「結婚式前編」  
 
武様との婚約が整い、私は長年暮らした使用人棟を出て、母屋の来客用のお部屋に移ることになりました。  
もう夫婦も同然なのだから、僕の部屋に来ればいいのにと武様は仰ったのですが。  
やはりこういうことには節度が大事ですから、不名誉な噂の種を蒔かないようにしましょうと申し上げ、同室はご遠慮したのです。  
そして、花嫁修業という名目で、私は上流階級の夫人に必要な教育を受けることになりました。  
その内容は、主に立ち居振る舞いやマナーの勉強と、ダンスのレッスンを主軸にしたものでした。  
お茶やお花などの稽古はもう少し後でもいいだろうと武様が仰ったので、それに従いました。  
レッスンは、私の考えていた以上にハードなものでした。  
名家のメイドとして一通りのことは身に付けているという自負はありましたが、その考えが甘かったことを実感させられました。  
私の知っているのはあくまで使用人としての行儀作法で、上流階級の婦人としてのマナーではなかったのです。  
名家にお生まれになった女性であれば、小さい頃から段階を踏んで身に付けられることを、私は短期間で覚えねばなりません。  
ゼロからのスタートでしたから、まさに右も左も分からない状態でした。  
 
 
いい教育係をつけようと約束して下さった通り、武様は一流の方をダンスの講師として招いて下さいました。  
両性から教わった方が細部にまで目が行き届くからという理由で、男女一人ずつです。  
二人の先生に手取り足取り教えて頂き、ダンスの特訓は始まりました。  
しかし、ハイヒールに裾の広がったスカートをはいて踊るのは、なかなか思うようにいきません。  
背筋を伸ばしてしっかりとした姿勢を保っているつもりでも、踊っているうちに段々と緊張感が抜けてくるのです。  
次にどう動くかを考えてから体を動かすからそうなるのですと、講師の先生は仰いました。  
たくさん練習を積めば、音楽がかかると同時に体が勝手に振り付けをなぞりますから、考えなくてもよくなりますとも。  
雑念が取れて、動きの美しさだけに集中できるというわけなのでしょうか。  
講師の先生が二人で手本を見せて下さる時は、その息の合った流れるような動きに見とれてしまいます。  
パートナーに合わせた動きでありながら、個人だけ見てもその踊りは完成されていて。  
「クイック」「スロー」「ターン」と言われるたび四苦八苦している私が、あれほど踊れるのは一体いつの日のことになるでしょう。  
 
 
婚約期間中は、夜になって武様が社からお戻りになると、必ず私と語らう時間を設けて下さいました。  
長い時も短い時もありましたが、毎晩必ず。  
時には、レッスンの成果を試すと仰って、武様をお相手にダンスをすることもありました。  
大広間で音楽をかけて二人きりで踊るのは、とても面映くありましたが楽しい時間でした。  
想う方と手を取り合って呼吸を合わせて踊るのですから、胸も躍ってしまうのは無理もありません。  
私の動きがぎこちなくなっても、武様はすぐにカバーして下さいましたので、踊ることに意識を戻すことができました。  
でも、この方とパーティーで踊られたご令嬢方は、こんなに素敵なエスコートをされていたのかと思うと、胸がもやもやとしてしまいます。  
それを正直に申し上げると、武様は笑ってこう仰いました。  
「今まで僕が踊った女の人達は、僕の教材だとでも思えばいいさ。君をうまくリードする為のね。  
実際、僕と一番長く踊っているのは麻由だよ」  
令嬢方を教材だなどとは、とても思うことはできませんが…。  
「どうしても気になるのなら、二人でサンバでも始めようか?あれは僕も未経験だから、君と同じ条件からのスタートだ」  
苦笑して武様がそう仰って、ああいう明るい踊りも楽しいかと一瞬思いましたが、すぐ我に返りました。  
衣装の布面積が小さすぎて、あれではとても踊ることに集中できないでしょうから。  
 
 
武様は、ダンスの専門家でもないのにとても教え方がお上手で、まるで三人目の先生ができたようでした。  
熱心に稽古を付けて下さって、ついつい練習が長時間になってしまい、深夜にまで及ぶこともありました。  
踊りながら愛しい方のお顔を見上げると、その瞳に吸い込まれそうになってしまいます。  
目を合わせると、恥ずかしくなって振り付けを忘れるかと思ったのですが、そうではありませんでした。  
見詰めあい、相手のことしか考えられなくなることで雑念が消えて、動きの固さも取れてリードされるままに踊れるのです。  
 
次の動きや姿勢の維持など一切考えていないのに、きちんと曲にあわせてひとりでに身体が動いて。  
先生が、武様と踊る時の私をご覧になれば、きっと褒めて下さるのではないでしょうか。  
二人きりの練習の意外な効果に驚きましたが、これは相手が武様でなくては意味がありません。  
他の男性と踊っても、決してこのように見惚れてはしまわないでしょうから。  
 
 
和服の着付けも習っておいたほうが良いだろうと武様が仰り、そちらに関しても学ぶことになりました。  
着付けを教えて下さる先生には、武様にお心当たりがあるとのことでしたので、人選はお任せしました。  
その方と初めてお会いする日、お屋敷に来られた人物を見て私はびっくりいたしました。  
武様がお選びになった先生は、以前に遠野家で長年メイド長をしていらした高根秀子さんだったのです。  
私はこの方にメイドとしてのイロハを厳しく叩き込まれました。  
随分鍛えて頂きましたが、彼女が数年前に引退なさって遠野家を去られてからは、一度もお会いすることはありませんでした。  
長年の功績に報いるため、武様が郊外にご用意になった一軒家で、悠々自適に過ごしていらっしゃるとは聞いておりましたが。  
久しぶりにお会いした高根さんは、メイド達を厳しく監督しておられた頃とはまるで異なる、優しい老婦人になっておいででした。  
お顔を見た途端に条件反射で背筋を正した私も、何度かお会いするうち次第に肩の力が抜けていきました。  
 
