「諫言」  
 
 
丹精された生垣を回り、花のアーチをくぐる。  
住む人の心栄えが表れたような、美しく整えられた庭へ足を踏み入れる。  
あちらを向いてしゃがみ込み、一心にガーデニングに勤しむ人が見えた。  
「久しぶりだね」  
僕がそう掛けた声に、振り向いたその人が微笑んだ。  
「まあ!お久しぶりでございます」  
立ち上がって手を揃え、深々とお辞儀をする一連の仕草は昔と全く変わらない。  
「近くまで来たから、寄ってみたんだ。上がらせてくれるかい?」  
「ええ、すぐにお茶の用意を致します」  
急な申し出にも動じることの全く無い、年季の入ったその対応。  
僕は今日、先代のメイド長である高根秀子(たかねひでこ)に会いに来た。  
 
 
彼女は僕の産まれる前から遠野家に仕えており、長年メイド長を務めていた。  
自分にも他人にも厳しい人で、メイド達が彼女のしごきに耐えられず何人も辞めていったのを記憶している。  
僕自身も幼い頃から生活の全てを監督され、厳格に育てられた。  
両親より執事の山村より、はるかに怖いこの人の気に入るような所作を身につけることは大変に難しかった。  
しかし、小さい頃に鍛えられたおかげで、現在に至るまで無作法な失敗をせずには済んでいる。  
最初に厳しく当られたことが、結果的に良かったと今では思うのだ。  
 
 
両親が相次いで亡くなり、屋敷が火の消えたように静まり返っていた頃も。  
彼女は使用人達をまとめ上げ、社長になったばかりの僕を支えてくれた。  
この人がいたからこそ、僕は仕事のことだけを考えていられたのだと感謝している。  
そして、僕が25歳を迎える年、彼女はメイド長を退いた。  
俄かに降って湧いた僕の社長業も板に付き、これならもう大丈夫だと安心したのだろう。  
長年我が家に尽くしてくれたのだからと、退職金の一部として、うちの所有する土地にあった家を与えた。  
少し古くはあったが、改築をして庭も整備し、残りの人生をここで過ごしてもらうために。  
以後、彼女はここで悠々自適に庭いじり三昧で暮らしている。  
 
 
居間へと通され、改めて彼女の顔を見た。  
屋敷にいた頃は、眉間にしわを寄せたきつい眼差しの彼女しか見たことが無い。  
しかし、今僕の前にいる彼女はどうだろう。  
別人のように穏やかな優しい表情をし、微笑さえ浮かべて佇んでいる。  
出会い際に、何か言われるかもしれないと緊張していた身体の力をそっと抜いた。  
 
それで、今日はどうなさったのですか?」  
「ああ、近くまで来たから…」  
話を切り出すタイミングを推し量り、適当な言葉でお茶を濁す。  
どう言ったらいいものだろうか。  
「屋敷の皆さんは、お元気なのですか?」  
「うん。何名かメイドは替わったけどね、皆元気にやっているよ」  
「それは良うございました」  
「メイド長も元気だったかい?」  
僕が尋ねると、彼女はこちらを見詰め、苦笑した。  
「坊ちゃま、私はもうメイド長ではありません。今のメイド長は麻由さんでしょう?」  
「あ、そうだったね」  
麻由の名が出てきたことにハッとする。  
そうだ、僕が今回ここを訪ねた理由は彼女にあった。  
「今の私は、ただのお婆さんですから。メイド長とはお呼びにならないで下さいな」  
「ああ、本当だね。じゃあ、何て呼んだらいいのかな」  
「そうですねえ。学生時代は、デコちゃんと呼ばれておりましたの。秀子ですから」  
「デコ…」  
それはいささか、いやかなり問題があるように思うのだが。  
眉間にしわを寄せた僕の顔を見て、彼女がクスクスと笑う。  
「冗談でございますわ。高根でも秀子でも、お好きな呼び方をなすって宜しいのですよ」  
「じゃあ、秀子さんと呼ばせてもらおうか」  
「はい」  
「僕も、坊ちゃまと呼ばれるのは遠慮したいのだが…」  
さすがに、もういい年の大人がそう呼ばれるのは色々ときつい。  
いくら、産まれる前からの付き合いだとはいえ…。  
「畏まりました。では『ご当主様』と」  
「うん」  
お互いの呼び名が決まったところで、顔を見合わせて僕らは笑った。  
 
