「麻由 デート」
日曜日を一日一緒に過ごすことを約束していただいてから。
まだ先だというのに、身体はふわふわと幸福感に包まれています。
武(たける)様とお出かけできるなんて、本当に信じられません。
何をしたいか考えておくように言われたのですが…。
二人で歩ける日など想像もしておりませんでしたので、すぐには思いつかないのでございます。
夕食のお店は武様が決めてくださるとのことなので、私は日中に何をするかアイデアを出さねばなりません。
映画、水族館、遊園地、図書館。
思いつくのはまるで高校生のデートのようなものばかりで、いまいち精彩を欠いています。
一般的な21歳の男女はどのようなデートをするのでしょうか。
考えあぐねた私は、お夕飯の買い物に訪れたスーパーで雑誌コーナーの前に立っておりました。
ガイド雑誌を見て、参考にしようと思ったのでございます。
「夏限定 彼女と行く夜景スポット」「浴衣で楽しもう!花火ガイド」「夏こそ温泉 貸切露天風呂十番勝負」
などと表紙には大きな文字が躍っています。
花火のページに載っている会場一覧表を見ると、残念ながらこの日曜日には近場では開催されないようです。
温泉というとやはり泊まりということになるでしょうから、これも除外したほうがよさそうです。
すると、夜景でしょうか。でもこれは日中ではないし……。
特集以外のページをめくり、映画の新作情報や美術館の記事にも目を通します。
「あら?これは……」
映画館の上映スケジュールのページのところで私は手を止めました。
好きな俳優の最新作がこの週末に公開だったのを思い出したのです。
別荘から戻ったら休みの日に行こうと先月決めていた作品でした。
これを二人で見るのもいいかも知れないと思い、ページを折ってからその本を購入いたしました。
「麻由、日曜日に行きたい場所は決まったかい?」
夜、お風呂から上がってリビングのソファから尋ねられる武様に、昼間買ったガイド雑誌をお見せしました。
「ああ、いいものを買ってきたね。」
手に取ってをぱらぱらとめくられる武様のお手が、あるページで止まりました。
「貸切露天風呂というのもいいかな……麻由と二人で。」
呟かれるそのお声に何だか胸騒ぎを覚えます。
「あの、武様っ。私、その折ってあるページに載っている映画を見たいと考えているのですが……」
先手を打って提案いたしました。
「ん?ああ、これか。」
「はい。」
「ではまず一つ決まりだ。できるだけ早い時間に上映する映画館を選ぼう。その後にも予定が入れられるからね。」
「かしこまりました。」
返事をした私を武様がじっと見つめられました。
「麻由、恋人がデートの予定を話しているのに『かしこまりました』はないんじゃないか?」
「え?あっ、申し訳ございません。」
「ほら、また。今の二つははさしずめ『うん、分かった』と、『ごめんね』かな。」
苦笑してそう仰いました。
「でも武様にそんな口のきき方をするわけには……」
「その『様』もやめてくれてもいいんだ。呼び捨てでも。」
「そんな、武様は昔からずっと『武様』なのですし。」
「うん、まあ君にそう呼ばれるのは好きだからね。でもその他の言葉遣いはもっとくだけてもいい。」
「はい…」
武様は(やはりそうとしか私には呼べません)そう仰り、また雑誌に視線を戻されました。
「他にはどこか行きたいところはあるかい?」
「いえ、映画は思いついたのですがその他はまだ。」
「……そうか。じゃあ、上映する映画館をまずピックアップして、周辺に面白そうな場所のあるところを最終的に選ぼうか。」
「はい。」
二人で雑誌を覗き込み、ページをめくりながらあれこれと探していきました。
協議の結果、ここから車で海沿いを一時間ほど走った街にある映画館でモーニングショーを見ることになりました。
そして昼食の後に水族館、夕方まで街歩きをしてからディナーを取ることに。
帰りには車窓から海沿いの夜景が見えるから、それも良いだろうと武様が仰ったこともあり、そう決まりました。
もっとも、武様は貸切露天風呂を諦めきれないご様子でしたが……。
土曜日、私は駅前で日曜のための服を買いました。
自分の部屋から持ってきたものは地味なものばかりで、武様とのお出かけにふさわしくないと思ったからでございます。
淡いブルーのカットソーと、腰にリボンのついた白いスカート。そして歩きやすいサンダルを購入いたしました。
映画館が寒いといけないので、カットソーはツインになったものにいたしました。
ベッドの脇に買ってきたものを並べると、まるで小学生の頃の遠足前日のように心がわくわくいたしました。
それから台所へ向かい、腕によりをかけてお夕飯の準備です。
日曜の食事は三食とも作らなくて良いとお達しが出ましたので、今日はその分頑張ろうと思ったのでございます。
武様は今日は少し早めにお帰りになるということなので、私も手早くせねばなりません。
お夕飯が済み、ソファに座られた武様にお茶をいれたところで私は大事なことに気がつきました。
「あの、武様」
「何だい?」
「明日、私たちが留守の間にメイド長が電話をかけてきたらどうしましょう……?