 
一対一での着付け教室は、メイドとしてお仕えを始めた頃のスパルタ教育とは違い、とても穏やかなものでした。  
丁寧な言葉遣いで分かりやすく教えて下さって、私は比較的短期間で着付けの技を身につけることができたのです。  
高根さんは私のことをかつての部下ではなく、主家の当主の妻になる人として丁重に接して下さいました。  
彼女の現役時代を知っているメイド達は、あの方が私にへりくだった姿勢をお取りになることにびっくりしたようです。  
皆の私に対する態度も、次第に高根さんを真似るように丁寧なものになり、武様に対する時と変わらなくなりました。  
庶民育ちの私としましては、皆が恭しい態度で接してくれるという状況など初めてのこと。  
最初は居心地が悪かったり面映かったりしましたが、日を追うごとに慣れていきました。  
そしてまた、高根さんは着付けのことだけではなく、私の立ち居振る舞いのことについて意見を下さることもありました。  
曰く、今の言い方ではメイドに間違って伝わりますから、別の言い方をなさった方がよろしいでしょう。  
曰く、そんなにおどおどとした物の申し付け方では、相手も困りますから、もっとはっきりと仰いませ。  
このようにそれとなく教えて下さり、私の力になって下さるのでした。  
『あなたが遠野家の奥方としてふさわしくあろうと励まれることが、ご当主様の支えになるのです』  
ある時、高根さんがこう仰ったことがあります。  
この言葉は私の心に残りました。  
今の私はまだまだ力不足で、武様のお力になるまでには至りません。  
でも、私がこうやって花嫁修業を頑張ることで、武様が心強く思って下さって、それが心の支えになるのであれば。  
ダンスレッスンでの脚の痛みも軽くなるというものです。  
 
 
高根さんとの時間の合間、時折着物や立ち居振る舞いとは関係ないお話をすることがありました。  
話題はもちろん武様のことです。  
先代の旦那様がお若い時からご奉公なさっていた高根さんは、武様のことも赤ちゃんの時からご存知です。  
私の知らない、産まれてから十三歳までの武様のお話を聞くのは、とても楽しいものでした。  
小さい頃はよく熱を出され、幼稚園の年少さんの時には運動会を休む羽目になってしまったこと。  
夜に鏡からお化けが出てくるとおどかされたのを信じ込み、怖いから一緒に寝てくれと泣きつかれたこと。  
一つ一つのエピソードが、今からは想像もできないように可愛らしいものでした。  
私の知っている武様は、二人きりの時には甘えてこられることもあるものの、基本的にはいつも颯爽としておられる方です。  
しかし、幼い頃には違っていたのだと知ると、もっと早く出会いたかったと思いました。  
「本当に可愛らしい坊ちゃまでしたからね、麻由さんがそう思われるのも無理はありません。  
でもご安心なさい。お二人に男のお子様がおできになれば、きっとあの頃の坊ちゃまにもう一度会えるでしょうから」  
こちらの表情を読んで高根さんが仰った言葉を聞いて、私は真っ赤になってしまいました。  
 
 
日にちが進み、そろそろ結婚式のことについても考える必要が出て参りました。  
会場は、武様が経営される会社の系列ホテルにすでに決定しております。  
「ホテルを持っている以上、よそで式を挙げるというのは中々難しいんだ。  
式や披露宴の演出は麻由が好きなようにしていいから、会場だけは僕のわがままを聞いておくれ」  
私がプロポーズをお受けして間もなく、武様がそう口にされたのです。  
社長という立場であられる以上、そう仰るのは当然のことだと思いましたので、一も二もなく頷きました。  
わがままだなんて、とんでもないことです。  
それに、書店で買い求めたウエディング雑誌に載っていた遠野家系列のホテルは、とても素敵でしたから。  
新作ドレスの撮影場所として提供され、雑誌に何ページも載っていた写真記事は、私の心をいっぺんでわし掴みにしてしまいました。  
庭園や螺旋階段でドレスを着たモデルさんが佇んでおられる写真を見ただけで、素晴らしい場所であることが分かるのです。  
 
 
会場はすぐに決まったのですが、どのような式にするかは武様と二人で相談致しました。  
結婚式には、一般的に神前式、仏前式、キリスト教式などがあります。  
神前式なら白無垢で三三九度、キリスト教式なら神父様の前で愛を誓うといったイメージが浮かびやすいでしょうか。  
しかし、武様も私も、特定の宗教に帰依しているわけではありません。  
そんな私達が、結婚式の時だけ宗徒になるような真似をするのは、何だかおかしいですねと二人で話し合いました。  
すると、武様は「最近は人前(じんぜん)式というスタイルが徐々に広がっているんだ」と教えて下さいました。  
人前式とは、神様や仏様ではなく、式に参列なさった皆様へ向けて二人の愛を誓うという形式なのだそうです。  
「それはつまり、父や山村さんや高根さんに向かって誓うということですか?」  
「うん、そうなるね」  
対象が随分身近なようですが、よく分からない神様仏様に誓うよりは、こちらの方が現実味があって良いのかもしれません。  
今までお世話になった方に誓うというのは、それはそれで筋の通ったことですから。  
「人前式が良いかと思うのですが、構わないでしょうか」  
「ああ、大丈夫だよ。うちのホテルはそれに対応した設備も人員もあるから。  
と言うより、宗教的な結婚式から設備と人員を引き算すると、人前式に適した会場になるんだ」  
(設備とは祭壇やオルガン、人員とは神父様や斎主様のことだそうです)  
「そうなのですか。でも、やはり遠野家のご当主が結婚されるのなら、宗教色のある伝統的なものが良いとはなりませんか?」  
少しだけ不安になって尋ねました。  
「いや、そうとも言えないよ。  
むしろ、列席者に人前式という新しい式の形を知ってもらえるから、伝統をなぞるより意味があるとも考えられる」  
「なるほど」  
「麻由と僕が結ばれるのは、世間にしてみれば画期的なことだからね。  
変に伝統にのっとった式をやるより、いっそ、スタイルごと変えてしまったほうが面白いだろう」  
武様のお言葉に、私は敬服いたしました。  
こうして、私達の結婚式は人前式で行うことに決まったのです。  
 
 
そして、武様と私は、結婚式を行うホテルのブライダルフェアに参加することにいたしました。  
会場が決まっているのにフェアに参加するのは妙なようですが、模擬挙式やドレスの試着などに興味があったのです。  
式と披露宴の詳細を詰める前に、実際のものを見たほうがイメージが掴みやすいと思ったからでもあります。  
…お料理の試食会にも、大いに興味が湧きましたし。  
武様も、うちのブライダル部門がどうなっているかを冷静な目で見たいと仰って、二つ返事で賛成して下さいました。  
しかし、社長である武様がご参加になるとなっては、現場が大変なことになりそうです。  
変装も視野に入れたのですが、ああいう場に帽子やサングラスをつけて行っては浮いてしまうでしょう。  
それに、私の欲目ではなく武様は非常に端正な美男でいらっしゃるので、多少隠したくらいでは絶対にばれてしまいます。  
二人で相談いたしまして、結局、武様のフェアへの参加は見送ることになりました。  
 
