「動揺」  
 
小守様との一件の後、武様と私の間には緊張感が生まれてしまいました。  
今までは、将来を考えることに鍵を掛け、ただひたむきに愛しい方へ思いを寄せておりましたのに。  
プロポーズをお断りした後は、多大な苦痛の中で毎日を過ごしておりました。  
求められる嬉しさと、このままではいけないという理性の間で、身体が二つに引き裂かれるような気持ちになって。  
お誘いを受ける度に心を躍らせていた自分がどこかにいってしまったように、武様の自室へ向かう足が重くなっていました。  
お屋敷を出ることは許さないと言われておりますので、辞職をするわけにも参りません。  
どうすれは良いか分からないまま、ずるずると日々が過ぎてゆくのでした。  
しかし、武様と私のことを、他の使用人達に勘付かれるわけにはいきません。  
平常心平常心と心で唱えながら、今日も社から戻られた武様のお出迎えを致しました。  
「お帰りなさいませ」  
「ただいま」  
車から降りられた武様は、左手でカバンを持っていらっしゃいます。  
良かった、今日はお部屋へ行かなくて済む。  
ホッと安堵した私の所まで歩いてこられた武様が、カバンをお渡しになったその時。  
ふわっと、甘い香りが鼻を掠めました。  
花のような果実のような、でもどこか人工的な趣のある甘い香り。  
カバン以外には、何も持っていらっしゃらないというのに。  
…まさか、女物の香水?  
心臓が大きく動き、早鐘を打ち始めました。  
 
 
仕事上のお付き合いで、武様が女性のいるクラブに行かれることはままあることです。  
そういうお店ではホステスの方が隣に座られるのですから、移り香が残ることもあるでしょう。  
実際、今までにもこういうことはありました。  
でも、今回は何だか嫌な胸騒ぎがしたのです。  
クラブなどからお帰りになったのなら、香水とともに煙草の匂いも混ざっているはずですのに。  
先程近付いた時は、甘い香りしかいたしませんでした。  
お店ではない場所で、誰かと会われていたのでしょうか。  
それも、香りが移るくらいに近い距離で…。  
いいえ、きっとどちらかの会社の女社長とお会いになっていたに決まっています。  
商談に熱が入り、膝を付き合わせるくらいの距離でお話をなさっていたからに違いありません。  
 
 
心に浮かんだ不安を押し込めて、その日は部屋で休みました。  
しかしそれからも、お帰りになった時に同じ香水の匂いがすることがたまにあるようになりました。  
加えて、お戻りの時間が遅くなること、急に外泊なさることが度々になってきたのです。  
到着した車を出迎えれば、「社長に『今日は屋敷に戻らないから、君は帰りなさい』と申し付けられました」と、運転手だけが屋敷に戻るようなことも何度かありました。  
運転手を帰して向かわれた行き先をご本人に尋ねることもできず、もやもやとした不安だけが募りました。  
 
 
通常、夜9時を過ぎると、使用人達の一斉出迎えは致しません。  
執事の山村さんとメイド長の私だけが、代表して玄関に立ち、お出迎えするのです。  
そのような日は、カバンを受け取るときに妙な緊張感が走るようになりました。  
ああ、今日も。  
10時半を少し回ってからお帰りになった武様のスーツから、あの香りがしました。  
もう、希望的観測の余地はありません。  
他の女性と、外で会っていらっしゃるのでしょう。  
それが証拠に、この香りを残してお帰りになるようになってから、私は夜のお誘いを受けないようになりました。  
以前は、少なくとも週に二、三度はお部屋に伺っておりましたのに。  
 
武様のプロポーズを断ったのは、私にとって非常に辛いことでした。  
私よりももっとふさわしい方を娶られる方が、御身の為になるはず。  
一時の感情に流されず、ご自分の地位や立場をお考えになって、妻となる人を決められませ。  
取り乱される武様に、私は精一杯大人ぶってそう申し上げました。  
感情を取り繕い、諌める立場を演じ切らなければ自分に負けてしまいそうでしたから。  
そして、愛しい方を一人残し、身を切られるような思いでお部屋を去りました。  
あれ以上一緒にいると、ぼろが出てしまうのを怖れたからでございます。  
それからしばらくは、武様も諦めがつかないご様子で、何度か私をお抱きになりました。  
前に夜這いをされた時のように、使用人棟の私の部屋へ押し掛けられて事に及ばれた時もありました。  
自分と結婚するよう強硬に主張されたり、泣き落としまがいのこともなさったり。  
これほど思って頂いていることに、私は心の奥底で歓喜しておりました。  
ですから、武様とベッドを共にすることまでは拒否できなかったのです。  
何もかもすっぱりと諦めて、身を引いた方が良いのは分かっているのに。  
それができない自分の弱さに、情けなくなりました。  
 
 
武様に抱かれるたび、この方を愛していることを思い知りながら。  
しかし、私は首を縦に振りませんでした。  
こうすることが正しいと、固く信じておりましたのに。  
いざ、武様に他の女性の影がちらつくようになると、私は急に心が不安定になりました。  
どのような方なのでしょうか。年齢は、性格は?どちらのご令嬢なのか…。  
気がつくとそればかりを考え、仕事に身が入らなくなってしまうのです。  
 
 
鬱々としたまま、数週間を過ごしました。  
本日も、武様はお帰りが遅いのです。  
夜11時を回った頃、やっとお戻りになられました。  
「お帰りなさいませ」  
執事の山村さんと二人並んで武様をお迎えします。  
「え…」  
なぜか、今日は右手にカバンを持っていらっしゃいます。  
武様と私にしか分からない、秘密の合図。  
偶然でしょうか、これから持ち替えられるのでしょうか。  
こちらへ歩いてこられる道のりを見ながら、頭の中で考えました。  
「ただいま」  
「…ぉ、お帰りなさいませ」  
そのままカバンを差し出され、僅かに声が震えてしまいました。  
「食事は済ませてきた。すぐ部屋へ行くよ」  
そう言い置かれ、武様はずんずんと歩いて行かれました。  
私はカバンを受け取った体勢のまま、しばらく動くことができませんでした。  
 
 
武様のお姿が見えなくなり、私はやっと我に返りました。  
とりあえず、お部屋へ伺ってみましょう。何か、別のお話があるのかも知れません。  
厨房や玄関の戸締りを確認し、電気を消してから階段を上がりました。  
他の人間はもう使用人棟へと引き取っておりますので、ひっそりとしておりました。  
小さく三回ノックをし、お部屋のドアに手を掛けました。  
「ああ、お入り」  
武様はソファにお座りになり、洋酒の瓶を片手にそう仰いました。  
抱えていたカバンを置いて、お傍へと参ります。  
ソファの背に掛かっているスーツのジャケットとネクタイを手に取り、ハンガーに掛けました。  
「あ…」  
ジャケットからは、またあの香水の匂いが漂って参ります。  
心なしか、今日はいつもより強く感じられました。  
今日もこの香りを纏った方とお会いになっていたのでしょうか。  
きっとお食事もご一緒なさって、それから…。  
頭に浮かんだ嫌な想像を、必死になって払いのけようとしました。  
 