 
「さて、気分が解れられたところで本当の目的をお聞きしましょうか」  
「えっ…」  
一瞬にして彼女の顔が引き締まり、真剣な表情になる。  
僕は取り残され、笑顔の切れ端を貼り付けたまま、間抜けな顔で彼女を見た。  
「坊…ご当主様のことは、よく存じ上げておりますから。  
何かお考えになるところがあって、私に相談しようかと思われたのではないですか?」  
ずばりと言い当てられて、言葉を失った。  
会ってまだ十数分なのに、どうして分かってしまったのだろう。  
慧眼というやつか、それとも年の功なのだろうか。  
「お茶を入れ直して参りますから、その間に心を整理なさって下さいな」  
台所へと歩いていく彼女の後姿を見ながら、僕は今日ここに来た理由を噛み締めた。  
 
 
「お待たせしました」  
座り直した彼女が、座卓にお代わりのお茶を置いてくれる。  
そのまま僕が話すのを静かに待ってくれた。  
もう主従ではないのに、こういった心遣いを受けるとは有難いことだ。  
それに応えるためにも、言いにくいなどと勿体ぶらず、正直に心の内を明かさねばならない。  
僕は覚悟を決め、息を吸って口を開いた。  
 
 
「麻由と結婚しようと思っているんだ」  
彼女の方を向き、はっきりとそう告げた。  
驚きに目を見開いた彼女が、こちらを見返す。  
「現メイド長の、麻由さんですか…?」  
「そうだ。北岡麻由のことだ」  
確認するように力を込めて言った。  
「そうですか…」  
視線を伏せ、僅かに考え込む風になった彼女を見た。  
 
黙ってしまった彼女に向かい、僕と麻由の馴れ初めを語った。  
13歳で一目惚れしてから、ずっと思い続けていたこと。  
20歳の時に心が通じ合い、それから今日に至るまで関係が続いていること。  
妻として迎えるのなら、麻由以外に考えられないこと。  
今の今まで誰にも秘密にしていたことを、僕は洗いざらい話した。  
「…それで、結婚のことは、麻由さんも承知のことなのですか?」  
僕の長い話が終わり、入れ替わりに秀子さんが口を開く。  
「いや、それが問題なんだ」  
この人の話はいつも核心を突く。  
「今のままだと、プロポーズしてもきっと断られると思うんだ。  
麻由はあの通りの控えめな性格だし、いずれは、僕がどこかの令嬢でも娶るものと思っているらしい」  
「ええ」  
「結婚したら、きっと彼女にいろんな苦労をさせる。  
それでも傍にいて欲しいと思うのは、彼女しか考えられないと思うのは僕のわがままなんだろうか」  
「それほどまでに、麻由さんのことを?」  
「ああ」  
ずっと屋敷にいて、僕のことを「武様」と呼び続けていて欲しい。  
嬉しい時も困った時も、怒った時も、恥ずかしい時も。  
間に他の女性など挟みたいとはこれっぽっちも思わない。  
 
 
「良い目をしておいでですね」  
「えっ?」  
秀子さんが唐突に言い、意外な言葉に虚を突かれた。  
「麻由さんのことを一途に思っていらっしゃるというのが、よく分かりましたわ。  
亭主に早々と先立たれた婆には、少々刺激が強うございました」  
雰囲気を和ませるように、彼女がおどけたように言う。  
この人は、結婚して数年で夫君に先立たれ、それから僕の家へと奉公にやってきた。  
陰日向なく働き、僕の両親や祖父母の絶大な信頼を得て、メイド長を長年務めるまでになった人だ。  
彼女の前で熱くなってしまったことに、少し反省した。  
 
 
「今私に仰ったようなことを、麻由さんの前で言ってご覧になれば良いのですよ」  
きっぱりと言い切った彼女を見詰めた。  
「…本当に?」  
「ええ。坊ちゃまは、麻由さんのことを考えるあまり、少し及び腰でいらっしゃいます。  
拒否されるのが怖いからと、結婚を仄めかすようなことは一切、仰っていないのでしょう?」  
「うん」  
「不安を持ったまま誰かと話すと、その相手にも不安が伝わるものでございます」  
「……」  
「女というものは、殿方に守っていただくという安心感が無いと、結婚に踏み切れないものなのですよ。  
それを、あなたは『断られたらどうしよう…』とびくびくなさって、一生を共にしたいという思いを隠していらっしゃる」  
「…うん」  
「要は、押しが足りないのでございます」  
「押し…」  
「自信が無くていらっしゃるから、今日私にこうして打ち明けられ、味方につけようとお考えなのでしょう?」  
「いや、それは…」  
「違いますか?」  
「……その通りだ」  
 
