安藤夏(あんどう なつ)は、自称・情熱家であるのだが、その実、他称・無愛想だった。
朝、ぼんやりと登校を始めた田川与一(たがわ よいち)少年17歳であるが、隣の家の前を通りがかったところで、そこの住人の一人である幼馴染み、夏(なつ)と遭遇する。
「おっす」
そこそこ年季のいったマンションの、新築出来立ての頃から入居の隣人であるから、これくらいの気安い挨拶もできる間柄。
与一はまぁ、隣人である同級生のことをその程度に認識していた。
彼の持つ価値観、というか、単純に女性の好みとして、儚げな雰囲気のある、上品なお嬢様が好きなのである。
しかしはたしてこの夏は、運動性能に優れ、病気に縁のない頑健な身体が取り柄の女だった。寡黙ではあるがその無口には気品が無く、平たくいえばぶっきらぼうなだけだ。
正直言って、好みの女とは懸け離れていた。
友達ではあるが、恋人にしたいと思わない、という認識。
しかし、この女、夏は違う。
ものすごく、激しく、バリバリ、めちゃくちゃ、超、スゲー、マジ、等々、いろいろとその度合いを表す言葉もあるが、飾りだすと際限が無くなるのでやめておく。
まぁとにかく、それくらい与一のことが好きだった。
そんな、与一好き好き人間の夏であるから、彼から朝の挨拶をされて、無言で返すはずがない。
普通に「おはよう」とでも返せばいいのであるが、夏は自称・情熱家であるわけだから、そんな簡単な言葉で終わらないわけで。
彼女の脳内では、
『おはよう!! 与一君!! 素敵な朝だね!
今日も朝から、あなたに逢えて私、幸せよっ!!
あー、もう、与一君スキスキ! もう、大好きで大好きで仕方がないの!!
たとえるなら、私が植物で、与一君は太陽!あなたの光がないと、私はすぐに枯れてしまうのよ!!』
といったような、情熱的で少々イカレ気味な感情が渦巻いているのだが、それをアウトプットするシステムに問題があるらしい。
つまり、唇が、その言葉を上手く紡いでくれない。
おそらくは、大脳の中の、恋する男の子を想う部分から発信された信号が、同じく脳内のインタプリタであるところの身体の動きを司る部分に伝えられたとき、
(おまえ、長文ウザイよ)
と、辟易と労働を拒否されたに違いない。
ゆえにそのインタプリタは、脳内の長文を、やたら簡素に省略する。そしてようやく、唇へと信号を送るのだ。
『与一君、おはよう』
そして唇もまた、自分に与えられた仕事に対してルーズであった。
飯を食うときとあくびをするときくらいにしか大きくひらかない唇だ、目の前の男に激しい恋心を伝えたい、などという、どうでもいい仕事はしたくない。
いや、普段の会話も面倒なくらいだ。この唇が嬉々として言葉を発する仕事をするのは、定食屋で本日の日替わり定食を注文するときくらいだろう。
だから、脳内のインタプリタによって簡素に省略された文章であってもまだ長文に感じるらしい。食事に結びつかないからだ。
それでも脳からの信号がやたらとしつこく急かすので、やれやれどっこいしょ、とばかりにようやく唇が重い腰を上げる。
そして初めて、思考の一部が言葉として発せられた。
「・・・おは」
だいたいがだいたいこんなかんじで、夏の、朝の第一声が紡がれるのである。
「おめー、相変わらず無愛想だなぁ」
もちろん与一少年は、彼女の中でどのような電気信号のやりとりが行われているかなどと、知る由もない。