白い国連塗装に包まれてはいたが、とにかく、懐かしのイリューシン輸送機だった。旅客仕様のくせに、乗り  
心地の悪さもパイロットの腕の悪さも、彼が軍にいたころとそう変わらなかった。  
もっともパイロットは、彼の(元)同国人かも知れない。ソヴィエト連邦が消滅してから、多くのロシア人が  
国を捨てた。  
 何はともあれ、彼は生きてシリウス国際空港に降り立った。  
窓からは見えるヒップ・ヘリコプターの焼け残りが、ここが戦場からほんの少ししか離れていないことを、  
ご親切にも思いださせてくれる。  
気圧変化で少し痛む膝をいたわりつつ、彼は立ち上がり、隣の座席に放り出していた荷物を肩に担いだ。  
 
 彼はセルゲイ・クレトフ・パーカー。  
かつてはソヴィエト空挺軍に所属する優秀な将校であり、今はノルウェー国王陛下の空軍士官、スーザン・  
パーカーの夫となっている男である。  
機内に人影はまばらで、彼と同じようなジャーナリストがちらほらと見られるだけだった。Q島入りしようと  
いう報道陣のラッシュで、一時期はこの便も満員になっていたが、その波はとっくに過ぎ去っている。  
ただ、彼には個人的な動機もあった。  
スーザンは国連の平和創造軍に加わってQ島に来ている――ひと月ぶりの再会ということになる。  
 
 タラップに立って見下ろしたとき、マイクロバスに乗り込む乗客たちから離れて立つ、厳しい表情の紺色の  
制服の男たちが目に入った。  
その表情に不吉な予感を覚え、彼は急いで男たちの掲げる札に視線を移した。  
『S・K・パーカー様  
 平和創造軍 航空任務部隊 監理部』  
その意味を理解したとき、クレトフは大地が崩れ落ちたような衝撃を覚えた。  
 
 
 ニコルズ軍曹は機関拳銃を構え、木に身を寄せた。  
音が聞こえた――風で動いた枝かもしれないし、そうでないのかもしれない。  
彼が左手をまっすぐ上げると、彼に続くチームの全員が足を止めた。  
 彼は、きわめて高度に訓練されたイギリス特殊部隊員である。今は日本人の指揮下で動いているが、浅網中尉  
が優秀であることは認めざるを得なかった。彼は地形と同じくらい上手に敵の動きを読み、チームを導いていた。  
浅網の読みによれば、このあたりには敵はいないはずだった。しかし、運の悪い民兵が迷い込んできたという  
ことも――  
 
 いた――人間だ。  
200メートル離れては、暗視ゴーグルを使っても、緑の棒くらいにしか見えない。  
 またひとり、現れた。  
しばらく待ったが、あとには続かなかった。  
妙だった。民間人にしろ、民兵にしろ、この地域では4人以上で歩くことが多い。  
その人影は入念な足さばきで、まともな歩き方には見えない――ニコルズたちと同じだ。  
長い銃身と丸いハンドガード、その根元の照星が見えた。AKでもタイプ56でもない。M-16系列だ。  
M-16ライフルは、民兵としては珍しい。LQ国軍制式のAKか、大量に流入している中国製のタイプ56が  
一般的である。  
一方、オランダ兵たちはもっぱら、カナダ製のM-16で武装している。  
 
 ニコルズは木から離れて立った。  
その人影は右を見て、左を見て、ニコルズのほうを見たままで顔を止めた。  
ニコルズは暗視ゴーグルを上にずらし、赤外線ライトが相手に見えるようにして、三回明滅させた。  
すぐにゴーグルを戻すと、相手が同じことをするのが見えた。  
 
「味方だと思います。接触を試みます」  
『気をつけろよ、軍曹』  
了解の合図を送り、全員が配置につくのを待ってから、ニコルズは足を運んだ。  
武器を構えることなど、できなかった。いつでも抜けるよう、腿のホルスターに入れてはいるものの、相手が  
敵ならば、彼が次の日の出を拝める可能性は、ゼロよりほんの少し高いだけということになる。  
10メートルまで近づいたところで、相手が声をかけてきた。  
「ヴィー・ズン・ユー?」  
オランダ語だった。  
「リヴァリン・ポウザー」  
「ターコイズ・オーガスタ」  
「スペシャル・ボート・サーヴィス、イギリス海兵隊だ。私はニコルズ1等軍曹」  
「ブラヴォー中隊、第1小隊。我々はオランダ陸軍だ。私はヘイボア1等軍曹、彼女はレシュカ伍長」  
ヘイボア軍曹はニコルズ軍曹の手を固く握り締めた。緑と茶色のまだらに塗られた頬に流れる涙が、彼らの道程  
の険しさを物語っていた。  
 
