身体がもぞもぞとして、目が覚めました。 
シーツに頬をつけたまま窓に目をやれば、差し込む白い光にもう朝が来ていることを知ります。 
手の甲で目を擦り、こみ上げるあくびに口を開きました。 
「おはよう、麻由」 
「!」 
聞こえたその声に、思わずあくびを飲み込んでしまい、目を白黒させました。 
声のするほうに目をやれば、夫の武(たける)が私の上に乗りかかり、ネグリジェの肩紐に手を掛けてこちらを見詰めています。 
「な、何をなさっているのですか!」 
今にもずり落ちそうなそれに手を遣り、押さえながら叫びました。 
「何って、この状況で分からないのかい?」 
楽しそうに言われ、顔を覗き込まれて。 
間近に見える夫の精悍な顔に胸が騒ぎました。 
「あ、あの…」 
彼が何をしようとしているかが分からないほど子供でもありません。 
しかし、今は朝です。 
このままいいようにされてしまう訳にはいかないのです。 
「昨日は遅かったから、君に先に休むように言っただろう? 
その分を取り返すために、ね」 
夫の手が裾から入り込み、ふくらはぎから膝の方へと上ってきます。 
危険です、このままでは流されてしまいそうです。 
「もう朝ですよ?止めて下さいませ」 
その手の侵入を拒むべく、左右に身を捩りながら宥めるのですが…。 
「朝は、夜の続きだよ。それ以上でも以下でもない」 
夫は聞き入れてくれず、さらに私の着衣を乱しました。 
 
 
「いやです、朝からこんなこと…っん…」 
どうにか説得しようと開いた口を塞ぐようにキスをされて。 
私にできた隙を見逃さなかった夫に、ボタンを外され前を寛げられてしまいました。 
そのまま胸に触れられて、頬擦りをされて。 
夫の顎が素肌に当るざらりとした感触に、喉の奥から呻きが漏れました。 
「ん…駄目、と申し上げていますのに…っ…」 
恨みがましくそう口にしますと、夫は脚に這わせた手をそのままに、私の顔を覗き込みました。 
「このまま抵抗するのも一興だが、無駄なことだよ。 
起こしに来たメイドに、君のあられもない姿を見られてもいいのかい?」 
耳元で囁かれ、心臓が跳ねました。 
年端もいかぬ若いメイドに、私達のこんなところを見られてしまったら…。 
「観念して、大人しくしなさい」 
想像して絶句した私に、夫が楽しそうに言いました。 
 
 
「ん…あ…」 
尖らせた夫の舌が、胸に触れました。 
欲望を煽るように動くそれは、色づいた部分の周りをゆっくりとなぞって。 
しかし、その頂点を器用に避けて動くのです。 
「やぁ…ん…っ」 
背筋がぞくぞくして、もどかしい気持ちになりました。 
どうせ触れるのならば、もっと全体を舐めて欲しいのに。 
それが駄目なら、口に含んで吸い付くのでも構わないのに。 
拒んでいたはずなのに、控えめに触れられただけでこんなに煽られてしまうなんてと、呆然としました。 
身を捩って不満を伝えるのですが、胸に這う夫の舌は私を焦らすばかりで。 
先程抵抗していた自分がどこかに行ってしまったかのように、その先を願ってしまうのを押し止められなくなりました。 
「はぁ…あ…あなた…お願いですから…」 
「ん?」 
「…焦らすのはやめて下さい、あの…」 
「だって、君が駄目だと言ったんだよ?」 
小首を傾げてそう言う夫の姿を見て、寝転びながらに地団駄を踏みたくなりました。 
常々、夫には私を困らせて喜ぶ悪い癖があるということを感じていました。 
それは、主人とメイドという立場の違いにとらわれない為の、彼なりの努力の産物であると思っていたのですが。 
夫婦になったら、その癖もなりを潜めるかと思っていましたのに、その気配は一向に無いままなのです。 
「麻由に嫌われてまで、しようとまでは思っていないんだが…」 
申し訳なさそうに言われるのに、嘘!と叫びたくなりました。 
そんな声色を使っても、この状況を楽しんでいるのは明白ではありませんか。 
妻としては、ここできっぱりと夫の身体を押し返し、朝から妙な振る舞いをしないで下さいと小言を言うべきです。 
それなのに。 
胸を這う夫の指の感触に心を乱され、毅然とした態度を取る気力がしぼんでいくのです。 
立て直そうと必死に頑張っても、二十歳の頃から彼の愛撫に慣らされた身体は言うことを聞きません。 
ほんの少し触れられただけで、今まで数え切れないくらい愛された記憶が甦り、もう一度と期待を煽るのです。 
唇を噛み、ギュッと手を握って抗うのですが、とうとう緊張の糸がぷつりと切れてしまいました。 
「…て…ぃませんから…」 
「え?」 
「続けて下さって、構いませんから…」 
「そうか」 
私が降伏したのを見て、夫はにこりと笑って再び胸に顔を埋めました。 
 
