「波紋」
4月の声を聞く頃、お屋敷にお客様が訪ねて来られました。
「メイド長?あの、コモリ様と名乗られる方が旦那様を訪ねて来られたそうなのですが…」
「コモリ様?」
門番からの内線を取り次いだメイドに呼ばれ、首を傾げました。
はて、武(たける)様にそんな名前のお知り合いはいらっしゃったかしら。
しばらく考えますが、思い出せるようで思い出せません。
「『メイドの麻由さんを呼んでくれれば分かる』と仰っているようですが…」
「わかったわ。しばらくお待ち頂く様に言って頂戴」
万が一にも大事なお客様だといけませんので、門まで行ってお顔を見ることにしました。
「あの、ごめんくださいませ」
門扉の前まで行き、インタホンの脇にお立ちのその方に呼びかけます。
「ああ、麻由さん。いらっしゃったんですか」
振り返り、ニッコリと笑われたその方のお顔を見て、私はやっと思い出しました。
その方は武様の大学時代のお友達、小守洋一(こもりよういち)様だったのです。
武様と小守様は大学一年のときに知り合われ、卒業の時まで仲の良いお友達でした。
同じゼミにも入られて、その中でも特に気が合ったようで、お屋敷に遊びに来られたことも一度や二度ではございませんでした。
苦学なさっていた小守様は、お食事の時にはそりゃあもう気持ちが良いほどの食べっぷりを発揮されて。
食の細かった先代の旦那様が苦笑いなさるほどだと申し上げれば、その勢いが分かっていただけるでしょうか。
しかし、決して見苦しい食べ方ではなく、きれいにお皿を空にされるのには好感が持てたのを覚えております。
食事をご馳走になったお礼にと、小守様はたまに屋敷の仕事を手伝って下さいました。
武様のお客様なのですから…と断っても、いや何かさせて下さいと食い下がられて。
リネン類の持ち運びなどの力仕事を手伝って頂いたのを覚えております。
武様の自室にお茶をお持ちした時に、ゼミの皆様に配るのを手伝ってくださるのも小守様でした。
カード遊びをなさる時には、人数が足りないと私も呼ばれ、何度かご一緒したこともございます。
ルールを把握しきれずに負けてばかりの私に、丁寧に教えて下さったのもこの方でした。
小守様は大学を卒業後、貿易関係の会社に就職され、武様とは交流が途絶えがちになりました。
先代の旦那様の跡を継がれた武様もお忙しくなられて、以前のようには行き来できなくなったのです。
ですから、私も今回お会いするのはほぼ5年振りという計算になります。
応接室へお通しし、お茶をお出しして座って頂きました。
会社の方へ小守様の来訪を知らせようとしたのですが「突然来たのは僕ですから。遠野が帰るまで待ちますよ」と仰って。
その代わりに話し相手になって欲しいと頼まれ、私は向かいのソファに腰掛けました。
小守様はこの5年余り、自分がどうしていたかをお話になりました。
会社に就職され、コーヒー豆の輸入に関わる部署に配属になった小守様は。
しばらくして南米に駐在員として渡られ、あちらで数年過ごされた後、今回日本にお戻りになったそうでございます。
「独身のうちに海外に遣られるのは、うちの会社の通過儀礼のようなものですよ。
もう、しばらくは日本にいるつもりですから、また遠野に会いたくなって来たんです」
こう仰るのを聞いて、私は嬉しくなりました。
心を許せるお友達とまた交流できるのですから、武様もきっとお喜びになると思いましたから。
会社からお帰りになった武様に、小守様の来訪を知らせました。
武様はスーツも脱がぬまますぐに応接室に入られ、小守様と久しぶりの対面をなさいました。
積もる話もあるとのことでしたから、今日はお泊りになるかも知れません。
メイドの一人に来客用寝室の用意をするように申し付け、厨房の方にもその旨知らせました。
夕食の席は、久しぶりに賑やかなものになりました。
執事の山村さんや古株のコックさんなど、学生時代の小守様と面識のある人たちとの再会もあり。
いつもはお一人で食事なさる武様も、よく笑い、朗らかになさっていました。
この夜は二人してお酒を飲まれながら、遅くまで語られていたようでした。
それからも、小守様はちょくちょく屋敷を訪れられるようになりました。
来られるたび、会社で扱っておられるコーヒー豆や、珍しい外国の食べ物を持ってきて下さって。
屋敷の使用人達にも行き渡るようにと気を使ってくださるので、皆感謝しております。
お客様が来られることはあまり無いので、皆、小守様の訪れを楽しみにしているようでした。
小守様がいらっしゃるのは、大抵金曜や祝祭日の前日です。
武様のお帰りが遅い時には、私が話し相手になってお待ち頂きました。
何年も外国にいらっしゃった小守様のお話は、珍しいことばかり。
日本を出たことのない私には、とても刺激的で興味があったのです。