 
 ヴェガ町には国連部隊として、フリードマン少尉に指揮された、オランダ軍の歩兵小隊が配置されていた。  
フリードマン少尉は、装甲車2両と1個分隊――たった11名!――を手元に残し、残る3個分隊を、6ヶ所の監視  
ポイントに配置して、治安維持にあたっていた。  
ヘイボア軍曹の分隊もその1つであった。分隊は5人ずつ2つのチームに分かれ、ヘイボア軍曹が一方を、副分隊  
長のグレーナー上級伍長がもう一方を率いた。  
 
 15日早朝、他の監視ポイントからの報告により、フリードマン少尉は敵の接近を察知した。少尉は、小隊の  
全力をもってこれを撃退すべく、全監視ポイントに撤退指令を出し、戦力の集中をはかった。  
しかし、ヘイボア分隊の撤退以前に、ベガ町の本隊は敵の重囲に陥った。  
 
 グレーナー上級伍長のチームは応答せず、その方面には強力な敵軍が出現しはじめていた。  
チームは大隊主力のいるバルゴ港に針路を変更したが、路肩爆弾によって車両を失い、徒歩での後退を余儀なく  
された。その途中で、バルゴ港の陥落の知らせを受けて、彼らは日本隊と合流しようと、再び山に分け入った。  
しかしその夜、敵の大部隊と遭遇して、交戦せざるを得なくなり、チームは散り散りになってしまった。  
 
 あらかじめ決めておいた集合点に他の隊員は現れず、ヘイボア軍曹とレシュカ伍長は、2人だけで進むことに  
した。  
投降という選択肢はなかった。民兵組織のいくつかは非常に残虐な仕打ちで知られている。  
北東方面戦区で捕虜になった兵士の身に起きたことは、全ての国連兵の脳裏に焼きついていた。  
 
「彼らは兵士を捕らえ、裸にして引きまわし、睾丸を切り取って本人の目の前でフライにし、頭のてっぺんから  
足の先まで切り裂いたあげく、頭を切り落として杭に刺した」(P.W.シンガー『子ども兵の戦争』より)  
 
 幸い、彼らは空中機動旅団での経験を持つヴェテランで、ゲリラ戦訓練も受けていた。  
そして敵を避けつつ山中を行くこと1週間、こうしてチーム・ナイフと巡りあったわけである。  
 
「我々はここに人助けに来たんだと思ってたんですがね。山歩きはもうこりごりですよ」  
「こいつは、もはや人道支援でも情報収集でもなくなった。そのことを司令部の連中が分かってくれれば  
いいんだが… 戦争中、君は何をしていた?」  
「主として、ドイツのゲビルクス・イエーガー部隊と共同作戦を」  
「そして、2個大隊の民兵が徘徊するなかをここまで来た――か。君なら習志野やストーンハウスでもいける  
だろう」  
それは浅網の最大級の賛辞だった。ストーンハウスには英海兵隊の山岳教導隊がいる。  
SBS隊員たちが視線を交わし、一つの合意に達したのを、オランダ人たちは感じ取った。  
ヘイボア軍曹を見て、浅網は目を細めた。  
その表情を例えるなら――新兵徴募官のような微笑みであった。いや、そのものか。  
「我々は少々頭数が足りない。率直に言おう。君たちの手を借りたい」  
「好都合です。我々をあなた方の隊に加えてください。国王陛下の陸軍が一矢も報いずに脱出するなど、我慢  
できません」  
「我々は敵に見つからずにここまで来ることができたのです。SBS並みとまでは行かないかもしれませんが、  
足を引っ張ることはしません!」  
こうしてチーム・ナイフは6人に増え――日英蘭3カ国の混成部隊と化したのだった。  
 