 
「ひゃんっ!…あっ…あんっ!」 
周囲をなぞられるだけで痛いほど立ち上がっていた胸の頂に、夫の舌が触れました。 
待ちわびていた刺激に、それだけですごく感じてしまって、甘い悲鳴が零れて。 
喉元がクッと反り、身体が震えました。 
「朝から大胆だね」 
「…っ!」 
チュッと音を立てて胸から唇を離した夫が、楽しげに言った言葉に心臓が跳ねました。 
そうでした、今は朝です。 
こんなことをされて、声を上げるべき時間ではありませんのに。 
誰のせいですかと睨みつけても、夫はそんなことは全く意に介さない様子で。 
ならばと声を殺して対抗しようとしても、触れられるたびに身体が勝手に動いてしまって。 
口をつぐむことで快感が内へとこもり、自分では冷ませない熱を生んでしまうのです。 
「っん…う…ん…」 
両の胸を思うままに愛撫されて、ますます快感が高まっていきました。 
こうなると、更にその先を望んでしまうのです。 
夫と抱き合い、一つに繋がれたら…。 
力強く貫かれ、さらに高みへと押し上げられてから、身体にこもる熱を解放させられたら、と。 
メイド時代から何度も身体を重ねているのに、いまだに彼との行為には胸が躍ってしまって。 
貞淑な妻になろうと決めておりましたのに。 
他の方に心を移すことはなくても、夫と愛し合うことに対する欲望はついえることがないのです。 
 
 
ネグリジェの裾から入り込んできた夫の指が、脚の間へとたどり着きました。 
下着の上から茂みをなぞり、そのままスッと下へ降りてきて。 
柔らかい部分に与えられた刺激に、また腰が跳ね上がりました。 
指はそこへ留まって、布の上から秘所を這い回って。 
そしてとうとう、私の一番弱い部分に届いてしまいました。 
「んっ…あ!」 
敏感な突起を探すかのように、微妙な力加減で指が這って。 
下着の上からでありながら、あっという間にそこを捉えられてしまいました。 
「やぁ…っ…あん…ん…」 
指に少しずつ力が込められて、与えられる刺激が増していきます。 
私は縛られてでもいるかのように身動きがとれず、されるがままになる他ありませんでした。 
「あ…きゃあ!」 
下着の隙間から夫の指が忍び込み、先程と同じ場所にたどり着きました。 
秘所を指で開かれ、露になった敏感な突起に触れられて、一際大きな快感が走りました。 
夫は胸に顔を埋めたままですから、そこをまさぐられるのは手探りです。 
指が時々逸れてしまうのがもどかしくって、私の口からは切ない溜息が漏れました。 
「ん…あん…はっ…ん……あ…」 
「麻由、濡れてきたよ?」 
耳元で言われた言葉に、頬がカッと熱くなりました。 
言われなくても、自分で分かっておりましたのに。 
胸と秘所、両方から発せられる水音など、とっくに聞こえておりました。 
「朝なのに、こんなにぐしょぐしょになってしまったね」 
楽しそうに言う夫が憎らしくなって、手をそっと近づけ、耳を掴んで引っ張りました。 
 
 
「!」 
耳を引っ張った手をあべこべに掴まれて、びくりと動きを止めた次の瞬間。 
秘所に這っていた夫の手が私の下着を掴み、するっと引き下ろしていきました。 
「駄目です…キャッ!」 
慌てて手を遣ったのですが、夫の手際の良さには敵いませんでした。 
寝起きとは思えないほどの素早さで足首の方まで下げられ、片脚を抜かれた下着は用をなさなくなって。 
覆う物の無くなった下半身が心許なくなった私は、脚をぴったりと閉じ合わせました。 
 