木になっている時のコーヒー豆は赤い色をしているなど、全く知りませんでしたもの。
武様がお帰りになると私は席を外しますが、小守様が引き止めて下さる時があり、3人でお話をすることもありました。
「麻由さん。遠野の誕生日は、そろそろだったと思うんですが…」
数ヶ月経ったある時、小守様がそうお尋ねになりました。
「ええ。8月の18日ですわ」
「あ、そうでしたか。するとまだ少し先ですね」
「はい」
「今年は、何か贈ってやりたいのですが…」
「まあ!ありがとうございます」
思わずお礼を申し上げると、なぜか小守様が笑われます。
「なぜ、麻由さんがお礼を言われるんですか」
「あっ…」
好きな方に親切にしてくださるのに、思わずお礼の言葉が出てしまったのでございます。
差し出がましかったかと、反省いたしました。
「何を買ったらいいか分からないので、プレゼントを買うのに付いて来てくれませんか?」
「えっ?」
突然そう言われ、私は目を瞬かせました。
「メイド長の麻由さんなら、遠野の好みをよく知ってらっしゃるんじゃないかと思って。
お忙しいなら、無理にとは言いませんが」
「はあ…」
顎に手を当て、しばし考えました。
小守様の優しいお心遣いを、無駄にするようなことがあってはいけません。
武様の好みをお教えして、それに叶ったものを選ばれる方がお二人にとって有益ですもの。
「かしこまりました。お付き合い致します」
「頼みましたよ。日にちはまた相談しましょう」
小守様はなぜか目を少し眩しそうに細められ、そう仰いました。
プレゼントを買いに行くのは、お盆の明けた8月下旬に決まりました。
場所は、最近紳士向けのフロアを大々的に増床したデパートです。
13時に噴水の前で待ち合わせをすることになりました。
小守様のお買い物に付き合うついでに、私も武様へのプレゼントを選ぼうと決めていました。
当日、小守様と落ち合い、デパートの中に入ります。
目指す紳士向けフロアに入り、案内板の前に立ちました。
「さて、どうしましょうか」
「ええと?」
一面に並ぶ横文字に、頭がくらくらしました。
「男性化粧品や下着類は変ですよね」
「ええ、そうですね」
「スーツや靴も違うし…。ああそうだ、このメンズアクセサリー売り場に行ってみましょうか」
「はい」
移動し、売り場の前に立ちました。
メガネやベルト、帽子、装飾品などがセンス良く並べられ、客の目を誘っています。
二人で並んで、陳列ケースを端から見ていきました。
「麻由さん、これなんかどうですか?」
「えっ?」
大きなテンガロンハットを手に取り、小守様が仰います
「あいつがこれを被ったら、楽しいでしょうね」
さもおかしそうに言われるのを見て、笑みが零れました。
武様がテンガロンハットを…考えただけでミスマッチです。
「じゃあ、こっちはどうですかね」
ハンチング、ニットキャップと小守様が次々と手に取られました。
それを身につけられる武様のお姿を想像し、二人で笑い合いました。
ひとしきり楽しんだ後、別のフロアに行くことにしました。
ビジネスマン向けの文房具、パソコン用品などの売り場へと移動し、品物を見ます。
当初は候補から消した男性化粧品フロアにも行って、香水やシェービング用品、葉巻なども見ました。
「うーん」
一旦エスカレーター横のベンチに座り、腕組みをなさった小守様のお顔を見つめます。
「結構目移りするものですね」
「はい。本当に」
「麻由さんは、どれがいいと思われました?」
「そうですねえ…」
私も、決めかねておりました。
小守様が私を見込んでお買い物の助っ人を頼まれましたのに、情けないことです。
「男性から男性へのプレゼントというのは、難しいものですね」
「そうですか?」
「はい。女性からなら、ネクタイやハンカチでも構いませんが、男性からとなると、ちょっと違うように思えませんか?」
「なるほど。言われてみればそうです」
「困りましたね」
「じゃあ、靴下なんかどうですか?いくつあっても困るものじゃなし、大丈夫そうですが」
「え…と、それはちょっと…」
「駄目ですか?」
「はい。確か、どこかの国では靴下を贈るのは『私を自由にして下さい』という意味になると」
「『自由に』?」
「ええ」
昔、良かれと思って武様に靴下をプレゼントした時、そう教えられたのです。
「麻由は知っていて靴下をくれたんだろう?君を自由にして構わないんだよね」と愉快そうに言われ、目を白黒させたのを覚えております。
ここまでを言う必要はないので、小守様には黙っておきますが。
「それは避けた方が賢明だ。じゃあ別のものを考えないと」
「ええ」
二人で案内板の前に立ち、相談しました。
「小守様、お酒はどうでしょう?」
「酒ですか?」
「ええ。飲んだら無くなってしまう物ですけれど、きっと小守様と一緒に飲まれるなら喜ばれると思います」