同じお部屋に武様がいらっしゃるのに、私の心の内を知られてはいけません。  
ジャケットを片付けるべく、クロゼットの方へ向かいました。  
扉を開け、ブラシを手にとって丁寧に生地の表面を払います。  
ジャケットを仕舞い、胸に手を当てて落ち着けてからソファの方へと戻りました。  
武様は、ウイスキーグラスを手の中で弄ばれながら、揺れる液体を見詰めていらっしゃいました。  
何をお考えになっているのでしょうか。  
気になりますが、明確な理由も無いのにご主人様に声を掛けるわけには参りません。  
私はソファの背後に立ったまま、ご用を申し付けられるのを待ちました。  
 
 
「麻由」  
「っ!…はい」  
「こっちへおいで」  
振り返ってそう呼ばれたのに従い、お傍へと参りました。  
「ほら、座りなさい」  
「いえ、あの…」  
向かい側ではなく、武様のお隣を手で示されたことに動揺します。  
そんなに接近するのは久しぶりのことで、心が騒ぐのです。  
「早く」  
せかされて、慌ててお言葉の通りに致しました。  
 
 
武様がグラスをお手に持たれたまま、時折口を付けられるのを見詰めました。  
この方が洋酒を召し上がるのは、珍しいこと。  
割り水もチェイサーも無しで、ストレートで飲まれるのは少し心配です。  
厨房からミネラルウォーターでもお持ちしようと、私は腰を浮かせました。  
「どこへ行くんだ?」  
「あの…お水か氷を持って参ります」  
「必要ない。いいからお座り」  
「え…はい」  
有無を言わせない、強い口調に。  
私は逆らえず、またソファへ座りました。  
 
 
グラスを置かれた武様が、ゆっくりとこちらを向かれました。  
じっと私の顔をご覧になるのに、身の置き場の無い心地になりました。  
「麻由」  
「はい……あっ」  
手を取られ、指に口づけられました。  
そのまま抱き寄せられ、私は武様のお胸にもたれ掛かる格好になりました。  
「今日は、久しぶりに…」  
耳たぶに唇がくっ付くほどの距離で、武様がそう囁かれます。  
頬が触れたワイシャツから、またあの香りがしました。  
甘い中にも上品さのある、つける方の心栄えを表したような香り。  
この香水の主と関係を持たれた後「今日は」私も抱くということなのでしょうか?  
そう思うと強烈な悪寒が全身を走りました。  
私は反射的に武様の肩をドンと突き返し、後ろへと身を引きました。  
「麻由?」  
首を傾げられた武様が、こちらを見詰めていらっしゃいます。  
「他の方に触れられたお手で…私に触れないで下さいませ」  
「えっ?」  
「今日は、お帰りの前に誰かと会ってらしたのでしょう?」  
「……」  
「それで、満足できなかったのでございますか?だから、麻由でも抱いておこうかとお考えなのでしょう?」  
自分で言いながら、その言葉の持つ意味に戦慄しました。  
二十歳の頃からずっと、武様と関係を続けていて。  
立場の違いはあれど、自分が愛されていることに疑いを持つことはありませんでした。  
将来の無い関係だとしても、今現在、武様のお心に触れられるのは私だけ。  
うぬぼれてはいけないと自戒しつつも、女として誇らしくさえ思っておりましたのに……。  
他の女性の存在を感じ取った瞬間、私は崖から突き落とされたような心地になったのです。  
 
「そうだと言ったら、どうするんだ?」  
「えっ…」  
「僕の精力が強いのは、麻由も知っているだろう?  
ああ、確かに満足できなかったんだ、だからこうしている」  
武様のお言葉に、耳を疑いました。  
私の知っているこの方は、そんなことをなさる方ではありません。  
それなのに…。  
「しばらく触れていないから、君も寂しかったんじゃないか?」  
そう仰りながら、ワイシャツのボタンに手を掛けて外される姿を呆然と見詰めました。  
ひたひたと恐怖がしのび寄り、身体に纏わりつくのになす術もありませんでした。  
「あっ!」  
腕をぐいと引かれ、また引き寄せられました。  
半ばぶつかるようにして倒れこんだ武様の広い胸。  
少し前であれば、甘い予感に酔いしれている状況なのに。  
今の私を支配しているのは、落胆と恐怖、そして大きな悲しみだけでした。  
 
 
押し付けられていた顔を上げると、はだけられたワイシャツの隙間から、鎖骨の脇にある赤い痕が目に入りました。  
虫刺されとも打撲の痕とも違う、情を交わすときにしかつかないあの赤い痕。  
武様が私をお抱きになる時、よく付けられては私を困らされたもの。  
それが武様のここにあることに、目まいがするほどの嫉妬を感じました。  
私ではありません、しばらく抱かれていないのですから、このようなものを付けられるはずがありませんもの。  
いいえ、そもそも、私は見えやすい所に付けるなどという真似は一度も致しませんでした。  
それなのに、今日武様と関係を持たれた方は、大胆にもこんな場所に…。  
 
 
「いやです、離して下さいませ!」  
めちゃくちゃに暴れて、身体を押さえる腕から逃れました。  
このままなし崩しに抱かれてなるものですか。  
口では何と言っていても、麻由は抱いてしまえば大人しくなる。  
そんな風に思われるわけには断じていきませんから。  
暴れた時、握り締めた手が武様のお身体にぶつかっても、申し訳ないと思う余裕さえありませんでした。  
「どうして逃げるんだ?」  
姿勢はそのままに、抑揚の無い声で武様が仰いました。  
「僕を振ったのは麻由じゃないか。こうなることが、結局は君の望みだったんだろう?」  
「あ…」  
その言葉に、全身の血の気が引きました。  
確かに、私は「武様にふさわしい方とご結婚なさいませ」と申し上げました。  
そうすることが、遠野家の為であり会社の為、ひいては武様ご自身の為にもなるのですからとも。  
今日のことは、私が自ら招いた結果であると。  
この方はそう仰りたいのでしょうか。  
 
 
「あの時君が言ったことを、思い出したかい?」  
言葉を失って俯く私の耳に、武様のお声が届きました。  
「彼女が僕の妻になったら、夜は君と三人で楽しめるかも知れないね」  
「何てことを!」  
私は絶望的な気持ちで叫びました。  
この上、まだ私と関係を続けるお積もりなのでしょうか。  
結婚というものを冒涜していらっしゃるとしか思えません。  
あまりにも無神経なお言葉に、激しい寒気が背筋を走りました。  
このお部屋のベッドで、武様と奥様になられた女性が、私の眼前で睦み合われる。  
悪夢のようなその光景を想像して、身体がガタガタと震えだしました。  
 
