『GW編』(仮)
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「俺をダシに使わないだけましですどね」
巧が呆れているようで実はほっとした顔でそんな暴言を吐いたので、大川や狭山といっ
た三年の『首謀者』たちはここぞと突っ込んだ。
「おまえは彼女に会いに行けるからうれしいだけだろ、あ?」
「どうしてもというならおまえもナンパに同行させてやる、毎日」
「遠慮します」
巧は、こればかりは問答無用で断る。
そんなことがあったので、その日のチーム練習では個人攻撃を受けてろくにシュート
も打てずに、巧は凹み気味で練習を終えた。
ゴールデンウィークの直前、他の部が気合いを入れている中でサッカー部の連休中完
全オフが決定し、新三年生部員たちは連れ立ってナンパに出かけるための打ち合わせに
余念がなかった。
聞いていると、どうも県外(ヘタすると東京)まで行くつもりらしい。
女子マネージャー陣に見事にスルーされているあたり、もうそういうムードが当たり
前なのだ。巧もいそいそと東京の愛しい環のところへ転がり込む予定なので、だんまり
を決め込んでいる。
練習後の片づけをする一年にこっそり混ざって三年生をやり過ごし、適当に逃げよう
としていると、マネージャーの一人に竹ボウキで叩かれた。
「ちゃんと手伝いなさいよっ」
「コラ、亜崎」
「なによ、エロ魔人」
「誰がエロ魔人か」
「やり手なんでしょ、あんた」
ジャージ姿で何のつもりか竹ボウキを振り回して威嚇してくる亜崎智恵は、今年巧と
同じクラスになった吉田麻理の親友だという噂だった。だから彼女的には巧は、親友の
憧れの先輩を誘惑した悪い男なのかもしれなかった。
「見てきたようなことを……だいたいエロくない男なんているもんかよ」
スパイクで砂を蹴って智恵を追い払おうとしていると、同じくジャージ姿でスポーツ
バッグを袈裟がけにした吉田麻理が背後に急にやってきて、
「でもエロいこと以外ももっと考えたほうがいいんじゃない?」
巧は一瞬ビクッとする。
「吉田……、だから忍び寄るのはやめれ……」
「ふん」
と、麻理はそっぽを向きながら巧を羽交い締めにし、ホウキを構えた智恵がそれに呼
応し、コンビネーションプレイでつっついてきた。
麻理はいつもそう足蹴にするような態度を見せながら、酷い悪戯をする。
この日は羽交い締めにしたままの姿勢から、巧の首筋にかなり強く、濃いキスマーク
をつけた。
「わー! こら、おまえ──」
巧は暴れてなんとか外そうとしたが、かえって麻理の力を入れさせてしまい、舌先さ
え感じてその瞬間ぞくっと身体を硬直させられていた。間違いなく跡が残ったのがかす
かな痛みでわかった。本当にタチの悪い女だ。
連休中に巧が環と会うのはほぼ間違いないことであって、麻理は当然それが気に入ら
ないのだ。だが巧は、これを先に見ることになるのが姉の都であることを知っている。
もう明日の事なので、それまでにこのキスマークが消えるわけはない。
(さーて、どういう言い訳をするか……)
顔を擦り剥きそうな勢いで竹ボウキにつつかれながら、背後の麻理の胸が少し大きく
なったんじゃないかと巧は思った。二年になってからは、敵をやる気にさせる発言は一
切謹むようにしていて、そんなことはもう口に出さない。クラス替えの結果、麻理が女
子の間では人望が厚いことも巧はすでに知っている。
それから巧はもう一人の困った女を睨んだ。
(亜崎って……エロいよな)
とりあえずホウキを振り回すだけで胸が揺れているのがわかるように、ジャージの上
からもはっきりとわかる女らしい体型の亜崎智恵は、サッカー部内ではかなり目立つ存
在だった。三年の部員の中にも明らかに狙っている者が何人かいる。
(早いとこ誰かとくっついて大人しくなれ、馬鹿女)
無論、巧は他人事である。無責任に評価するならいい女だろうし、少なくともジャー
ジや制服姿は男子には目の毒だ。どちらかというと私服では実力を発揮できないタイプ
かもしれない。
この生意気な亜崎智恵をどうやって凹ませてやろうかと思っても、巧はそれこそセク
ハラまがいの仕返ししか思い付けずにいる。だから巧は絶対智恵には、自分からは近付