一々、耳が痛いことを言われる。  
だが、もっともなことばかりなので神妙に聞いていた。  
「麻由さんを奥様にして、一生お傍にいて欲しいのでございましょう?」  
「ああ」  
「なら、まずはご自分の思いを包み隠さず仰いませ。  
『苦労をかけるかも知れないが、僕が一生守るから』と」  
「それで、頷いてくれるのか?」  
「まだですよ、気が早うございますわ」  
「…済まない」  
「麻由さんは、芯はしっかりしていますが、どちらかといえば流されやすい人です。  
坊ちゃまが強い信念を持って押しまくられれば、最後には首を縦に振るでしょう」  
「本当に!?」  
そうならば、夢のようだ。  
麻由を妻に迎えて、誰憚ることなく二人でどこへでも行けるし、一生傍にいてもらえる。  
秀子さんがいることを忘れ、僕はそうなった日のことを思い浮かべてにやけた。  
 
 
「ただ」  
語調を強め、秀子さんがこちらを睨み付けた。  
僕はその迫力に息を飲み、喉がヒュッと鳴った。  
「貴方様に、ほんとうに彼女を一生守りぬくという決意がおありなのかどうか」  
「え?」  
勿論、そのつもりだ。今更この人は何を言うのだろう。  
「今、ご結婚なさったあとのバラ色の生活を思い浮かべていらっしゃいましたね」  
「…はい」  
「そうならない可能性もあるということは、お考えになったことはありますか?」  
「えっ?」  
「結婚したものの、麻由さんは上流階級の暮らしになじめず、陰口や根拠のない噂を立てられて周囲からは孤立する。  
部屋にこもりがちになり、社交の場にもお出にならず、この結婚は失敗であったと考えるようになるということです」  
「そんな!」  
「『身分違い』とは、時代錯誤な言葉ですから。今風に『格差』と申しましょうか。  
坊ちゃまも、遠野家の奥方として不適格な彼女に愛想を尽かされるかも知れません」  
「何を言うんだ!」  
頭にカッと血が上り、悪いことばかりを言う彼女を睨み付けた。  
僕が麻由のことをどれだけ好きかも知らないくせに。  
「縁起でもないことを言うのはやめてくれ!いくら前メイド長の君だって許さないよ」  
「私は可能性のことを申し上げているのです」  
「そんな可能性なんかあるものか!」  
怒りに任せ、座卓を拳で叩く。  
茶碗と急須が耳障りな音を立て、それにますます冷静さを失っていくのが分かった。  
 
 
「今私が申し上げたことを、麻由さんは危惧していらっしゃるのではありませんか?」  
言い返そうと口を開いたところで、先手を取って秀子さんが問い掛けてきた。  
「危惧?」  
「結婚には、良い面も悪い面もあるものです。  
悪い方に運命が向いてしまった場合、麻由さんは周囲が悪いとは思わず、自分に全て責任があると思うでしょう」  
瞬間、心が冷や水を浴びせられたかのようになった。  
ああ、そうだ。きっと麻由ならそう思うだろう。  
周囲の無理解が悪いとは思わず、受け入れられない自分に責任があると。  
自分がいることで僕に迷惑を掛けるなら、いないほうがましだ、とも。  
「坊ちゃまはお分かりにならないでしょうが、生まれ育ちの違いというのは、とても大きなものなのです」  
「……」  
「私も含め、市井に生まれ育った者は、上流の方と席を同じくすると不安と劣等感で一杯になります」  
「そうなのか?」  
「ええ。同じ場所に立てば自分も上流だと勘違いする馬鹿を除いてですが」  
「…うん」  
 
