第1章  
 
 この世界の某所に、Q島という島がある(と思っていただきたい)。その大きさは九州と四国を合わせた  
程度、熱帯性の気候、島の中央付近から西海岸中央部には豊富な鉱物・石油資源があることが分かっている。  
この島はもともと、オランダ人によって発見された。しかしオランダの衰退にともない、フランスの占領下に  
入り、以後、1950年代前半まで、その植民地となっていた。  
 現在、Q島にはおおよそ3つの民族が住んでいる。  
1つめが少数民族のM族。モンゴロイド系で、わずか3%しかいない。Q島にもっとも早く現れた人々で、  
三角帆の小舟で大洋を駆け巡った海の民であるが、今では国内での発言力はほとんどない。  
2つは、オランダ系入植者を祖にもつS族。Q島住民の25%に過ぎないが、フランス植民地時代には支配層に  
あって他の人々を酷使し、現在も経済界の主要なポストはS族の手にある。  
3つめが、原住民族のL族。黒人とインディオ系の混血で、Q島住民の70%を占めている多数派である。  
 
 フランスからの独立のときには、これら三民族は一丸となって戦った。  
しかし独立後、おきまりの内紛になった。とくにL族とS族の対立は激しく、ついにQ島は分裂した。  
S族が多い南部の一部地域は、立憲君主制をとる王国となり、SQ国と呼ばれた。  
一方、それ以外の地域は、社会主義をとる社会共和国となり、LQ国と呼ばれた。  
このような経緯で、LQ国内では、もともと少なかったS族はさらに少なくなった。  
 
 さて、社会体制からご想像いただけると思うが、LQ国は東側、SQ国は西側の陣営にくわわり、Q島のなか  
でも冷戦が戦われた。  
それはしばしば熱い戦いとなり、30年あまりの間におよそ二回の戦争と数知れぬ小競り合いが戦われた。  
 その間、SQ国は国王であるオリオンQによってすすめられた西側資本の導入によって、経済的には大いに  
潤っていた。一方のLQ国は、経済政策の失敗もあって、徐々に苦しい状況に追い込まれていった。  
しかしSQ国が優位にあったとはいっても、戦争の決着を一気につけられるほどではなかった。  
何より分裂してもう40年、SQ国の本音としては、貧しいLQ国を抱え込みたくなかった。  
 
 20世紀の最後の10年、こう着状態に陥っていたQ島の情勢は変化のときを迎える。  
まず、第3次大戦の勃発と終結があった。  
この戦争は東側の事実上の敗北に終わり、さらに終戦の5年後にソヴィエト社会主義連邦が崩壊したことで、  
冷戦は完全に終結した。  
これによって、これまでLQ国にもたらされていたソヴィエトからの援助は打ち切られ、また、彼らの精神的な  
支柱も消滅した。  
 このときにはSQ国の優位はゆるぎないものになり、一方、LQ国は経済的に行き詰っていた。  
LQ国内では失業率が上昇し、社会不安が生まれていた。  
 
 これらの流れから、Q島全体に講和の気運がもたらされ、SQ国優位で、停戦が成立した。  
しかし、これで収まらないのがL族右派である。  
停戦後に西側から流入した外国資本は、ほとんどがSQ国とのつながりがあるS族に流れた。そして停戦後の  
軍縮で、多くの軍人が失職した。もともと軍人の大部分がL族だったこともあり、これらの連中は急速に先鋭化  
した。  
彼らは、停戦そのものが誤りだったと主張し、政府やS族と激しくやりあった。党派に分かれての支持者どうし  
の衝突は、やがて流血の沙汰に発展した。  
 イデオロギー対立の影で忘れられていた民族対立が、突如として復活した。  
道を歩く人々の視線はわずかに険しく、相手を探るようになり――  
 ただ、まだ事態は平穏だった。  
L族とS族はこれまでずっとよき隣人で、民族間の結婚も珍しくなかった。  
人々は緊張をはらみながらも、表面上は平常どおりに生活を続けていた。  
 
