている。その硬直。
最後に力を尽くして巧から離れる。
今の都にはそれがせいいっぱいの線だ。
一歩引いて、弟の寝顔を上気した赤い顔で見つめる。
その無防備さが締め付けられるような罪悪感となって突き刺さった。
理性が働かないのは自分のせいじゃないけれど、悪いのは自分だ。
都にはそう考える他にすることがない。
涙が出てくるのを、都は堪えないで流れるのに任せた。
まだうまく気持ちを逃がす事が出来ないでいる。
「……」
ドアを元に戻しながら、環は考える。
見た時は、一瞬ぎょっとした。でも不思議と都に感心する部分も大きかった。
問題はむしろシンプルで、環自身の気持ちと競合しているということ。
そこに、
「おまったっせ〜」
と、陽気な声と共に環と自分のお気に入りを抱えて舞い戻った由美を、ジュースごと
抱きしめる。
「やっぱ、帰ろ」
病室から遠ざかるように由美を押して歩く。案の定由美が怒りだして、
「ひど〜い。あたしまだなんにも見てない!」
環の腹にぽかぽかとパンチを繰り出した。
環は少し困った表情をかくしきれないままで、
「何も起こってないってば」
由美をエレベータの方へ押しやる。
「いいから」
由美はその環のぶっきらぼうな口ぶりにおや、という顔をして、表情を読むように顔
を近付ける。
「ふ〜ん」
「なによ」
「ううん、授業出よっ」
そうやって由美がにっこり笑って、逆に環を引っ張り始めたので、環は逆らう理由も
なくひきずられ、まあいいかとそれに従う。
環はこのあと暫く、話し掛ける由美に何もリアクションを返せなかった。
(でも、私は、あれにどう反応すればいいんだ)
どうにも、何も思い付かないのがつらい。