「この不安と劣等感が、おそらく将来、お二人の結婚生活の障害となるでしょう。  
何か問題が起こったときに、麻由さんは、自分の氏や育ちが坊ちゃまにふさわしくないと悲観して、気に病むことになります」  
秀子さんの言葉が胸に突き刺さった。  
氏や育ちなんて、今まで考えたことがなかった。  
僕は僕で、麻由は麻由。それだけのことなのに、麻由にとっては違うというのだろうか。  
「そうなった場合、僕が彼女の間違いを正して、導けるかということか?」  
「ええ」  
「そうか…」  
自分の浅はかさに愛想がつきる思いだった。  
「麻由に結婚を拒否されたら」と、僕は自分の心配しかしていなかった。  
もっと大きな不安の中に放り込まれることになる彼女への配慮が著しく欠けていたことに、今更ながらに気付く。  
いや、現在もきっと麻由は不安のただ中にいるのだろう。  
「結婚なすったら、そりゃあ良いこともたくさんありますでしょう。  
今まで誰にも秘密にしていらしたのですから、あれもしたいこれもしたいとお浮かれになるのも分かります。  
でも、悪い方に転がってしまった時、どう対処するか。  
それをお考えにならないうちは、結婚など百年早うございます」  
先程の気勢はどこへやら、僕はいっきにしゅんとなってしまった。  
分かっていないのは、秀子さんではなく僕の方だ。  
 
 
「まあ、私も亭主と一緒になる前は、正直、そこまで考えませんでしたが…」  
沈黙した僕を励ましてくれるように、彼女がフォローを入れる。  
「恋の力で突っ走るというのは、若いときにしかできないことです。  
それを丸ごと否定しているのではないということを、お含みおき下さいましね」  
「……ああ」  
「私と亭主は、育った環境が似たようなものでしたから、それでも良かったのです。  
ただ、坊ちゃまと麻由さんは違います。  
最初に突き詰めて考えておおきにならないと、将来行き詰まった時に困ることになるでしょう」  
「……」  
「私も、お二人が結婚なさるのには、諸手を挙げて賛成というわけには参りません」  
「えっ…」  
「今のままことを運ばれても、すぐに問題が湧いてくるでしょうから」  
秀子さんの言葉にギクリとする。  
この人さえ、反対するのだろうか。  
将来の暗い見通しを語って、体よく諦めさせようとしているのだろうか。  
 
 
「ですから、こういう者を納得させずにはいさせないほど、お二人の結びつきを強くなさいませ」  
「あ…」  
「皆をして、『あんなに愛し合っているのだから仕方がない。他の人の入る隙間が無い』と思わせるほどの。  
そうなれば、何かとやかましい方々も口をつぐむでしょう」  
私を含めましてね、と秀子さんは片目をつむった。  
「今のように、遠慮なすったまま相手の出方を伺っておられるようなことでは、まず無理です。  
そんなことではまとまる話もまとまりません」  
「うん…」  
「お相手は、どうしても麻由さんしか考えられないのでしょう?」  
「ああ、勿論だ」  
勢い良く頷いた僕を見て、彼女が微笑んだ。  
「その気持ちを自分だけのものにせず、麻由さんと共有なされば宜しいのです。  
世間の波は予想以上に高うございますよ、ちゃんと手を取っていなければすぐに別れ別れになってしまいます」  
想像して、思わず身震いした。  
そうなってはなるものか。  
「若社長の醜聞として取り扱われるか、愛の力を皆に知らしめられるかは、貴方様のお胸一つにかかっているのです。  
それを肝にお銘じになって、しっかりなさいませ」  
「分かった」  
「そして、私に、気分良くご婚儀に参加させて下さいませ」  
「えっ?」  
「坊ちゃまが身を固められないうちは、私もおちおち死ねませんもの」  
いたずらっぽく秀子さんが言う。  
 
「死ぬなんて、まだ…」  
どこから見てもピンピンしているのに、何を言うのだろうか。  
「言葉の綾でございますよ。  
お生まれになる前から遠野家にお仕えしていた者としては、お屋敷を離れましても、やはり心配なのでございます。  
特に、今のままではね」  
「うっ…」  
「この婆に、愛の力というものを信じさせて下さいな。  
遠慮なさらず、いくら見せつけられても構いませんのよ」  
「ああ」  
愛の力、か。見せ付けるとなると、具体的にはどうすればいいのだろうか。  
「ええと…」  
「まあ、今はようございます。  
これから頑張られて、麻由さんが首を縦に振られたら、それが証明になるのでしょうから」  
「そうだろうか…」  
「はい。お二人の世界の違いは、結びつきを強めるための試練とお思いになれば宜しいのです。  
これを乗り越えられれば、先ほど、だらしないお顔でご想像になっていたような未来が手に入るのでしょうから」  
だらしないとは随分な言い草だが、おそらく当っているだけに言い返せない。  
 