私が一日ここを留守にしたと知れたら、面倒なことになるかもしれないのですが……」
メイド長はこの一週間で3回ほど電話をかけてきています。
何か変わったことがないか、朝夕はどんなメニューをお出ししているかを報告するくらいの短いものですが。
別荘にいる間は私の休日は無しと言い渡されておりますので、もし一日電話に出なければ大変なことになりそうです。
お屋敷に帰ったら厳しい叱責が待っていて、下手をしたら職務怠慢でクビになるかも知れません。
「そうか。なに、心配ないよ。僕が何とかしよう。」
武様はにっこり笑っておっしゃいました。
何かよいお考えがあるのでしょうか。
「ところで、麻由。風呂に入るから背中を流してくれないか?」
「……はい。」
私達は連れ立ってお風呂場へ向かいました。
お背中を流しただけで無事にご用が済むわけもなく、私も一緒に入る羽目になってしまいました。
そして、「後始末が不要だから丁度いい。明日の麻由の仕事を減らすためだ。」と言いくるめられ、そのまま愛されました。
「麻由?朝だよ、起きなさい。」
武様のお声が遠くで聞こえました。
「麻由、着替えて出かけよう。」
肩に触れられ、軽く揺すられて目が開きました。
「!」
枕もとの時計に目をやり、いっぺんに眠気が覚めて飛び起きました。
「も、申し訳ございません!」
メイドがご主人様に起こされるなんて、あってはならないこと。
ベッドに座り込んで頭を下げる私に武様は苦笑して仰いました。
「その言葉遣いは直すように言っただろう?ほら、はやく準備しなさい、僕も着替えるから。」
「はい。」
慌てて洗面所へ走ってから自分の部屋へ戻り、パジャマを脱いで着替えました。
軽くメイクも済ませ、髪にブラシを通してから鏡の前に立ち、全身を見渡しました。
私服で武様の前に立つなんて、あの初対面の時以来数えるほどしかありません。
箱からサンダルを出し、バッグも持って武様のお姿を探しました。
「ああ、今日は髪を結わないんだね。」
ソファに座っておられた武様はそう言ってお立ちになり、私の髪にそっと触れられました。
頬に口付けられ、私達は別荘を後にしました。
海沿いを車で一時間ほど走り、目的の街に到着しました。
朝食がまだだったので、映画館の近くの喫茶店でモーニングを食べることになりました。
喫茶店の狭い二人掛けのテーブルに武様と向かい合って座る。
これだけのことなのに、妙にドキドキするのはどうしてでしょう。
目が合うたびに恥ずかしくなり、慌ててパンやゆで卵に目を落としてごまかしました。
チケットを買い、朝の人もまばらな映画館に入りました。
「麻由、ちょっとそこで待っていてくれるかい?」
武様はそう仰って、ロビーの奥まった所にある公衆電話のほうへ歩いていかれました。
「───、僕だ。──と代わってくれないか?」
武様のお声が途切れ途切れに聞こえてきます。誰とお話されているのでしょう。
「ああ、──だし、──と思ってね。何がいい、─?それとも──、うん」
待っている間にパンフレットでも買ってこようかとぼんやり考えておりました。
「あ、麻由に何か───あるかい?おーい、麻由。」
「はいっ?」
いきなり呼ばれて驚きました。
手招きをされて小走りで駆け寄ると、武様は受話器の通話口を押さえて小声で「メイド長だ」と仰いました。
「え?」
話をしなさいと身振りで示され、私は戸惑いながらも受話器を受け取りました。
相手はやはりメイド長でした。しかも、なんだかやけに上機嫌の。
いつものように定期報告を終え、残りの期間しっかり務めるようにと釘を刺されて電話が切れます。
受話器を置き、私は武様に向き直りました。
「あの……」
「君が昨日『メイド長からの電話が来るか心配だ。』って言っていただろう?