「なるほど。そうかも知れませんね」
「はい。ですから、地下に行ってみませんか?」
「そうしましょうか」
エスカレーターでデパートの地下へ降り、お酒の売り場へと足を向けました。
「参ったな。これはこれで目移りしますね」
「そうですね。た…ご主人様は、最近は焼酎をよく召し上がられますけれど」
「ああ、僕と飲むときもそうですね。じゃあ先に見てみましょうか」
「はい」
私が先になり、焼酎売り場へ入りました。
昨今のブームもあり、売場面積が広くなっているようです。
丁度、ハッピを着た蔵元の人が試飲サービスをしていました。
「あら…?」
私は、ハッピに白抜きで書かれた焼酎の名前をじっと見つめました。
その文字に見覚えがあったのです。
「麻由さん…?どうかしたんですか?」
「え?あ、はい」
「ちょっと失礼して、試飲させてもらおうと思うんですが」
「ええ、どうぞ」
紙コップを受け取られる小守様の背中を見ながら考え、やっと思い出しました。
一ヶ月ほど前、武様のお部屋で二人で見た雑誌に小さく掲載されていた焼酎の名前だということに。
九州の小さな蔵元で、家族と数人の職人だけで作られており、ほとんど県内で消費される品物で。
通信販売も受け付けず、その土地でしか買えないという入手困難な焼酎だと記事にはありました。
鹿児島や熊本以外でも焼酎の蔵があることを初めて知り、興味深く読んだのを覚えております。
「そこでしか買えないというのがいいね」と武様が仰ったのも思い出しました。
試飲を終えられた小守様にそのことを話し、これをプレゼントなさったらどうかと提案いたしました。
「なるほど、そりゃあいい」と頷かれ、小守様はこれにお決めになりました。
消えものだけでは何だからと、焼酎用のタンブラーもご購入になり、セットで渡されるようです。
「デパートの酒販担当に拝み倒されて、今回だけということで出展したそうです」
会計を終えられた小守様が仰って、私はこの巡り合わせが心から嬉しくなりました。
「麻由さん、あいつが驚くのが見たいから、僕に話したことは内緒にして下さい」
「ええ、かしこまりました」
私も武様の驚かれるお顔が見たいので、その場には是非同席したいものです。
お買い物が終わり、喫茶室に入りました。
フロアをあちこち歩いたので、足が少し疲れましたから。
二人ともコーヒーを注文し、窓際の席で外を歩いている人を見下ろしました。
「人があまりいませんね」
「そうですね。皆、暑いから出歩かないのでしょうか」
「ええ。僕だって、今日は予定が無かったら家でごろ寝していますよ」
「まあ」
武様の為にわざわざ暑い中を出てきて下さったのですから、有難いことです。
「麻由さんも、熱心に見てらっしゃいましたね」
「え?…ええ」
「遠野に何か贈られるんですか?」
「はい。私の誕生日にも、いつも頂いていますから」
「そうなんですか。遠野も隅に置けませんね」
小守様は、武様と私の関係をご存知ではありません。
主人がメイドにプレゼントをするなど、奇妙に思われたのでしょうか。
「麻由さんの誕生日はいつなんですか?」
「10月です」
「何日の、何座ですか?」
「27日の、さそり座ですわ」
「ほお。『さそり座の女』というやつですね」
「え、ええ」
「じゃあ、情熱的なんですね」
「えっ?さあ…」
見つめられ、思わず下を向いてしまいました。
「麻由さん、こっちを向いて下さい」
小守様が呼びかけられ、私はしぶしぶ顔を上げました。
「あのー…」
「はい?」
小守様が、少し赤い顔をしていらっしゃいます。
さっき焼酎の試飲をされたせいでしょうか。
「僕と、付き合ってくれませんか?」
「えっ?」
あまりに意外なその言葉に、私は心底驚きました。
「大学の時から、麻由さんのことは気になってたんです。
お屋敷のメイドさんだからと一旦は諦めたんですが。久しぶりに再会して、何度か会っているうちにやっぱり惹かれてしまって…」
小守様がさらにお顔を赤くしながら仰るのを、私は呆然と聞いておりました。
「…麻由さん?」
「あ、えっ?はい!」
呼びかけられ、調子の外れたおかしな声が出てしまいました。
それが恥ずかしくなり、頬に血が昇って、小守様と私は赤い顔で向かい合いました。
「急にこんなことを、済みません」
深呼吸をした小守様が仰います。
「いえ…」
胸の動悸を抑え、短く返答しました。
「いつ言い出そうかと迷っていたんです。麻由さんさえ良ければ、僕と、結婚を前提とした付き合いをして欲しいんです」
結婚。
その二文字が、胸にずしりと重くのしかかりました。
「僕もそろそろ身を固めて、母親を安心させてやりたいし…。
あ、いや同居ってわけじゃないんです、最初は別居で、夫婦水入らず…って何言ってんだろう俺」