 
「お分かりになりましたね?」  
「ああ」  
「では、もうそろそろお戻りになられませ。会社を、抜け出しておいでだったのでしょう?」  
この人には、何でも分かってしまうらしい。  
別にサボっているわけではなく、出先から社へ戻る途中なだけなのだが。  
道草を食っていることに変わりは無いので、神妙に聞いていた。  
「私の在職中、目を盗んで邸内で密会なさっていらっしゃったであろうことについては、是非とも小言を申し上げたいですが」  
いや、それは遠慮しておきたい。この人の説教は長いのだ。  
僕は肩をすくめて、続く言葉を待った。  
「まあ、7年以上もお付き合いを続けておられるのですから、お気持ちは固いのでしょう?」  
「ああ」  
「それなら、何も言いますまい。野暮でございますから」  
「…うん」  
「悪い道にも走られず、男女のことに品行方正であられたのは、麻由さんがいたからこそなのでしょう?」  
「そうだ」  
「他所の跡継様の行状と比べますと、むしろ、麻由さんがいてくれて良かったのでしょうか」  
独り言のように小さく呟く秀子さんを横目で見た。  
僕と同じような環境で、派手に遊んでいる奴らのことを言っているのだろうか。  
どうやら、小言を言われる気配は無さそうだ。  
正直、ホッとした。  
 
 
この上は早々に退散するかと、今日の礼を述べて玄関で靴を履く。  
「今度は、お茶菓子でも持ってきて頂くと助かります」  
「うっ…」  
最後の最後で、痛いところを突かれてしまった。  
確かに、人を訪ねるのには手土産の一つも持ってくるものだ。  
これは全面的に僕が悪いから、何も言えずに頷いた。  
 
「手土産を持ってきたら、また、来てもいいかい?」  
麻由とのことを相談する相手を、また務めて欲しい。  
「そうですねぇ、あまり、思い人以外の女性と二人きりになられるのはまずいのではないですか?」  
「えっ…」  
確かに、秀子さんも女性には違いないが…。  
「おほほ、冗談でございますよ。私も坊ちゃまのお顔が見とうございますから、いつでもいらしてくださいな」  
「ああ」  
「相談も宜しいですが、なるべく、良い報告やのろけ話のほうが聞きたいですわ」  
「そうだね」  
本当に、そうなればいいと思う。  
「弱音をはかれましたら、遠慮なくきついことも申しますよ」  
「ああ」  
きっと、この人に言われたのなら気を取り直し、奮起できるだろう。  
「僕と麻由が結婚したら、新しいメイド長として返り咲いてはくれないかい?」  
麻由が妻になれば、彼女はメイド長を辞めるのだからポストが空く。  
秀子さんは厳しいが、監督官としてこれ以上の人材はちょっと見つからない。  
「いえいえ、私は今の暮らしが気に入っておりますから。  
今更、老体で孫ほどの年のメイド達を束ねるのは、荷が重うございます」  
「…そうか。残念だ」  
「お心だけ、頂戴いたします。  
後進の指導は致しませんが、女心の指南ならいつでも致しますけれど、ね」  
お茶目にそういった彼女と目を見合わせ、二人で笑い合った。  
 
 
軽く抱擁し、別れを告げて玄関を出る。  
手入れの行き届いた庭を横切りながら、やはり秀子さんから今の暮らしを奪い、メイド長として再登板してくれと言うのは無理な話だと知った。  
彼女は、ここで穏やかに生きていく今の暮らしが心から気に入っているのだろうから。  
ところで、僕のことを「ご当主様」と呼ぶと宣言したのに、結局彼女は「坊ちゃま」としか言っていなかったように思う。  
彼女からしたら、僕はまだまだ半人前だということの証明かも知れない。  
もっと頑張りなさいというプレッシャーだと思って、それに応えようと決意を新たにした。  
 