でも、私一人が行くのは心細い…と思っていたところ、この話を耳にされた高根さんが名乗りを上げられたのです。  
「麻由さんも、ご当主様の妻になられるのなら、遠野家の事業のこともお分かりにならないといけません。  
私がご一緒しますから、あなたの目から見て感じたことを、帰宅してからご当主様にレポートなされば宜しいのでは?」  
こう提案されて、なるほどと頷きました。  
私は今まで、武様のお仕事について口を差し挟んだことは一度もありません。  
せいぜい、通販部門のイチゴ食べ比べセットの箱の色について提案をしたくらいです(「風物詩」参照)。  
全くの素人ですから、有意義なレポートができるかは、はなはだ怪しいですが…。  
しかし、できるできないに関わらず、遠野家の事業をきちんと見ておくのは非常に大事なことだと考えました。  
何分にも武様が経営なさっているのは大きな会社ですから、私などには全く理解の及ばない分野の事業もあります。  
そういう方面の勉強をする前に、今の私にとって一番重大な結婚関連のことについて、見る目を養うのは良いかもしれません。  
帰宅なさった武様に相談しますと、「ほう、では麻由のお手並みを拝見しよう」と仰って、承諾して下さいました。  
 
 
そしてブライダルフェアの当日、私は手にメモとペンを持って会場におりました。  
高根さんは、まるで記者か何かのようですよと笑っておいでになりましたが、私にしてみれば必死なのです。  
お屋敷に帰って、実のある報告ができるようにとばかり考え、いやでも目が三角になってしまうのでした。  
あら捜しをするようで、ホテルスタッフの方には申し訳ないのですが、気になったことがあるたびにメモを取って。  
本来なら憧れをこめて見るべき模擬挙式も、目を皿のようにして見ておりました。  
「麻由さん、少し怖いですよ?」  
高根さんがこっそりと耳打ちして下さったのですが、表情を緩めることはできませんでした。  
 
 
模擬挙式が終り、通常は披露宴として使われる宴会場に入りました。  
本番と同じゲスト席と高砂席が用意されているそこを基点にして、ドレスの試着室や引き出物の展示スペースを回るのです。  
カップルでフェアに参加しておられる人達を見ますと、少しだけ羨ましくなりました。  
皆さん一様に幸せそうで、にこにこと笑いさざめいていらっしゃいます。  
フェアの参加者は思ったより多く、もう少し空いてからあちこちを見て回りましょうと高根さんと相談し、椅子を借りて座りました。  
「模擬挙式は、どうでしたか?」  
対面に座られた高根さんが尋ねられました。  
「雑誌で見るのとはやはり違いますね。窓から見える景色も良かったですし」  
「ええ。お式の当日は、あなたとご当主様があそこに立たれるのですよ」  
高根さんの言葉に、先程の模擬挙式のモデルさんの姿が頭の中で自分達に入れ替わりました。  
「あんなに格好よくなるでしょうか…」  
武様に関しましては、文句のつけどころがない花婿ぶりを披露されるでしょうが、自分はとなると自信がありません。  
並んだ私達を招待客の方々がご覧になって、不釣合いだと思われはしないでしょうか。  
「まあ、そんなことをお考えになって。  
そろそろ、あちらへ参りませんか?ウエディングドレスを試着なされば、そんな不安もどこかへ吹き飛んでしまうでしょう」  
「そうでしょうか…」  
「ええ。ちょうど空いてきましたし、行きましょう」  
促され、二人で宴会場を出て、ドレスの試着のできる場所へ向かいました。  
 
 
ドレスのためのお部屋は二部屋に分かれていて、最初のお部屋がドレスの展示室、次の間は試着室になっていました。  
そこにあるのは、デザインも素材も実に様々で、趣向を凝らしたドレスばかりでした。  
これも素敵、あれも素敵と見るもの全てに胸が躍ります。  
しかし、何着も着られるわけではありませんから、いつまでも迷ってばかりはいられません。  
私は、手にしていたメモのページを利用し、ドレスの番号を書いて消去法で絞り込んでいきました。  
 
「あっ」  
ドレスとメモとの間を忙しく往復していた私の目が、ある一着のドレスを捉え、動かなくなりました。  
目に留まったのは、肩の大きく開いたビスチェタイプのドレスでした。  
上半身にはビージング(ビーズ刺しゅう)で草花模様が描かれていて、クリスタルのラインストーンが所々に散りばめられています。  
スカートは、薄くふわりとしたシルクオーガンジーの地に、縦方向の繊細なプリーツが矢羽絣(かすり)のように入っていました。  
裾は長く、プリーツが流れるように床へと続いていて、さながら夢のように美しいドレスだったのです。  
ベールはと申しますと、裾に向かって刺しゅうが密になるように施されている、こちらも美しい物でした。  
結婚式の当日、誓いのキスの時に、このベールに武様のお手が掛かり、そっと持ち上げられたら…。  
私は考えただけでのぼせてしまい、呆けたようにそのドレスの前で立ち尽くしてしまいました。  
 
 
「それがお気に召したのですか?」  
「えっ?」  
こちらへ来られた高根さんが仰った言葉に、私は我に返りました。  
「この前で、ずっとお立ちになっていらっしゃいましたから」  
「え、ええ」  
さっきまでぐるぐると歩き回っていた私は、このドレスを目にした瞬間に足をピタリと止めてしまっていたのです。  
他と比べてどうかというのではなく、「これだ!」と確信したから立ち止まったのだと思います。  
「高根さんは、どう思われますか?」  
念のため尋ねてみると、高根さんはクスクスと笑われました。  
「着るのは麻由さんですからね、私の意見などお聞きにならなくても宜しゅうございます。  
これがお気に召したのなら、試着なさってはどうですか?着られれば、お考えがはっきりするでしょう」  
「ええ、そうですね」  
あらためてお部屋にある他のドレスを見渡しますが、やはり私はこれに一番惹かれました。  
係の方に声を掛け、試着のお願いをしました。  
 
 
ドレスを着付けて頂き、鏡に向き直るとほうっと溜息が漏れました。  
展示してあるのを見るのと、実際に着てみるのとでは、やはり違います。  
身にまとったドレスは、マネキンが着ているときとは違い、プリーツの繊細さが際立ってさらに魅力的に見えたのです。  
馬子にも衣装と申しますが、実際、このドレスを着た私はいつもより上等に見えました。  
やはりこのドレスしかないと思います。  
何着もとっかえひっかえして悩んでおられる女性もいましたが、私は早々と心が決まってしまいました。  
元の服に着替え、展示室へ戻ります。  
資料を覗き込みますと、先程のドレスは他のどのものよりもお高い品でしたが、決まってしまった心はもう揺らぎませんでした。  
遠野家にメイドとしてお勤めして得たお給金をかなり割くことになりますが、それでもこれが着たいのです。  
 
