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「お兄ちゃん、遅い!」  
 自宅に帰るなり挨拶代わりに、はるかがリビングから文句を言うので、お湯で戻した  
適当なものを食べさせる。またそれで怒り出す困った妹をのらりくらり躱しながら、巧  
は脱出のタイミングを計っていた。  
「明日の朝からグリーンピースのフルコースにしてやるんだから」  
 はるかが食器洗いのスポンジを振り回して気を吐いている。それを横目に、  
(言ってなさい。それはがんばって一人で食べるように)  
 素知らぬ顔で自室に戻った巧は、ただ出発するのではつまらないので、旅行革鞄に詰  
めた荷物を窓から投げ落として逃走ルートの再確認をした。  
 とりあえず、はるかがすぐには気付かないタイミング──腰を落ち着けてテレビでも  
見始めてくれると最高だったのだが、とにかく下に居るところを見計らい、  
『探さないでください 巧』  
 と書き残した便箋を机の上にわかりやすく置いて、そっとベランダから出た。  
 脱出は実に簡単だった。  
 雨樋を伝って庭から逃走すると、追っ手はかからなかった。巧は調べてあった通りに  
電車を乗り継ぎ、順調に都心までの行程をこなした。そうして、JRから私鉄への乗り  
換えにも手間取る事なく、きっかり三時間後には環と都の暮らすアパートの前に辿り着  
いていたのだった。  
 そして今目の前にアパートのドアがあり、表札の『外岡・待鳥』の文字が痛いくらい  
に巧の心を刺激している。  
(うーん)  
 あまりにあっさり着いてしまったので、そこで固まってしまった。全く道に迷わない  
のも考えものだ。部活の疲れをとる間もなく電車に乗って、思い切り座席で寝てしまっ  
たこともあり、心の準備をするきっかけもつかめないままだ。  
 こういう事でためらうのはナンセンスなので考える前にやるのが巧なのだが、あれか  
ら一カ月。あっと言う間のようでも、その時間は見事に巧から「慣れ」を奪ってしまっ  
ていた。  
 目の前の部屋に心も身体も許しあった『恋人』が二人住んでいる。二人。  
 
「…………」  
(コンビニでなにか買ってこよう、うん)  
 途中で見つけたコンビニまで戻り、知らない名前のスポーツドリンクを買って飲み、  
そうしてまたドアの前まで行って、もう一度固まる。  
 いかんともしがたく気恥ずかしい。だがこういう状態になってしまったら、行ってし  
まうに限る。  
 部屋の明かりがついているのを見てからベルを鳴らす。  
 反応はない。  
(姉ちゃんが風呂で環さんが帰ってきてない説)  
 もう一度鳴らす。  
(もしくは一緒に風呂に入っている説)  
 巧は、都から厚紙パックで送られてきた合鍵を取り出すと、さっさと玄関に入って二  
人の靴を確認した。  
「たのもー」と一応声をかけ、上がりこんでいく。  
 出迎えがないのはタイミングが悪いからだが、事前に連絡しなかったからでもある。  
 バスルームから水音が聞こえるので、『一緒に風呂』説が濃厚だった。  
 巧はそのバスルームのドアの前でスペースを測り、持ってきたシュラフを出して広げ、  
いそいそともぐり込んだ。電車の中で中途半端に眠り、ドアの前でどきどきして、神経  
が変になっている。こういうときは逆に意外と簡単に眠ることができる。  
 巧は目を閉じて、電車に乗った瞬間とは逆の事をぼんやりと考えていた。その時はも  
う『早くやりてー』という馬鹿みたいな単純思考だったのに、実際ここまで来てそれで  
はいけないと思い始めていた。  
 この連休が終われば今度は夏休みまで三ヶ月近く会えなくなる。長期休暇の度三ヶ月。  
そういうことが丸二年続く。ならばこのくらいのインターバルで突っ走っていては、と  
てもやっていけないだろうと思う。  
 一カ月のおあずけは、それまで満たされていただけに厳しかった。  
 そして環の浮気黙認発言の意味を思い返している自分に気付いた。  
 最初に都を押し倒した時から判っていた事だが、巧はそれからいいかげんな人間であ  
ることを自覚してちゃんと戒めている。  
 そんなふうに半ば照れ隠しに、冗談でシュラフに入った巧だが、身体の疲れに押され  
て実は本格的に眠りにつこうとしていた。  
 