来る前に、こっちから電話をしたのさ。もうすぐ屋敷へ帰るが、何か土産はいらないかとね。」
「はぁ。」
「もうこれでメイド長は今日別荘に電話をかけてこないだろう。話すべきことはもう終わったんだからね。」
いたずらっぽいお顔で話される武様のお顔を見て、私はやっと合点がいきました。
「『僕に任せておきなさい』と昨日仰ったのはこういうことだったのですね。」
「ああ。」
なるほど妙案です。
電話がかかってくるか心配するのではなく、かかってこないようにすれば良いというわけですね。
「勉強になります。」
神妙に頷くと、武様は優しく笑って下さいました。
映画を見終わり、また車で移動しました。
武様が運転なさる姿を横目でそっと見て、高鳴る胸の鼓動を抑えておりました。
「──、麻由?」
「はっ?…あ、何でございましょう?」
突然呼ばれて驚き、変な声が出てしまいました。
「昼食はどうする?何か食べたいものはあるかい?」
「いえ、特にというものはございませんので。武様にお任せいたします。」
「そうか。さっきモーニングを食べたから僕はあまりお腹が空いてないんだが。」
「私もそれほどでは……。」
「じゃあ、先に水族館に行こうか。」
「はい。」
再び運転に集中なさる武様のお顔をまたそっと盗み見て、幸せを噛みしめました。
水族館は入り口を入り、順路を進むと北半球から南半球へと南下していく趣向になっておりました。
その途中には淡水のゾーンもあり、日本の魚も見ることができました。
館内は暗く、水槽だけが明るくライトアップされているため、足元に少し不安があります。
武様がそっと手を繋いで下さったので、安心して歩くことができました。
ホッキョクグマの迫力に驚き、ラッコの可愛さに頬が緩み、エチゼンクラゲの水槽では思わず後ずさりして。
南半球のゾーンでは、見たことも無いようなアマゾンの生物やアフリカの魚に二人で見入りました。
館内の売店では展示動物のキーホルダーや文房具、お菓子などが販売されておりました。
こちらも興味深く見ていくと、ぬいぐるみコーナーで思わず立ち止まってしまいました。
ホッキョクグマの赤ちゃんやカワウソのぬいぐるみの可愛いこと。
あまり似ていないマンボウやエイのぬいぐるみには苦笑いが漏れました。
「麻由、これが気に入ったのかい?」
二つを手に取って笑いを堪えている私に、あちらで絵葉書を見ておられた武様が近付いて尋ねられました。
「いえ、違うんです。動物のぬいぐるみは可愛いのに、お魚のぬいぐるみはなぜこんなに可笑しいのかと思いまして。」
「ああ、確かにそうだ。魚はぬいぐるみには向かないんだね。」
武様もエイのぬいぐるみを手に取られ、苦笑いされました。
水族館を出ると、入り口のほうで何やら人だかりができていました。
覗き込むと、水族館の来場20万人目のお客さんということで1組のカップルが表彰されていました。
水族館の年間パスやグッズが館長らしき人から渡され、お立ち台に立ったカップルは嬉しそうに受け取っていました。
「昼食をとったあとに来れば、僕らがあそこに立っていたかも知れないね。」
「ええ。」
幸せそうなカップルを見ながら、そう返事をいたしました。
もしあれが私たちだったなら、一生の思い出になりましたのに…。
水族館を後にして、街中へと戻りました。
こちらにもショッピングモールがあり、華やいだ雰囲気です。
旦那様の会社が今度五郎浜に作られている総合施設よりは小さなものだそうですが……。
大手スーパーとテナント部分の2つが連結したそこは、私には十分大きく思えました。
これより大きなものを作るという遠野家の会社は、やはり余程の企業だということでしょう。
その跡を継がれる武様が、今こうして私の隣に立っておられるということがなんだか不思議に思えました。
テナントに入っているお店は多岐に渡りました。
アクセサリー、バッグ、洋服、花屋に飲食店なども。
「麻由、僕はちょっとここで買い物をしていくから。」
一つのお店の前で立ち止まられた武様がそう仰います。
「はい。私もお供します。」
「いや、朝に言っていたメイド長への土産なんだ。
君に選んでもらったんではあの人のことだ、たやすく見破るだろう。