「いや!他の方のものになどならないで下さいませ!」  
大きな混乱の中、身も世もなく私は叫びました。  
泣きたくなんてないのに、勝手に涙が溢れ、頬を滑り落ちました。  
ですが、もうそれに構っている余裕などありません。  
ずっと慕い続けていた方が、別人のような言動をなさることに耐えられなかったのです。  
「武様は私のものです、他の方に取られるなんていや…」  
嗚咽が止まらず、しゃがみ込んで手で顔を覆いました。  
もっと言葉にしたいのに、喉の奥が詰まったように動かず、焦燥感だけが高まりました。  
「他の方など見ないで下さいませ、私を、私のことだけを……」  
武様の思いを踏みにじった自分が、こんなことを言うのは筋違いだと存じています。  
メイドがご主人様に申し上げる言葉としても、やはりありえない事です。  
浅慮な馬鹿者だと笑われるかも知れません。  
しかし、今まで必死に抑えていた物がたがが外れたように迸り、自分にも抑えられなかったのです。  
 
 
 
 
 
「その言葉が聞きたかった」  
長い沈黙の後、ぽつりと武様が呟かれました。  
その言葉…?。  
今しがた叫んだことが、脳裏に浮かびます。  
どのことを指して仰っているのかが、私の至らない頭では分かりませんでした。  
「ああ、僕は麻由だけのものだ。ひどいことを言って済まなかった」  
え…。  
フッと気配が近付いて、肩を引き寄せられました。  
優しく抱き締められ、身体から力が抜けました。  
今、武様は何と仰ったのでしょうか。  
「僕は麻由のもの」と、確かにそう聞こえました。  
何かの間違いなのでしょうか。  
 
 
ずっとずっと、私が聞きたかったその言葉。  
混乱する余り、ついに幻聴まで聞こえてしまったのか。  
本当に今の言葉が武様の口から発せられたのか知りたくて、私は顔を上げました。  
「こんなに泣かせてしまって、済まない」  
頬に口づけられ、涙が拭われていきます。  
先程、非情なことを仰った方と同じとは思えないその行動に。  
触れられていることに理屈ではない安堵を感じながらも、私の中に新たな混乱が生まれました。  
 
 
「麻由の本心が聞きたくて、芝居を打ったんだ」  
「え……」  
お芝居?  
今のことが、お芝居だったと仰るのでしょうか。  
「ちょっと待っていておくれ」  
私を抱き締められた手を緩めて、武様が立ち上がろうとされます。  
離されることが耐え難く、慌てて強くしがみ付きました。  
満身の力を込めて、二人の間に距離を作るまいときつく密着したのです。  
「…そうか。じゃあ、立てるかい?」  
頷くと、私の背を支えられながら武様が立ち上がられました。  
離さないでいて下さることに、喜びが胸に湧きました。  
ぴったりとくっ付いたまま、ドアの方へと歩いて。  
私が先程置いたカバンをお手に取られ、武様はそのまま私をソファへと誘われました。  
 
カバンを開けて、武様がごそごそと中を探られました。  
「ほら、これを見てご覧」  
促され、お胸にくっ付けていた顔を上げました。  
テーブルの方を示され、視線がそちらへ向きます。  
「あ…」  
置かれていたのは、桜色をした可愛らしい小瓶でした。  
これは、一体…?  
手に取るのが怖くて、見詰めるだけしかできません。  
見かねたのか、武様が手に取られ、蓋を開けられました。  
瓶はそのままに、蓋の方を顔に近付けられて香りが届きました。  
…間違いありません。  
あの時から今日まで、何度もかいだあの香り。  
反射的に心臓がギュッと縮み、呼吸が苦しくなりました。  
「香水は、つけてから香りが段階を踏んで変わるというが…。  
必要なら、これを渡すから検証してくれても構わない」  
検証…。  
「身の潔白を、証明しなくてはいけないからね」  
髪を撫でて下さりながら、穏やかなお声でそう仰いました。  
先程とは全く違う、私を安心させて下さるようなお声で。  
「何が何だか分からないという顔をしているね」  
じっと固まったままの私をご覧になり、武様が言葉を続けられました。  
「僕には説明責任があるのかも知れない。そのままでいいから、聞いておくれ」  
小さく頷き、私はまた武様のお胸に顔を埋めました。  
 
 
「他の女性の存在をでっち上げることで、麻由の本心を引っ張り出したかったんだ」  
髪を撫でるお手を一瞬止められ、述懐なさるのを聞きました。  
それは、ということは……。  
場違いな期待が胸に生まれ、花が咲くように綻んでいくのを感じました。  
「女性用の香水を買い求めて、自分でつけることで君に誤解させた。  
わざと帰宅を遅くしたり、君に触れなかったりと、状況証拠めいたものを積み重ねたんだ」  
「えっ…」  
「麻由がどうしても首を縦に振ってくれないから、僕も段々焦ってきていた。  
抱いても抱いても、思うようになって貰えない。  
だから、一旦引いたように見せかけて、変化球を投げたというわけだ」  
目を伏せられ、苦しそうに仰るのを呆然と聞きました。  
では、他の方を好きになられたというのは、私の誤解だったと?  
「別の方に、心を移されたのかと思って…」  
「いや、そんな人はどこにもいないよ。  
だから、安心しておくれ。僕の気持ちは全く変わっていない」  
「あ…」  
そのお言葉に、目から涙が溢れました。  
「僕の気持ちは全く変わっていない」  
お慕いする方にこう言われて、嬉しくない女性がいるものでしょうか。  
 
 
「で、では!その赤い痕はどうなさったのです?」  
私はふと気付き、叫ぶように問い詰めました。  
鎖骨の脇についた、赤い痣のようなもの。  
これは、武様が他の方と睦み合われたことの何よりの証拠ではありませんか。  
「これは、自分で付けたんだよ?」  
「えっ…」  
「腕を引き寄せて首をうんと曲げれば、届かないことはない。試してご覧?」  
促され、私は武様のお胸に寄せていた身体を一旦離し、自分の肩口に唇を寄せてみました。  
確かに、その辺りに唇が届きます。  
試しに吸い付いてみると、痕を残せるくらいの力を入れることができました。  
「それぐらいにしておきなさい。首が痛くなるよ?」  
必死に首を曲げて奮闘している私を見て、武様が少し苦笑なさいました。  
 
「実は、背中に爪跡も付けたんだ」  
「え…」  
「ほら」  
ワイシャツを捲られた武様が、こちらに背中を向けられました。  
幾筋かの白い線が、腰の辺りから短く走っています。  
正面から愛される時につけてしまうもので、私にも覚えがありました。  
「こうやって、ギュッと…」  
爪を立てて実演までして下さるのを、慌ててお止めしました。  
自分で自分を傷つけるような真似をなさるのを、黙って見てはおれませんから。  
私の為に痛い思いをなさったことに、申し訳なくって唇を噛みました。  
ですが、お背に残る跡と、武様が今しがた再現なさった指先の動きがピタリと一致したことに、心のどこかで安堵を感じたのでございます。  
 