かない。問題は勝手に近付いてくる麻理の方だ。
「人の事が言えるか……こら離せ、セクハラ女」
「智恵は何時に終わるの?」
「んー、もう終わってるようなもんよ、ちょっと待ってて」
巧が言い返したらしたで巧をあっさり解放し、知らん顔で智恵と並んでクラブハウス
へ歩き出す麻理を、巧はがっくり脱力しながら見送った。
(ジャージで通学すんなっての、体育馬鹿女)
後ろ姿に突っ込みを入れながら、二人に環と姉の都を重ね合わせる。
身長的には同じような対比だ。離れてからまだ一ヶ月だというのに、目まぐるしい新
学年の学園生活と、家での妹のはるかとの一対一を強いられる日々に巧は早くも疲れ、
もう二人と長い間会っていないような気がしている。姉からはるかに電話は来ているよ
うだったが、巧はあえて出ないようにしていた。
飛びつくのは女々しい気がして、変に意地を張っているという部分もあったが、なに
より明日新鮮な気持ちで会うことを楽しみにし、こだわっていた。こういう事はメリハ
リと爆発力が大事だ。
見渡せば学校内にだっていい女は沢山いて、それに心をまるで動かされない自分に、
巧は相変わらずヒロイックに依存している。誰に何を言われようが環や姉との事を最優先
できる自分が結構好きなのだ。
だから、例によってフェイントをかけようと、今夜のうちに東京までたどり着くつも
りだった。
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その同じ時間に、都はいつものように二人分の夕食をつくっていた。
午後最後のコマに一つも講議を入れていないので、時間はたっぷりあって、料理の研
究にもこのところ熱が入っている。
そして環の分を残して先に一人で済ませようと準備しながら、実家へ電話を入れよう
かどうしようか迷っていた。
ほんの一時間ほど前に留守電のテープで能天気な弟の声を聞かされたばかりだ。そし
てたぶん今かけても、出るとしても九割方妹のはるかで、巧はまだ帰って来ていない可
能性が高い。でもかけてみないとわからない。
そわそわしながら、それでも手を動かしていると準備はまたたく間に出来てしまい、
都はしかたなく先に食事自体も済ませることになった。
気を紛らわすために、食事中にもテレビをつけている。勉強をしている時以外はしつ
こく巧の顔がちらつき、たびたび心を乱されるので、そういう習慣になっていた。心の
中でこっそりやっていたカウントダウンが明日やっとゼロになる。
準備は怠りない。
ただし、2K相当の賃貸アパートの部屋の片方、つまり都の部屋は綺麗に片付いてい
るのだが、環の方は悲惨な状態だ。忙しい環に代わって片付けようかと聞くと、よくわ
からない変な返事をするのでゴミ以外はそのままにしている。
食器を流しに沈めてから、都は改めて部屋の片付き具合とか自分の髪の毛の整い具合
とか顔色とか、何度目だろうかと自分でも思うぐらい確かめていた。
『時間貯金箱』なんてものが本当に欲しくなる。
無意味に室内をうろうろしながら目についたところをもう一度綺麗にして、それも終
わってしまうと、共有スペースに置いた電話を怨めしそうに見つめて過ごした。
九時を過ぎる頃に、いつもより少しだけ早く環が帰って来て、
「ただいまー。およ、何してんの?」
環はよたよたと靴を脱ぎ捨て、ブルゾンの袖を引っ張りながらのたのたと入ってきて
そのまま都の背中に被さって唸った。
「づがれだー」
「おかえり。もっと楽な仕事にすればいいのに」
「都センセーと違って私は頭脳労働には向かないのっ」
環はふっと息をつくとすぐに、身体を起こして着替えや食事に取りかかった。
都は環のこの行動の早さに救われた。
急なスキンシップのせいで、都はついさっきまで考えていた巧の感触をフィードバッ
クして身悶えてしまっていた。そういうものを紛らわせる余裕を、いつも環は与えてく
れる。あれは意識しているのだろうか。二人で暮らすようになってから、意地の悪い事
をしなくなった。
環がどうして一緒に暮らそうと思ったのか──一度だけ都は、巧の事を兼ねて環に聞
いた事がある。その時の環はバイト帰りでアルコールが入っていて、