 
また胸に唇が寄せられ、夫の愛撫が始まりました。 
気持ち良さに短い喘ぎが漏れてしまって、自分ではどうしようもありません。 
熱い夫の舌が頂に絡んで、啜るように舐められてしまって。 
手は両の膨らみを優しく揉んで、ゆっくりと私を高ぶらせていくのです。 
朝なのに。このようなことをする時間ではないはずなのに。 
抵抗しようとする理性がどんどんとしぼんで、弱くなっていきました。 
それに入れ替わるように、もっと触れられたいという欲望が膨れ上がってきたのです。 
胸だけではなく、もっと下の方の…。 
先程、指で触れられただけのその場所は、今は脚に力を入れて閉じておりますが。 
そこに込められた力が次第にゆるんでくるのが分かりました。 
「…んっ…あ…あぁん…」 
欲しいという思いが、声を高くさせていって。 
もうこうなってしまえば、その先を求めないまま終るわけにはいかないのです。 
 
 
熱を帯びた固いものが脚に当たり、ビクリとしました。 
「どうしたんだい?」 
私の動揺に気付いたのか、夫が問うのに困りました。 
脚に触れている彼のもののことを考えただけで、とても恥ずかしくなってしまって。 
これが欲しいなどとは、とても言えそうにないのです。 
眉根を寄せて黙っている私の手を取り、夫はその熱いものに触れさせました。 
掌に感じる熱は、脚に当った時よりも、もっと鮮烈です。 
操られるように指が動き、私はそれを撫でさすりました。 
「これが…どうかしたかい?」 
少しだけ息を荒くさせながら夫が尋ねました。 
私が何を欲しているかなど、とっくに分かっているはずなのに。 
わざわざ問うなんて意地悪です。 
何か言い返したいのに言葉にならなくて、私はまだ余裕の残っている夫の顔を泣きそうな目で見上げました。 
そして、思い切って手の中のものに大胆に触れて、誘いを掛けました。 
こうすれば、この人もきっと私を欲しいと思ってくれる。 
そう信じたがゆえの行為なのに、手に感じる熱が自分の身体中に染み渡っていくようで。 
これが欲しい、早く夫と繋がりたいとますます強く思ってしまい、逆に自分を追い詰める羽目になってしまったのです。 
 
 
「あなた、これ以上意地悪をなさらないで下さい…」 
涙目で頼むと、夫の表情が緩むのが分かりました。 
「そうか。じゃあ、君の思うとおりにしよう」 
耳元で言ってくれた言葉に、ホッと息をつきました。 
そして、彼の熱く逞しいものが秘所にぴたりと押し当てられ、グッと力が込められて。 
少しずつ少しずつ中へと侵入を始めた感触に、全身が緊張しました。 
そこに意識を集中させ、夫のものを感じたいと思うのに、そんなにゆっくり動かれたのでは…。 
もどかしくてもどかしくて、どうしようもありませんでした。 
半ばを過ぎた頃には、私は押さえられていた手を振りほどき、夫の体に縋りついて求めておりました。 
この姿を見れば、私がその気になってしまったのは明白なのに、彼は尚もゆっくりとしか満たしてくれず。 
高ぶる体を持て余し、両の目には更に涙がたまりました。 
「っ…あなた…もっと…」 
言葉にしてせがんだのに、夫は一旦ぎりぎりまで引き抜き、浅い所へと彼自身を戻しました。 
「いやぁ……」 
首を振り、浅くなった繋がりに不満を訴えても、求めるものは得られず。 
自分一人が取り残されているようで切なくなって、私はますます夫に強くしがみ付きました。 
「お願いですから…」 
「ほう。さっきは、イヤだのダメだのと言っていたのに?」 
余裕の無い私を見て、まるで楽しんでいるかのような夫の言葉に。 
私はもう矢も盾もたまらなくなり、懇願いたしました。 
「もうイヤなんて言いませんから、ね?意地悪はやめて下さい、早く…」 
「意地悪なんかしてやしないさ。麻由が嫌がっているのに、諦めきれない僕が悪いんだ。 
少しずつ入れているのは、無理強いして申し訳なく思っているからさ」 
何と白々しいことを言うのでしょう。 
焦らして、楽しんでいるのは分かりきっているというのに。 
ものすごく悔しいのですが、欲望に正直になることを選んでしまった身では、もう抗議もできませんでした。 
これ以上お預けをされては狂ってしまいそうなほどに、欲望が身体中を支配していましたから。 
私をこんな風にした、涼しい顔でこちらを見下ろす最愛の人が、今だけは嫌いになりそうです。 
でも、求めないわけにはいかなくって、私は夫の背後に回した手に満身の力を込め、腕全体で締め付けました。 
「痛いよ、麻由」 
少しだけ顔をしかめた夫は、それでも笑顔を崩しませんでした。 
二人の経験値に違いは無いはずなのに、どうして彼だけこんなに余裕なのでしょう。 
「…お願いを聞いて下さるなら、この手を離します」 
こちらが圧倒的に不利なのは百も承知ですが、それでも精一杯の虚勢を張って言いました。 
強がらなければ、はしたない言葉を口にし、なりふり構わず求めてしまいそうでしたから。 
「イヤだと言ったり、もっと欲しいと言ったり。うちの奥様は気まぐれで困るよ」 
宥めるように私の頬に口づけ、夫はからかいました。 
 