 
ふと、先程聞こえたことを思い出しました。  
「僕は麻由のものだ」と、武様が仰ったことを。  
あれは、本当に武様の口から仰った言葉なのか、それとも、私の願望が生んだ幻なのか。  
混乱の極みにいたあの時の私には、判断がつきませんでした。  
「武様、あの…」  
「うん?」  
「先程、その…。仰った言葉についてなのですが…」  
「何だい?」  
「もしかして『僕は麻由のものだ』と、そう言って下さいましたか?」  
どうか、あの言葉が本当のものでありますように。  
願いを込めて、武様のご返答を待ちました。  
「ああ、言ったよ」  
「え…」  
「それが、どうかしたかい?」  
何でもないことのように問われ、私は目をみはりました。  
 
 
「だって、今までそんなことは一言も…」  
『麻由は僕のものだ』と仰ったのは、今まで何百回も耳に致しました。  
しかし、『僕は麻由のものだ』とは、一度だって口になさったことは無いのに。  
「ああ、わざと言わなかったんだよ。  
当たり前のことだから、改めて言うまでもないし、僕だけが君に夢中なようで悔しいからね」  
「えっ…」  
ずっとずっと、私はああ言われるのを待っておりましたのに。  
今更であるから言わなかったのだと、こう仰りたいのでしょうか?  
「『麻由は僕のものだ』と初めて言ったのは、いつのことか思い出せないが。  
僕が君のものになったのは、そのずっと以前のことだ。  
多分、庭で初めて会った時からかも知れない」  
「え…」  
先代の旦那様の運転手をしていた父に連れられ、お屋敷へと足を踏み入れた13歳のあの日。  
私はこの方に初めてお会いして、たちまち思い初めたのでございます。  
武様も、この時私に一目惚れをなさったと前に話して下さっていましたが…。  
「君と初めて身体を重ねたのは、もっと後のことだったけれど。  
でも、心はとっくの昔に奪われていたんだよ?」  
少し恥ずかしげにそう仰るお声が、心地良く耳に感じられました。  
この方を自分だけのものにしたいと、それが私の長きに渡る望みでありましたのに。  
それは言葉にされなかっただけで、とっくの昔に達成されていたと、そう仰っているのでしょうか。  
「…何か言っておくれよ、麻由」  
言葉を失っている私に、焦れたように武様が促されました。  
口を開いた途端、全てが泡のように消えてしまいはしないでしょうか。  
あまりに自分に都合の良い夢を見ているようで、醒めてしまうのが怖いのです。  
 
武様が、何も言えないままの私の手をお取りになりました。  
「あっ!」  
そのまま手の甲を軽くつねられ、痛みが走り声が出ます。  
「ね、夢じゃないだろう?」  
「はい…」  
考えていることがばれてしまったのでしょうか。  
きまりが悪くなりますが、すぐに大きな喜びが取って代わり、胸を満たしました。  
だって、夢ではないのですから。  
 
 
「さて」  
どこか吹っ切れた様子で武様が仰り、私を見詰められました。  
「僕が麻由のものだと、君が分かってくれたところで…」  
改めて口になさった言葉が、再び心に染み渡りました。  
嬉しくて嬉しくて、今すぐ死んでもいいくらいの心持ちでした。  
「この先ずっと、僕と共に生きる決心はしてくれたかい?」  
「え…」  
「さっき混乱してはいたが、君が叫んだことは本心だろう?  
僕のことを自分一人のものにしたい、いや僕は自分だけのものなんだと、君はそう言っていた」  
「は、はい…」  
確かに、その通りです。  
武様が他の方に心を移されたと思い込み、感情が高ぶった私はそう叫びました。  
「僕を独占して、他の女性に渡したくないと思ってくれたんだろう?  
僕も全く同じ気持ちだ、麻由を他の男に取られたくなんかない」  
「…はい」  
ですが、武様と私では立場が違いすぎます。  
本心を申し上げたのは確かですが、それだけで物事が全て丸く収まるとは思えません。  
「ですが、私はやはり…」  
武様にふさわしいとは、思えないのです。  
 
 
「麻由が何を不安に思っているのか、聞かせておくれ」  
言葉を纏めようと悩んでいる私をご覧になって、武様が仰いました。  
「私が、何を思っているか…?」  
「そうだ。プロポーズの時から、僕は『結婚してくれ』と言うだけで、なぜ君と結婚したいのかを言わなかった。  
今日は、それを言いたいんだ。  
だから君も、なぜ結婚できないと思うのか、詳しい理由を言って欲しい」  
髪に手を触れられ、そう促されました。  
武様と結婚できない理由。  
改めて口にするのは、私にとって辛いことです。  
でも、勇気を持ってお伝えしなければいけないのでしょう。  
私は少し身体を離し、向かい合って口を開きました。  
「…武様と私は、ご主人様とメイドという関係で、立場に差がありすぎます。  
武様は社長というお立場であられる以上は、取引先のご令嬢などを娶られる方が良いと思うのです」  
「それから?」  
「どこの馬の骨とも知れない女と結婚されたのでは、周囲の批判を浴びると思うのです。  
そのことでお仕事に差し障りでも出たら、申し訳が立ちません」  
申し上げながら、胸が痛みました。  
 
「君は馬の骨ではないだろう。僕の大切な人じゃないか」  
「えっ…」  
私が話し終わるのを待たれてから仰ったその言葉に、心臓が跳ねました。  
大切な人。  
この方にそう思われていることが、嬉しかったのでございます。  
「確かに、僕と君は主人とメイドだ。  
でも、大昔じゃあるまいし、そんなことを気にするのはおかしいよ」  
「…」  
「麻由は僕と同い年だったように記憶しているが。もしかして、君はもっと年上だったのかい?」  
「いえ…」  
武様と私は確かに同じ年です。誕生日も一ヶ月程度しか違いません。  
でも、そういうことを言っているわけではないのですが…。  
「中東のどこかの国では、王子が外国のウエイトレスと結婚したというよ。  
僕なんかよりもっと自重すべき立場の人でさえそうなんだ、僕が麻由と結婚することに問題があるとは思えない」  
「…」  
「結婚すれば、僕の関係する付き合いに君を巻き込んでしまうことになる。  
パーティーに出たり、夫人同士で会合があったり、そういうことも君の不安の一端になっているんだろう?」  
「はい」  
私は、夜会服も着たことがない庶民でございます。  
ダンスもできませんし、会話の選び方も、良家の方が当然身に付けている立ち居振る舞いも不可能です。  
「そういう場で、ちゃんと武様の妻として役割を果たすことが自分にできるとは思えないのです。  
いずれ、ご迷惑をかけてしまうのではないかと…」  
「それで?」  
「……それで、私に失望なさるのではないか、と…」  
言いながら、ハッと致しました。  
私が武様の妻として不適格であることに気付かれたら、お心が離れてしまうのではないかという危惧。  
これが、身分違いという外面的なものに隠れた、第二の大きな理由だったと気付いたのでございます。  
社会的立場をお考えになって…などと尤もらしい事を言いながら、その実、私は自分の感情だけに捉われてしまって。  
本心をぶつけて下さったあの時の武様に対し、申し訳なくなりました。  
いいえ、あの時だけではありません。  
あれからも思い悩まれ、ついには先程のような策を講じられるほど、私のことを思ってくださっていた武様。  
そのお心に背くようなことをしていた自分に気付き、穴があったら入りたいほど情けない心地になりました。  
 