 S族の若者がL族の女性を襲った事件をきっかけに、事態は最悪の方向へと向かってうごきはじめた。  
これ自体にはいかなる背景もなかったのだが、L族過激派はこの事件を最大限に活用した。突如として武器が  
巷にあふれ、あちこちに民兵集団が雨後のタケノコのように現れた。サッカーのファンクラブがそのまま武装  
組織に変じたこともある。若者たちは連れだって「集会」にでかけ、タダの酒と流行のラップ・ミュージックに  
酔いながら、ダンスのかわりにカラシニコフ・ライフルの撃ち方を習った。  
テレビ局は、S族の人々を公然と『ゴキブリ』と呼び、煽動した。スローガンが町中にあふれた。  
あちこちでS族が殴られたり、嫌がらせを受ける事件が相次いだ。殺人や強盗といった重犯罪も数件報告された。  
取り締まるべき警察は、混乱し、無力だった。警察内でもL族が多数派だったうえに、内務大臣その人が  
L族過激派に同情的とあっては、追求が鈍るのは仕方がない。  
通報された「集会」の現場に警官隊が到着したときには、薬莢のひとつも残っていないのがたいていだった。  
軍部はもっとひどかった。首脳部はL族によって完全に掌握され、S族の将官たちは次々に解任された。  
しかし、こういったことは全て瑣末事だった。  
重要なのは、みんなが予感を感じていたことである。何か悪いことが起きようとしている、どこかで起きている  
とみんなが思っていた。S族の人々は、逃げ出す用意だけはしつつも、それを信じられずにいた。  
 
 このとき、Q島には戦争の後始末のため、国連の小規模な停戦監視団がいた。  
その団長であるカナダ軍のオリバー大佐は、きわめて優秀な軍人であった。  
 彼は独自の調査から、ある重要な事実を掴んだ。  
「雨後のタケノコのように現れた」民兵組織が、ある一つの意思のもとに動きはじめたのである。  
“それ”は「L族防衛軍」、通称LDFを名乗った。公式発表も記者会見もなかったが、その名は徐々に  
人々の口にのぼるようになっていき、それと正比例して、重犯罪の発生がどんどん多発していった。  
 
 そして、ついに事件が起きた。高名なS族の与党議員が襲撃され、一家が皆殺しにされたのである。3才の  
少女までが、幼児用ベッドの中で首を掻き切られた。L族の使用人たちは、「裏切り者」という札を首にかけ  
られて、木から吊るされているところを発見された。飼い犬や水槽の熱帯魚すら例外ではなかった。暗殺隊が  
去ったとき、その家には一片の生命も存続を許されなかった。  
 この残虐な犯行は、戦争や暴力に慣れたLQ国民をも震撼させた。犯行声明は出されなかったが、巷間、  
LDFの噂は恐怖と――もっと重要なことだが、畏怖とともに語られた。  
 
 オリバー大佐はそれら全てを見聞し、ニューヨークに向けて、あらゆる手段をつかって猛烈に訴えはじめた。  
その訴えは、国連そのものには見過ごされたが、英仏を初めとするEU諸国には真剣に受け止められた。  
 この先年、中央アフリカで大規模な虐殺が発生した。80万人が犠牲となったこの事件で、欧米諸国は事態を  
承知しており、惨劇を阻止できる機会もあったのに、それを逸してしまった。  
アフリカのスイスといわれた風光明媚な土地で繰り広げられた惨劇――  
道端に累々と転がる死体、教会を埋め尽くす白骨などの情景が報じられるとともに、欧米、特にヨーロッパ  
では、後悔と自責が広がっていた。  
そしてそのときも、オリバーと同じカナダ人の将軍が、全てを予見して警告を発し続けていたのである。  
カナダ人の予言――見過ごされようとする惨劇――あのとき、誰かが動いてさえいれば――  
 
 そのさなか、LQ国で惨劇がおきた。  
L族過激派の取り締まりをうったえていたデモ隊に、誰かが連射をあびせ、爆弾を投げ込んだのである。  
犠牲者は150名を数えた。  
 
 事ここにいたり、国連安保理はついに介入を決定した。  
UNQPMF(国連Q島平和創造軍)は、従来のPKOよりも強力な武装と権限をもち、紛争当事者に対して  
平和を強制するだけの能力を備えていた。  
しかし、その主体となるNATO部隊は、現地の国連特別代表とたびたび衝突し、その連携は必ずしも円滑では  
なかった。両者のあいだには温度差があまりに大きく、しかも国連の側には軍事力に頼ることへの根強い抵抗感  
があった。  
 ところで、NATOと国連がつかみあいになりかねない会議のなかで、仲裁しようとしてあたふたしている  
――ちょっと場違いな――人々がいる。  
我々になじみの顔だち――黒い髪に茶色の目、目玉焼きに醤油をかける奴ら――要するに、日本人である。  
 
 国連の常任理事国になって有頂天の日本は、何をトチ狂ったのか、UNQPMFへの参加を決定した。  
派遣されたのは、完全編成の1個戦闘団(4000名)、そして航空部隊としてヘリ2機+航空機2機である。  
このうち、地上部隊は隊長の三鷹大佐の名前を取って“三鷹戦闘団”と通称されており、北西方面司令部の隷下  
に入り、その主力部隊となった。  
ということで、我らが三鷹戦闘団について見ていくことにしよう。  
 