 
そして、私の望むようにまた繋がりが深くなっていきました。 
でも、この期に及んで、夫はゆっくりとしか身を沈めてきてくれなくて。 
全て満たされるのを待って待って、それだけで私は燃え尽きてしまいそうになりました。 
「麻由。君が欲しいと言ったから、するんだからね?」 
入りきったところで囁かれ、耳たぶを軽く噛まれて。 
それをきっかけにしたかのように、夫が動き始めました。 
「あっ!あ…やぁん…あ…」 
力強く揺さぶられ、あっという間に息が上がります。 
ようやっと夫がお願いを聞いてくれたことに、私は心も身体も歓喜に震えました。 
もっと、気持ち良くなりたい。彼にも気持ち良くなって欲しい。 
ただその二つだけを念じるのみで、他一切の雑念は消えてしまいました。 
夫はもう焦らすのをやめる気になってくれたのか、私の膝の裏を掴み、グッと開いてさらに身を沈めてきます。 
増した圧迫感に追い詰められ、喉が反り返りました。 
目覚めた時から聞こえていた小鳥のさえずりも、もう耳には届きません。 
聞こえるのは、繋がった場所から発する水音とベッドのきしむ音、そして私達の荒い息遣いだけ。 
今が朝であることも、誰かが起こしにやって来るかもしれないということも、もう意識の外に行ってしまいました。 
「あぁ…んっ!あん…はっ…あ…あっ…」 
夫の動きに合わせるように、私の腰も動きました。 
「ん…あん…あっ…あっ…んっ…」 
じっとりと汗がにじみ、次第に意識が白く霞んでいって。 
触れ合う肌、夫の息遣い、そして繋がっている部分の熱さだけが私の頭の中にある全てでした。 
「あなた…もっと、こっちに…」 
夫をもっと近くで感じたくて、せがみました。 
今度は彼も意地悪はせず、私の望むように体を倒してきてくれました。 
「んっ…あぁ!」 
繋がりが深くなり、さらに息が乱れました。 
顔の両脇に手を付かれ、力強く責められて。 
体がばらばらになってしまいそうなほどの快楽に包み込まれ、何度も意識が途切れそうになりました。 
「ああん…やぁ!…んっ…はんっ…あっ…あんっ…あ…」 
最後の瞬間に向かって、身体が何かで吊り上げられるかの如くどんどんと高く昇っていくのを感じます。 
それになぜか心細くなって、私は夫をさらに引き寄せてキスを求め、くっついた唇の感触に酔いました。 
彼と密着する部分が増えたのが無条件に嬉しくて、差し入れられた舌を受け入れ、自ら絡めて。 
その熱さが最後の一押しをし、圧倒的な快楽の中、私の身体はついに音を上げたのです。 
「んっ…あなた…あっ!…あ…ん…あ…ああんんっ!」 
「あっ!…く…っは……」 
口づけ合ったまま、私達はほぼ同時に絶頂を迎えました。 
夫の欲望が中に放たれるのを感じながら、私は大きく息を吐きました。 
 