 
「なるほど、そういう風に考えていたのか」  
武様がそう仰り、私は頷きました。  
黙って考え込まれた少しの時間が、とても長く感じられました。  
「それくらいのことで、失望したりしないよ。  
麻由は、どうやら僕が君に向ける愛情を小さく見積もりすぎているようだね?」  
「え…」  
「拝み倒して妻になってもらうんだ、多少の不都合など最初から覚悟の上だ。  
気が重いというなら、手を尽くして一流の講師を雇う。  
君にある程度の自信がつくまで、そういう場に出ろとは言わない」  
武様が仰るのを、信じられない思いで聞きました。  
そこまで、私のことを思って下さっているなんて。  
有難くて有難くて、胸が切なくきしみました。  
 
「麻由」  
「はい」  
「君なら、ちゃんとした講師について学べばすぐにものになると思う。  
いや、例えものにならなくても、それで僕の心が離れることは決して無いんだ、これは誓ってもいい」  
「…はい」  
「社長令嬢などと結婚すれば、社交はうまくやってくれるだろう、そのように育ってきたんだから。  
でも、ただそういう家に産まれただけの人を妻にしたいとは思わない。  
それよりも、立場に関係なく、本当に僕のことを愛してくれる人を妻にしたいんだ」  
「あ…」  
「麻由は、僕のことを愛してくれているだろう?」  
そのお言葉に、ハッと致しました。  
私は武様のことを愛しています。  
だからこそ、身を慎まねばと必死になって、今まで…。  
「『慕う』という言葉は使ってほしくない、それだと主従の間の感情と区別がつかないからね。  
立場に関係なく、一人の男として、僕のことを愛してくれているんだろう?」  
私はもう、自分の気持ちを隠すことをやめにしなければならないのでしょう。  
正面から本心をお伝えすることが、愛しい方への誠意というものでしょうから。  
「ええ、愛しています」  
「そうか。僕も麻由のことを愛している」  
武様は噛みしめるようにそう仰って、私の手を取られました。  
 
 
「愛している」  
この短い言葉が、大きな潮流となって私を飲み込みました。  
武様に対し、私が抱いているのと同じ感情。  
しかし、これがこの方の口から直接私に向けられることは今まで殆どありませんでした。  
言葉に出して、きちんと伝えてくださったことがとても嬉しくて。  
目から涙が零れて、頬をつうっと流れ落ちました。  
その雫を優しく拭って下さりながら、武様が続けられます。  
「麻由、会社というものは、社長一人のことでどうこうなるものでもないんだ」  
「えっ…」  
「確かに、社長の挙動が社の明暗を分けることはある。  
でもそれはここ一番の大きなプロジェクトや、食品偽装問題の時など、社全体と密接に関わる時に限ってだ。  
社長のプライベートに関しては、君が思うほど影響は無いんだよ」  
「……」  
「それに、我が社には優秀な社員達や重役もいるんだ。僕一人の会社じゃない。  
彼らが頑張ってくれているお陰で、僕はこうやって社長としていられる。  
結婚と同時に社の運命が傾くなんてことは、あり得ないと言っていい。  
しばらく様子見はされるだろうが、影響が無いと分かれば、取引先も投資家も無碍(むげ)なことはしないさ」  
言い聞かせるようにゆっくりと仰って、顔を覗き込まれました。  
心に大きく圧し掛かっていた不安が、薄紙を剥ぐように少しずつ取り去られていくように思えました。  
期待しても良いのでしょうか。  
一度はプロポーズをお断りした身でありながら、不謹慎にも私の心は浮き立ちました。  
 
 
「それに、結婚によって他社とのつながりを保とうとしても、そんなものはいざという時には役に立たないものだ。  
仕事というのは、もっとシビアなものなんだよ。  
血縁であろうが何であろうが、助けられないと判断した時には非情にならねばいけないのが経営者というものだ。  
なのに、お飾りの妻を貰って、これで安心だと大船に乗った積もりになるのは滑稽なことだ」  
「そうなのですか?」  
「ああ。そうやって守りの姿勢になるより、君を妻に貰って『麻由を守るために』と頑張る方が、僕には合っている」  
「え…」  
これでもなお、私を妻にして下さると。  
ずっと守ってくださると、そう仰っているのでしょうか。  
 
「勿論、僕は麻由にふさわしい男ではないことくらい分かっているんだ」  
「えっ…」  
「僕は未熟で、愚かで、懐の小さい人間だからね」  
「まあ、何を仰るのですか!」  
ご自分を卑下なさる武様のお言葉を、信じられない気持ちで聞きました。  
この方は立派な紳士であられます、未熟だなんてとんでもありません。  
「麻由のほうがよっぽど大人で、真摯に僕のことを考えてくれている。  
だからこそ、僕の将来を思って、諦めようとしてくれたんだろう?」  
「はい…」  
諦めようとして諦めきれず、先程のように本心を叫んでしまう羽目になりましたが。  
武様のお立場を考えていたのは確かでしたので、私は頷きました。  
「それでも、僕は、君のことを諦められないんだ。  
一生かけて、君に釣り合う男になりたい」  
「そんな…」  
武様は、私のことを良い目で見過ぎておられます。  
私はそんなに立派な人間ではありませんのに。  
「だから、僕のことを鍛えてくれ。  
麻由を守るために頑張るから、君は、僕が君にふさわしい男になれるように傍で励ましてほしいんだ」  
続く言葉は、プロポーズとしてはあまりに弱いものでした。  
しかし。  
このように言われてしまっては、はねつけるわけにも参りませんでした。  
闇雲に「俺について来い」と言われるより、武様の真心が表れているようで心が熱くなって。  
ああ、私はやはりこの方には逆らえないのかも知れません。  
 
 
「さっきのことで、僕が別の人を妻に迎えることが嫌だと君は言ったね」  
「はい」  
本当に、もうあんな思いはこりごりでございます。  
いつか別れが…と漠然と不安を抱いていた時と、いざ他の方が現れたと思った時では天と地の差がありました。  
「僕も、麻由を他の男に取られるなんて絶対に嫌だ」  
「ええ」  
「こんな似たもの同士の二人は、一緒になるのが一番いいと思わないかい?」  
いたずらっぽく微笑みながら、武様が首を傾げられました。  
「お互い、相手にこんなに執着しているんだ。いっそ、離れられないように結び付けたほうがいいと思うんだ」  
「…そうですね」  
「もう一度聞く。僕と一生を共にしてくれるね?」  
「はい。私を、武様の奥様にして下さいませ」  
私は遂に観念したのでございます。  
武様と、ずっと一緒に生きていきたい。  
他の女性など見ないで欲しい、私だけを愛して頂きたい。  
何年も前から芽生えていたこの気持ちを、もはや隠すことはできませんでした。  
ご主人様とメイドという、二人の立場の違い。  
これが重い蓋になり、心の底に本当の思いを押し込めてしまって。  
その蓋の底で逆巻いていた本心が、一気に溢れ出したのでございます。  
武様を愛していながらも、妻になるには荷が重いと、責任逃れをするように身を引こうとしておりましたが。  
真にこの方を思っているのなら、結婚して、それに付随する義務や責任も引き受けるべきだと。  
遠回り致しましたが、やっとそれに気付いたのでございます。  
 