慌てたように言い募られる小守様を見ながら、胸に生じた痛みと対峙しました。
私にも、実家に残した父がいます。
老いた父に花嫁姿を見せてあげたいのは、私も同じ。
でも、花婿は…。
そこまで考え、私は暗い穴の中に落ちていくような気分になりました。
花婿は、武様ではないのでしょう。
あの方と私は、夫婦にはなれないのですから。
「今すぐに返事が欲しいんじゃないんです」
暗い顔をした私を見兼ねたのか、小守様がそう言って下さいました。
「僕はそういう気持ちで麻由さんに今後接するということを知ってほしくて」
「…ええ」
「それすら、迷惑ですか?」
否定しようとして、私は口ごもりました。
迷惑なのかそうでないのか、自分でもよく分からないのです。
とても勿体ないお申し出であることは分かるのですが。
「ご主人様に相談してみませんと。私の口からは、あの…」
何と言っていいか分からないまま、ようやく出た返事がこれでした。
「そうですか、じゃあ待ちますから。遠野に聞いてみてください」
小守様はそれ以上押されずに、話を終えられました。
小守様が席をお立ちになり、今日のお礼を仰って喫茶室を出られるのをぼんやりと見ておりました。
結婚。
いきなり思考のど真ん中に飛び込んできたこの言葉に、私はまだ平常心を取り戻せないでおりました。
今まで必死でこの言葉からは逃げておりましたのに。
そのつけが、大きな負債となって覆いかぶさってきたような気分でした。
武様との関係が始まった頃は、私も将来について甘い夢を見ることがありました。
この方と一緒になって、子供を産んで、ずっと仲睦まじく暮らすというような。
しかし、年を経るに従い、私は次第にその夢を幾重にも重ねた箱に入れ、心の奥底に仕舞いこむ努力をするようになりました。
現実が見えてきたと申し上げた方が分かりやすいでしょうか。
二人の生い立ち、置かれた立場の大きさの違い。
こういった物が、徐々に形を成して私の周りを取り囲む壁となってくるのを感じておりました。
心は通っていても、武様と私のいる場所はそれらに隔てられています。
時たま、体が触れ合うことでその壁が一時的に無くなったような錯覚をしているだけ。
だから、武様に愛されているといい気になって、深みにはまって溺れてはならない。
自制心を忘れてはいけないと自分に何度も言い聞かせ、日々を過ごして参りました。
「麻由は僕のものだ」というのは、ベッドを共にする時に武様がよく仰る口癖です。
その通り、私は身も心もお捧げしているのですから、これに関しては何も言うことがありません。
でも、反対に「僕は麻由のものだ」と武様は一度も仰ったことはないのです。
武様は、遠野家と経営する会社を統べられる重責にあるお方。
たかがメイド一人如きのものであるはずがありません。
睦言を交わす時にさえこう仰ったことが無いのは、武様なりの思いやりなのでございましょう。
甘い嘘で私の心を縛るのを躊躇されているのだろうと思うのです。
武様に「僕は君のものだ」と言って頂きたい。
言われたら言われたで困るくせに、私は、随分長い間この望みを持ち続けておりました。
武様に優しい言葉を掛けて頂くたび、ベッドで愛されるたび、この望みが一時でも現実となっているかのように思えて。
もたらされる幸福感から逃れきるだけの、冷静な判断力を失くしてしまうのです。
共に生きていくことが叶わない方が、私のことだけをお考えになって今ここにいらっしゃる。
その嬉しさ、抗いがたい夢のようなものが、私を武様から離れられなくさせておりました。
私が世界中で一番愛している男性は武様です。
でも、武様には私などではなく、取引先のご令嬢などと結婚なさる方が御身の為なのです。
高貴な方は、恋愛によって結ばれるのではなく、もっと大きな家や会社というものによって結ばれるのですから。
武様のお母様もお祖母様も、しかるべき名家からこの遠野家に嫁がれてきたと承っております。
富や名声を末永く保つための、上流階級の方達の慣わしなのでしょう。
メイドなど、せいぜい奥様のいらっしゃらない時にベッドのお相手を務めるだけのものです。
そんな者とご当主が一緒になったなら、会社の先行き不安で株価や市場の評価などが大変なことになるかもしれません。
何人おられるかも分からないほど大勢の社員の方たちにもご迷惑をかけるのは必定です。
武様は独身でいらっしゃるから、今の私が唯一の女性のような形になっているだけ。
婚姻かなって奥様となられた方がお屋敷にいらっしゃれば、私の存在など消し飛んでしまうでしょう。
最近、武様と娘を娶(めあ)わせんとする方々の攻勢がとみに激しさを増しております。
「実力が未知数の跡継ぎ」が、お家の危機を見事に乗り越えられ「前途洋洋の企業家」になられたのですから、無理も無いことです。
