夕方になってから、気付いて巧はかばっと布団の中で起き上がった。
(寝ちまった……)
ちょっとショック。実に頭がすっきりしていて、記憶もなにもまるでない。
丸椅子に当然のように腰掛けていた都が顔を向けてきて、
「よく寝てたね」
なんだか優しく語りかけてくる。
(あ、怪しい)
限り無く怪しい。しょうがないので、あいまいに笑ってみる。
後のことを考えれば姉弟だから、興味本意に性欲だけで手を出すわけにはいかない。
だがこっそり寝込みを襲ってくるような困った姉だ。
これからどうしてやろうかと考えるのはとても楽しかった。
骨折までして、まったく懲りないのがよくも悪くも巧だ。少し姉に聞いてみたい事も
あったので、
(絶対現場押さえちゃる。それによっては俺も一蓮托生だな)
他人事のように、姉に笑い返す。
「しかし姉ちゃんも暇だね」
「勉強ならしてるわ」
「まあ、姉ちゃんなら余裕で推薦枠とれるよな」
姉の友人の由美ほどではないが、姉が成績上位の優等生である事は知っている。
巧が変わらず不味い食事を済ませていると、姉のいなくなったところで看護師の高野
がその肩を叩いた。
「ね、あなたたちって姉弟なのよね」
「あー、何言いたいか大体わかるなー、やだなー」
巧はわざとらしく、うんざりしたという顔をしてみせて、声のトーンを落としながら
彼女の耳に口を近付ける。かすかなシャンプーか何かの香りを感じながら、
「ここだけの話、俺ホントは突き落とされたの、姉ちゃんに」
「ああ!」
高野は手をポンと叩き、
「そうだったのね。そうか、そりゃまずいわよねー」
病院側にも一応、巧が「単独事故」を起こしたというふうに伝えてあったから、彼女
も通達の中でそういう話を聞いていたのだろう。
ありきたりといえばありきたりだが、姉の態度を誤魔化すのには丁度いい裏話と言え
る。高野は悪戯っぽい笑みを浮かべて、
「ふふっ、あまりにもべたべたしてるから、てっきり姉弟でデキちゃってるのかと思っ
ちゃったわ」
(実はおしいのだよ、ウン、高野ちゃん)
その思いを隠したまま、彼女と話し込んでいると、また強く視線が飛んできた。
「あ、姉ちゃん」
「あら、どうも」
高野がにっこりと営業スマイルでかわし、巧の食べ終わった食器を運んで出ていくと、
都はそれを見送ってから、少し遠慮がちに椅子に腰を落とした。
(聞いてたな、姉ちゃん。まったく……)
なまりきっている神経に姉のそんな姿が心地いい。微笑ましきぬるま湯のような世界
だった。
巧はあくびをして、右腕を無意識に上に、布団にごろんと転がる。
病院食というものには睡眠薬が混ぜてあるんじゃないかと疑いたくなるほど、食べた
後はぼんやりしてしまう。
(ああいかん、寝ないようになにかくだらない事を考えて……)
そうするうちに、背中に何かが被せられる。
都が巧のむき出しの背に布団をかけたのだが、そのとき巧は都の指がその背中にほん
の一瞬、とどまろうとしたのを感じていた。
そこまで制禦の効かないものなのだろうか。
かくいう巧も、姉というワクを飛ばして性的な存在として、都を捕らえはじめている。
だからといって行動に移れないのは、恋をしているわけじゃないからで、運命を共にす
る覚悟なんてしていないからだ。
それだけを以って自分を理性的な存在だと巧は自認していたが、それは都のいる場所
と実際にはほとんど変わらなかった。「姉弟」というネジが抜けているし、都が本気で
ある以上、いつでも「始める」ことができるのだ。
こういうことを考えるのはもう何度目になるのか、巧はこの何日かの短い間に無数に
考えてきて、今またぐるぐると難題の周りを回っている。
姉に対する行動のことごとくに緊張を解く事が出来ない。
いつの間にか姉のいることを忘れるくらいに思考にはまり込んでいた。
時間も経っていたのだと思う。
当然、目を閉じていた。
唇に柔らかいものを感じた巧は、反射的に、ありったけのスピードで両手を出した。
位置的に必ずそこにいる、確信したちょうどその空間に姉の身体を捉える。
(キャッチ!)