 三鷹戦闘団の上級司令部はUNQPMF北西方面司令部、その司令官はベルギー軍のゴラール准将である。  
准将は優秀な軍人ではあったが、柔軟性に欠けるところがあった。  
 北西方面は、北西端にある北西港を中心とした地区と、西部海岸のバルゴ港を中心とした地区、  
その間をへだてる山中にあって両者を結んでいる中西部盆地に大別できる。  
このうち、北西港地区が、三鷹戦闘団の担当地域である。  
中西部盆地にはパキスタン軍の中隊が、バルゴ港地区ではオランダ軍の大隊が守りについた。  
 日本では、危険な地域(『戦闘地域』)に自国軍を配することへの反対が強く、これに配慮した配置だった。  
北西港は、オランダ系移民がはじめて漂着した場所であり、古くから欧米との交易が盛んで、国際色豊かな  
土地柄だった。このため、北西港はS族が市長に選ばれるほどで、情勢は比較的安定していた。  
これに対し、それ以外の地域は――はっきり言って、無法地域としか言いようがなかった。  
 しかし、この配置が失敗であることは、すぐに分かった。攻撃しにくい地域に配された強力な三鷹戦闘団を  
避け、ゲリラたちの攻撃は、パキスタン中隊とオランダ大隊に集中したのである。  
 
 国連の平和維持活動は、受け入れ国の同意がなければ実施できない。つまりLQ国政府は国連を受け入れて  
いるわけだが、それに大義名分以上の意味はなかった。  
軍部の状況は前に述べたとおりである。過激な民族主義者によって掌握されており、ほとんど過激派民兵と区別  
できなかった。治安部隊は装備も兵力も不足で、警察署から見える範囲しか保持できなかった。  
悪いことに、Q島の民衆には、植民地時代に植えつけられた白人への反発が根強かった。そのせいで、欧米の  
かいらいと信じる国連にはほとんど協力せず、とくにオランダ大隊は反感の海のなかに孤立している状態だっ  
た。S族がもともとはオランダ系であることが、事態をさらに悪化させた。  
 
 さらに、自前で重装備を有する三鷹戦闘団とは異なり、ライフルや機関銃などしか持たないオランダ大隊と  
パキスタン中隊への火力支援は、完全に航空攻撃――空爆に頼っていた。  
しかし、空爆が実施されるには、極めて複雑な過程を経なければならない。  
つまり、前線の指揮官が要請し、方面司令部を経由してUNQPMF司令官に伝えられ、シヴィリアンである  
国連の特別代表の許可を得たうえで、航空任務部隊に下命されて、実際に戦闘機が発進することになる。  
もともと国連は調整機関であって、戦争行為の当事者となるにはあまりに民主的かつ官僚的すぎた。  
 
 
 4月下旬より、LDFの活動が活発化しはじめた。  
中西部盆地のパキスタン中隊は、初めから圧倒的な劣勢に置かれていた。  
しかし幸いにも日本隊に近いうえに、地形は錯雑していた。中隊長はこれらの障害を利用して防御しつつ、  
日本隊の到着を待つという計画を立てた。万一の際には盆地の東側に引き上げて、盆地を東西に分けて流れる  
中川と、盆地中央のマーズ山を利用して、カペラ地区で防御するのである。  
 
 いっぽう、バルゴ港周辺地区はおおむね平野で川もなく、防御に適した障害はほとんどなかった。  
オランダ大隊は、地域全体に多数の監視ポストを設置していた。しかし劣勢のなか、これらのポストは徐々に  
制圧され、配置されていたオランダ兵は武装解除され、ときには制服まで奪われて、追いかえされた。  
こうして、バルゴ港のオランダ大隊は、確実に孤立していった。  
 
 そして5月15日、事態は突然に破局を迎えることになる。  
早朝、首相官邸に爆薬を満載したトラックが突入した。爆発は、警備に当たっていたベルギー兵もろともに  
首相の五体をふきとばした。  
これと同時に、全ての閣僚と連絡が取れなくなった。あるものは自宅で惨殺され、警備の国連兵も同じ運命を  
たどった。またあるものは、警備兵の死体を残して姿を消し、のちに過激派民兵とともに現れた。  
唯一、法務大臣のみが血路を開いて脱出に成功し、UNQPMFに保護された。しかし、そこにたどりつくまで  
に、警備兵は最後のひとりを残して全滅した。  
時を同じくして、LQ国全土の主要都市――首都シリウス市、バルゴ港、北西港、北東港で、いっせいに  
武装集団が蜂起した。  
 