 
引き出物を高根さんと相談し、お料理の試食も終えてホテルを後にしました。  
お屋敷へ戻り、借りている来客用の寝室で机に向かい、うんうんと唸りながら今日のレポートをまとめました。  
フェアに参加して気付いたこと、それに対する私なりの改善案を書きまとめ、その夜、武様にお見せしました。  
「なるほど、なかなか良く書けているじゃないか」  
「本当ですか?」  
褒めて下さるのに、現金な私はすぐに嬉しくなってしまいます。  
おだてて持ち上げて下さっているのは、分かりきっておりますのに。  
「ところで、ドレスの写真は撮ってきたかい?」  
「え」  
…すっかり忘れてしまっていました。  
「秀子さんと二人で相談したのはいいが、僕にも教えてくれなきゃ困るじゃないか」  
「申し訳ありません」  
夫となる方にドレスのことを相談しないなど、あってはならないことです。  
自分の失敗に、私は一気に悲しくなってしまい、ぺこぺこと頭を下げて謝罪しました。  
「本当に申し訳ありませんでした」  
「…うん」  
「次からは、こんなことがないように肝に銘じます。ですから、お許し下さいませ」  
もう一度深く頭を下げてから顔を上げると、武様は難しい顔をしておいででした。  
「まあ、悪気があってしたことではないだろうから」  
「はい」  
「しかし、僕の存在をないがしろにされたようで、気持ちが納まらないんだ」  
「うっ…」  
「だから、お仕置きをすることにしよう」  
「え…キャッ!」  
伸びてきた武様の腕に抱き上げられ、私の身体は宙に浮きました。  
「あの、何を…」  
「僕が言うお仕置きには、一種類しかないじゃないか」  
武様は笑顔で話されているのに、なぜでしょう、身体が震えてしまうのです。  
平常心を取り戻そうと頑張るのですが、それができないまま、私はあっという間にベッドへ運ばれてしまいました。  
「さて、どうやって埋め合わせをしてもらおうかな」  
「…」  
「案が浮かばないのなら、僕の好きにさせてもらうよ?」  
「あっ!」  
上になられた武様が、私の首筋に唇を寄せられました。  
そのまま、位置を変えて何度も吸いつかれ、お手が胸元を這い回りました。  
「君の夫になるのは誰か、じっくりと教えてあげよう」  
鼻が触れるほどの距離で、武様が私の目を見詰めて仰いました。  
そして、そのまま。  
私は、自分が誰の妻になるかを、ベッドの上でいやというほど教えられてしまったのです。  
 
 
ブライダルフェアの日から数日後、本格的な結婚式の打ち合わせが始まりました。  
今度は武様と二人でホテルに出向き、担当者の方とあれこれ相談いたしました。  
結婚式も披露宴も、通常のものとさほど変わらない構成にすることに決まりました。  
本来は、名家の男性がご結婚なさる折には、何名もの来賓の方のスピーチが長々と続くものなのだそうですが。  
それでは招待客が退屈してしまうだろうし、誰にスピーチをしてもらうかの人選も難しいと武様が仰ったのです。  
ですから、来賓の方のスピーチは最初にお一人、乾杯の発声をお願いする方をお一人。  
一般的な披露宴と同程度のものに留めるという方向になりました。  
お色直しは一度で、私はカラードレス、武様は違う色のモーニングに着替えることにも決まりました。  
結婚式の打ち合わせ、続けているダンスのレッスン、ウェルカムベアーの作成などと忙しくなり、日々は瞬く間に過ぎていきました。  
 
 
 
そして、いよいよ結婚式の当日がやってきました。  
朝、起きるべき時刻よりも随分早く目覚めてしまい、そわそわと落ち着きません。  
お部屋の中も、窓から見るお屋敷の庭も、何も変わらないというのに。  
今日が私にとって特別な日であることは、高鳴るこの胸が証明しています。  
やっと、武様の妻になれる。  
その喜びが身体中に満ち溢れ、ふわふわと雲の上を歩いているような心持ちになっているのです。  
 
 
花嫁は花婿よりも支度に時間が掛かりますので、ホテルに入るのは武様とは別々でした。  
数名の係の方にドレスを着せていただき、メイクなども施されて。  
お屋敷を出て数時間後には、私はすっかり花嫁の装いに身を固めておりました。  
傍らには、今日手に持つブーケが用意されています。  
生涯、自分が持つことは叶わないと思っていたそれが、手の届く所においてあることに感無量になりました。  
 
 
ドレスの裾に気をつけながら、座って鏡の中の自分を見つめておりますと、控室のドアの開く音がしました。  
「麻由」  
振り返ると、礼装に身を包んだ父が所在なげに立っていました。  
「お父さん」  
「入っても、いいかな」  
「ええ、どうぞ」  
親子なのに、何を今さら遠慮することがあるのでしょうか。  
私は向かいにあった椅子を示し、父を部屋へ招き入れました。  
 
「ああ、綺麗だね」  
座った父が、感心したように褒めてくれました。  
「そうかしら…」  
「ああ。母さんにも見せてやりたかった」  
「…うん」  
父の言葉に、私が十三歳のときに亡くなった母のことが思い出されました。  
「母さんが死んだ時は悲しかったが、今思えば、それがお前と坊ちゃまを結びつけるきっかけになったんだな」  
「ええ、そうね」  
母の死により、私は当時住んでいた家から、父が住み込んでいた遠野家の使用人棟に引っ越したのです。  
それがなければ、私は母と共に元の家でずっと暮らしていて、武様に出会うことも無かったのでしょう。  
「お前の晴れ姿を見たら、母さんは何て言うだろう。  
きっと、泣いてしまって言葉にならないだろうな」  
「そうね…」  
優しかった母の姿が脳裏に甦り、胸が締め付けられました。  
 
 
「私はまだ信じられないんだ、お前と坊ちゃまが結婚するということが」  
父が目を擦りながら言いました。  
「半年前、お前に結婚するという報告を受けた時には、狐につままれたようだった。  
坊ちゃまと2人で挨拶に来てくれた時、私は驚きのあまり、随分とあっさりした応対をしたように思う」  
ええ、確かに結婚を決めたことを告げた時、父は一言の反対も致しませんでした。  
「…そうですか」とただ一言呟いたのみで、強硬に反対されることを予想していた私は肩すかしを食った覚えがあります。  
「恥ずかしい話だが、私は夢を見ていると思っていたんだ。  
しかし覚めるのを待っていても、一向にその気配が無くてね、現実だと気付いたのは二人が帰った後だった」  
「まあ」  
「それから数日は、心ここにあらずといった感じだったよ。  
担がれたのかとも思ったのだが、お前は嘘をつく子じゃないし…と混乱していた頃、坊ちゃまがお一人で訪ねて来られたんだ」  
「えっ?」  
そんな話は初耳です。  
「何度も問い返す私に、坊ちゃまはお前との結婚に至る経緯を繰り返し説明して下さった。  
男二人で酒を酌み交わしながら、お前をいかに愛していて一緒になりたいかということを長々と仰ってね。  
結婚を許してくれと改めて頼まれた時には、まるで自分が坊ちゃまに口説かれているように錯覚したほどだ」  
父が頭をかきながら言いました。  
「身分違いだからと反対しようとしたが、坊ちゃまの真摯なご姿勢に私は胸を打たれてしまって、何も言うことができなかった。  
あの方なら、きっとお前を大事にして下さるだろう」  
「ええ」  
「坊ちゃまがお前の夫になることは、母さんも天国できっと祝福してくれているだろうね」  
「…うん」  
「天国には先代の旦那様と奥様もいらっしゃる。お二人にも喜んで頂けるよう、しっかりやりなさい」  
「分かりました」  
「私も、花嫁の父として今日は最後の務めを果たすから」  
微笑んでみせる父の目が潤み、赤くなっているのが分かりました。  
「ありがとう、お父さん」  
「ああ、お前まで泣いちゃいけない。さ、歩く練習をしよう。足並みがずれては格好が悪い」  
「…うん」  
父が明るい声で提案してくれ、二人で腕を組んでバージンロードを歩く練習をしました。  
 