 
待たせていた車まで戻り、ドアを開けさせる。  
社まで戻るように言い、後部座席のシートに身体を預けた。  
帰り道も、やはり麻由のことを考えてしまう。  
先日、関係を持ったときの彼女は妙に積極的だった。  
いつもは僕がリードして彼女を責め立てるのに、あの日は麻由が主導で事が運んだ。  
乳首を口に含まれた時は、どうしていいか分からなくなった。  
いつもは散々同じ事を麻由にしているのに、自分がされてみると対処に困ったのだ。  
二度目に身体を繋げた時、麻由が背を逸らして露になった胸元のラインの美しさは、言葉にし難いものだった。  
堪らずに吸い付き、舌で愛撫してしまったが、もうちょっと鑑賞してからにすればよかったと思う。  
 
 
そう言えば、いつものようにゴムを付けようとした手を捉えられ、「今日はこのままで」と言われた。  
麻由の体のことを思いやって、いつもはきちんと準備をするのに。  
そうしないでいいということは、何を意味するのだろう。  
彼女は慎重な性格だから、安全な日云々というのは関係ない気がする。  
もしかして、僕と共に生きる決心が固まりかけているのだろうか。  
僕の子を宿してもいいと思ってくれたのだろうか。  
メイド長に「だらしない顔」と言われたのも忘れ、再び考えに耽った。  
僕がいない時に小守が屋敷へ来た場合、僕が戻るまで麻由に話し相手をさせている。  
通常は、主人の留守中に来客をもてなすのはその屋敷の奥方の役目。  
それを任せていることの意味に、彼女は気付いているのだろうか。  
 
麻由に対し、事あるごとに「君は僕のものだ」と言い聞かせている。  
彼女が頷いてくれると、それだけで僕の心は浮き立ち、天にも昇る心地になる。  
しかし、こうは言っていても、麻由を完全に自分のものにできているとは言いがたい。  
慎み深い彼女の心は、触れたと思ってもすぐスルリと手から逃れてしまう。  
手中にできないからこそ「君は僕のものだ」と暗示をかけ、そう思い込ませるように働きかけるのだ。  
実際には、僕の方がとっくに麻由のものなのに。  
まあ、これを今更言うのも面映いし、僕だけが麻由に夢中なようでちょっと悔しい。  
だから、「僕は麻由のものだ」とは言葉にして言ったことが無いのだ。  
これを言わなければ「武様を私のものにしてみせる」と彼女が発奮してくれるかも知れないという淡い期待を持つから、尚更に。  
 
 
社に戻って仕事を終え、屋敷へと戻る。  
いつものように麻由をこっそりと誘い、部屋へ呼んだ。  
夜半、やってきた彼女を出迎える。  
「さ、これに着替えなさい」  
先程取り出しておいた自分のパジャマを手渡し、申し付けた。  
「え…」  
受け取った麻由が困惑した表情を浮かべている。  
いつもは部屋に入るなり抱き締めたりキスをする僕が、今日は様子が違うから奇妙に思っているのだろうか。  
「…では、あちらを向いていて下さいませ」  
気を取り直した麻由が言うのに従い、僕は大人しく反対側を向いた。  
髪も解く様に言い置いた後、一足先にベッドへと向かう。  
身体の隅々まで知り合った仲なのに、いまだに恥らう彼女を心から愛しいと思った。  
 
 
ベッドへ脚を投げ出して座り、麻由が来るのを待つ。  
やがて、着替えた彼女が、おずおずといった様子でこちらへと歩いてきた。  
長すぎる袖や裾を折り返し、パジャマを着るというより着られているといった姿に笑みがこぼれる。  
「さ、ここへおいで」  
傍らを空けて手で叩き、示した。  
それに従った彼女を横たえ、自らも寝転んだ。  
腕枕をしてやり、麻由の顔に見入った。  
 
 
漂ってくる良い香りに、心が惑わされる。  
入浴を済ませ、僕の求めに応じるべく部屋を訪れた最愛の女性。  
本当なら、遮二無二パジャマを剥ぎ取り、その身体を組み敷きたい。  
豊かな胸に触れ、身体を開かせ、一つに繋がりたい。  
しかし、今日はそうしないと決めたのだ。  
欲望を訴える下半身の声に耳を傾けず、僕は口を開いた。  
 