 
 シリウス市の蜂起は、首都であるだけに、もっとも大規模だった。  
陸軍首都旅団に1万以上の民兵とその数倍の暴徒が加わり、一時は市の中心部を占拠して、国連の司令部から  
1キロたらずまで迫った。  
 
 全ての官公庁が占拠され、ラジオの公共放送は沈黙、聞こえてくるのはL族過激派のプロパガンダのみ。  
数時間のうちに処刑リストが出回り、あらゆる道にバリケードが築かれ、通る車からS族の人々が引きずりださ  
れて殺されていた。若い女は別で、たいていは検問所にいた連中の慰みものにされた。S族は白人系で、性的に  
魅力があると見なされていたためである。  
 市内各所で殺人事件が多発し、ありとあらゆるところで掠奪が横行し、商店のショーウィンドーはことごとく  
叩き割られた。911番はたちまちにパンク状態に陥った。警官を派遣しようにもあまりに現場が多すぎ、また駆  
けつけた警官はしばしばリンチされて殺された。  
やがて電話が通じなくなり、ついで通信センターそのものが破壊された。  
 
 内務省と市警察本部は、軍のクーデター部隊に攻撃された。警察隊と治安部隊は果敢に抵抗したが、装備と  
兵力の差はまったく絶望的だった。国家の治安を担っていた人々は逮捕され、日が昇りきる前に殺された。  
警察署は暴徒たちの格好の標的になった。警察署の警官たちは、警察本部との連絡が途絶えたことをいぶかって  
いたが、事態を把握する間もなく、襲撃を受けた。  
あちこちで火が放たれ、黒煙が空を覆った。銃声と爆音、怒号と悲鳴があちこちで響いた。  
 
 同日正午の時点で、治安部隊の8割がその戦闘力を喪失していた。頑強な一隊がなお抵抗を続けていたが、  
他の憲兵は制服を脱ぎ捨てて群集に紛れるか、殺されるか、あるいは積極的に蜂起に加わっていた。外勤の警官  
は皆殺しにされ、孤立した警察署が個々に抵抗を続けてはいたが、制圧は時間の問題だった。空軍と海軍の警備  
隊は、圧倒的な反乱軍のまえに、日和見を決め込んでいた。  
いまやおおっぴらに姿をあらわしたLDFは、ほぼシリウス市全体を掌握したと言ってもよいほどだった。  
 
 しかし、その勢いをもってしても、英軍空挺旅団とグルカ兵が守るUNQPMF司令部には届かなかった。  
数回に渡って突撃が繰り返されたが、いずれも、土塁の前にいたずらに死体の山を築いただけに終わった。  
 首都警備を担うイギリス軍は、このとき、既に“本気”だった。  
事態が治安維持の枠を超えて、戦争行為に発展しつつあることを悟り、そして決意を固めていた。  
 市街地でこんな戦闘を繰り広げれば、民間人の巻き添えは避けられない。  
普通ならためらうところである。  
だが、ここで事態を食い止めなければ、全てはルワンダの再現になってしまう。混乱はLQ国全土に広がり、  
続く戦争で多くの人命が失われるだろう。前の戦争が終わるまで40年かかった。今度はどうなるか、想像したく  
もない。  
それだけは避けなければならなかった。  
民間人に犠牲が出ようとも、シリウス市全市が灰燼に帰そうとも…  
 
 このとき、L族過激派は最大の誤りを犯した。  
もはや英軍の降伏は目前であると勘違いし、民兵を後方に下げて、軍で攻撃部隊を固めるとともに、民間人を  
全員退去させたのである。勝者の余裕のつもりだったようだが、完全に裏目にでることになる。  
 
 夕刻、叛徒は最後の突撃を敢行したが、これまでと同じように、英軍の堅固な防御に直面して先細りした。  
しかしこのとき、イギリス軍の側が異なる対応に出た。  
 意気阻喪して引き上げる叛徒の背後で、ロビンソン准将の一言が、すべての隊員のイヤーピースから流れた。  
それこそが、すべてのイギリス兵が熱望していた命令だった。  
 
 擲弾手がいっせいにグリネードを発砲し、機関銃は長い連射を放った。  
軽戦車は照準を微調整し、いっせいに発砲した。76ミリ戦車砲の斉射が轟き、火点となっていた家が丸ごと  
吹き飛んだ。  
そして、空挺隊員とグルカ兵が土塁を乗り越えた。  
 暴徒は肝を潰し、クモの子を散らすように四散した。  
民兵と反乱軍は動揺しつつも銃を握りなおし、向き直った。車が引っくり返され、バリケードが作られた。  
しかしロビンソン准将は、迅速さこそが全ての鍵であることを知っていた。ここで手こずるわけにはいかない。  
 イギリス軍はそのまま、着剣突撃に移った。  
軽機関銃チームはすばやく展開し、援護射撃の弾幕を張った。陣地の重機関銃もそれに加わった。  
軽戦車は速射に移り、敵の機関銃を陣地ごと吹き飛ばした。  
その下を、歩兵が銃剣をきらめかせて疾駆した。吶喊の叫びが響きわたった。  
 