「!!!」
声もなく激しく暴れようとする姉に、用意していた言葉をそのまま囁く。
「落ち着いて、何もしないから、暴れないで」
少し、震えるだけになった華奢な身体に、さらに単純な言葉をつなぐ。
「平気だから」
その時の都の表情を、巧は不思議なくらい冷静に見ていた。
姉がどこまで想像を働かせたのか、わかる気さえする。
だから、巧はこう言った。
「姉ちゃん、ごめんね」
その直後、都の身体が崩れ、床に落ちようとして巧に抱えられたが、都はすぐにそれ
に逆らって椅子に身体を移した。
都は巧に顔を向けない。
巧は一瞬だけ、表情を覗き込んでやろうと顔を緩ませたが、すぐにその無謀さに思い
直し、今しかない、言わなければならないことを思い出していた。
一度、大きく呼吸をつく。
こればかりは手が震えそうになっていた。
「姉ちゃんの好きな人は俺?」
都の肩が一度だけ、ビクンと大きく動いた。言葉はない。
巧はそのまま続ける。
「俺の好きな人は──」
「待って!」
巧がいともたやすくそれを口にしようとした時、都は叫んだ。
「言わないで……言わないで、お願い……」
「いや、今言ったほうがいいんだよ、姉ちゃん」
「だめっ、だめよ!」
巧がそう宣したのさえも押さえようと、都は伏せていた顔を上げて巧に寄っていった。
それを待っていたように巧は両手で今度はしっかりと抱きとめた。都の力では逃げら
れないように力を込める。
「やっ、離してっ!!」
「だめ、聞いてもらうもん、俺の考えてること」
「考えるっ必要なんてないわ!」
「姉ちゃんは聞いてくれればいんだ」
「聞こえない!」
右腕をギプスに固められている巧は都の抵抗を完全には排除できない。左手で、都の
右手を捕らえる。少なくともこれで都は耳を塞ぎきれない。
巧はそこで続けた。
「俺、環さんと付き合いたいんだ」
「えっ……」
巧の予想通りに、都は少し拍子抜けしたような反応を見せた。怖れ、かつ期待してい
た名前ではないということになる。もしくはその正反対。そしてその両方。
「ある意味驚いた、かな?」
都は答えない。
「もちろん環さんが俺なんて眼中にないならそうはならない。けど俺、うまくいく気が
するんだよね」
都を抱き寄せた腕をさらに引き寄せる。
「姉ちゃんは、親友としてどう?」
「放して」
「答える義務があると思うな、寝込みを襲うようなオネエサマには」
「どうして……」
「気付いたのかって? だって昨日もさあ……」
それを聞くや、言葉もなく姉が巧の布団の上に突っ伏した。ばっと流れて拡がった髪
の中から真っ赤になった耳が覗いていた。
「姉ちゃんの耳、ちっさくていいな」
巧がその耳たぶをつまんだ。それで都の緊張の糸が千切れ飛んだように巧には見えた。
掛け布団を力任せに捲り上げたと思うと、都は身体をベッドの上に躍らせていた。
汗ばんだ薄い胸とパジャマ、そこに飛び込んだのだ。
「わ! こらくつ、靴!」
巧が言葉で余計な反応しているうちに都は巧の胸に張り付いていた。
細く白い指がボタンを乱暴に外していくのを、巧はある種の快感をもって受け入れる。
姉の動きはそのまま止まらず、巧のスポーツマンらしくない貧弱な胸をきつく滑りな
がら腋から背中へ。
両手が背中で交差すると、そこで腕を引きつけながら頬を裸の胸に擦りつけていった。
巧の感触を頬でより確かめるように力を強めて、もどかしく顔の向きを変えて、何も
思い付かなくなるまで。
目を開けたままで巧はじっとしている。
声にならない呻きが、巧にもかすかに聞こえていた。
それから少しずつ力が緩んで、巧の身体に都の重みが乗っていった。
廊下からは何も聞こえない。誰もいないかのようだ。
「もう、いいの? 気が済んだの?」
都の震えが、その言葉で一瞬巧の身体に伝わり、都が何かを言っているのを巧は感じ
る。
「え……なんて?」
「どうでもいいの?」
「どうでも……何が? ちょっと姉ちゃん」
巧が上体を起こそうとすると、その前に都が身体を上にずらしてきて二人は顔を突き