先代社長が亡くなられた時に、社の未来を悲観して波が引くように去っていかれた方々も戻ってこられました。
武様と縁戚になれれば、きっと多大なメリットがあると皆様も分かっておいでなのでしょう。
パーティーの席などで、綺羅星の如く着飾ったご令嬢方を見るたび、自分との違いを噛み締めておりました。
武様と私は、特に行き着く先のない曖昧な時間をただ貪っているだけなのかも知れません。
今だけしか目に入らず、未来を一切見ていないのですから。
このままでは、二人ともにとって良くないのではないかと思ったのです。
一生遠野家にお仕えするというのは、二人の関係をずっと続けていくこととは違います。
むしろ私がいることが、武様が身をお固めになることの妨げになっているのではないのだろうか。
遠野家と会社の名誉と安定のためには、私はいずれ邪魔になる。
胸が苦しくなり、テーブルに手を付いて俯きました。
何も考えたくないのに、心が勝手に暴走し、考えがあちこちに飛びました。
男性は、プライドの高い方が多いと承っております。
友人の「お下がり」に過ぎない女を、小守様は結婚相手として見てくださるでしょうか。
もし、それでもいいと言ってくださるなら、私は…。
頭を振り、妙な考えを追い出そうとしますが、気持ちを切り替えることが出来ません。
いえ、小守様がどうといった問題ではないのでしょう。
武様がしかるべき方とご結婚され、私も身の丈に合った方と一緒になり、それぞれ別の道を歩む方が、結局は…。
そう、結局はそれが全て丸く収まる最善の方法なのです。
自分は一生武様のものだと思っていましたのに。
いつの間にか開いていた心の隙間に、身体ごと飲み込まれたような気分でした。
気分が晴れぬままデパートを出て、いつの間にかお屋敷へと戻っていたことに気付きます。
一人で武様へのプレゼントを吟味しようと考えていたことなど、頭からすっぽりと抜け落ちておりました。
もし帰り道であの喪黒福造さんと出くわしていたら、私はセールストークにまんまと乗せられていたことでしょう。
誰に相談できるわけもなく、日々が過ぎていきました。
自分でも呆れるほどに、武様への気持ちと、平凡で地道な幸せを求めたい気持ちがくるくると入れ替わって。
溜息ばかりで、鬱々とした毎日でした。
すぐに結論を出すだけの強さが、私には無かったのです。
武様のことを本当に思うなら必要な「別れ」という結末。
これが最善だと分かっていても、断ち切りがたい思慕の念が決意を鈍らせるのでした。
遠野家に一生お仕えすると決めたはずなのに。
武様が、誠に「心から大切に思っている」ご自分にふさわしい女性を見つけられ、ご結婚なさったら。
私はその方を「奥様」とお呼びして、お仕えしなければなりません。
武様のことは「旦那様」とお呼びすることになり、もうお名を呼ぶことは叶わなくなります。
やがてお二人の間にお子様が産まれられたなら、先代メイド長のように、私が主幹となってお世話をすることになります。
果たして、自分がそれに耐えられるのかどうか。
他の方と家庭を築かれる武様を、一番近くで見続けられるのか。
あれほど固かった決心があっけないほどに揺らぎ、不安ばかりが募りました。
私は、お屋敷を去ることになるのかも知れません。
悩んでばかりの数日が過ぎて、私はあるとき武様のお部屋におりました。
お仕事から戻られた際に例のお誘いを受け、今こうして抱き締められているのでございます。
武様とベッドを共にするのも、あと何回になることか。
奥様となる方がいらっしゃれば、私はもうこちらで武様に愛して頂くことを止めなければなりませんもの。
「麻由、何を考えている?」
「えっ…」
心中を察されたのかと、背筋がヒヤリとしました。
「今、僕以外のことを考えていただろう?」
「…」
「ほら、答えてみなさい」
武様が仰って、顔を覗き込まれます。
何とか誤魔化さなければなりません。
「…あの。武様のお誕生日に何をお贈りしようかと考えておりまして…」
必死で頭を巡らせ、思いついた嘘をつきました。
とても、本当のことを申し上げる勇気が出ません。
「ああ。プレゼントをくれるのかい?」
「はい」
嬉しそうなお顔で話される武様を見て、胸が締め付けられるように痛みました。
ちっともお疑いにならないほど、信用して下さっているのに、私は…。
「僕としては、麻由がくれるなら何でもいいんだけどね」
「いえ、やはりお役に立つものでないとと思いまして…」
「そうか。役立つものならいいんだね?」
「はい」
「じゃあ、僕が今まで買ってきた土産の下着を、全て着てくれるっていうのはどうだい?」
「…は?」
「いくつもあるのに、君は全然着てくれないからね。ファッションショーみたいに、次々来て僕に見せるっていうのは」
「あの、それは…」
武様のあまりにも突飛な案に、言葉を失くしました。