だから僕だけで選ぶよ。麻由は他の店でも見てくるといい。」
「宜しいのですか?」
「ああ。そうだな、僕の個人的な買い物もあるし、1時間経ったらまたここに来てくれ。」
「かしこまりました。」
「だから、今日はその口調を直すように言っただろう?もっと砕けた言い方でいいんだ。」
武様は私の肩に手を置いて苦笑いされた後、店に入って行かれました。
私も時間をつぶそうと思い、通路を挟んで向かい合っているお店を順に見ていきました。
今日のことは二人だけの秘密なので、私はお土産を誰かに買うわけにはいきません。
それも張り合いが無いな、と漠然と寂しい気持ちになりました。
それならばせめて自分に何か買おうかしら。
武様と過ごした一日をずっと覚えていられるような何かを…。
気持ちを切り替え、お店を見て回りました。
記念になるもの……アクセサリーに日付でも彫ってもらおうか、とあちらに見えるお店へ足を速めたとき。
その手前にあるビジネスバッグのお店がふと目に入りました。
ショーウインドウに陳列されているレザーバッグが、武様が毎日持っていかれるバッグに似ていたのです。
それに興味を引かれ、私はお店の中に入りました。
同じものを買うのはとても無理ですが、似た色目の小物なら思い出になるかしらと店内を探しました。
「プレゼントですか?」
声を掛けられて振り向くと、品の良い男性店員が立っていました。
「え、ええ。」
プレゼントと言われれば一応そうかも知れません。
「お若い方なら、こちらの財布かパスケースなどいかがですか?
お父様になら、シガレットケースなどもあちらに陳列しております。」
視線をさまよわせる私を見て、店員さんはあれこれ提案してくれました。
そうじゃなく、私は自分のものを…と言いかけたところで私はあることに気付きました。
お店には女性が持つような色目やデザインの革製品が無かったのです。
どうやら、男性用レザーショップに入ってしまったようでした。
間違いでしたとすぐ踵を返すのも…と思い薦められた商品を見て歩きました。
父に何か買おうかとも思ったのですが、タバコを吸わない父にシガレットケースは贈れません。
やはり店を出るしかないと入り口のほうへ視線を遣ったとき、私はハッとある考えに至りました。
武様に何かプレゼントをしよう。
私は自分に何も買わなくても、きっと今日のことを忘れることはないでしょう。
でも武様はどうでしょう。
学校を卒業し、社会人となられたら忙しくなられ、いくらも経たないうちに忘れられるかも知れません。
何かを私が贈ることで、今日のことが少しでも長く武様の記憶に留まれば良いと思ったのでございます。
先ほどの店員さんの言葉を思い出し、ガラスケースに入った革小物を見つめました。
武様のお財布は、大学入学のときに旦那様からお祝いで贈られた大事なものです。
移動される時はいつも運転手付きの車ですので、パスケースも必要ありません。
ですから、薦められた二品は買えないという結論に達し、他のものを探しました。
お財布とパスケース以外の革小物は限られていました。
狭い範囲のそこをじっと検分すると、一つの名刺入れが目に入りました。
それは革のきめが細かく、ステッチの綺麗な深いブラウンの名刺入れでした。
「お決まりですか?」
先ほどの店員さんが戻ってきて、真剣にガラスケース内を見つめる私に声を掛けました。
「あの、この名刺入れが見たいのですが……」
「はい。今お出ししましょう。」
ガラスケースが開けられ、その名刺入れが私の手に乗りました。
そっと開けてみると、中はいくつかのポケットに分かれていました。
「これは革の断面を薄く削いでから組み合わされていますので、容量の割りに薄いんです。
上質の革ですし、長く使っていただけると思いますよ。」
「長く使っていただける」という言葉に私は反応しました。
武様はまだ名刺入れはお持ちではなかったはず。
それならこれをプレゼントすれば、入社されてしばらくは使っていただけるでしょう。
物を大切になさる方だから、もしかしたらずっと長く使っていただけるかもしれません。
私が差し上げた物を長く使っていただけるなんて、考えるだけでも光栄なことです。