「妙だな」  
と三鷹大佐が言うのは、今日に入ってもう何度目か。  
 
 中西部盆地の戦闘は、当初予想されていたような、低強度紛争の域から、完全に外れつつあった。  
崩壊しつつある軍からは、将兵が――ときに部隊ごと――脱走してはLDFに加わっており、その結果、三鷹  
戦闘団の前に現れたのは、無秩序な民兵集団ではなく、立派な機甲部隊だった。  
三鷹戦闘団は既に、一週間にわたって、死力を尽くしての全力戦闘を戦っていた。  
中川大橋の攻防戦では、1個大隊の90式戦車が、突進してくる1個連隊のT-62戦車を迎え撃ち、両軍入り乱れて  
の大戦車戦を繰りひろげた。  
この戦闘は、いあわせたNHKのテレビ・クルーによって本国に生中継され、国民の目を釘付けにした。  
 
 戦況は明るくなかった。  
23日夕刻、三鷹戦闘団と南東正面で激戦中だった敵が、ついに後退しはじめた。しかしそれと同時に、バルゴ港  
方面からの敵部隊が攻撃前進を開始した。  
優勢な敵に対して第1大隊は遅滞戦闘を展開しつつ後退、一方で南東方面の第3大隊は追撃体勢に入った。  
しかし、三鷹大佐は引っかかるものを覚えていた。  
はやる第3大隊を急ぎ引き戻して防御に転じさせ、同時に第1大隊を、思い切って中川東岸に下げた。  
 その夜は、重大な試練となった。三鷹大佐と幕僚たちは、まんじりともせずに夜を明かした。  
三鷹戦闘団は、敵のワナになかばはまりこみつつあったのだ。  
 
 第1大隊は終夜猛攻を受けた。  
この戦闘で、三鷹大佐は作戦幕僚を喪った。竹中少佐は第1大隊の戦闘指導中に砲弾の直撃を受け、認識票のみ  
が後送されてきた。  
しかし、日本人たちは持ちこたえた。  
三鷹大佐が薄氷を踏む思いでしかけた策は奏功し、戦闘団はいぜん不利な情勢ではあるが、かろうじて追撃を  
かわし、防御体勢への移行に成功した。  
 
 しかし、妙なのはその後だった。26日朝までに、三鷹戦闘団の倍以上という強力な敵がバルゴ港方面から  
進出してきたにもかかわらず、砲撃してくるだけで、まったく攻撃を仕掛けてこない。  
三鷹戦闘団は激戦を覚悟して緊張していたが、前衛が動きだす気配すらないのである。  
 
「S・K・パーカー氏が先ほど、シリウス国際空港にお着きになったそうです」  
と人事幕僚が言ってきた。そう聞いて三鷹大佐は思い出した。三鷹大佐はスーザンと直接の関係があるわけでは  
ないが、彼女の撃墜地点が彼の管轄地域内だったし、彼女たちの戦闘機にはおおいに助けてもらっていたので、  
遺族がQ島入りしたら報告するように言っておいたのである。  
「ずいぶん早いな」  
「パーカー氏はノルウェーの国防研究所の研究員でありまして、取材のためにQ島を訪れる途上であったとの  
ことであります」  
「そうか…」  
大佐はしばらく瞑目していた。  
「直接お会いしたいところだが、知っての通りの戦況で、指揮所を離れられない。君のほうで、私の名前で  
弔意をお伝えしてくれ」  
「分かりました」  
 
それから意を決したように言った。  
「司令もずいぶんお疲れのようですが」  
「君たちが休めるようになれば、私も休むよ」  
そして、思い出したように言った。  
「そうだ、橘君を呼んでくれないか」  
 