「せっかく買ってきたのに、着てくれないのは寂しいからね。何なら、日替わりでもいいよ?」
「でも、そんなことをプレゼントにするわけには…」
「本人がいいと言っているんだから、いいんだよ」
「…んっ!」
武様が首筋に吸い付かれ、ピリッと痛みが走りました。
「あの黒いのや、左右を紐で留めるのや、ビ…何とかいうのも」
「ビスチェ、でございますか?」
「うん、そんな風に言ったかな。多分そうだ」
「似合いますかどうか…。あんなにセクシーな品は」
「麻由は十分セクシーだよ?本人が、認めようとしないだけさ」
「はあ…」
「さ、もうお喋りはおしまいにしよう」
「ん…」
私の下着姿が、一体何に役立つというのでしょうか。
それをお尋ねしないまま武様に口づけられ、言葉を奪われました。
侵入してきた舌が、私の舌と絡んで水音を立てます。
こうなると、私はもう何も考えることが出来なくなってしまうのです。
力が抜けた私の身体を抱き締め、武様が唇を離されました。
名残惜しくそれを見つめていると、ヘッドドレスを外され、纏めた髪を解かれました。
ほどけた髪を梳かれ、武様が口づけを下さいます。
「さ、僕を脱がせてくれるかい?」
髪をかき上げて囁かれ、体が震えました。
武様の服をお脱がせし、あちらを向いて頂いてから私も脱ぎました。
「こんなに白くて綺麗な肌なんだから、ビスチェもきっと似合うだろう」
指を這わされながら、武様が仰います。
「僕は、あのガーターベルトという奴を、一度外してみたいんだ」
確かに、ビスチェとガーターベルトはセットになっていることが多いですが…。
「あれは男の夢だからね。外して、それから…」
含み笑いをされる武様に、少し引いてしまいました。
殿方が婦人下着について語られるなど、褒められた話ではありませんもの。
それに、ご存知ないのかも知れませんが、それは、厳密にはビスチェではなくスリーインワンというものです。
突っ込みを入れようかと迷いましたが、雰囲気を考えて止めました。
ベッドに相対して座り、見つめ合います。
「麻由…大好きだよ」
囁かれ、胸が熱くなりました。
愛する方にこう言われて、歓喜しない女性などいるものでしょうか。
「私も、お慕い申し上げております」
やはり、自分に嘘をつくことはできません。
実を結ばないとしても、これが私の本心です。
これくらいなら、たぶん、言っても支障はないでしょうから。
武様の口づけが、唇から喉、胸元へと何度も降り注ぎました。
「あ…」
強く吸いつかれ、チリッと痛みが走ります。
吸いついた跡を宥めるように舌で撫でられました。
そんなお気遣いはいらないのに。もっと跡をつけて下さっても構わないのに。
もどかしい思いで一杯になりました。
「武様…」
愛しい方を見つめる目が、縋るようなものになっているのが自分でも分かります。
「ん?」
「あの、もっと…」
うまく言葉にできないことが悔しく、唇を噛みました。
「声を我慢するのはやめなさい」
「あっ!」
胸の頂に吸いつかれ、高い声が上がりました。
「んっ…あぁ…」
私が思っているのはこういうことではないのに。
気持ちいい場所を愛撫され、意味のある言葉を発しようとしていた唇からは全く違う声が零れました。
「やぁ…あ…あ…武、様っ…」
舌先で胸の頂を転がされ、押し潰すように舐め上げられて強い快感が走ります。
反対側は指で弄られ、固くなってくるのが自分でも分かりました。
手を武様の肩口に付き、そのまま力を入れて二人でベッドへと倒れこみました。
「麻由…?」
上になった私を、少し驚かれたようなお顔で見つめられています。
姿勢を落とし、武様に口づけました。
そのまま舌を入れ、武様のものとゆっくり絡め合いました。
自分からこうするなど、はしたないことだとは重々承知しております。
しかし、武様を求める気持ちが高まって、私にこうさせるのです。
私が積極的になるのは、武様も悪く思われないはず。
ですから、そのままの姿勢でしばらく深い口づけを味わっておりました。
息苦しくなり、唇を離してしまいました。
至近距離にある武様の唇を見つめ、淋しさに胸が痛みます。
もう一度口づけをしようか、でもいつまでもそればかりでは…。
「麻由」
迷っている私の腰に、武様がお手を回されました。
「今日はこうしたい気分なのかい?」
「…はい」
「そうか」
微笑んでそう仰り、武様は私の背を撫でて下さいました。
上になったまま、武様の身体に沿って口づけを落としていきます。
頬、首筋、鎖骨の辺り。
お胸にたどり着き、口づける前にそっと頬を寄せました。
広く逞しいそこに顔を埋め、温もりを味わってから胸の突起を口に含みました。
「あ、」
いつも自分がされているようにすると、武様は短く声を漏らされました。
感じて下さっているのでしょうか。