 
十分ほどした頃、ドアをノックする音が聞こえて足を止めました。  
「高根です、入っても宜しいかしら」  
「どうぞ?」  
高根さんの声が聞こえ、返事をしました。  
入っていらっしゃった高根さんは、黒い留袖をお召しになった姿に貫禄があります。  
今日この方は、武様のご両親の名代として式に参列なさるのです。  
「お早うございます、麻由さん、お父様。  
本日はまことにおめでとうございます、日和にも恵まれましたね」  
恭しくお辞儀をして下さるのに、こちらからも頭を下げました。  
 
「今日は、ご出席頂いてありがとうございます」  
「ええ、お二人の晴れ姿が見られるのですから、何を置いても駆けつけましたとも」  
着物の帯をポンと叩いて高根さんが仰いました。  
「今、花婿の控え室にも伺ってご挨拶してきたんです」  
「そうでしたか」  
「ご当主様におかれましては、お部屋の中で立ったり座ったり、そわそわと落ち着かないご様子でしたわ」  
「まあ」  
「『式の前に花嫁の控え室に行ってもいいものなのか?』と、私に何度もお尋ねになったのですよ」  
さもおかしそうに、袖で口元を隠しながら高根さんが仰いました。  
「あまりにも何回も仰るものだから、辟易いたしましてね。  
麻由さんのドレス姿が見たい気持ちはお察ししますが、大人気ないことを仰るものではありませんと申し上げましたの」  
「まあ…」  
「そうしたら、子供のように拗ねられたのですよあの方は」  
「えっ?」  
「それでもお諦めになれないご様子で、私の隙をついては控え室を出ようとなさるのですよ。  
一家の主になられる方が分別の無い振る舞いをなさるのではありませんと、もう一度お諌めして」  
武様は、一体何をなさっているのでしょう。  
そんなに何度も高根さんに注意されるようなことをなさるなんて、あの方らしくありません。  
「久しぶりにあの方をお叱り致しましたわ。そうしたら、ムッとしたお顔で黙られてしまって。  
『それなら、せめてあなたが行って、麻由の花嫁姿を見てきてくれ』と仰いましたの。だからこうしてお邪魔しに来たんです」  
笑いを堪えながら仰る高根さんのお顔を見て、私の頬もゆるみました。  
「さて、そろそろ戻ってあげないと。ご当主様がしびれを切らしてこちらへ来られてしまわないうちに」  
「はい、宜しくお伝えください」  
「ええ。とても美しい花嫁さんでしたよとご報告申し上げて来ましょう」  
「いえ、そんな…」  
「今日は記念すべき日ですから、長く大変な一日になりましょうが、気を確かに持って下さいね。  
では、斥候(せっこう)はこれにて失礼します」  
ひらひらと手を振りながら、高根さんが控え室を出て行かれました。  
「…今の人は、前のメイド長の高根さんだよな?」  
あっけに取られたように父が言いました。  
「そうよ、雰囲気が随分変わられたでしょう?  
結婚が決まってから、あの方には着物の着付けを習ったり、マナーを教えて頂いたりしてとてもお世話になったの」  
「それは知らなかった。後で、私からもお礼を申し上げておこう」  
「お願いします」  
「しかし、変われば変わるものだな」  
父は現役時代の厳しい高根さんのことしか知らないはずですから、驚くのは当然のことです。  
「今はもう退職されて、郊外のお家で暮らしていらっしゃるのよ。重責から解放されて気ままに生きていると仰っていたわ」  
「お前も、メイド長をやっていた時は、昔のあの人のように怖かったのかね?」  
「まあっ!」  
父がさも恐ろしそうに肩をすくめて言い、私は頬を膨らませました。  
 
 
しばらくして、式場スタッフの方が間もなく結婚式が始まることを告げに来られました。  
いよいよです。  
胸が高鳴り、グッと息を飲み込みました。  
「麻由」  
父の呼びかけに応じて微笑んでみせようとしますが、顔がこわばってしまっています。  
「そんなに固くならなくても大丈夫だ。うまくやれるさ」  
「…本当?」  
「ああ。私の可愛い娘の結婚式だ。うまくいかないはずが無い」  
父の言葉を聞き、少しだけ呼吸が楽になったのを感じました。  
「さ、行こう。坊ちゃまがお前を待っていらっしゃる」  
「ええ」  
私を待って下さっている愛しい方のお姿を思い浮かべ、お腹に力を入れました。  
「もう大丈夫。行きましょう」  
「ああ」  
父の後になり、控室を出ました。  
結婚式を行うホールへの距離を歩きながら、暴れている心臓をなだめました。  
 
「皆様お揃いですよ。お二人がいらっしゃるのを今か今かと待っておいでです」  
扉を開ける係の方が仰り、私達の緊張をほぐすかのように微笑んで下さいました。  
「さ、腕を組もうか」  
父に促され、ブーケを持っていた手を片方外し、父の腕に添えました。  
一人娘の私は、小さい頃に父の腕に掴まって甘え、ぶら下がって遊んでもらったものです。  
それはほんの少し前のような気がしますのに、いつの間に私は父の隣に立ち、腕を組むまでに大きくなったのでしょう。  
正面を向き扉をじっと見詰めている父の横顔を見ながら、過ぎ去った日々を思いました。  
「それでは、これより遠野家・北岡家の人前結婚式を執り行います。  
皆様、ご起立願います」  
扉の向こうから司会の方の声が聞こえ、荘厳な音楽が流れると共にホールの分厚い扉が開かれました。  
 