「私、旦那と奥さん両方欲しかったんだよね」
などといい加減なことを言ってそのまま寝てしまった。それ以来都の方が気が抜けて
しまって、表向き二人はただのルームメイトである。
と言ってもまだ一ヶ月の事。
三人で連休を過ごす事だって少し怖い。実家でそれぞれに暮らしていた時と違い、当
事者しかいないこの居場所では心が剥き出しになる。
だが少なくとも都は、環の事を友人としてとても好いていた。そのうち環に『義姉さ
ん』なんて人前で呼ばれる日が来るのかもしれないし、それは取り敢えず悪いものでは
ない。
しばらくして環が珍しく部屋へ顔を出した。
「都センセー、一緒にお風呂しなーい?」
「……もうちょっと後がいいんだけど」
「じゃあ、もうちょっと後に」
意味ありげな環の誘いをとっさにかわし損ない、都はため息をついて環を追い出した。
環も明日来る恋人の事を意識していて当然だ。
鏡の前に座り、気持ちを確かめ直してみる。この環と二人の部屋で、遠慮しなければ
ならない事はほとんどない。だがスタンスとして、したくない事は沢山あった。したく
ないからうまく暮らせていた。
隣の環の部屋からテレビの音がしているのをなんとなく聞いている。
そこに巧がいて自分が隣で一人でいるという想像をしたことがあった。
それ自体はどうという事でもない。
だが未だそれを辛いと感じることがないのは、環同様都もかつて巧を傷つけた加害者
だった事を忘れていないからだ。そして環に嫉妬する部分がほとんどないのは環が長い
間、見ていて心配になるくらい落ち込んでいたからだ。巧がちっともわがままになって
くれないせいで、環も自分も抜け出せないでいるのだと思う。二人は今も緊張の中にい
て、巧という名の、鎖をほどく鍵を待っている。
気がつくと日付けが変わろうとしている。
そんな時間ではあったが、環が部屋着に着がえて自室から出てきたのに合わせ、都は
先日見つけて連休用に買っておいたハーブティーの葉を部屋から持ち出した。
「あれ? へー……いいね、これ」
と環が飲んでから言うので、香りで気付かないのかと都が思っていると、環はそれを
見咎めて、
「今馬鹿にしなかった? センセー」
「してません。──そのセンセーっていうのやめて」
「いやー、なんか呼び捨て照れるんだよね、最近。じゃあなんて呼ぼうかな。やっぱ……
お義姉様?」
環にニヤッと覗き込まれ、都はどぎまぎさせられる。
反応に困る。その手のドメスティックな単語を他人から聞かされると、どうしても生
々しく感じてしまう。
都は膨れながら顔を赤くして、環を叩く真似をした。相手が巧ではないので、本当に
叩いたりはしない。そこへ、環が頬ずりをしてダメを押す。
「巧くんがあんなに虐げられといてやめなかったの、すっごくわかるわ。んもー、赤く
なったお義姉様ってかわいい……」
都は臨界を超えてついに環を叩き始めた。
環が笑いながら防戦していて、それがまた火に油を注ぐ。
「あははっ、いたっ、痛い、いいじゃない、あんなに頑張ってた巧くんが落ちたのは結
局そんなお義姉様が可愛かったからでしょ?」
そう言われると、都も何も言えない。
親友の前で声もなく真っ赤になり、上げていた手を引っ込める。
見ている環はたまらない。
環が都を抱きしめてしまおうかと思った時、敵は環に直球を投げ返した。
「なら私に譲って」
ど真ん中だ。もちろん都はさほど真面目に言っているわけではない。選択権を持った
巧がもう環を選んでいるのだから。
都は今一度、言ってみたいと思っていたのだった。巧に会う前に得られた機会に、思
わず口に出してしまった。
そして慌てて口を押さえるが、遅い。
環がおもむろに都の頭を胸に抱えて床に倒れ込み、都はなすすべなく引きずられてい
く。親友の、自分より豊かな胸に包まれ、ふと巧の気持ちがわかるような気にもなる。
母親の愛情と包まれる安心感を、自分も巧も途中までしか知らない。
本当にはわかりっこないのだが、そういう気になった事でまた都は、一段深く環を受
け入れられたようで嬉しくなったのだ。
「巧くんより柔らかいね」
環はある意味当たり前な事を言って、固い床の上で都を何度もぎゅっと抱きしめた。
