職業、絵描き。
そう一括りにしてしまえば、なんとも高尚に聞こえる物だが、実際そんなに上品なものでは無い。
木に、器に、障子に、壁に。人はありとあらゆる筆を走らせ、ありとあらゆる物を描く。
それは風景であったり、人物であったり、動物であったりと様々だが、彼女はその全てを描いた。
名を美絵と言う。
姐さん、と多くの人は彼女の事をそう呼んだ。年は三十を少し過ぎた頃。だが、くたびれた印象は何処にもない。
いつも煙草を咥えており、切るのが面倒だと言う髪は、いつもゴムでひとつに束ねられていた。
「姐さん。今日は色、入れてくれるんだろ」
まだ若い――だが一目でヤクザ者と知れる青年が、少年のように頬を上気させて美絵のアトリエに飛び込んできた。
約束の時間は、まだ二十分も先である。
美絵は咥え煙草で青年をじろりと睨み、無言でアトリエの真ん中に広げた白い布を指差した。
アトリエ――と言っても、ほんの六畳一間の粗末な部屋である。畳はざらざらとささくれ立ち、一歩足を踏み出すごとにギシギシと危うい音を立てる。
青年はスーツの上着を脱いでその辺に放り出し、そそくさとワイシャツに手をかけた。
脱ぎ捨てた背に、黒い筋が無数に這う。筋彫り――と言って伝わる者がどれだけいるか、美絵は知らない。
美絵が無言で立ち上がると、青年は慌てて布の上にうつ伏せに寝そべった。
彫師――と言えば、多くのものは彫刻を想像する。
だが、美絵は間違いなく、絵師だった。
絵筆は針。キャンパスは――人である。
「ちゃんと兄貴に話、つけてあるんだろうね。しばらくは熱で寝込むよ」
「あぁ。兄貴も姐さんのとこなら安心だって――兄貴の龍、姐さんが彫ったんだろ?」
「矢島の龍ね……ったく、ああだこうだ注文の多い奴だったよ」
「あれに憧れて彫り物しょうやつ、多いんだぜ。俺、どうしても兄貴と同じ彫師にやってもらいたくてさ、渋る兄貴を必死に拝み倒したんだ」
「噛んでな」
手ぬぐいを差し出し、うきうきと語る青年に噛ませる。
矢島か――。
青年の背に色を帯びた針を刺し、美絵はぼんやりと、いかつい顔をしたヤクザ者を思い返した。
痛い、辛い、もう嫌だ、と泣き言を言って、最後まで彫らずに逃げ出す輩は多くいる。
海外からわざわざ彫り物をしょいに来て、泣いて逃げ帰った大男もいる程だ。
だがそんな中、矢島は声一つ上げずに耐え切った。
手ぬぐいを差し出してもそれを噛む事を拒み、激痛に脂汗を滲ませながら、大して痛くねぇや、とほざいたのが、五年前である。
ぐぅ、と青年が呻いて、苦しげに布を握り締めた。
これはもたないな――。線を入れる時も思ったが、色を入れる作業は遥かに永く地獄である。
「――今ならまだ、目立たないよ」
ぎょっとして、青年が首だけで美絵に振り向いた。
「色半分入れて逃げ出すと、半端彫りつって格好が付かない。金が無いのか痛いのか――ってね。今のうちに止めとくかい」
「冗談じゃねぇや! そんな事したら、兄貴に破門されちまう!」
「矢島はタフだったけどね。あんた、相当に“痛がり”だ。もたないよ。やめときな」
「もつさ。そいつはがまんづえぇからな」
先程よりも遥かに愕然として、青年が美絵の背後を凝視した。
引き戸の音がしただろうか――彫るのに夢中で気付かなかった。
「耕太ぁ。てめぇが情けなくひぃひぃ言う声、外まで聞こえてんぞ。ちったぁ気張れ。みっともねぇな」
「あ、兄貴……!」
「よう、美絵。続けてやってくれ。途中で逃げ出そうとしたら、俺がふんじばってでも終らせるからよ」
「そんな事されたら、気が散ってしょうがないだろ。連れて帰って、他をあたんなよ。今時、痛くない彫り方してくれるとこなんて腐るほどある」
「ね、姐さんがいいんだよ!」
耕太、と言う名だったか――。
今ようやく名を思い出し、美絵は懐疑の瞳で耕太を睨んだ。
「痛くねぇ彫り物なんて、背負ってたって格好つかねぇよ! いてぇの我慢するから、意味があるんだ!」
熱に浮かされる程の激痛の果てに背負う、極道としての永久に消えない烙印。
そんな物の、何が格好良いと言うのだろう。だがその言葉は、美絵自身に帰ってくる物だった。人の皮膚に針を打ち、二度と消えない烙印を押し続けているのは他ならぬ自分だ。
耕太の懇願に根負けしたように、美絵はわかったよ、と吐き捨てた。
「矢島。気が散る。帰んな」
「なぁに、身動きしねぇから気にするこたねぇ。俺は空気だ」
「こんな不純物だらけの空気がいてたまるか」
「しらねぇのか? 空気は混ざりもんだらけなんだぜ?」
ああ言えばこう言う男である。
美絵は勝手にしろと吐き捨てて、再び耕太に手ぬぐいを噛ませた。
結論から言えば――耕太は耐え切った。
一ヶ月。二ヶ月。三ヶ月。
その間いつも矢島が付き添いで現れたのも、耐え切る事が出来た大きな要因であるだろう。
それでも、耕太は熱に浮かされ激痛に耐えながら、八ヶ月に及んだ苦痛を乗り切ったのである。
出来上がったのは、艶やかな唐獅子。
矢島も出来上がった絵を睨み、満足そうに頷いた。
「また今度、気合の入ってそうな若い衆をよこす。おい、言っとくが俺のより立派なもん描くんじゃねぇぞ」
「知ったこっちゃ無いね。あたしはただ、客が選んだ絵柄を彫るだけさ」
吐き捨てた美絵に、矢島が笑う。
背を向けたワイシャツに、昇り龍が透けている。
自分が描いた物だ。
男の逞しい広い背に針を打って、一色一色、魂を込めて。
幼い頃――どこで見たかは覚えていないが、恐らくテレビか本だろう。男の広い背に描かれた菩薩の絵に、美絵は強烈に惹きつけられた。
「――粋だねぇ」
「あぁ?」
「なんでもないさ。次はもうちょっと柔肌の男の子がいいねぇ。やる気があるんなら、女だってかまわない。白い肌に色を入れるとさ、綺麗に栄えるんだ」
変態め、と罵って、矢島がスーツの上着を羽織る。
職業、絵描き。
そう括ってしまえば、この仕事は急激に色あせる。
キャンパスが生きている。
美絵の作品は、美絵一人ではどう足掻いても完成しない。
激痛に堪え、熱に浮かされてまで見栄を張る馬鹿がいるからこそ、彫り物は芸術なのだ。
「矢島」
「なんだよ」
「あたしの職業って、なんだい?」
「ヤクでもやったか? 彫師だろうがよ」
怪訝そうに、矢島が太い眉を吊り上げる。
美絵は煙草の煙を吐き出して――笑った。