「麻由っ!」  
いきなり引き寄せられ、私は武様のお胸に包み込まれました。  
ぎゅうぎゅうと力を込めて抱き締められて、体中が愛しい方に密着して。  
まだ微かに残っている香水の匂いにも、もう心が騒ぐことはありませんでした。  
両腕を武様のお背に回し、私からも抱き付きます。  
頬擦りをして、愛しい方の温もりを堪能致しました。  
「今言ったことは、本当だね?嘘なら許さないよ」  
「いいえ、嘘ではありませんわ。  
…申し訳ありませんでした、武様はこんなに私を思って下さっているのに、それを裏切るようなことを言ってしまって」  
「いいんだ、もう過ぎたことだ。僕こそ、君をだまして苦しめるような芝居をして悪かった」  
「そんな…もとはと言えば私がいけないのですから」  
「それ以上は言わなくていい。現にこうして、君はプロポーズを受けてくれたんだから。  
よかった…。やっと、君と…」  
涙を堪えるように、小さな声で仰って。  
「不束者でございますが、宜しくお願い致します」  
私がそう申し上げると、武様は何度も頷いて下さいました。  
 
 
そのままベッドへと運ばれ、あっという間に服を脱がされてしまいました。  
一糸纏わぬ姿を久しぶりに愛する方のお目に晒し、恥ずかしくなります。  
「さ、僕を脱がせておくれ」  
お言葉に従って、私はワイシャツに手を掛けました。  
少し震える手でボタンを外し、下もお脱がせしたあとに二人でベッドに倒れ込みました。  
力強く抱き締められ、何度も何度もキスをされました。  
こんなに満ち足りた気持ちで口づけを受けるのは、幾日ぶりのことでしょう。  
武様の唇が触れるたび、歓喜が波のように押し寄せて胸を満たしました。  
「君に触れられない間、気が狂いそうだった……」  
キスの合間に、呟くように武様が仰いました。  
私も同じです。  
この方が他の女性に触れられているのかと想像しただけで、心が騒いでどうしようもありませんでした。  
今更ながら、自分で自分を苦しめていた愚かさに頭が痛みました。  
「この借りは、徐々に返していくからね。覚悟しておいで」  
言い置かれてまた口づけられ、するりと舌が忍び込んできました。  
借りを返されるなんて、一体どのようにされてしまうのでしょう。  
想像しただけで胸が甘く疼いて、それに突き動かされるかのごとく夢中になって舌を絡めました。  
 
 
武様のお手が、私の身体を辿って動きました。  
優しい中にも、甘い予感を煽るような撫で方をされて。  
あっけないほど簡単に、欲望が育っていくのを感じました。  
やはり、私はこの方無しでは生きていけない。  
ずっと一緒にいたいと、改めてそう思ったのでございます。  
「ん…」  
一旦顔を上げられた武様が、私の胸元に唇を寄せられました。  
きつく吸い上げられ、小さな痛みが走ります。  
「芝居のためとはいえ、自分の体にこの痕をつけるなんて、馬鹿馬鹿しいと思ったよ。  
やっぱり、麻由の肌に付ける方が僕には合っている」  
独り言のように仰るのが、堪らなく申し訳なくって。  
「今日は、どこにいくら付けられても構いません。お好きなだけ、付けて下さいませ…」  
愛しい方を引き寄せて、私は囁きました。  
「そうか。じゃあ、麻由が本当に僕のものになってくれた記念に、そうさせてもらおう」  
武様は嬉しそうに微笑まれた後、服では隠せない首筋に強く吸い付かれました。  
今日のことを忘れないために、この痕が消えねば良いと願いました。  
 
首筋から肩の辺り、鎖骨、胸元と順に口づけられました。  
少しの痛みの後に、何とも言えない満足感が生まれ、体に積もっていくようでした。  
唇が触れるたび、武様の温かさが肌を通して私の中に染みとおり、心にまでたどり着いて。  
ますます、この方を好きになっていくのが分かりました。  
「あ…んっ…あん…」  
武様の唇が胸の頂を掠め、その柔らかい刺激に声が上がりました。  
もっと触れて欲しいという思いが、ねだるような声を生んだのです。  
 
 
それに気付いて下さったのか、武様はすぐさま胸に顔を埋められ、色づいた部分を唇で包み込んで下さいました。  
赤ちゃんのように一心に胸に吸い付かれるのを見て、くすぐったい気分になりました。  
お背に腕を回し、そっと撫で擦りました。  
「あ…」  
そこをねっとりと舐められて、肌が粟立ちました。  
腕に力が入ってしまい、お身体を引き寄せるような格好になってしまいます。  
「ん…あ…あん…あぁ…」  
触れられた途端に固く立ち上がった頂に、武様の舌が絡み刺激されます。  
時折チュッと吸い付かれて、唇でやわやわと甘く噛まれて背筋にまで快感が走りました。  
もっと触れて頂きたい、ここを愛して欲しい。  
その思いが腕に力となって表れ、私はさらに武様のお体を引き寄せました。  
「あ…はぁ…あん…んっ…きゃあ!」  
吸い付かれていない方の胸の先を、指で弾かれて高い声が出ました。  
そのまま指で挟まれ、しごくように弄ばれて。  
舌とはまた違う鮮烈な快感に、身体がますます火照っていくのが分かりました。  
 
 
武様の唇が一旦離れ、手で愛撫なさっていた反対側の胸へと移動しました。  
こちらも許しを乞いたくなるほどに可愛がって下さり、さらに息が乱れました。  
空いた方はまた指先で刺激され、それもまた気持ち良くって。  
濡れた頂の上で武様の指が踊るだけで、どうしようもなく感じてしまい、高い声が出るのでした。  
切ない快感が体中を走り、次第に下半身へと集まり始めます。  
膝をもじもじと擦り合わせる私に気付かれたのか、武様は胸から顔をお離しになって。  
脚を掴んで大きく開かされ、その間に身体を割り込まされました。  
熱くぬかるんでいる秘所が晒され、身が竦みました。  
自分でも分かるほど、そこが潤っていましたから。  
「隠さないで。じっくり見せておくれ?」  
恥ずかしさに思わずそこに手を遣った私に、武様が優しくそう仰って。  
逆らうことなどできず、私はおずおずと手をどけました。  
 