 先頭を走るグルカがククリを抜き、雄叫びとともに跳躍した。  
不運な民兵は慌ててカラシニコフを構えようとしたが、それより早くナイフが一閃した。  
 
 叛徒は狼狽した。厳しい規則にがんじがらめの国連部隊しか知らない彼らは、その抑制が解かれたとき、  
どれほど危険になりうるかを、まったく分かっていなかった。  
 彼らは、ハイテク兵器さえなければ、欧米人などに負けるはずがないと信じていた。  
しかし近接戦闘に持ち込まれた今、その自信は完全に崩壊した。  
通りでグルカが荒れ狂い、空挺部隊が側面を援護し、警官隊が背後を支えた。  
白刃で顔を覆ったグルカ兵が飛びこむごとに、幾人もが血煙とともに斬り倒され、戦列は大きく乱れた。  
混乱に陥った民兵が不用意に発砲し、同士討ちが相次いだ。  
空挺部隊は銃剣を振るい、家々を制圧した。軽機関銃チームは着実に前進し、援護射撃はさらに苛烈になった。  
警官隊は矢継ぎ早に催涙弾を発砲し、白煙が路上にたなびいた。軽戦車も陣地を出て、援護した。  
 
 交戦はあっという間に終わった。  
算を乱した反乱軍はたちまちに敗走し、イギリス軍がそれを追撃した。  
治安部隊も攻勢に転じ、孤立した各警察署は次々に解放された。  
さらに、英海兵隊1個コマンドーまでが戦闘に参加するに及んで、形勢は完全に逆転した。  
夕方までには、市内は完全にUNQPMFの制圧下に復した。  
暴徒は散り散りになり、反乱軍は北部の山岳地帯に逃げ込んだ。  
 
 
 イギリス隊が全面的な武力行使に踏み切る一方で、できるだけ戦闘を避けようとしたのが、北西港の日本隊  
だった。これは、軍隊がとくに肩身の狭い日本ならではの事情もあったが、それを許す背景もあった。  
 北西港の治安がかなり安定していたことは上述したとおりである。住民にはS族が多く、またL族のなかで  
も穏健派が圧倒的多数だった。  
また、日本はこれまでQ島とまったくかかわったことがなく、きわめて中立に近かった。しかも、日本隊の  
指揮官である三鷹大佐は、軍人として有能であるのみならず、調整の才もあったうえに、Q島の文化にも精通  
していた。調停者として、これ以上に適切な人も少ない。  
 このため、S族とL族は、LQ国のほかの地域とは異なり、まったく平和的に共存しており、治安部隊も、  
日本隊との協力のもとでじゅうぶんに活動できていた。日本隊と地元住民との関係も良好で、S族とL族が  
合同で組織した自警団までがあるほどだった。  
 他の都市に合わせて蜂起したL族過激派は、市内各所で孤立した。最初の爆弾テロで日本隊に損害を与える  
ことには成功したものの、逆上して見境がなくなるはずの日本兵は完全に統制を保ち、呼応して蜂起してくれる  
はずの暴徒の姿はどこにも見当たらなかった。そのかわりに現れたのは、警棒をふりかざす治安部隊と、威圧す  
るように機関砲を向けてくる日本のコブラ・ヘリコプターだった。  
民衆からの支援はなく、民家にゲリラが逃げ込んでも、かくまってはもらえなかった。  
良くても突き出され、下手をすれば、町中のリンチで半殺しの目にあった。  
袋叩きにあって虫の息の民兵を日本兵が救い出す、という場面まで見られるほどだった。  
 
 北西方面戦区の問題は、バルゴ港のオランダ隊にあった。  
山脈を挟んだ北西港とは対照的に、バルゴ港は敵意で満ち溢れていた。  
バルゴ港周辺はもともと、L族過激派の牙城だった。その上、L族過激派が憎んでやまないS族は、もとを  
辿ればオランダ人なのである。  
オランダ大隊が歓迎されるはずがなかった。  
 オランダ隊は軽装備の歩兵大隊に過ぎず、重装備といえば81ミリ迫撃砲とミラン対戦車ミサイル程度のもの  
だった。三鷹戦闘団はかなり強力ではあったが、政治的な制約から、危急の事情がないかぎり、部隊を担当区域  
外に派遣することができなかった。  
 