 戦闘団副長の橘中佐がくると、三鷹大佐は人払いをした。  
「実は、バルゴ港地区に、イギリスの偵察チームがいるらしい」  
「ほう。その情報の入手経路をお聞きしてもよろしいですか?」  
「朝霞だ。あそこの隊員がひとり、英海兵隊といっしょにQ島に来ているんだが、最後の連絡によれば、彼は  
チームごとオランダ軍に編入されたらしい。  
しかし、降伏したオランダ隊のなかに、そいつはいない。江田島の連中が英海兵隊に探りをいれたところ、  
どうもまだ作戦行動中らしいのだ。  
私としては、彼らの情報がほしい。バルゴ港地区の情報が必要だし、あの地域にいる我々の偵察チームと同士  
討ちになる危険もある。  
情報を渡すなら、無許可で我々の縄張りに踏み込んできていることは問題にしないと言ってくれ」  
「分かりました。次の幕僚協議のとき、英軍に当たってみます。  
その海兵隊員の名前は何というのですか?」  
「浅網渉、海兵隊中尉――もとの部隊は、海兵隊の特殊部隊SBUだ」  
 
 
 軽装備の部隊が重武装した相手と対峙するとき、けっして変わらない法則のひとつは、装備の不足を何かで  
補うことができないならば、敗北は不可避だということである。  
浅網たちには幸い、利用できるものがいくつかあって、そのひとつが夜だった。  
オランダ人を含め、チーム・ナイフは、全員が最新型の暗視ゴーグルを持っていて、誰もが音をたてずに動き、  
殺すすべを心得ていた。  
フェアに戦うつもりなど、なかった。  
彼らがその気になれば、亡霊のように攻撃して小隊を抹殺し、闇に隠れて大隊を翻弄し、敵を恐怖のどん底  
に叩き込むこともできた。  
 
 しかし今、彼らは交戦を避けて、すばやく動いた。歩哨の姿を見れば迂回し、湿地を這った。  
さしあたり、存在を敵に知らせることは得策ではない。殺すだけなら後でもできる。  
 F-16の残骸は丸焼けではあったが、おおむねその形をとどめており、周囲には多数の足跡が残されていた。  
電子機器、そしてひょっとしたら操縦士が、敵の手に落ちている恐れがあった。  
あの戦闘機には、新型の敵味方識別装置が搭載されていた。日本空軍も支援戦闘機に搭載しているやつである。  
そして、なお悪いことに、パーカー中佐はそいつの開発に参加していた。それが敵の手に落ちれば、なかなか  
厄介なことになる。  
可能なら、奪還する。もしもできなければ――  
〈ドグハウス〉は躊躇いを見せていたが、その指令は完全に明瞭だった。  
人間が、尋問にいつまでも対抗できるなどと、幻想を持っているものなどいない。  
一方、古い箴言もある。曰く、死人に口無し。  
 
 先導するニコルズ軍曹が手を上げるのが見えた。  
浅網が低い茂みを回ると、木々の間から、焚き火の炎が明るく輝いた。  
歩哨のライフルが光を反射し、きらりと光った。  
愚か者め、と浅網は思った。  
死にたがっていると宣伝しているようなものではないか!  
地上部隊が消滅したにしても、制空権はいぜんとして国連部隊のものである。  
 
 しばらく身を潜めて観察したのち、浅網たちは、あそこにいるのはざっと中隊に少し欠ける規模の民兵だと  
結論した――この位置にしてはあまりに多すぎる部隊である。  
浅網の勘は、彼に獲物の存在を告げていた。  
接触は、明朝。  
 
 ノルウェー空軍のQ島派遣団の雰囲気は、まさに通夜のようだった。  
ここしばらく激戦が続き、誰もが限界に達していた。  
それが小康状態になったある日、隊長は戻らず、ウィングマンは大破して、やっと滑走路にたどりついた  
――機体は全損状態で、生きて帰れたのが不思議なくらいだった。  
部隊はまだ即応配置にはあったが、士気はどん底にまで落ち込んでいた。  
 
 誰もがスーザンを好きだった。今回のQ島派遣団の指揮官にスーザンが選ばれたとき、みんなが喜んだもの  
だった。  
第三次大戦において、圧倒的なソヴィエト軍の侵略に直面して、ノルウェー空軍は事実上、壊滅した。彼らは  
大戦中、多くのエース・パイロットを生んだが、その多くが、生きて終戦を迎えられなかった。  
あるものは祖国の空に散り、またあるものはブリテン島を守って死んだ。  
スーザンは、戦争を生き延び、かつ、エースの称号を持つ、数少ないパイロットであり、唯一の女だった。  
イスラエルのさる空軍将官の、  
“最優秀にして、もっとも大胆――そして、少々正気を外れたパイロット”  
という言葉に、彼女はまさにぴったりだった。  
 その能力にもかかわらず、彼女は親しみやすい上官だった。  
彼女はしばしば厳しく当たった。  
優しげな容貌にもかかわらず、彼女を侮るものはいなかった。彼女を怒らせるくらいなら、もっと楽に死ねる  
方法がある、とまで言われたものである。  
しかし、その根底には常に思いやりがあり、公正を欠いたことは一度も無かった。  
彼女は、部下たちをよい状態に保つすべを心得ていた。  
しばしば隊員たちは愚痴や文句をこぼしたが、それでもやはり、彼女を好きだった。  
 