 §  
   
 子供じみた都の抵抗に遭い、しばしじゃれあってから環は、「先に顔出したいならそ  
う言えばいいのに〜」と都をバスルームから追い出しにかかった。  
「えっ、ちょっと――」  
 慌てて押し戻そうとする都を持ち上げて、環は脱衣所からさらにキッチンへ、このま  
ま御対面させてしまおうと調子に乗る。  
 すると、キッチンへ出るドアが障害物で開かない。  
「おりょ?」  
 環が扉を押しながら都の手を取り、二人でごり押ししてなんとかキッチンへ出ると、  
「何すんだよー」  
 巧がシュラフの中から眠そうな目を瞬かせて二人を見上げ、「あの、なんかすごい景  
色なんだけど」と言ったのとほとんど同時に都の足の裏が巧の顔面に入った。  
「ぐあ、足濡れてる濡れてる、つーかのけてくれ」  
「目をつぶって」  
「あい――」  
 都が巧を踏んでいるその間に、環が自分の部屋からとってかえし、都の足の上にバス  
タオルを投げた。巧の顔の上にそれが広がると、都はすぐに足を抜いて、別の一枚を環  
から受け取り、そのまま小走りに脱衣所に逃げる。それを笑いながら見送り、環自身は  
そのままダイブして、タオルの上から巧に抱きついた。  
「んんー、いらっしゃい、悪戯好きの巧くん」  
 布地の上から顔の輪郭を辿り、口元を確かめて巧にくちづける。  
 環はその実感に少し身体を震わせ、もどかしさに負けてすぐさまバスタオルをはねの  
けると、巧の頭を抱え込むようにしてゆっくりと唇を押しつけていった。  
 一カ月ぶりの唇の感触、そして息遣いと巧の匂いに環は少し酔う。  
 顔を離して息をつきながら、「お久しぶり」と巧に笑いかけた。  
「てて……環さん、ナイスお出迎え」  
「あはは、お出迎えじゃないっての」  
「環さんのその顔も、ついでに姉ちゃんの足の裏も久しぶり」  
「あはははっ――」  
 
 笑ってから環はだんだん実感とともに湧いてきた恥ずかしさに負け、巧のシュラフ越  
しの胸に頭を落とした。  
「んー。今日来てくれて、うれしいな。でも残念ながら、私もお疲れなんだぁ」  
「うん。バイトしてるんだよね」  
「あと三日はこの調子。そのぶん後半は完全オフにしてもらったから」  
「そっか」  
「元気にしてる?」  
「うん。環さんも――」  
 そんなふうに話をしていると、シャワーの音が聞こえ始めた。バスルームに戻った都  
だ。そういえば、と環は、  
「お風呂途中だった」  
「ちゃんと入ってから出てくりゃよかったのに。って、いや、そしたら俺絶対熟睡して  
たな」  
「ほんとに寝る気だったの?」と頭を起こして巧を咎めようとして、環は途中ではたと  
動きを止めた。  
 指を巧の首筋に沿わせ、  
「ひょっとして巧くん、ほんとに浮気してたりするのかなぁ?」  
 怪しく笑いながら、くっきりと残ったキスマークの縁をぐるぐるなぞる。巧にはもち  
ろん環が何をしているか、すぐにわかった。  
 環が自身の発言をしっかり覚えていた事が少し気になったが、キスマークの理由につ  
いても読まれているらしい事に気付き、ほっとする。先に環に見つかったことにも。  
「吉田の嫌がらせだよ」  
 巧は口を尖らせてそれだけ言った。  
 それだけで環には十分だった。  
「やりそー、あいつ」と環が笑っているので、巧はため息をつく。  
「なんとかしてください、あいつ。環さん」  
「なに、押し倒して言うこと聞かせたらいいの?」  
「それは駄目。絶対駄目。………………駄目ですよ、環さん」  
「しょうがないのはそっちもだね、巧くん」  
 そう苦笑まじりに返しながらも、環は巧の言葉に少し震わされていた。  
 