 15日早朝、首都でのテロと時を同じくして、オランダ隊司令部に1台のトラックが突入をはかった。  
警備兵の発砲によって阻止されたものの、トラックは自爆し、20名近いオランダ兵がまきこまれて戦死した。  
同時に、市内各所でテロ攻撃が相次いだ。オランダ兵の損害は少なかったが、S族の避難民に甚大な被害が出た。  
 同日夕刻、バルゴ港西方40キロのベガ町が敵部隊の猛攻を受け、制圧された。これまでのようなゲリラ攻撃で  
はなく、正面からの力押しだった。  
LDFは、これまでのゲリラ作戦を捨て、ついに決戦をいどんできたのである。バルゴ港を完全に制圧し、  
ここを拠点として足場を固めるつもりのようだった。  
 
 18日、バルゴ港西方正面に敵部隊が出現した。連隊規模で、完全なソ連式編制の諸兵科連合部隊だった。  
首都から逃れてきた反乱軍とバルゴ港方面のゲリラ隊が合流したのだ。アメリカ製の軽榴弾砲およびT-55戦車  
を保有しており、火力面でオランダ大隊を凌駕していることは確実だった。  
 脱出は問題外だった。バルゴ市には、国連軍を頼って逃れてきたS族難民が逃げ込んでおり、彼らを見捨てて  
逃げるわけにはいかなかった。  
 バルゴ港には内戦の間に敷設された大量の機雷が残っており、まだ掃海できていなかった。しかもLDFが  
持ち込んだ中国製の対艦ミサイルにより、海からの支援部隊は接近を阻まれた。  
 
 
 翌19日、バルゴ市は完全に包囲された。  
バルゴ市周辺はほとんど丸裸で、陥落は時間の問題となった。  
 17日の段階で、事態を憂慮したゴラール准将は三鷹戦闘団に出撃命令を下しており、同日中に第2大隊が  
中西部盆地入り口を確保、19日には既に戦闘団の本隊が盆地に進入していた。  
しかし彼らは、オランダ大隊の待つバルゴ港を目指すまえに、パキスタン中隊を救援しなければならなかった。  
パキスタン隊は、17日に敵の猛攻を受けて中川東岸に撤退していたが、18日の時点でマーズ山を敵に奪取され、  
防御線は崩壊の危機に瀕していたのである。  
 
 20日早朝、オランダ隊指揮官は空爆を要請した。しかしこれは『事務上のミス』によって、国連特別代表に  
伝えられず、実施されなかった。  
 翌21日早朝、再度の空爆が計画された。しかし今度は、自国兵への付随的損害を恐れたオランダ政府から  
横やりが入り、国連特別代表はこれに逆らえなかった。  
 
 22日昼より、敵の総攻撃がはじまった。  
多数の歩兵部隊の包囲のもと、猛烈な砲撃が見舞われた。戦車砲の直射と相次ぐ榴弾の炸裂が、町を廃墟に  
変えた。  
オランダ兵の損害は少なかったが、シェルターに収容しきれなかった難民たちに多くの被害が出た。  
攻撃はかろうじて撃退したものの、オランダ隊の弾薬は尽きつつあった。対戦車ミサイルに到っては、5基の  
発射機に対して、ミサイルは計3発しか残っていなかった。  
今後このような攻撃が続けられたなら、長くもたないことは明らかだった。  
 23日夕刻、本国政府からの指令を受けて、オランダ大隊は降伏を決定した。難民の代表は猛反発したが、  
もはや現地指揮官に左右できる事ではなかった。  
 24日早朝からの交渉により、オランダ大隊は正式に降伏した。難民たちは『安全な場所』に移送するバスに  
乗せられて姿を消した。彼らを呑みこんだ運命は火を見るより明らかだった。  
しかし、いったい誰を非難できただろう?  
 
 少なくとも、その責任を日本人とオランダ人に帰すことだけはできなかった。彼らの頭を青い鉄帽が包んで  
いようと、彼らが人間であるかぎり、奇蹟を起こせなかったかどで責めることはできない。  
オランダ兵たちは、兵力でも装備でもはるかに劣勢で、拠って戦える足場もない中で、最善を尽くした。  
 それに実のところ、日本人たちの試みはまだ終わってはいなかった。三鷹戦闘団は中西部盆地でなお激闘し、  
バルゴ港に向かってもがきつづけていた。  
そして、まだ希望を捨てていないのは三鷹大佐たちだけではなかった。  
 