「他にも名刺入れはあるのですか?」
すぐにでも「これを下さい!」と言いたくなるのを抑え、念のために尋ねました。
こちらにも、と指で示されたのは同じ製品の型押しタイプのもの。
ワニ革風のそれが、先ほど水族館で見た淡水ワニを思い起こさせて何だか可哀相になりました。
シンプルなほうを選び、お会計を済ませてプレゼント包装を頼みました。
私のお財布には痛い金額でしたが、武様に使っていただくならこれくらいのものでないといけません。
裏にネームが入れられるとのことでしたが、時間がかかるそうなので断ってお店を出ました。
しばらく歩いて、夕食の後にでも渡そうと思いそっとバッグの中に包みを仕舞いました。
それからまたお店を見て歩きました。
書店で料理の本を立ち読みして、明日のお夕飯のヒントを探したりもして。
結局、自分には何も買うことはなく、時間が来たので元の場所へ戻りました。
「武様。お買い物はお済みになりましたか?」
店内にいらっしゃった武様の傍へ寄り、呼びかけました。
「ああ、これを買ったんだ。」
武様は手に持った紙袋を示してそう仰いました。
「麻由は何か買い物をしたかい?」
「は…いいえ。書店で本を読んでおりました。」
本当は買ったのですが、秘密にしておきたくて嘘をついてしまいました。
「待たせて済まなかったね。じゃ、行こうか。」
夕食の予約時間が来るまでショッピングモール内を二人で歩きました。
ゲームセンターの前を通りがかった時、「一度やってみたかった」と武様はUFOキャッチャーに挑戦されました。
一度目は失敗でしたが、次は景品の傾きやアームの位置を慎重に計算され、二度目は見事に成功なさったのです。
景品のキャラクターぬいぐるみは私に下さることになりました。
「昼間のエイとマンボウには負けるが、今日の記念に。」と手渡され、私は思わずそのぬいぐるみを抱き締めました。
お屋敷へ帰ったら、部屋に大切に飾ろうと決めたのです。
夕食のお店の予約時間に間に合うようにショッピングモールを出ました。
お店は海沿いにあるそうで、今朝通ってきた道を戻って向かいました。
私は運転される武様を時たま盗み見しながら、車窓の景色に目を遣っておりました。
「麻由?着いたよ。降りようか。」
「はい。」
車が止まり、武様に促されてドアを開けました。
「えっ……?」
振り返ってお店のある方向を見たとき、私は絶句してしまいました。
「どうしたんだい?」
「お夕食を…こんな立派なところで?」
「そうだよ。ここは昔、両親と何度か来たことがあるんだ。」
事も無げに仰る武様ですが、私はあっけにとられてただ目を見張っておりました。
別荘をお持ちの方しか来られないような、一目で高級だとわかる瀟洒なレストランの前でしたから。
「あの、武様とご一緒できるなら私は別にどこでも…」
「どこでもいいなら、ここでいいじゃないか。」
そう仰った武様に私は肩を抱かれてエスコートされ、うやむやのまま店内へと入ることになりました。
「……」「……」
いけないとは思いつつも、キョロキョロと見回してしまいます。
外見同様に中のインテリアもお洒落なお店です。他のテーブルにいる面々も垢抜けた方ばかり。
「そんなに珍しいかい?」
苦笑いしながら武様が仰います。
「あっ、申し訳ございません。」
お屋敷なら「どんな場においても落ち着きを持って振舞うようにと教えたはず!」とメイド長からお叱りを受ける状況です。
もちろん武様はこの雰囲気に違和感無く溶け込んでいらっしゃいます。
なんだか私一人が場違いな気がしてきてしまいました。
「ドレスコードも無い気楽な店だよ。ただ、別荘族が気張って上品ぶっているだけさ。」
「はぁ……」
遠野家にお仕えするときに講習で学んだきりのテーブルマナーを、私は必死で記憶の底から掘り起こしておりました。
男性給仕人(何と呼ぶのかすら分かりません)が来て武様が注文を述べられたことすら気付きませんでした。
「──と、──でいいかい?麻由。麻由?」
「…はっ?な、何でございましょう?」
いきなり現実に引き戻され、変な声で返事をしてしまいました。
武様は苦笑されたのち、ご自分と同じものを私に注文してくださいました。
「どうだい?麻由。」