私の拙いやり方で武様が声をお出しになったことに、喜びが湧きました。
しばらく胸に留まり、吸い付いたり舐めたりとお体を愛撫いたしました。
いつもは散々良いようにされておりますので、今日は仕返しをさせて頂いたのです。
反応があるたびに心が高ぶっていくのが分かります。
唇を走らせながら、脚の間にそっと手を伸ばし、固くなっているものに手を触れました。
「あ、麻由…」
そのままゆるゆると擦り上げると、またお声が聞こえました。
息を飲まれた武様が、とても色っぽく見えます。
私はベッドの足元へ下がり、武様のものを口に含んで愛し始めました。
そのまま、しばらく手と口を動かしておりました。
「麻由…」
武様のお手が髪に掛かり、俯いていた顔を上げられました。
「こっちへ来ておくれ」
そのお言葉に、期待で胸がきゅんとしました。
場所を入れ替え、今度は私が下になります。
ヘッドボードに伸ばされた武様のお手を、そっと絡め取りました。
「麻由?」
首を傾げられるのを見つめ、私は口を開きました。
「武様、今日はこのまま…」
「え?」
「このまま抱いてくださいませ」
「いいのかい?」
「はい」
分別のないことですが、今日は、今日だけは生身のままで武様に愛されたいと思ったのです。
身体を横向けにされ、後ろからゆっくりと武様のものが入ってきました。
「あ…」
何だか繋がりが浅いような気がして、心細くなります。
「このままだと、あまり長く楽しめそうにないからね。今日は、こうしよう」
後ろから私の身体を抱き締めて武様が仰り、思い出しました。
これは確か、以前、無理矢理見せられた四十八手の指南書にあった形です。
窓。窓の…何とかという形だったように思います。
背中全体に感じる武様の温もりに、泣きたいような気分になりました。
上になった脚を持ち上げられて、二人の距離が縮まるたび、じわじわとした緩い快感が生まれます。
「あ…ん…あぁ…はっ…」
いつものような強い突き上げではなく、優しくいたわられるような繋がり方に胸が温かくなりました。
乱れていた心を包み込まれているかのような、そんな心持ちにさせられました。
ずっとずっとこのままでいられたら……。
「あ…武様…」
背に感じる温もりにもたれ掛かり、甘えるような声が漏れました。
「ん…もっとかい?」
脚を掴まれていたお手が上へと上り、武様は私の秘所に触れられました。
「あっ!」
繋がっている所を確認するように一撫でされた後、敏感な突起に指が伸ばされました。
そのままぐりぐりと圧迫され、突然の鋭い快感に私は身を捩りました。
「ああ…あ…やっ!あんっ…んっ!」
胸の温もりが快感にねじ伏せられ、どんどんと追い詰められていきます。
まだ、もっとゆったりと武様を感じていたいのに。
性急に高みへと押しやられ、私はそれを拒否するように必死で首を振りました。
「やぁん!ああ…んっ!あああっ…………」
「くっ…」
突起をキュッとつままれた瞬間、私はあっけなく達してしまいました。
一緒にイくことは叶わず、武様はお身体を震わせ、堪えられました。
大きく息を吸い、呼吸を整えます。
秘所の上にある武様のお手にそっと触れました。
せっかちに昇りつめさせられたのを嗜めるように、ギュッと強く握りました。
肩口に口づけられ、繋がっていた体が離れます。
私は体を起こされて、入れ替わりに横になられた武様を見下ろす格好になりました。
「さあ、もう一度おいで?」
首を傾げて仰り、お手が広げられます。
矢も盾もたまらず、私は羞恥も忘れて武様のお体を跨ぎました。
手を添えてゆっくりと腰を下ろし、望んでいた深い繋がりを得て、心地良い圧迫に深い溜息をつきました。
充足感により反り返っていた身体を戻し、元の姿勢に戻ります。
腰の辺りに手を添えて頂きながら、そろそろと自分で動き始めました。
微かに耳に届く湿った音をなるべく聞かないようにしながら、さらに快感を求めました。
「あっ…」
武様のお手が私の身体を上り、胸を包み込みました。
身体が揺れるのに合わせ、持ち上げるようにして揉まれ快感が走ります。
「や…あ……んっ!」
「っ…」
胸の頂に指が這い、円を描くように撫でられました。
切ない疼きが生まれ、お腹の辺りがキュッとなるのが分かりました。
武様は、繋がっている時にこうして私の胸を触られるのがお好きなのです。
こうすると私の中が締まって、それが堪らないのだと仰っていました。
「あっあ……んっ…はっ…ああん…」
触れられて生まれた快感が下半身にまで走るたび、そちらへと意識が集中します。
武様のものを包み込んでいる自分のそこがいまどうなっているのかを思い、恥ずかしくなりました。
「あ…やっ…」
お手が胸を離れ、温もりが遠くなったのに酷く寂しくなります。
行かせてなるものかと、私はお手を捕まえ、胸に強く引き寄せました。
「麻由…」