 オランダ軍とイギリス軍は古くから極めて親密で、またUNQPMFに参加しているイギリス軍にとって、  
オランダ隊の運命は決して人事ではなかった。この関係のもとで、イギリス海兵隊の特殊部隊SBSのチームの  
1つがオランダ隊の指揮下に編入されて戦っていた。包囲を目前にして、オランダ隊の指揮官は、彼ら“チーム  
・ナイフ”を市から脱出させた。  
そして5日後のバルゴ市の陥落により、チーム・ナイフの4人の海兵隊員は孤軍となった。  
 しかし彼らは心細く思いはしなかった。  
彼らはSBSが誇る精鋭であり、敵だらけの環境での行動には慣れている。彼らには人民の海がついていた。  
 
 ここで一人の男が登場する。イギリス人の同僚たちは彼の名前を発音できず、“セィディー”とあだ名されて  
いた。日本海兵隊の中尉で、ちょうど半年前からイギリス海兵隊に交換派遣されていた。  
彼の名前は、浅網渉。ゴドウィン軍曹に「LT」と呼ばれていた男――チーム・ナイフの指揮官である。  
 
 そのような次第で、話はここからはじまる。  
オランダ隊の指揮下を離れた今、チーム・ナイフはイギリス軍の指揮下に戻った。  
実はここに、浅網たちの立場の微妙さがある。  
本来なら、オランダ隊の上級司令部であるUNQPMF北西方面司令部(ゴラール准将)の指揮下に入るはず  
である。UNQPMFの部隊なら、の話だ。  
 
 実のところ、彼らはイギリス軍のロビンソン准将、つまりUNQPMF南部方面司令官の指揮下で動いては  
いるのだが、UNQPMFに属しているわけではない。彼らの存在は、国連には知らされていない。  
 イギリスは、国連の指揮を必ずしも信用せず、万が一のときにはイギリス軍が独断専行する必要が生じうると  
考えた。このため、国連には通知しないで、いくつかの資産をQ島周辺に配置した。そのひとつが、イギリス  
海兵隊の誇る特殊部隊SBSで、そのチームの1つをオランダに貸したかたちになっていたのである。  
そしてオランダ隊は、彼らが掴んだ情報はUNQPMFに伝えたが、彼らの存在は伝えなかった。  
従って、オランダ隊なき今、浅網たちはイギリス軍の直接指揮下に復帰することになったのだった。  
 
 いま、浅網中尉をはじめとするチーム・ナイフの隊員たちは、ジェミニ丘陵に潜んでいた。  
彼らは人目を避けて移動していたが、前に述べたような事情から、イギリス軍の制式装備を持っているわけでは  
なかった。  
出所不明の迷彩服、使い古されたカラシニコフ・ライフル、東欧製の手榴弾。誰がどこから見ても、その辺の  
LDF民兵だ。  
もっとも、見られてはまずいものもある。  
特殊な機関拳銃と、そのための消音装置――これはNATOの特殊部隊の標準装備だった。  
ハンディGPS、暗視装置、レーザー目標指示器。個人用通信機と衛星通信機,ラップトップ・コンピュータ。  
ラップトップは日本の民間製品で、それが浅網には少しおもしろかった。  
 
 浅網がもうひとつおもしろく思うのが、一見してチームの4人に統一性がほとんどないということだった。  
ニコルズ軍曹は白人だが、浅網は、まったく生粋の日本人であるにもかかわらず、「何人にも見えるし、何人に  
も見えない」と評される顔をしている。エステベス曹長は名前の通りにヒスパニック、ゴドウィン軍曹に到って  
は女である。  
本来保守的なイギリス軍としては、ここまで多彩な構成は、みんながみんな黒い髪に茶色い目をしている日本の  
海兵隊では、そもそもほとんど不可能なことといえよう。  
地元の連中は、国連軍はみんな白人だと思っていて、また軍人である以上はみんな男だと思っているので、  
彼らの外見は、非常に有利な擬装として使うことができた。  
 例えば、あなたが民兵だとしよう。山中の歩哨任務、きつい上に退屈である。  
そこに、赤毛の美人が現れたらどうだろう? 相手がカラシニコフを抱えていて、屈強なヒスパニックの男を  
引き連れていても、悪い気はしないだろう。ついでに、あなたに嫌味を言ってきた男を彼女がたしなめて、  
かばってくれたりしたら?  
そのようにして、彼らは些細だが重要な情報を積み重ねていった。  
 
 イギリス人たちが、浅網のように三鷹大佐の能力を信じていたかどうかは、実のところ疑わしい。  
日本は、海外での本格的な軍事活動についてはまったく経験がなく、その能力には、若干の疑問符がつけられて  
いた。  
 しかし日本人たちの力に疑いを持っていたとしても、SBSに疑いをもつイギリス軍人はいなかった。  
彼らは常に困難な状況を克服し、不可能な任務を遂行してきた。  
だからこそ、敵に制圧された地域において、わずか4人で難民たちの移送先を調べる、という任務を無造作に  
与えてきたのだった。  
 浅網たちは地元の民兵たちに接触し、また兵力移動を観察し、尾行した。そしてついに、ジェミニ丘陵が  
海に向かって平野へと落ち込むところ、ベガ町に大規模な収容所が設置されていることを突き止めたのである。  
 