 
ほうっと、感嘆なさったように武様が溜息をつかれたのが聞こえました。  
「久しぶりに麻由のここを見るからね、僕も些か緊張しているんだ。  
もう二度と、こんな風にはできないかと思っていた…」  
少し苦しげに呟かれた後、柔らかく濡れたものが秘所へ届きました。  
「あっ!」  
下から上へゆっくりとそれが這い、私の口からは短い喘ぎが漏れました。  
舌で愛撫されていると気付いたその時には、もう声を抑えることができませんでした。  
「やっ…あん…ああっ…んっ…」  
鼻にかかった甘い声が、堪えきれずに漏れて。  
ギュッと閉じた瞼の裏で光が瞬いて、腰が勝手にガクガクと震えました。  
脚の間に愛しい方のお顔があるこの状況が、しばらく無かったためにとても恥ずかしくって。  
ベッドの上へとずり上がり、脚を閉じようとしたのですが…。  
それを逃すまいとするように、武様がお手に力を込められて。  
私はあられもない体勢のまま、愛撫を受ける羽目になってしまいました。  
 
「ひぁっ…ああ!」  
秘所の敏感な突起に舌が触れ、悲鳴のような声が口をついて出ました。  
「あ…やぁ…」  
その途端に武様の舌が逃げ、一瞬だけの快感が見る間に遠のいていきます。  
「ん…もっと…あんっ!」  
我慢できなくなってせがむと、すぐまたそこに触れて下さって。  
再び得られた強い快感に、また高い声を上げました。  
「あ…あ…はぅ…ん……あぁ…」  
秘所に武様が口を付けられるたび、湿った音が耳に届きます。  
その水音が段々と高くなってくるように思え、余計に私は追い詰められました。  
「やぁ…あ…ん…ああん…」  
シーツを握りしめていた私の手を、武様の手が包み込みました。  
その熱さにさらに身体がカッとなり、上へ上へと昇っていきます。  
「はっ…あぁ…ん…あ…あああっ!」  
背を大きく震わせ、腰を浮かせて私は達してしまいました。  
 
 
熱い余韻が残る秘所から、武様が顔を離されました。  
口元を拭われてから、穏やかな表情で私の顔を覗き込まれて。  
「可愛かったよ、麻由」  
仰った言葉を聞いた瞬間、全身の血が顔に集まったくらいにのぼせてしまいました。  
きっと、ゆでダコのように真っ赤になっていたに違いありません。  
「そ、そんな…」  
久しぶりだから、気分が高まってこんなお戯れを仰っただけ。  
本気にしては失礼に当ると自らを叱りつけるのですが、頬の熱は一向に引く気配を見せませんでした。  
「嘘じゃないさ。ほら」  
手を重ねられたまま持ち上げられ、下の方に運ばれて。  
熱く固いものに触れ、びくりと指が震えました。  
「あ…」  
「ね、こんな風になってしまうくらい、さっきの麻由は可愛かったんだ」  
「…」  
今度こそ顔から火を噴きそうになっている私の手に、ご自身を握り込まされて。  
上下にゆっくりと動かすよう促され、言われるままに従いました。  
手が往復するたびに、握り込んでいるものがますます雄々しくなっていくのが分かります。  
これが、もうすぐ私の中に入るのです。  
潤った粘膜を掻き分け、熱いこれが身を貫く感触を思って胸が震えました。  
さっき達したばかりだというのに。  
武様のものに触れたら、また欲しくなってしまったなんて。  
自分がこんなに淫らな女であったことを久しぶりに思い知らされました。  
私の身体をこんな風になさったのはこの方ですから、連帯責任だと言えなくもないですが…。  
でも、武様もきっと同じ気持ちでいらっしゃるはずです。  
 
 
クチュッと音を立てて、私の中に指が一本差し込まれました。  
そこを広げるようにぐるりと掻き回され、期待感が膨れ上がって。  
思わず手を止めてしまい、愛しい方のものを握りしめる格好になってしまいました。  
早く、この熱く逞しいもので貫かれたい。  
武様と一つになりたいという欲望を抑えられなくなったのです。  
「あの、武様…」  
「ん?」  
「…早く、下さいませ…」  
小さくお願いして、空いた手で顔を覆いました。  
自分からねだる言葉を口にするなど、はしたないことなのに。  
指ではもう物足りなくて、どうしても我慢できなかったのです。  
「その手をどければ、言うことを聞こう」  
「…」  
目を見てお願いしなければ駄目だということなのでしょうか。  
その言葉に逆らえずに手をどけると、くっついてしまうほど近くに愛しい方のお顔がありました。  
 
「欲しいんだね?」  
「…はい」  
頷くと、私は身体を起こされ、武様のお膝の上に座らされました。  
「さ、おいで」  
頬に口づけられてそう仰ったのを聞いて、私は促されるままに位置を合わせ、腰を落としました。  
 
 
「ああ…あ…」  
武様のものが私の中にゆっくり入ってくる感触に、声が勝手に漏れました。  
その熱さが、秘所から身体の内部に染み渡り、全身へと伝わって。  
心も体も満たされて、天にも昇る心地になりました。  
「っ…。入れただけなのに、すごく気持ちがいいよ」  
「あの、私もすごく…良くって…っ」  
「そうかい?」  
「ええ、今死んでもいいくらい幸せです」  
「それは困るな」  
「え…」  
「やっと、君を妻にできるのに。今死なれては困るだろう」  
「あぁっ!」  
武様が緩く腰を動かされ、快感が身体を駆け巡りました。  
「ね、今死ぬわけにはいかないだろう?」  
「は、はい…」  
繋がった場所から水音が立ち、堪らない気持になりました。  
でも、仰るとおりです。  
今このまま死ぬわけには参りませんもの。  
 
 
「麻由のいいように動いてみなさい」  
武様に促され、私は少しずつ腰を動かしはじめました。  
二人の距離が近付くたび、何ともいえない快感が下から湧き上がって。  
一旦腰を引き、また愛しい方との繋がりを深くすると、どんどん気持ちよくなっていくのが分かりました。  
自分が上になるのは、あまり得意ではないはずなのに。  
苦手意識や羞恥心など、そういったものを全て忘れ、私は夢中になって動いていたのです。  
「あっ!」  
武様に胸の頂を口に含まれ、愛撫されました。  
刺激で下腹に力が入り、武様のものを締め付ける格好になって。  
その熱さ、形がはっきりと感じられ、頬にカッと血が昇りました。  
先程触れられていますので、いつもよりさらに頂が敏感になっています。  
それに加え、繋がっている時にそうされるのですから堪りません。  
「ああ…んっ!あ…やぁ…あんっ…」  
弱い所を二箇所同時に刺激され、喘ぎを止めることができませんでした。  
自分の声が次第に大きくなっていくのが分かるのですが、自分でもどうしようもないのです。  
「ほら、麻由。腰がおろそかになっているよ?」  
チュッと音を立て、胸から唇を離された武様が仰いました。  
そうでした、この方は繋がっている時に胸も愛撫なさるのがお好きなのです。  
こうすると私の中がキュッと締まって、ご自分のものに絡み付くのが堪らないと以前に仰っていました。  
「休まないで。ちゃんと動くんだ」  
「きゃぁっ!」  
腰に添えて下さっていたお手が移動して、私のお尻へと位置を移しました。  
ゆっくりと撫でられてから大きく揉まれて、忘れていた羞恥心がワッと押し寄せました。  
「いや…そんな…っ…」  
「動かないと、このままだよ?」  
愉快そうに仰った後、また武様は胸への愛撫を再開されて。  
それに身悶えしながらも、私は心の片隅で安堵していたのです。  
武様と心が通じ合い、ただ恋の喜びに打ち震えていた最初の頃。  
私はよくこうやって楽しげに責められ、翻弄されておりました。  
小守様の一件の後、この方は妙に私を気遣われるようになってしまって。  
本来のご趣味と申しますか、私をいいようになさることを遠慮なさっていたように思うのです。  
ですから今こうして、武様らしさを取り戻されたことが、とても嬉しかったのでございます。  
 