 
大きな窓からさんさんと日の光が入り、白を基調とした室内は眩しいほどに目にしみました。  
まっすぐ伸びるバージンロードの両脇には、かしこまった服に身を固めた既知の人達が、こちらを見て拍手をしてくれています。  
視線を奥へ遣ると、バージンロードの終点には、愛しい方がこちらをじっと見詰めて立っていらっしゃいました。  
白いモーニングを着こなされ、凛とした立ち姿で佇んでいらっしゃるのをベール越しに捉え、目が釘付けになりました。  
愛しい方との距離が一歩ずつ近くなっていくたび、嬉しいような怖いような気分がし、せっかく静めた心臓がまたドキドキと暴れだしました。  
あちらへたどり着けば、私達は夫婦になるのです。  
それは、北岡麻由として生きていた今までの日々と決別し、武様の妻として今までと全く違う人生を歩みだすことでもあります。  
期待と少しの不安、見詰められているという高揚感、そして緊張。  
様々な感情が目まぐるしく入れ替わり、ゆっくりした歩調とは裏腹に呼吸が早くなりました。  
 
 
父の腕を掴む手に力を込め、その場所まで歩きました。  
少し眩しげに目を細めて、私をご覧になっている武様は、近寄ると更に素敵に見えました。  
頬に血が昇るのが分かり、ベール越しにでも赤く染まったのが見えないようにと、慌てて俯きました。  
立ち尽くす私の手から父の腕が離れ、私はホールの中央で武様と二人きりになりました。  
「今、お父様の手によって新婦様が新郎様のもとにご到着なさいました。  
ここで、お二人に誓いの言葉を読み上げて頂いたのち、皆様お立会いのもと婚姻届への記入をして頂きます」  
係の方から結婚宣誓書が渡され、武様がそれをお受け取りになりました。  
私も身体の向きを変えて隣に並び、開かれた宣誓書を覗き込みました。  
『誓いの言葉。  
私達二人は、ご列席頂いた皆様方の御前で、今日ここに結婚することを宣言します。  
互いを尊重し、感謝の気持ちを忘れずに、いつまでも仲良く、末永く幸せな家庭を築いていきます。  
困難にぶつかっても、二人で力を合わせて乗り越えていきます。  
どんな時も、今日のこの気持ちを忘れないことをここに誓います』  
二人で声を合わせて、ゆっくりと噛み締めるように読み上げました。  
そして、テーブルの上に用意された婚姻届の前に向き直りました。  
あとは二人の名を書き入れるばかりとなっているそれは、私達の到着を待ち侘びていたかのようにそこにありました。  
まず武様が万年筆を取られ、すらすらと名を書き込まれるのを見詰めました。  
次は私の番です。  
万年筆を受け取り、紙の上に滑らせました。  
今まで何度となく書いてきた自分の名が、今はとても特別なもののように思えます。  
書き終えた婚姻届は、二人で皆様の目に触れるように掲げました。  
 
 
「それでは、お二人の婚姻の証である結婚指輪の交換を執り行います」  
その言葉をきっかけに、私達はまた最初の位置へ戻りました。  
用意されていたリングピローには、揃いの指輪が二つ並んで出番を待っています。  
まずは武様が私の手に嵌めて下さるのです。  
左手が取られ、指輪がするりと差し込まれるのを、息を詰めて見守りました。  
薬指に納まった指輪は、日の光を浴びてキラリと輝き、目にまぶしく映りました。  
次は、私が武様に嵌めて差し上げる番です。  
リングピローに乗っている指輪を持ち上げ、お手を取りました。  
震える指を近づけ、薬指に指輪を通そうとしますが、なかなかうまくいきません。  
何度か息をつき、集中してやっと無事に指輪が通りました。  
二人並び、指輪を嵌めた手を顔のあたりまで上げ、皆様に示しました。  
 
「お二人の指に婚姻の証である指輪が輝いているのをご覧になりましたでしょうか。  
これから幸せな結婚生活を築いていく誓いのため、これより新郎様に新婦様のベールを上げて頂きます」  
司会の方の言葉に、上げた手を下ろして武様と向き合いました。  
顔の前に下りているベールがゆっくりめくられ、武様のお手が肩に掛かりました。  
愛しい方のお顔が近づいて、私はそっと目を閉じ、夫となった人のキスを受けました。  
 
 
誓いのキスをもって、結婚式は無事に終了しました。  
音楽が流れ、武様が私の腕を取ってご自分の腕に絡めて下さいました。  
「さ、行こう」  
微笑みかけて下さるのに頷き、扉へ向かって二人で足を踏み出しました。  
武様と並んで歩くなど、ほんの少し前までは考えられなかったことです。  
私はこの方の妻になったのだという喜びが胸を満たし、夫となった人の腕にしっかりと掴まりました。  
 
 
フラワーシャワーが終り、少しの休憩を挟んだ後、披露宴に来て下さる方々を迎える時間になりました。  
先程の結婚式の列席者は、近しい友人やお屋敷の関係者が中心でしたが、披露宴では武様のお仕事関係の方も多くいらっしゃいます。  
私とは面識のない方ばかりですから、少しでも第一印象が良くなるように、お迎えの段階から気を引き締めねばなりません。  
新たな緊張が生まれ、お辞儀をしながら身体の前で組んだ手をギュッと握りました。  
 
 
開宴の時刻になり、武様と私はまた腕を組んで入場し、列席して下さった皆様の中を歩きました。  
高砂席につき、司会の方が開宴の言葉を仰ったのを合図に、披露宴は始まりました。  
まず最初は、新郎新婦の紹介フィルムを皆様にお見せするのです。  
武様の赤ちゃんの頃の写真がプロジェクターで映し出され、そこから年を経るごとに何枚かのスナップが映りました。  
私の番になり、同じように赤ちゃんの頃、小中学生の頃の写真と共にまた生い立ちが紹介されました。  
「そして、お二人の出会いは新郎新婦共に十三歳の頃にさかのぼります。  
新婦様が初めて新郎様のご自宅へ足を踏み入れられた折、互いに一目惚れをなさったとのことです」  
司会の方の言葉に、ほおっと感心するような声がそこここで聞こえました。  
「新婦様は高校をご卒業後、新郎様のご自宅にメイドさんとして就職なさいました。  
大変熱心にお勤めをこなされ、主家や上司の覚えめでたく優秀であったと伺っております」  
大げさに紹介されてしまい、背筋がこそばゆくなって参りました。  
私は真面目ではあったのですが、決して優秀なメイドではなかったのですから。  
 