「……はい。美味しい、です。」
みっともなく見えないように必死でフォークとナイフを動かしながら答えました。
「本当に?」
含み笑いをしながら仰る武様のお顔を恨めしく見つめました。
実際は、自分が今何を食べているのかすらはっきりとは分からないのです。
美味しいのですが、食べているメニューに実感が無いと申しましょうか。
パスタが出てこないので、イタリア料理店ではないのだと思いますが……。
メニューも、「魚料理」「サラダ」くらいの大づかみな範囲でしか分かりません。
別荘にいる間は武様の朝夕のお食事を作っておりますのに、情けないことです。
こういったお料理のこともしっかり勉強すれば、分かるようになるのでしょうか。
「もうこの後はデザートとコーヒーだけだから、安心して食べなさい。」
「はい。」
まるで兄か父親のような優しい眼差しで武様がそう仰いました。
武様のお言葉の通りになり、最後のコーヒーを頂きながら私はホッと息をつきました。
何か、試験の日程を一通り終えたような気分でございました。
せっかく武様がこんなに素敵なお店を用意してくださったのに、十分楽しめなかったのが心残りです。
こんな機会は二度ともう無いかもしれないのに…と悲しくなり、テーブルクロスに視線を落としました。
「麻由?どうしたんだい?」
「な、何でもございませんわ。」
「そうかい?なんだか悲しそうな顔をしているが……」
いけない。ご主人様に気を使っていただくなどメイドとして失格でございます。
「いえ。今日がもう終わってしまうのが寂しいなと思っただけでございます。」
私は下を向いた理由をあいまいにごまかし、なんとか微笑みました。
「……ああ。」
「武様、今日は本当にありがとうございました。
私、今日のことはきっと一生忘れることはないと思います。」
「楽しんでくれたかい?」
「ええ。武様を一日独占できるなんてすごく幸せでございましたもの。」
「そうだね。僕たちは一日一緒にいることなんて今まで無かったからね。」
「はい。本当の恋人同士のようで、麻由は嬉しゅうございました。」
「うん。」
それから、今日の映画のこと、水族館のこと、ショッピングモールのことなどを色々と話しました。
「メイド長には何をお買いになったのですか?」
「ああ、珊瑚のかんざしを買ったんだ。
あの人は和装することがあるからね。」
「まあ。メイド長もお喜びになることでしょう。」
「うん。あの人は怒らせるより喜ばせておいたほうが気が楽だからね。」
「本当でございますね。」
思わず深く同意してしまい、目を見合わせて笑いました。
帰りの車中からは、美しい海沿いの夜景を見ることができました。
武様が高台に車を止めてくださり、二人並んでしばし見とれました。
「別荘には何度も来ているが、夜景を見たのは今日が初めてだ。」
「はい。」
「麻由と一緒に見られてよかった。」
武様は私の肩を優しく抱き寄せられ、口づけてくださいました。
別荘に帰り、リビングのソファに座られた武様にお茶をお出ししました。
一緒に飲もうと言ってくださったので、私もカップを持ち座りました。
「あと4日だが、ここを離れるまでよろしく頼むよ、麻由。」
「はい。一生懸命お勤めいたします。お任せくださいませ。」
武様は本当に嬉しそうに微笑んでくださいました。
先程買ったプレゼントを渡すなら今しかありません。
「あの、武様。」
「何だい?」
「……あの、お渡ししたいものがあるのですが。」
「僕に?」
「はい。」
私はバッグをたぐり寄せ、プレゼントの入った包みを取り出しました。
「今日の感謝をこめまして、お渡ししたいのです。
つまらない物ですが、どうぞお受け取りくださいませ。」
テーブルのあちら側にいらっしゃる武様に向け、その包みをテーブルの上に置きました。
「開けてもいいかい?」
「ええ。」
武様はリボンと包装紙を外し、箱の蓋を開けられました。
「名刺入れでございます。
武様はこれから仕事上の方とたくさんお会いになると思いましたので……。」
じっと箱の中身を見たままの武様のお顔が真剣でした。
まさか、お気に召さなかったのでしょうか。それとも困惑なさっておいでなのでしょうか。
「…あの、武様?