 浅網たちは、町をうまく見下ろせる丘の中腹に陣取っていた。町の民兵部隊はうかつにも、この付近に殆ど  
兵力を配置していなかった。  
浅網は腕時計を見て、衛星通信機をセットした。  
「ビーグルよりドグハウス、応答せよ」  
『ドグハウスだ、感度良好』  
「町には、民間人と思われる多数の人影がある。どう見てもダンス・パーティではなさそうだ。人数は少なく  
とも2000。民兵は300人程度の兵力と思われる。今早朝に兵士と接触したが、グリーン・ドラゴン大隊と名乗っ  
ている。迫撃砲が2門、牽引式多連装ロケットが2門、37ミリ機関砲が4門あるようだ。  
それと、悪い知らせがある。ゴーントレットの自走発射機を1基、視認した」  
『それはとびきり悪い知らせだな、ビーグル。間違いないか?』  
「ああ、シエラ・アルファ−ワン・ファイヴだ。空軍の連中に、ここには近づかないように言っておいてくれ」  
SA-15、コードネームは“ゴーントレット”。低空域で極めてすぐれた機動性と追随性を示す、ロシア製の  
最新鋭対空ミサイルである。射程こそ短いが、レーダー妨害装置が通用せず、UNQPMFはすでに、こいつに  
思わぬ犠牲を強いられていた。  
そいつがまさか、こんなところにあるとは、まったくの想定外だった。  
 
 しかしそのとき、さらに彼らの想定しないことが起きようとしていた。  
浅網がさらに詳しい配備状況を連絡しようとしていたとき、周囲を警戒していたゴドウィン軍曹が空を指差して  
叫んだ。  
「水平線に航空機、北東!」  
浅網も自分の双眼鏡を構え、通信機を口元に持っていった。  
「ドグハウス、ビーグルだ。我々はいま、2機の航空機を視認している。北東より、我々に向かって接近して  
いる。機種は不明だが、大きさから見て戦闘機クラスだ。この距離ではそれ以上のことは不明だ」  
「F-16です。間違いありません」  
「F-16だ。ニコルズ軍曹が間違いないと言っている」  
北部方面航空団でF-16を使っているのはNATO統合飛行隊である。ベルギー、デンマーク、ノルウェーの  
混成部隊だ。  
「翼下に何か下げているようだ。爆弾か、燃料タンクか――それ以上は、このアングルでは無理だ」  
 
『その地域で活動中の国連機はないはずだ。ビーグル、その航空機について詳しく知りたい』  
国連機の活動は厳格にしばられており、飛行中の航空機は全て把握できるはずである。  
ありえないことだった。  
「そうは言うがな」  
「あの機と交信することはできませんか?」  
「この距離では無理だ。我々の個人用無線機は――」  
「警告すべきだと思います。危険です」  
「俺もそう思うが、我々にやりようがあるか?」  
 
 その矢先、町の東側から曳光弾がはじけた。民兵たちがF-16に気づいたのだ。  
ソヴィエト製の古い37ミリ対空砲は、ここしばらく本来の用途に使われていなかった。久しぶりに機会を得て、  
砲手たちは大いに張り切った。  
F-16が応射し、着弾の土煙に包まれて機関砲が見えなくなった。北側の対空砲が発砲して命中させたが、応射  
を浴びて沈黙した。  
直後、町の北側の森から立て続けに2発のSAMが発射された。  
1発は高速の目標を捉えきれず、虚空に飛び去った。もう1発はF-16から反射されるレーダー・シグナルを  
がっちり捉えて離れなかった。  
戦闘機はあまりに低空で、回避機動の余裕はなかった。  
それでもF-16は囮のアルミ片をばらまきながら、もがくように旋回しかけたが、ミサイルはそれを無視して  
迫り、爆発して機体を引き裂いた。  
 傷ついた戦闘機は黒煙を引きつつ高度を落とし、やがて爆発音とともに木々の間から火球が立ち昇った。  
浅網たちは祈る思いで見つめたが、パラシュートは見えなかった。  
やがて、被撃墜機のパイロットの姓名階級が、ドグハウスから伝えられる。  
その日の午後には、平和創造軍の報道官によって、それは世界中に発表された。  
 
ノルウェー空軍中佐、スーザン・パーカー。  
5月26日、中西部海岸地区、ジェミニ丘陵上空において連絡を絶ち、未帰還。  
 
 

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