 
「たまには、こういうのもいいだろう?」  
「ええ…」  
見詰められるのが恥ずかしいのか、僅かに目を逸らした麻由が頷く。  
「今日は、このまま寝よう。僕のパジャマを着た麻由をもっと見ていたいんだ」  
「畏まりました」  
その返事に、僕の眉が僅かに上がってしまった。  
「もうメイドの格好はしていないだろう?その返事はやめてくれないか」  
「あ…申し訳ございません」  
「ほら、まただ」  
「あっ…」  
ばつの悪い表情をした彼女を見詰め、額をつっついた。  
 
あまりこのことをしつこく言うのは酷かと思い、別の話を切り出す。  
今日屋敷であったこと、明日のネクタイの色目についてなど。  
そのうちにこうして見詰められるのに慣れたようで、麻由も臆することなく僕と視線を合わせてくれた。  
至近距離で愛する人と触れ合っていることに、また僕の欲望が騒ぎ出す。  
いや、駄目だ。軽く触れ合うだけで、今日は麻由を抱かないと決めたのだ。  
僕という人間が、自分の欲望をぶつけるだけの青二才ではないということを、彼女に分かってもらうためにも。  
ただ闇雲に滾る欲求を満たしているのではなく、ちゃんと麻由を愛しているんだということを感じて欲しい。  
男の余裕とでもいうか、とにかく、僕が彼女を大切に守る意思があるということを知らしめたいのだ。  
 
 
空いた手で麻由の髪や肩に触れる。  
いつもは快感を呼び起こすために触れる手を、今日はただ慈しむために動かす。  
僕のこの気持ちが、手を通して伝わればいいと思いながら。  
「武様…」  
麻由が僕の手を捉え、頬擦りをした。  
辛抱堪らなくなって、僕の名を呟いた唇に口づける。  
その頭を抱え込み、深く味わいたいところを、触れるだけの二、三度の軽いものにとどめた。  
これ以上してしまったら、またいつもと同じになってしまうと思ったのだ。  
 
 
顔を離し、僅かに頬を染めた彼女を見詰める。  
「麻由、もっとわがままを言ってくれてもいいんだよ」  
「え…」  
「君は、自制心が強いから、言いたいことも我慢するだろう?」  
「…でも、私は、メイドですから……」  
「まあ、今はそうだが。でも、君は僕のたった一人の人だ」  
その身体を確認するように手で撫で、思いを伝えた。  
「ありがとうございます」  
僕の胸に顔を埋めた麻由が、くぐもった声で言う。  
伝えたい気持ちは、ちゃんと彼女に届いただろうか。  
いや、全てをはっきりさせるのには、まだ早いのか。  
パジャマ姿でプロポーズするというのも、些か雰囲気に欠けることだし。  
僕が心から麻由を思っていると伝えられただけで、今日は良しとするべきなのだろう。  
この気持ちが彼女の心に根を下ろし、芽吹くのを待ってから改めて求婚しよう。  
秀子さんが言うように、今の僕ではまだ力不足なのだろうから。  
自分を鍛え、麻由の不安や迷いを受け止められる度量の深い男に早くなりたい。  
 
 
「さあ、もう眠ろう」  
「はい。お休みなさいませ」  
「お休み」  
胸の中で、先に目を閉じた彼女を見詰める。  
早く、この風景が日常のものになればいい。  
身体を求める時以外にも、同じベッドで一緒に眠るというこの状況が。  
来るべきプロポーズの時、麻由はどんな表情をするだろうか。  
拒否されても説き伏せられるよう、理論武装をしておかなければ。  
いや、言い負かすような形になるのは本意ではない。  
僕に全てを委ね、ついていこうと自発的に決心してくれるようにするのが一番いい。  
頼り甲斐のある男に、早急にならなければと思う。  
僕がそうなって、麻由が求婚に応えてくれたなら。  
その決意が鈍らないうちに、さっさと指輪をこの白い指に嵌(は)めてやろう。  
方々からカタログを取り寄せて、最高のものを決めさせようか。  
貴金属店の人間を呼び、ふさわしいものを持ってこさせ、その中から選ばせようか。  
いや、ここは二人で買いに行くべきか。  
その上で「どれでも好きなものを選びなさい」と言ったほうが、より包容力をアピールできるのか。  
それとも、一緒に悩む方が、これから共に生きていく相手としては正しい態度なのか。  
何でも似合うに決まっているが、やはり、最高のものを選んでやりたい。  
また「だらしない」と言われるに違いない顔で、僕は眠った麻由を見ながらあれこれと考えた。  
 
──続く──  
 

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