 
しばらく放心していましたが、優しく髪を梳かれる感触に、ようやく人心地がつきました。 
動く手を捕まえ、頬擦りをしてギュッと目を閉じました。 
恨めしい、憎らしいと一瞬でも思ってしまったことを心の中で詫びたのです。 
「朝にするのもいいね。麻由が恥ずかしさの壁を乗り越えると、いつもより大胆になるから」 
せっかく、私が殊勝な気持ちになっていたというのに。 
夫がさも満足そうに笑って口にした言葉に、目覚めてからのことを思い出して頬がカッと熱くなりました。 
やはり、夫は意地悪です。 
愛を交わした後も、こんなことを言って私の反応を見て楽しむのですから。 
「風呂に入ってくる。君はもう少しゆっくりしてからおいで」 
妙にすっきりとした様子で浴室へ消える後姿を見ながら、私はベッドに沈み込みました。 
…最初は拒んでいましたのに、途中からはいつもより積極的に求めてしまったように思います。 
自分の意志の弱さが少しだけ情けなくなってしまいました。 
夫の手に掛かると、私はいつもこうなのです。 
最後まで拒みきれたことなど今まであったのかと考え、うなだれて首を振りました。 
ふと、枕元の時計が目に入り、起きるべき時間よりまだ早いことに気付きます。 
メイドに見られるかも…というのは、私を追い詰めるための嘘だったのでしょう。 
そうやって私の余裕をなくし、良いようにしてしまう夫はやはり憎らしい人です。 
…とは言いましても、少しでも優しく微笑まれれば、その気持ちもすぐにどこかへ行ってしまうのですが。 
 
 
入れ替わりにシャワーを浴び、朝食を済ませてから出社する夫を見送りました。 
メイド長をしておりました頃の私は、執事の山村さんとメイド達の間に立っていましたが、今は一番手前が定位置となっています。 
「じゃ、行ってくるよ」 
「はい。行ってらっしゃいませ」 
「今日は、パーティーだから早めに帰宅する。君も用意をしておきなさい」 
「かしこまりました」 
軽くキスをくれた夫が車へと向かうのを見送りました。 
……そうでした、今日は何処かのお宅のパーティーに出席する日でした。 
 
 
パーティーに参加するのは、もう何度目かになります。 
しり込みする私を気遣い、夫は結婚後すぐそのような場に連れ出すことはしませんでした。 
遠野家の奥方になるためにと、婚約期間中から学んでいたことがどうにか形になって、これなら…と少し自信がついてきた頃。 
私は初めて夜会というものに出席したのでございます。 
メイド時代には裏方として走り回り、仕事の段取りしか頭の中になかった私は、その他には疎く。 
備品や構成は頭に入っていても、夜会での正しい立ち居振る舞いなどの、出席者に必要な知識はありませんでした。 
あの時に観察眼を発揮していれば、もう少し早く皆様に溶け込めるような結果になっていたのかと思います。 
 
 
パーティーに出た私を待っていたのは、皆様からの好奇の目でした。 
遠野家の主と結婚した、メイド上がりの女。 
周囲の方々がそう思っておいでなのがひしひしと感じられ、視線が突き刺さってくるように感じられたのです。 
殊に、同性からはすれ違いざまにこっそりと陰口を言われ、辛い思いをしました。 
「ほら、あれが例の…」「遠野社長を射止めたというから、どれほど美人かと思ったのに…」 
数人でひそひそと囁き合っている声が聞こえるたびに、胸が痛みました。 
結婚前に遠野家の親戚筋の方々にご挨拶した時も、同じような反応をされたのを思い出しました。 
面識のある方でも、今までメイド長として仕えていた女が、遠野家当主の結婚相手として現れたことが信じられなかったようで。 
口元にひきつった笑みを浮かべて、皆様がこちらをご覧になっておられたのを覚えております。 
披露宴の折、夫は最後を締めくくる新郎の挨拶で、庶民の生まれから上流階級に入る私を気遣う言葉をくれました。 
列席者の方々に向け、妻が早く皆様と馴染めるように、温かく見守って下さいと頼んでくれたのです。 
あの時の会場の雰囲気はとても暖かく、感動的ですらありました。 
私の胸にも、夫の言葉は今でも色あせずに残っています。 
しかし、披露宴から日が経って皆様も日常に戻られたのでしょうか。 
色眼鏡を外されないまま、皆様が私をご覧になっていることに気付き、唇を噛むことがそれから何度もありました。 
財産狙いの卑しい女だと、陰口を聞こえよがしに言われたこともあります。 
勿論、私に二心などありませんから、そのような言葉など気に留める必要はありません。 
しかし、受け入れてもらえないことに落ち込んでしまい、一向に遠野家の奥方としての自信が育たないのでした。 
夫は私を大事にしてくれますし、私も彼のことを深く愛しています。 
結婚後、夫は私に飽きるのではないか…という不安は、今のところ杞憂で済んでいます。 
しかし、二人の関係は強固でも、社会的地位のある人の妻として考えると、今の私には赤点がつくでしょう。 
現状をどうにかしたいのに、いい方法が思いつかないまま焦りだけが募っていくのでした。 
 