 
「新郎様が大学をご卒業になって間もなく、ご両親が相次いでご逝去なさいました。  
まだお若かった新郎様を、当主として社長としてお支えしようと、お屋敷の皆様が一丸となってあたられたそうです。  
新婦様は二十五歳でメイド長に就任され、新郎様の生活を陰になり日向になり支えられました。  
その美しいお心栄えと真摯な態度に、新郎様はいたく感激なさり、妻にするのはこの女性しかいないと心に決められたのです」  
司会の方はここを一番の盛り上がり所だと考えられたらしく、声が高くなりました。  
「新婦様は、最初は固辞なさいましたが、意志を曲げられなかった新郎様の粘り強いプロポーズにより、お心を決められました。  
中学一年生の頃に芽生えた淡い初恋は、十年以上もの時を経て、本日の佳き日へと至ったのです」  
そこで私達の紹介は終り、スクリーンが上がりました。  
司会の方にお渡しする資料を書く折、二人のことは変に隠し立てせずに、ありのままを皆様に知って頂こうと意見が一致しました。  
ですから本当のことを書いたまでですが、一目惚れのことなど、今までほとんどの方が知らなかったことが公になり、何だか恥ずかしく思えました。  
フィルムの感想を求められ、武様は「今まで友人の結婚式に出た時は、二人のツーショットの写真が多く使われていました。  
麻由と私はツーショットの写真がまだ少ないので、今後増やしていきたいと思います」と仰いました。  
私はと申しますと、緊張でよく覚えていないのですが「初めて会ったときの感動を忘れず、ずっと尽くしていきたいと思います」と言った気がします。  
 
主賓の方のご挨拶の後、披露宴のプログラムはケーキカットにさしかかりました。  
ケーキは、昔は三段四段のタワーになっているものが主流でしたが、近年は平たく四角いものが多く使われているそうです。  
今日使用するものも、セレモニー用の張りぼてではなく、全て本物で出来ています。  
色とりどりのフルーツで飾り付けられているそれは、とても美味しそうで、思わず喉が鳴りました。  
「それでは、新郎新婦によるウエディングケーキ入刀です。お二人の初めての共同作業です。  
カメラをお持ちの方は前へお進み下さい」  
司会の方の言葉に、二人でピンクのリボンのついたナイフを持ち上げました。  
ケーキの中央に当て、ゆっくりと切り下げていきます。  
あちこちから向けられたカメラを順に見て、何人もの方に写真を撮って頂きました。  
ポーズをとっている途中、武様の空いたお手が腰に回り、引き寄せられました。  
 
 
「新郎新婦のうるわしいお姿をカメラにしっかりと収められたでしょうか。  
では、ここでお二人に一口ずつケーキを食べさせあって頂きます。  
これはファーストバイトと呼ばれる儀式で、新郎から新婦へは『一生食べることには困らせない』ことを約束するものです。  
新婦から新郎へは『一生美味しい料理を作ります』と誓う意味があります」  
司会の方の言葉をきっかけにケーキナイフが回収され、入れ替わりにリボンのついたフォークが一本運ばれてきました。  
「まずは新郎様から新婦様へ、愛の一口をお願いいたします。  
新婦様の可憐なお口にふさわしい大きさで食べさせてあげて下さい」  
武様がフォークを取られ、切り取ったケーキを私の方へ向けられました。  
目で合図をされ、口を開けて食べさせて頂きます。  
予想通り、ケーキはとても美味しく、思わず笑顔になってしまいました。  
「では、新婦様から新郎様へ愛の一口を差し上げて頂きます。  
新郎様への愛情と同じくらい、大きい一口を食べさせてあげて下さい、どうぞ!」  
武様への愛情を表すほどの一口なら、このケーキを丸ごとぶつけても足りないでしょう。  
でもそんなことはできませんから、少しだけ大きめにケーキを切り取り、武様の口元へ持っていきました。  
先程に習って目で合図をし、武様がケーキにかぶりつかれます。  
しかし、わずかに目測を誤られたようで、クリームが口の脇に付いてしまいました。  
「あ…」  
私は慌てて左手を伸ばし、武様の口元に付いたクリームを指で拭き取りました。  
その時。  
「!」  
いきなり手首を掴まれ、私の指に付いたクリームを武様が舐め取られたのです。  
人前でそんなことをされるのにびっくりして、私は一瞬でのぼせて固まってしまいました。  
白い光が何度か瞬き、指を取られたままの姿が写真に撮られてしまったのを呆然と感じました。  
ややあって我に返りますと、武様はまるで何事もなかったかのように、ナプキンで私の指を拭って下さっていました。  
 
 
衆人環視の中で指を舐められて頭に血が昇ってしまい、気がつくとブーケプルズは終っておりました。  
会場では乾杯が済んでお食事が始まり、ざわざわと賑やかになっています。  
お色直しの時間ですからご退席下さいと係の方に耳打ちされ、火照る頬に意識を向けないようにして高砂席を後にしました。  
そして、控室に戻ってウエディングドレスを脱ぎ、カラードレスに着替えました。  
今度身につけるのは、ブルーの地に同系色の濃淡のチュールが重なった優しい印象のドレスです。  
銀の細いリボンテープが随所に配されていて、それがドレスのアクセントになっているのです。  
係の方以外は誰もいない小部屋に入ることができ、私はようやく肩の力を抜くことができました。  
高砂席にいますと、皆様の目がこちらに向けられておりますので、気を抜けないのです。  
少し疲れを感じますが、プログラムはようやく半分ほどです、まだまだしっかりやらねばなりません。  
着替えが終ってお化粧も直して頂き、控室を出ると武様が待って下さっていました。  
「そのドレスも似合っているね」  
じっと見て仰るのに、また胸が騒ぎだしました。  
今日、私はこの方に何回ドキドキさせられるのでしょう。  
愛しい方は、お召し替えになった黒の衣装も似合っていらっしゃって、先程とはまた違う凛々しさがあります。  
普段からも格好良い方ですが、今日は更に何段も男振りが上がられたようで、見詰められるとどうしていいか分かりません。  
「…あなたこそ、とてもよく似合っておられます」  
私はパッと下を向き、口の中でもごもごと言いました。  
「行こうか」  
武様は私の腕を取られ、結婚式の時と同じように、ご自分の腕にしっかりと絡めて下さいました。  
 
扉の前に立ち、係の方がドアを開けられます。  
一度目の入場の時とは違う音楽が流れ、また皆様が拍手して下さる中を歩きました。  
キャンドルサービスを終え、スピーチをして下さる方がマイクの前に立たれました。  
新郎友人代表、新婦友人代表、そして武様のご親族の方とスピーチは順に続きました。  
そして、祝電披露を挟んで、披露宴のプログラムは最後となる両家の挨拶まで進みました。  
本来は新郎の父が挨拶されるところですが、武様のお父様はすでに他界されていますので、私の父が代理として挨拶を致しました。  
父は、まずは列席して下さった方々へのお礼を述べ、武様のお父様である先代社長のお人柄のこと、奥様のことなどを話し、お二人の分も自分がこれから二人を見守っていきたいと申しました。  
「武さんと娘には、互いを思いやり、努力して、明るく幸せな家庭を築いてほしいと願います。  
新しい門出を迎える二人に、どうか皆様の温かいご指導をお願い致したい所存でございます。  
本日は、本当にありがとうございました」  
父が言葉を結び、深く頭を下げました。  
 