「んっ…ああ…ぅん…はぁん…あぁ…」  
促されるまま、また私は腰を動かし始めました。  
お尻に這っていた武様のお手は、再び腰に回されて。  
動く私を支えて下さり、身体がぶれないようになりました。  
いいえ、もしかすると、私が恥ずかしがって身体を離さないように捕まえられているのかも知れません。  
でも、もうどちらでも良いと思うのです。  
こうやって触れられていることがとても嬉しくて、胸が一杯になっていたのですから。  
「あ…あん…武様っ…ん…っは…」  
電流のように駆け巡る快感に身体を震わせながら、さらなる上を目指して動きました。  
次第にふわふわとした浮遊感が全身を包み込み、頭の中が白くなっていって。  
夢うつつの中で、愛しい方と身体を繋げているという幸福な事実がここにあることに感謝致しました。  
「ん…ぁあ…気持ちいい…んっ……」  
他のことが何も考えられなくなり、一心に頂点を目指して懸命になって。  
私の思うようにさせて下さっていた武様も、次第に腰を動かし始められました。  
「ああ!…あ…はぁ…ん…ああんっ!」  
力強い突き上げに身体が反って、天を仰ぎました。  
「麻由、麻由…っ…」  
恍惚とした中に、武様が名を呼んで下さるのが聞こえて。  
それが嬉しくて、押し寄せる快感を堪えて身体を戻しました。  
「武様…っん…」  
身体が反り返りそうになるのを押しとどめるべく、お背に掴まる手に力を込めて。  
顔を近付けて、愛しい方の唇を自分のそれと重ねました。  
すぐさま舌が侵入してきて、私のものと絡まって。  
何もかも吸い尽くされそうになりながら、さらにと求め続けました。  
「あん…っはっ…んっ!」  
息が苦しくなって離した唇を、またすぐに奪われて。  
そのまま押し倒され、ベッドに埋もれさせんとするほどの激しい責めが私を襲いました。  
「やぁ!あ…あ…武様…っ…もう…イっ…あんっ!」  
息も絶え絶えになりながら、目の前の愛しい方に訴えます。  
「ん…そうか…一緒に…くっ…あ…」  
額に掛かる髪を払って下さった武様が、さらに動きを大きくなさって。  
私達は絶頂への階段を駆け足で昇っていきました。  
「ああ…んっ…はっあ…あ…んく…あああぁんっ!」  
武様のものが大きく脈打ち、全てを吐き出されたのを中に感じた瞬間。  
私は愛しい方に強くしがみついて、絶頂を迎えました。  
 
抱き合った体勢のまま、武様がごろりとベッドに横になられました。  
向かい合ってお互いの顔を見詰めながら、乱れる息を整えて。  
今しがた激しく愛し合ったことを思い、余韻に浸っておりました。  
「麻由」  
「はい」  
「イく時、爪跡を付けてくれたね」  
「え…」  
仰った言葉に心臓が跳ね、慌てて抱擁を解いて身体を起こしました。  
横向きに臥しておられる武様のお背に目を遣ると、ご自分でつけたと仰っていた白い筋の脇に、爪が食い込んだ小さなへこみが見えました。  
「も、申し訳ございません!」  
甘い余韻から覚め、ぺこぺこと頭を下げて許しを乞いました。  
プロポーズをお受けした身とはいえ、私達はまだ主従の関係にあります。  
ご主人様に痛い思いをさせてしまったことに、胸がギュッと縮みました。  
「いや、そんなに謝ってくれなくていいんだ。  
僕が自分で付けた爪跡を、上書きして消してくれたんだからね、礼を言いたいくらいだ」  
「え…」  
お礼だなんて、そんな…。  
「君を口説き落とすためとはいえ、自分であんなことをしたのは面映くってね。  
だから、君が新しいものをつけてくれて、よかった」  
そう言って微笑まれた武様に引き寄せられて、再びお胸に包み込まれました。  
「もう二度と、あんなことはしたくない。  
僕の背に爪跡をつけてもいいのは麻由だけだ、いいね」  
「はい」  
「君も、僕以外の男にこうされたりしたら許さないよ」  
「勿論です」  
そんなことは、想像したくもありません。  
私をお抱きになるのは、生涯この方お一人。  
武様がそうお望みになる前に、とっくに自分でそう決めていたのですから。  
少し脇道に逸れましたが、このことを改めて肝に銘じ、これから押し寄せる世間の荒波に立ち向かおうと思いました。  
 
 
「僕達には、今まで記念日と呼べるものは無かったけれど。  
今日は、誰憚ることなく記念日だと言えるね」  
「ええ、本当に」  
武様と共に生きることを決意した記念すべき日になりました。  
今後、何かにつまづき落ち込んだ時には、今日のことを思い出して、また新たに頑張る原動力にしなければなりません。  
「これからは、結納の日、結婚式の日と記念になる日が目白押しになる。  
式の日と届けを出す日をずらして、祝う日を増やすのもいいかも知れないね」  
「でも、それでは多すぎて、忘れてしまうと思うのですが…」  
「えっ、忘れるのかい?ひどいことを言うなぁ麻由は」  
「いえ、そういう意味ではありません、その…」  
「冗談だよ、照れているだけなんだろう?」  
「はい…」  
嬉しそうに仰るのを見て、胸が甘く騒いだのもお見通しだったようです。  
「さ、もうお休み」  
「はい、お休みなさいませ」  
「お休み、麻由」  
優しく仰って目を閉じられた武様のお顔を見詰めました。  
最近見られなかった穏やかな表情で眠りにつかれるのを見て、心が和みます。  
天国から地獄という言葉はありますが、今日の私は全く逆で、地獄から天国に引き寄せて頂いたようで。  
申し訳ないことをしてしまった分、この方を一生愛し、寄り添って生きようともう一度決意を新たに致しました。  
朝はもうそこまで来ていますが、少しぐらいなら眠れるでしょう。  
愛しい方に身を寄せ直して、私も満ち足りた思いで目を閉じ、眠りに落ちていきました。  
 
──続く──  
 

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