 しかし彼らも、いま廊下を歩く男にかける言葉を、持ち合わせてはいなかった。  
彼らの多くは、既にクレトフを知っていた。  
一度などは、基地警備演習で、陸軍に一泡吹かせるのに手を貸してくれた。  
彼の出自にもかかわらず、彼らは例外なく、この隻脚の亡命者を好きになった。義足に頼らなければ歩くことも  
叶わないにも関わらず、彼には自然な威厳があった。  
そして今、彼らは悲劇のなかでもクレトフがその威厳を失っていないことに心打たれた。  
しかし、ベルグ准将のような古くからの友人には、痛いほど彼の心中が分かっていた。  
 
 クレトフはもともと、ソヴィエト軍のエリート将校だった。彼はその軍歴を通じて空挺部隊に属し、少佐  
にまで昇進した。  
 そのキャリアを捨てて、彼はノルウェーに移り住んだ。  
卑劣な策を弄したあげく、世界を破滅の淵に立たせた祖国の政府への怒りが動機だったのかもしれないし、  
第3次大戦での激戦が心身に負わせた傷がもとだったのかもしれない。  
ともかく、3回目の大戦が終わって、意外にも世界は続いてゆくだろうと思えたとき、彼はノルウェー王国  
空軍のスーザン・パーカー少佐(当時)に求婚し、彼女はそれを受けた。  
ソヴィエトからは猛烈に非難されたし、もちろん空軍もいい顔はしなかったが、それが勇気ある決断だったこと  
は間違いない。  
そして西側での新生活で、クレトフの全てを支えたのが、スーザンだった。  
交通ルールから買い物の仕方まで、何もかもがまったく勝手が分からず、体すら自由にならないなか、彼女だけ  
がクレトフにとって頼りだった。  
その彼女を、いま、彼は失った。祖国も家族もなく、彼はまったくの一人ぼっちになってしまったのだ。  
 
 クレトフは、戦争での死や負傷に慣れないわけではない、  
彼は、かつて空挺隊員としてアフガンにも行き、第三次大戦では多くの部下を失い、自らも片足を失った。  
妻にすら言えないような任務に従事したこともあり、それが夢に出ることも、無いではない。  
 一度は、いっしょに降下した部下のパラシュートが、どうしても開かなかった。  
彼は曹長とともにそれを開こうとしたが、やがて離れざるを得なくなった。彼が自分のパラシュートを開いた  
ときに、彼を見上げた兵士の目を忘れることは、一生ないだろう。  
 
 心構えはできていると思っていた。戦闘機乗りの家族は、伴侶がある日帰らないかもしれないという恐怖と  
ともに生きている。  
 
 しかしそれらは、愛する人の死という現実に対して、まったく効果を持たなかった。  
心がいくつもの部分に砕け、それぞれがばらばらに動いているような感じだった。  
ベルグや航空隊のみんなの言葉は意味をなさず、全てが現実感を失ったままに動いていた。  
あの、獰猛なまでに活発だった彼女が死んでしまって、もうこの世界のどこにも存在しない、というのはとても  
奇妙だった。  
まったく奇妙だった。今にも、ドアを開けて彼女が飛び込んできそうな感じがするのに、いつもみたいに  
ちょっと憎まれ口を叩いて、それでも嬉しそうに彼の腕に収まりそうな感じがするのに――  
 