お気に召さないのでしたら、無理に受け取っていただかなくても良いのです、これは片付け……」
「麻由!」
武様は急に手を伸ばされ、宙にさまよっていた私の手を取られました。
「ありがとう、すごく嬉しいよ。」
そのまま手をギュッと握られ、力強くそう仰いました。
「……あの、よろしければお使いくださいませ。」
「ああ。大事に使わせてもらう。麻由がくれたものだからね。」
「いえ、そんな……。」
「この一週間で何枚も名刺を貰ったから、さっそく使わせてもらうよ。
会社に入って自分の名刺ができたら、これに入れて毎日持ち歩かなければね。」
「…はい。」
優しくそう仰ったのに、胸が熱くなりました。
「…麻由に、先を越されてしまった。」
手をお離しになった武様がそう仰いました。
「えっ?」
首を傾げた私に、武様はご自分のバッグから何やら取り出されました。
「今日の記念に、僕も麻由へのプレゼントを買ったんだ。受け取ってほしい。」
驚いて、私は武様のお顔とその包みを交互に見つめました。
お手にあるそれは、上品な深いブルーの細長い包みでした。
「宜しいのですか?私に?」
「ああ。」
受け取ろうとそっと差し出した手が震えました。
「開けてみなさい。」
促され、私はおそるおそるリボンに手を掛け、ほどいて包みを開けました。
「まあっ……」
開けた瞬間、思わず息を飲みました。
美しい淡水パールの三連になったネックレスが出てきたからです。
留め金に花細工をあしらった、若々しいデザインの可愛らしいネックレスでした。
いくつもの小さなパールが、光に反射してきらきらと光っています。
「いいだろう?メイド長へ土産を買ったのと同じ店で見つけたんだ。
一目見て、麻由になら絶対に似合うと思ったんだ。」
胸がいっぱいになり黙り込む私の耳に、得意気にそう話される武様のお声が聞こえてきました。
「………ありがとうございます。」
私は包みを抱き締め、深く頭を下げました。
嬉し涙が目から溢れ、頬を流れました。
ネックレスは着けてみるのも畏れ多かったので、ケースのままそっと胸元に当てて見せると、武様は微笑んでくださいました。
いよいよ、東京に戻る日が来てしまいました。
がっかりしつつも、最後まできちんとしなければと、別荘を後にする準備をします。
昼過ぎにはお屋敷の運転手が来て、武様と私を連れ帰ってくれるのです。
私が命じられて買ったあの3つの箱、そして頂いたぬいぐるみとネックレスは武様が預かってくださいました。
「メイド長が麻由の荷物チェックをするといけないから、念のために」と。
行きと同じく助手席に座り、車窓の景色を見つめながら戻ります。
本当に、夢のような十日間でございました。
お屋敷に戻り、メイド長に今回の最終報告を致しました。
終わった後に荷物チェックをされ、私は武様の仰るとおりにしておいて良かったと胸をなで下ろしました。
将来有望な方は、こんな所にまでお目が利くのですね。
預かっていただいたあれこれをメイド長に見られでもしたら、どうなっていたか分かりませんもの。
メイド長は私が古本屋で買い求めたあの料理本を見て「その姿勢が大事です」と珍しく褒めてくれました。
良いものだけが目にとまったことで、自分の株が結果的に上がりました。
それから、私は二日間のお休みを頂きました。
仕事がないと武様のいらっしゃる母屋には足を踏み入れられないので、お休みなど要らなかったのですが…。
三日後に武様のお部屋に夜伺い、預かって頂いていた物を受け取りました。
ぬいぐるみは自室のベッドの上に置き、一人寝の夜には抱き締めて眠ります。
ネックレスは、もったいなくて身に着ける機会が無いまま大事に仕舞ってあります。
あの3つの箱は……武様のお部屋の鍵つきの引き出しに保管されることになりました。
お部屋に伺うたび、「麻由が買ってきた思い出の品が減っていくね」と武様にからかわれます。
特にフルーツの香りのするものを使われるときは、一段と嬉しそうにそう仰るのでした。
──終わり──