 
「では新郎様より、本日ご列席下さった皆様に感謝を込めまして、一言ご挨拶頂きます」  
係の方からマイクを受け取られた武様は、姿勢を正して口を開かれました。  
「本日は、お忙しい中を、私ども二人の為にかくも大勢の皆様にお集まり頂きまして、誠にありがとうございました。  
私は今ここにいらっしゃる皆様から、暖かい祝福のお言葉を頂戴し、無事に今日の日を迎えることがでましたことを、大変幸せに思っております。  
皆様のお陰をもちまして、本日の披露宴は非常に思い出深く、決して忘れることのできない大変素晴らしいものとなりました。  
私は、本日ご列席下さった方々は勿論のこと、残念ながら本日ご欠席になった方々にも、以前から大変お世話になっております。  
大学卒業と前後して両親を亡くした私は、折に触れて皆様に教えを乞い、貴重な助言やご意見を頂いて参りました。  
それを糧とさせて頂き、行動の規範にしたお陰で今日(こんにち)の私があると申しましても過言ではございません」  
 
 
メモもご覧にならずにすらすらと仰る武様のお姿に、私はただただ見惚れておりました。  
公の場で、このように凛とした立ち居振る舞いをなさるこの方を見るのは、初めてのことです。  
私はメイドでありました関係上、屋敷におられる時のお姿しか存じ上げませんでしたから。  
一歩後ろに立って聞いておりましたが、武様の立派なご様子を見て頬に血が昇り、のぼせ加減になってしまいました。  
「私の結婚のことに際しましても、以前より各方面からご尽力頂き、またご意見も頂戴して参りました。  
心を配って下さっていた方々におかれましては、私が麻由を伴侶に選んだことに対して、複雑なお気持を持たれていることと思います。  
当主という立場の人間が、メイドをしておりました者と結ばれることは、はっきり申しまして非常に特異なことです。  
私の知る限り、本日ご列席頂いた方々の中にもそのような例は見当たりません。  
これにつきましては、私達の婚約が整いました後も、幾人もの方々からご意見を頂戴致しました」  
え……。  
急に武様の仰る内容が変わり、驚きました。  
私との結婚のことで、何人もの方から色々と言われたということなのでしょうか?  
そんなこと、武様は私には一言も仰いませんでしたのに。  
きっと、この結婚をよく思っていらっしゃらない方が、武様に物申されたのでしょう。  
それを、私に心配を掛けまいとして、武様はお一人で受け止めて下さっていた…。  
温かいそのお心遣いがとても有難く、そして申し訳なくなりました。  
 
 
「彼女に結婚を申し込みますのは、私にとって一世一代の大勝負でした。  
忠実なメイドであった彼女は、主人である私が求婚しても、きっと断るという確信があったのです。  
しかし、辛い時や苦しい時を支えてくれた麻由を妻にすることこそが、自分の望みであると思い決め、私はプロポーズする決意をしました。  
彼女となら、人生の荒波にも手に手を取って、二人で立ち向かえると考えたのです。  
実際、私達の生まれ育ちの違いなど、彼女と二人でいると取るに足りないものだと感じられるのです。  
この人と家庭を築いていきたい、一緒に幸せになりたいと強く思ったからこそ、私はプロポーズしました。  
予想通り、自分達が結ばれることなどできないと彼女に拒否され、随分手こずりました。  
そうして何度も断られたのですが、私の心は揺らぎませんでした。  
妻に迎えたいのはこの人以外にないという意思を貫き、時間は掛かりましたが、やっとの思いで結婚を承諾して貰えました」  
 
武様の言葉に、プロポーズをして下さった頃のことを思い出しました。  
私が武様のお立場を考えてお断り申し上げても、この方は何度も何度も繰り返し求婚して下さって。  
言葉や態度から窺える武様の熱意に、断る立場でありながら、私はどれほど女としての喜びを感じていたことでしょう。  
あの時の感情が瞬時に甦り、涙が出そうになりました。  
 
 
「今日、こうして晴れて結婚式の日を迎えることができましたが、人生はおとぎ話ではありません。  
私達は、やっと今、人生のスタートラインに立ったのだと思います。  
皆様の目には、私達二人が、とても不安定で頼りないものに映っていることと思います。  
まだまだご心配をお掛けすることになると思いますが、どうか長い目で私達をご覧になってほしいのです。  
二人で共に努力し、温かく幸せな家庭を作っていくことが、皆様にご安心頂ける一番の証明だと肝に銘じ、頑張って参ります。  
私も彼女も、まだまだ未熟者で、至らない部分が多くあります。  
どうかこれからも、皆様の温かいご指導・ご鞭撻のほどを宜しくお願い致します。  
本日は、長い間お付き合いを頂きまして誠にありがとうございました」  
武様が言葉を結ばれ、二人で頭を下げました。  
大きな拍手が湧き、私は胸が一杯になりました。  
主人とメイドが結ばれるというのは、誠に異例なことです。  
私達の婚約が皆様に知れた頃から、きっと武様は幾人もの方にあれこれ物申されたのでしょう。  
それを私には一切知らせずに、今日ここまで守って下さったのです。  
また、こうして新郎の挨拶として口になさることで、噂話をしようとなさる心無い方に釘を刺されたのでしょう。  
メイドが主人を騙して玉の輿に乗ったのではなく、愛し合って結婚するのだということを宣言して下さったのです。  
これから始まる皆様とのお付き合いも、きっと変わったものになってくると感じました。  
おそらく、私のことについて悪く言われる方は減る、そんな予感が致しました。  
 
 
式はお開きとなり、私達は一足先に退場しました。  
会場の出口で、お帰りになる皆様を見送り、何度もお辞儀をしました。  
並んで立っておりますので、武様をきちんと見ることはできませんが、傍らに存在を感じるだけで十分心強く思いました。  
先程の新郎挨拶について、なかなかやるじゃないかと一言褒めてからお帰りになる方も、多くいらっしゃいました。  
本当に、あの場で正面切って口になさるのには、決意が必要だったことでしょう。  
紋切り型の挨拶で終らせず、自分の言葉で包み隠さず本音を仰ったことに、涙がこぼれそうになりました。  
そして、このような素晴らしい方を夫にできたという自分の幸福に、心から感謝を致しました。  
世界中のどこを探しても、この方より素晴らしい人を夫にすることは私には無理でしょう。  
今日のことを決して忘れずに、これからの長い人生を仲睦まじく生きたいと願いました。  
 
──続く──  
 
 

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