「麻由…」 
武様の優しい囁きに、身体の芯が蕩けてしまいそうです。 
「武様…」 
私も愛しい方のお名を呼び、その腕に身体を預けてそっと目を閉じました。 
そして…。 
ぱちり。 
あと少しで二人の唇が触れるというところで、私は夢からさめてしまいました。 
もうっ、あとちょっとでしたのに、惜しくてしょうがありません。 
 
 
…いえ、失礼致しました。 
ここは、遠野家母屋の客用寝室です。 
武様との婚約が整った日、私は長年暮らした使用人棟を引き払い、こちらへ移りました。 
「もう夫婦同然なのだから、僕の部屋に来ればいい」と武様は仰ったのですが。 
まだ法律的に夫婦ではない男女が同室に暮らすというのは、倫理的にどうかと思ったのです。 
ハレンチだと噂を立てられても困りますからと申し上げ、私はひとまず客用のお部屋を借りることにしたのです。 
しかし、部屋が別とはいえ同じ母屋に暮らしているのですから、行き来するのは易いこと。 
武様は私のことを気遣って、ご帰宅後は毎夜、語らう時間を設けて下さるようになったのです。 
リビングで、武様のお部屋で、はたまたダンスの相手を務めて頂く大広間で。 
時には、昨日のように私の使う客用寝室に来て下さることもありました。 
今までは秘密の関係でしたから(皆にはとっくにバレていたようですが…)、二人で会うのはもっぱら武様のお部屋でした。 
しかし、晴れて婚約したのだから堂々とできる!と仰って、武様は別の場所で過ごすのを好まれるようになったのです。 
お部屋ではなく廊下で長い立ち話をしたり、庭の木立の中を歩いたり。 
主従ではなく婚約者として対等の位置に立つのは、何だか新鮮で、物珍しく感じられます。 
もしかしたら、人目のある場所で二人でいることに私が慣れるようにと、心を砕いて下さっているのかもしれません。 
 
 
昨夜は、大広間でダンスの練習をつけて頂きました。 
専門の講師に劣らぬほど熱心に教えて下さるのに応えるべく、私も一心になって。 
早いステップを集中的に特訓し、へとへとになったところで、汗をかいたねと武様が仰ったのです。 
「練習に付き合った褒美に、背中を流してほしいな」とも…。 
忙しい時間を私の為に割いて頂いているのですから、そう言われるととても断れません。 
頷くや否や「君も疲れたろう。風呂に入ったらすぐに寝ればいい」と、あの方はさっさと私を客用寝室に連れ込まれて。 
武様のお背を流すだけのはずが、私はあの方に髪から爪先まで綺麗に洗って頂く羽目になったのでした。 
そして、お風呂から上がられたあの方は、一つしかないベッドにごろりと横になられて…。 
私もそこへ引っ張り込まれ、抗えないまま共寝する結果にもなってしまったのです。 
 
 
メイドをしておりました頃は、朝、私が必ずあの方より先に起きてお部屋を出ておりました。 
屋敷の使用人仲間に見つからないため、前の晩にどれだけ深く愛し合って疲れていたとしても、です。 
しかし、婚約者となった今は、私達の関係は当然皆に知れ渡っています。 
見つかるということを考えなくてよくなった為、私の起きるのはあの方よりせいぜい十数分前くらいになりました。 
もう一つ変わったのは、武様の寝姿勢です。 
主従の頃は、抱き締めあって眠っても、私は朝にはあの方の腕から抜けておりました。 
麻由は自分より早く起きねばならないから、と武様が無意識に思われていたからでしょう。 
しかし最近は、もう対等の関係だからということなのか、目覚めるまで抱き合っていることが多くなりました。 
愛しい方に抱かれたまま目覚める喜びというものを、初めて知った気が致します。 
 
 
例に漏れず、今朝も私は武様に後ろから抱き締められて目覚めました。 
背中一杯に感じる温もりが、とっても嬉しくって。 
すうすうと心地良さそうに奏でられる寝息が、耳にかかるくすぐったさも気になりませんでした。 
「ん…麻由…」 
呟かれた声に、目を覚まされたのかと思います。 
しかし、武様はむにゃむにゃと続く言葉を口の中でとどめ、また沈黙されました。 
もしかしたら、夢の中に私が登場しているのかもしれません。 
そう思うと何だか愉快になって、頬が自然と緩んでまいりました。 
 
 
「!」 
刹那、みぞおちの辺りで交差していた武様のお手が、這い上がって私の胸を包み込みました。 
昨晩愛し合ったまま眠ったので、二人とも裸です。 
敏感な場所に愛しい方のお手が触れ、それだけでびくりと身体が緊張しました。 
「んっ…あ…」 
胸を包み込んだお手は、その質感を楽しむようにやわやわと動きました。 
指の股に胸の頂が挟み込まれ、キュッと締められて。 
「あっ…ん…」 
眠っている方に触られているだけなのに、私の口からは甘い声が漏れてしまいました。 
起きていらっしゃる時は、指先で押しつぶすように撫でられたり、軽く摘んだりもされるのに。 
偶然挟まれた刺激だけなんて、じれったくて。 
愛しい方のお手が更に動くのを期待しながら、息を詰めて待ちました。 
しかし、無意識で動いていたらしいお手は、しだいに緩慢な動きになり、やがて止まってしまいました。 
…寝ている方の身じろぎに感じてしまったなんて、改めて考えると少し恥ずかしいです。 
 
 
期待してしまったのは、昨夜愛し合った余韻が残っているためです。 
昨日は…、弱い部分を意地悪なほどに責め抜かれてしまって。 
私が達しそうになるたび、あと少しの所で愛撫をやめることを繰り返されたのです。 
沸騰しそうなほど熱くなった身体を、どうにかして欲しくてたまらなくなって。 
最後には、口にするのも恥ずかしい言葉で「お願い」をさせられてしまったのでした。 
毎回、私がどうしようもないほど高ぶっているのに、武様はいつも余裕で、楽しそうなのです。 
それが何だか悔しくって、たまには攻守逆転したいと思うのですが。 
私が頑張って、一旦は主導権を得たように思っても、途中で易々とひっくり返されてしまうのです。 
結婚しても、私が武様を負かす日など果たして来るのでしょうか。 
 
 
そろそろ、起きるべき時刻が近付いています。 
本当は、秘密の関係を続けていた頃のように、朝一番に起きて身支度をきちんと整えたいのですが…。 
婚約してからは、起床時に私がいないと、武様にへそを曲げられてしまうのです。 
「君の言うとおりに部屋を別にしているんだから、一緒に寝た次の日くらいは同時に起きたって構わないじゃないか」と。 
そう言って頂くのは嬉しいのですが、女としましては、寝乱れた姿を愛しい方に見られることを躊躇するのです。 
たまに武様のほうが早く目覚められた時は、私が起きるまで寝顔を見られてしまうこともありますから。 
寝言を言っていたよ、と楽しそうに言われてしまうこともしばしばです。 
何と申していましたかと尋ねても、武様は笑って、決して答えては下さいません。 
妙なことを言いはしていなかったかと、不安になったことも一度や二度ではありません。 
 
 
どうせ、目覚められてもしばらくはこの方にベッドから出してもらえないのです。 
少し早めに起こしたって構わないでしょう。 
私は武様の腕の中で寝返りを打ち、相対しました。 
さて、今日はどうやって起こしたものでしょう? 
言葉を掛けてみましょうか、キスをして起きて頂きましょうか、それとも思い切って頬を引っ張ってみましょうか。 
頭を悩ませながら、私は愛しい方の寝顔に見入りました。 
 

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