ぼんやりしかけて、都は少し慌てる。これは巧ではなくて環だ。スキンシップで済ま
なくなる。
「環、疲れてるんでしょ、だから……」
「お義姉様の方から誘っていただけるなんて、感激」
「一人で入りなさいよ」
「イヤ、一緒に入る約束だもんね」
都は、子供かと思いつつ、どぎまぎしている自分を隠そうと逃走を開始した。
「あがったら教えてね」
でもやっぱりうまくは行かなかった。
「だーめっ!」
環ががしっと都の両肩をつかまえ、バスルームへと引っ張っていく。
「着がえ──」
「いいのいいの、私たちしかいないんだからぁ」
環が一日の労働の疲労からハイになったまま、脱衣スペースに都を押し込む。
「脱がなきゃそのまんまで水浴びする事になるよん」
そう言って都を脱がし始めた。
もちろん都は慌てて、環を引き剥がして逃げる。
一悶着に疲れながらも都は暖かいお湯の中に身を浸し、しかたなく環が入ってくるの
に任せた。わずかな湯気をまとって美しい身体のラインを晒す環に、都はいつになく妬
けるものを感じていた。自分にない魅力だけで出来ているような女の身体。でも都とて
環から見れば羨ましく感じる部分があるのであって、お互いにないものねだりの憧れごっ
このその行き着く所は、巧を独占できない理由そのものなのではないかと、都は考え始
めていた。
両方の、いやあらゆる魅力を兼ね備えた女なんて存在できないのだ。
だから、都は環を認めている。環もおそらく都を認めている。
軽くお湯で流してから環は都に近付いた。都は改めて念押しをする。
「変な事したら追い出すから」
「あーい」
別にがっかりした風でもなく、環はいそいそとお湯に身体を入れていく。環が都の身
体をふわりと浮かせて下に入り、家庭用より遥かに窮屈なバスタブにスペースを確保す
ると、都の身体を抱えるようにしてゆっくりと受け止めた。
都は、ゆっくりと環の柔らかい身体の上に乗り、奇妙な感慨を持つ。
後ろから両手を回した環が都の両肩を緩く抱き、囁くように語りかけた。
「ねえ、都」
「なに?」
「……大丈夫?」
環の言わんとする事が肌から直接伝わってくるような気がする。
『無理をしてるんじゃない?』と。それはむしろ都が環に問いたい事だ。そして巧もそ
れを気にしていたように都は思う。
「私は巧とは違うから」
都は首を反らし、環の肩にあずけた。
「んーよしよし」
環が頬ずりをすると、さすがにたまらなくなったのか、都はお湯から出ようとする。
当然、肩を抱きしめられているから起き上がる事もできない。環は楽しそうにそれを抑
えている。そうやってバチャバチャと暴れている時、玄関のベルが鳴った。
一瞬二人で顔を見合わせる。
「何、新聞?」
「夜中だけど」
「じゃあ宗教。とか、下着のセールスマンとか」
「ろくでもないこと言わないで」
そうするうちにガチャンと鍵を開ける音がした。環は少し緊張した顔になって都をバ
スタブの縁に持ち上げ、身体を起こしていたのだが、すぐに音の正体に気付いて都を睨
む。
「都ぉ〜?」
環がその丸いお尻をつつくと、都はすぐさまその悪戯な指を叩き落とした。
「いたっ」
「鍵なら巧に渡してあるから」
そう言いながら、都自身もこれは期待していなかった。頬が際限なくゆるんでしまっ
てどうにもならなかった。環から顔を隠せるのが幸いだが、環は環で見なくてもわかる
と思っているかもしれない。
そんなことはかまわない。巧と一日多く一緒に居られるのだ。そうして都は、いとも
容易く胸を熱くしていた。
それを環の言葉が現実に引き戻す。
「うっそ、嬉しー! っていうか着がえ出してないじゃん!」
カゴには着替えはない。しかも、
「環、バスタオル出した?」
「出してない。センセー、間違いありませーん!」
「ということは何?」
二人揃って裸でお出迎えだ。……なんて馬鹿なことだけは避けたいのだが、いかんと
もしがたい。都はギロリと環を睨み付ける。
「どうしてくれるのよ。環のせいだからね」
「て言われても」
環は顔を逸らして、普通にごまかそうとしている。それでも都が拳を握るのを見て、
「……わかりました。私が犠牲になりましょう」
どちらかというと嬉しそうに環が言ったので、躊躇なく出ていこうとする環の手首を、
都は思わず捕まえていた。