名前を呼ばれ、嬉しそうに下から微笑まれる武様のお顔を見詰めました。
捕まえていたお手が再び肌から離れます。
泣きたいような気持ちで、その動きを目で追いました。
「そんな顔をするんじゃない」
声と共に武様は身体を起こされ、今度は至近距離で見詰め合います。
頷くと、私はそのままゆっくりと身体を反らされ、胸の先を武様の口に含まれました。
「あっ…ああ…んっ…」
柔らかく濡れた刺激に息を飲み、背が大きく震えました。
吸い上げられながら、尖らせた舌先でつつかれたり、ざらりと大きく舐め上げられたりと、様々な形で愛撫を受けます。
先程お手が触れた時よりもさらにお腹がキュッとなるのを自覚して、堪らない気持ちになりました。
私の中がこうやって反応すれば、武様にも気持ちよくなって頂ける。
二人で同じものを共有していることに、例えようも無い幸福感が湧きました。
「武様…」
胸に顔を埋められている愛しい方の髪を梳きながら、お名を呼びました。
愛撫を続けられながら、視線だけでお答えになられて目が合います。
そのお肩に手を置いてそっと押し返しました。
「麻由…?」
距離ができたところで、今度はあべこべに武様のお胸に身体を埋めました。
手をしっかりとお体に回し、きつく抱きつきます。
やっと真正面から感じられた武様の温もりが愛しくて、私は身体を密着させたまま、しばらく動けないでおりました。
ずっとずっとこのままでいられたら、どんなに幸せなことでしょう。
武様のお手が背中を何度も撫でさすりました。
あやして頂いているような、そんな仕草にもっと甘えたくなって。
私は愛しい方の首元に顔を埋め、頬擦りをしました。
「今日の麻由は、甘えん坊だね」
喉の奥だけで笑われた後、武様が嬉しそうなお声で仰いました。
「はい。…もっと、甘やかせて下さいませ」
「ああ」
お手が背に留まり、そのまま抱き締められました。
どれくらいの時間、そのままだったでしょうか。
「麻由、そろそろいいかい?」
背に回ったお手が緩み、顔を覗き込まれました。
「ええ」
頷いて目を閉じ、深く息を吐きました。
優しく口づけられた後、武様は腰を動かし始められました。
「ああっ…ん…んっ…あ…」
武様のものが私の中を往復し、淫靡な水音が辺りに響きます。
二人が繋がっていることを意識させられ、恥ずかしさと共に、それを上回る悦びを感じました。
「ん…あぁ…いい…」
満足感に全身を包まれながら、ゆらゆらと身体が揺れました。
心地良いその場所に留まりたくて、動いていた私の腰がひとりでに止まります。
「休ませないよ、麻由」
「きゃあ!」
弱い所を狙って、急に武様が大きく腰を打ち付けられました。
そのままたたみ掛けるように責められ、押し寄せる快感に息が出来なくなりました。
「やぁ…武様…ちょっと、待っ……」
「駄目だ」
「あぁんっ!」
縋るように申し上げた言葉は却下され、急速に追い立てられていきます。
武様に触れていた手に力を入れ、堪えようと空しい努力をしました。
「麻由…っ…ほら、もう一度……」
「あんっ!あ…あぁ…んっ!」
閉じた瞼の裏側が白むように光が見えはじめ、私はとうとう追い詰められてしまいました。
「あぁ…あっ…あっ…やぁ!あ…武様…もう…イっ…ああっ…ああああっ!」
「くっ…あ…麻由、麻由っ!」
一点に集まった白い光がパッと弾けたようになったその瞬間、私は達してしまいました。
同時に中で武様のものが脈打ち、精を吐き出すのを感じました。
いつもとは違う、私の中に残るようなその熱。
愛された証であるその感触をいつまでも覚えていたいと思いました。
お風呂場へと運ばれ、いつものように手ずから洗って頂きました。
宝物を扱うように濡れた身体を丁寧に拭いて頂き、またベッドへと戻ります。
余韻がまだ残る身体で擦り寄り、愛しい方に抱きつきました。
「武様、私は武様のものでございます」
「うん」
「一生、武様だけのものでございますから…」
私だけのものになって下さいとは、とても申し上げることが出来ません。
でも、これくらいなら、言っても許されると思ったのです。
私が形あるものを求めないうちは、まだこうして抱いて頂ける。
離れようとしているはずなのに、まだなお武様を求める気持ちを抑えられない自分を、今日だけは許そうと思いました。
「ああ、分かっている」
涙の浮かんだ目元に、優しい口づけを下さって武様が仰いました。
「さあ、もうお休み」
「はい」
髪を撫でて下さり、先に目を閉じられた愛しい方のお顔を見詰めました。
やはり、今日も私が心の奥底で望んでいる言葉は聞けませんでした。
求めることや望むことは、なるべくしないようにと思っておりましたのに。
急に押し寄せてきた悲しみを押し込め、私は武様のお腕に抱かれながら無理矢理目を閉じました。
──終わり──