「俺、本音で生きることにしたもんね」  
 続けて巧の次の声を聞く。  
 巧がそう肯定したことで、環自身も一歩進めるのだ。  
 そのことを知り、すぐに伝えるために、巧を誘う。  
「ねえ、巧くん」  
「環さん? あの、そろそろなんか着てくれないと俺、困っちゃうんだけど」  
 裸のまま、どころか髪までびしょ濡れのまま熱い身体を押しつけられている状態に、  
巧は音を上げつつあった。限界になる前にそれを伝え、いきなり押し倒したりしない環  
の知っている巧、環が「見つけた」時のまま律儀さを失わない巧だ。  
「それなら大丈夫。都が気利かせてくれたから」  
「えっと。姉ちゃんとその辺、ツー・カーなの?」  
「ツー・カーなの」  
 そう言った時には環はバスルームの熱とは違う熱に濡れていた。  
「今10分だけ、相手してくれる? ほんとにもうへろへろなんだ、私」  
「それで十分」  
 環の申し訳なさそうな台詞にとっさに巧はそう返した。そして言ってみて改めて十分  
だと思う。  
 横に転がって環を下ろしながらシュラフのチャックを外し、這い出る暇も惜しんで環  
を捕まえ、巧は裸の環をベッドへ運ぶ。頭の中ではタイマーが回っている。  
「その前に」  
 環がキッチンから出ないうちに巧を止め、首筋に吸い付いた。  
 キスマークの上書き。その心地好い痺れに巧は欲望の加速するのを感じ、またそれを  
止める必要がないことに感謝する。  
   
 §  
   
「巧くんにいいものあげる」  
「?」  
 環がサイドボードから持ち出したものを見て、思わず巧は笑っていた。それから、  
「俺も環さんにいいものあげる」  
 環が出したものと全く同じユニオンジャック柄の箱を目の前に出した。  
 
「あはははははっ! しかも箱が同じ柄」  
 2ダースになってしまったそれを振って、環はおかしそうに笑う。  
「連休中のノルマって言うつもりだったんだけど、こりゃ大変」  
「……まじですか?」  
 冗談めかして言ってはいるが、環の目は本気のように巧には見えた。  
「巧くんなら全然大丈夫」  
(どう全然大丈夫なんだ……一週間しかないのに)  
 ぼんやり考えながら、巧の目はゆるく揺れる環の胸から離れない。  
「都が買ってなきゃいいけどねぇ〜」  
「それはない。環さんの性格知ってるから――って、なに笑ってんの? もしかして…  
…」  
「あははははははっ! いや、それより」  
「うん、ごめん、ホントはもういっぱいいっぱい」  
 環に促されるまでもなく、巧には裸の環を前にしてこれ以上格好をつける余裕はなかっ  
た。  
「環さん……」  
「巧くん……」  
 そうお互いの湿った声で名前を呼びあうだけで、心は締めつけられていく。  
 春までは週に一度は必ず求め合って、いろんなものを積み重ねてきた。そういう本質  
以外の部分すべてをとばして衝動的に交わることを求めようとしている。  
 巧はどうやってスキンを着けたのかもよく覚えていない位、環も巧がいつ服を脱いだ  
のかわからない位、それでも二人はいつのまにかきつく抱き合い、深く深く結合してい  
た。環の脚を広げながら同時に巧の腰は進められる。  
「う……あ……あん、……ああああああっ!」  
 入口を合わせてすぐさま、狭い肉壁を擦って奥を突き上げるまでの間に環が連続的に  
上げた声で、巧はそのままいかされてしまいそうになる。  
 動きを止めて久しぶりの感触をこらえる。  
(すご……、よくこらえた、でかした、オレ)  
 そうやって紛らわしながら、そのとても言葉にできない気持ちよさを伝える方法がな  
いのをもどかしく思っていた。  
 