合わせることになった。そこで初めて巧は、姉が涙でぐずぐずになった顔をしているの
に気付く。泣きながら巧の胸ででたらめに擦ったのだろう。巧は空いている左手の指で
それをぬぐっていった。
それに、半ばうっとりするように応えてから、
「巧が……、あんた達が、毎日毎日、馬鹿みたいにくだらない事を話してるからよ……」
「何を言って……え」
「放課後……私があそこを通るのを気付いてたはずよ……」
「えっと」
「わざとよね?」
「いや、そんなことは……あったりしたら、ちょっと、問題……かな?」
巧は顔を引きつらせながら、一方で深いところでは冷静な気持ちで都の顔を見つめて
いた。
自分でもお調子者だと自覚があるから、深く考えずに、判っていてやったことだと認
める。下品な話をして、姉をある意味からかっていた。数々の傷跡の、仕返しのような
ものだ。
都が聞いたのが「それ」だとしたら、巧にも故意であったのかどうかわからないのだっ
た。避けたい話題に仲間の関心が集中していて、核心をつかれた照れ隠しに自爆してみ
た。冷静ではなかった事を認めるのは巧的には恥ずかしいのだ。
偽悪的にそうだからかっただけだと笑ってごまかせない部分は、むしろ巧の中にあっ
た。
いつ押し倒してもおかしくない魅力的な白い身体。
それを持っているのは姉の都だ。
「いや……やっぱりそれもはっきりさせとくよ」
巧はあいまいな罪悪感から解放されたがっていた。
都は言葉を待っている。
「これでも結構考えてたんだ。一つながりだから、全部言うよ。大事な事だけ」
胸元の少し頼り無いのを気にしながら、
「俺は今のガッコに入って、姉ちゃんと一緒にいる背の高いお姉さんをちょっと気に入っ
てた。でまあ、困った仲間がいて、連れてかれて街でナンパとかしちゃったりもしたけ
ど、いまいち縁がなかったっていうか」
「でもすることはしたんでしょう……」
「え゛っ……。そ、それもまさか」
「聞いたわ。思いっきり」
「その手、ちょっと待った……、姉ちゃんをさ、今でも守りたいって思ってるよ、俺。
でも、姉ちゃんの気持ち、俺は受けないよ」
都の表情が、見た事もないこわばったものになったのを、巧は気を入れ直しながら正
面から見る。そうするしかないのだ。
「ごめんね。俺やっぱり酷い事しちゃったんだよね。だから、姉ちゃんが何してきても
俺は逆らわないよ。怒ったりもしない。でも気持ちは返せない。本当に、ごめんね」
巧は指の間を流れる都の髪を背中に送ってやりながら、
「その、放課後の馬鹿話じゃないけど。姉ちゃんを押し倒したいって、実は今でも思っ
てるけど、それってセイヨクだけのことだよね。そんなことをしたら姉ちゃんよりまず
自分が傷付きそうってのが本音」
「そう……」
「そうじゃなくてちゃんと女の子として好きになりたい。俺には環さんが……」
「わかったから……」
都がそこで強く巧を押しとどめ、
「でも私を弱い人間みたいにしないで……お願い」
両手で巧の頭を抱き込むと、そのまま思いきり口付けていった。
容赦なく、唇を開いて舌で巧の唇を押し込む。巧の中に割って入ろうとしている。
(ぐわ……何をわかったってんだこの人は! こんなに気持ちのいいこと、押し付けて
きたって……)
巧の唇は、先ほどの「約束」を履行するかのようにその舌に対して開かれた。
言葉の前半の、快楽には抗えない自分を計算に入れた単純な未来予測。
巧の舌が都のそれに応えた時、本当は巧は「気持ち」についても履行すべきだった。
それを忘れさせる、初めて知った姉の舌の感触の甘さが、巧の心を芯から揺さぶったの
だ。
気付かないうちに自ら舌を絡めていった。
とまどうように、でも情熱的に強く応える都の舌、巧は自分のものではないだ液の味
を知る。そして自分のだ液がきつく吸われるのを感じる。
何も隔てるものなく生身で混じり合う感覚。
目のくらむような刺激。その渦の中で巧は、退院したらまず環のところへ駆け付けよ
うと思った。
それが今の気持ちの一線なのだ。