 
 彼らは、実に仲のよいカップルだった。  
おそらく、皮肉にも、クレトフが障害を負ったことが、彼らを分かちがたく結びつけたのだろう。  
彼は西ドイツ製のとてもよい義足をもらったが、それでも生活には多少の不自由があったし、それに慣れるには  
かなりの時間と労力が必要だった。  
そんなとき、いつも彼女は傍にいて、彼を助け、また励ましてくれた。  
挫けそうなときには叱咤し、倒れそうなときには肩を貸した。  
彼らは恋人であるとともに戦友でもあったのだ。  
それは、彼らの出自を考えると、実に、実に不思議な情景だった。  
 
 彼らは、とてもロマンチックとは言えないような状況で出会った  
――実際、最初に出会ったとき、彼は彼女に銃口を向けていたし、その数分前には、彼女は彼の部隊を機銃掃射  
していた。  
 彼らはそのとき敵同士で、彼女は彼の捕虜だった。  
彼の国は彼女の国を侵略している真っ最中だったし、世界は最終戦争めがけて突っ走っていた。  
その危機の片隅の小さな島で、彼らは愛を育んだ。  
自分がいつ彼女に恋をしたのか、彼には分からなかった。しかしそれは抗しがたい衝動として彼の中に根付き、  
やがて彼の一部となった。  
戦争が終わって抑留されたとき、彼は故国に帰りたいとは思わなかった。  
エリート・コースを歩んでいた若い将校の思わぬ反逆だったが、誰もそれを不思議には思わなかった。  
少なくとも彼ら二人を知っている人々にとって、それはまったく自然な成り行きだった。  
 
 彼にとって、それは、卑劣な陰謀を巡らして侵略戦争を企て、あげくのはてに世界を滅亡の淵に立たせた、  
祖国の政府への反発だった。  
少なくとも、そのときはそう思った。  
しかしいま、彼は自分の真情を知った。  
自分の人生において、彼女がいかに大きな位置を占めていたのかを知った――しかし、それは遅すぎた。  
彼女は既に、見知らぬ異国の地で死んでしまって、亡骸を見ることも叶わない。  
理不尽だ、と思った。  
彼女が大地に叩きつけられたとき、彼はきっとうるさい輸送機に文句を言ったり、狭くて硬い座席に悪態を  
ついたりして、何も知らずに安穏としていたに違いない。  
報いなのかもしれない。  
あまりに多くの命を奪い、それにも関わらず、彼はこうして生きている。  
 
 それを思ったとき、彼は、自分の触れる全てが失われていくように感じた。  
 
 多くの命を奪ってでも守ろうとした理想は幻想だった。  
多くを奪っただけではない。彼も多くを失った――多すぎた。  
上官を失い、部下を失い、脚を失った。  
そして、祖国を捨ててでも守ろうと思った女性を、今、失った。  
守るべき国もなく、帰るべき家もなく、全ては失われ、取り戻すことは叶わない。  
 
 最悪なのは、涙を流すことすらできないということだった。  
彼はあまりにも長いこと、そういった感傷を恥とする文化のなかで育ってきた。  
しかし彼は気づかなかったが、それらの感情は独りで抱えこむにはあまりに重すぎた。それは冷ややかで浸蝕性  
の液体のように、静かに彼の心を蝕み、荒廃させた。  
 彼は虚ろな視線を夕暮れ迫る森に向けていた。彼は彼女の微笑みを描き、笑い声を聞いた。  
身じろぎすることすら苦痛だった。  
 
 誰かが扉をノックした。少し間を置いてもう三回叩き、それからベルグ准将が入ってきた。  
「こんにちは、ミスタ・パーカー。失礼しますよ」  
そう言って、彼は向き合うように椅子に座って、  
「ひどい顔色ですよ。大丈夫なんでしょうな?」  
と案ずるように聞いてきた。  
准将の目が、隠しきれない疲労のなかにも興奮に輝いているのを知って、クレトフは鈍った心の片隅で、かすか  
に訝った。  
「実は――」  
その言葉に、クレトフはわずかに頭を上げた。  
ベルグ准将がもう一度繰り返しても、彼がその意味を掴むまでにはしばらくかかった。  
「スーザンは生きています――イギリス軍からの情報です」  
 
 ときに5月28日、雨期迫る島に夜のとばりが降りようとしていた。  
だがこの夜、スーザンとチーム・ナイフは試練のときを迎えることになる。  
 
 
 

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