 環が大きく息をつきながら、ゆっくりと両手両足を絡めてくるのを巧は純粋に感動し  
ながら受け止め、味わう。締めつけられながらくつろげられ、腰ごと引き込まれていく  
ような陶酔感。  
 本当にこの短い時間だけで十分だった。留まっている時の感触は惜しいが、すぐに腰  
を引いて動き始める。なめらかに潤った環の中は巧が覚えている感じそのままで、巧も  
また以前と同じ自分を環に返していく。巧が驚いたのは、ものの数分も持たないと思っ  
た自分より早く環が、切迫した喘ぎを漏らし始めたことだった。  
 環の高揚感がダイレクトに伝わってきて、巧に興奮を与えた。長引かせて感覚を盛り  
上げる必要すらなく、会えなかった時間がまるごと快感になったような強烈な疼きを巧  
が感じ始めたときには、腕の中の環は「もういっちゃう」と表情を激しく歪めていた。  
そしてそれ以上に激しく、環の膣壁の動きは巧に最後の暴走を求めてきていた。  
「んっ、んー――」  
 巧が唇をふさぐと、環はすぐに舌を絡めてくる。一番熱い動きだけを集め、えぐるよ  
うに舌を擦りあった。声を押さえた方が都合がいいこともあり、巧はそのまま交歓を継  
続していく。環をえぐる。  
 本当に、止まる理由はない。巧は重く熱く揺れる環の胸を両手で捕らえながら、腰の  
動きを加速する。沸き起こる快感が加速し、さらに快感に押されて動きが弾けていく。  
 環の首が左右に激しく振られ、手足や中の動きが硬直と弛緩を繰り返す。それを妨げ  
る理由もない。環も加速し、動きを合わせて限りなく濃密な短い時間を、二人の間の強  
烈な快感が満たしていった。  
「んん、んんんんっ! んんーーーーー!」  
 口を塞ぎ合ったままの、くぐもった環の絶頂の声を巧は痺れる身体の奥で聞き、同調  
したて一番奥に突き上げたまま爆発させた。  
   
 お互いの腕の跡が残りそうな強い抱擁を絶頂の後しばらく続け、そして環の身体から  
力が抜け始めると巧は環を放し、身体を引きながら環の唇を唇で擦った。  
「あんっ」と環がかろうじて応えると、巧はそのままあおむけになりながら環の身体を  
引き寄せていく。環も離れ難くなっている肌を擦りつけるように寄り添っていく。  
「は、……じゅ、十分きつかったかも……」  
 
 巧が荒い息を押さえながら、「でもすごくよかった」と環の背中を撫でていくと、  
「ん……ありがと……、心置きなく眠れそ……」  
 すでにうつろになりかけた環の声が巧の耳には小さく聞こえた。その声は環がまれに  
見せるあどけない可愛らしさの最たるものだ。飢えが乾いていく。そしてすぐ隣にいる  
相手の大切さに胸を衝かれる。  
 環の弛緩した表情が本当に気持ちよさそうなのも巧には嬉しかった。その顔を眺めな  
がら環の額の髪を撫で付けていると、  
「巧くんって……都にはどう、やるの?」  
「はい?」  
 環に唐突に問われ、巧は慌てる。とっさに出任せで口に出た言葉は、  
「……姉ちゃんに聞いたら面白いかも」  
 巧は(なんでこんな事しか言えないんだ)と思いながら、うやむやにするべく脈絡な  
く環の唇を捕らえる。  
「ん……」  
 環も巧の返事に笑って応えているようだった。唇を預け、しばらく余韻の中で巧が間  
違いなくいるのを実感している。  
 それがだんだんとまどろみの中にうずもれていく。  
「……寝ちゃうまで始めないでね? ……大丈夫、……すぐ熟睡するから……ちなみに  
ツー・カーというのは嘘でーす……」  
 そんな余計なことを言いながら環は本当にそのまま巧の横で小さく寝息を立て始めた。  
「……」  
 巧はできればずっと張りついていたい環の柔らかい身体から少しずつ離れ、寝息が乱  
れないのを確認してからそっとベッドから降りた。  
 たぶん本当に10分ほどしか経っていないはずだ。  
 一応最低限のものを身につけながらキッチンに出ると、姉の都の所在を確かめる。  
 シャワーの音は今はなく、しばらく気持ちを落ちつけつつ、たたずんでいると微かに  
水音がした。  
 そこで思い直し、シャツから何からすべて元どおりに着直して改めて気持ちを姉の面  
影に向けていく。  
 気恥ずかしさ以外の雑念が消えているのを確かめた。  
 自分達の確かさの根元を支えるためにここにいる。  
 始まったばかりの夜の、二つ目のピークを求め、バスルームに踏み込んで行く。  
 

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