 
こんなことなら、お屋敷で大人しくしている方が気が楽だと思うのですが。 
結婚後、こういうパーティーのお誘いが多くなり、全てを断るというわけにもいかないのです。 
執事の山村さんは、あまり義理の絡まない催しには気を使って欠席の手続きをしてくれていますが。 
どうしても出なければいけないものには、歯を食いしばって出席しておりました。 
夫も気を使ってくれ、懇意の方やその夫人に私を紹介し、顔つなぎをしてくれます。 
でも、ご挨拶をし、男性同士で仕事の話が始まると、私は取り残されて途方に暮れてしまうのです。 
男性の出席者の中には、ひそひそと遠巻きに話をなさるご婦人とは違い、気を使って話しかけて下さる方もありました。 
ぽつんと一人でいる私には、そのお心遣いはとても嬉しく、有難く思えたのですが。 
あまり話し込みすぎると、「あの女は新しい男を物色している」などと言われないとも限りません。 
私にそんな気など毛頭無くても、悪意のある噂などいくらでも作り出せるのですから。 
ですから、話しかけて下さる男性の方にも満足に応対ができず、申し訳ない思いをしておりました。 
遠野家に嫁すということは、こういうことを避けて通れないとは分かっておりました。 
誰の前に出ても恥ずかしくないマナーを身につけ、ダンスのレッスンもして。 
あとは実践あるのみで、経験を積んでいくことだけが上達へのただ一つの道です。 
しかし、頑張ってご列席の方々に話しかけようとしても、輪に入れなかったり、露骨に避けられてしまったりして。 
経験を積む以前のところで頓挫してしまい、思うように行かないのでした。 
私を悪く思われていない方もいらっしゃるようですが、その存在は悪口を仰る面々の背後に隠れてしまっていて。 
そちらへ近付こうと思っても、もしご迷惑をかけることになったら…と思うと足が竦むのです。 
何か、一芸でも身につけようかと考えた時もあったのですが。 
上流階級の方々のパーティーは、一般的な宴会とは違い、かくし芸を披露する場ではないことに気付いて諦めました。 
 
 
今日も、私は壁際にぽつりと一人でおりました。 
テーブルクロスに小さなシミができていること、フラワーアレンジが乱れていること。 
そういうことに目が行ってしまうのは、先頃までメイドであったがゆえなのでしょうか。 
つい手を伸ばしたくなったところで、我に返って動きを止めることの繰り返しでした。 
そこを、とある母娘(おやこ)に話しかけられ、一方的に話をまくし立てられて。 
うまく逃げることもできないまま、相手をすることになってしまいました。 
あちこちに忍ばされた言葉の針に心を傷付けられながら、出来損ないの笑みを顔に貼り付けて。 
どうにか相槌を打ちながら、時間が早く過ぎてくれればいいと、そればかりを思っておりました。 
 
 
「こんばんは。その方、少し私に貸して下さらない?」 
その時、鈴を鳴らすような声が背後から聞こえました。 
「ま、まあ。ヒナコ様」 
向かいに立っていた母娘がサッと表情を変え、取り繕うような笑いを浮かべたのが見えます。 
ヒナコ様? 
初めて聞くお名前に、一言ご挨拶しようと思い、私は慌てて笑顔を作り直して振り返りました。 
 
 
その方のお顔を拝見した瞬間、私は金縛りにあったように動けなくなりました。 
あの時の驚きをなんと言って表現すれば良いものか、今もって分かりません。 
振り返った私の眼に入ったのは、抜けるように白い肌をお持ちの、素晴らしく容姿の整った方でした。 
まだ十代そこそこかと思われる、途方もなく美しいお嬢様がそこに立っておられたのです。 
古い言い方ですが、まるで等身大のフランス人形のようで、目が釘付けになったまま逸らすことができません。 
お召しになった赤いドレスが良くお似合いで、その方の可憐さがさらに引き立って見えます。 
まだ咲きかけでありながら、さながら大輪の花にも劣らぬほどの存在感で、その「ヒナコ様」は私の前に佇んでおられました。 
おそらく、どんな言葉をもってしても、この方の美しさを表すには足りないのではないでしょうか。 
今までお会いしたどの名家のご令嬢や奥様よりも、群を抜いてお綺麗な方だと確信を持って申せますでしょう。 
「初めまして。城内穂子(しろうちひなこ)と申します」 
こちらに視線を合わされて仰った言葉に、私はようやく我に返りました。 
「あ、あの…初めまして!」 
緊張の余り、頭のてっぺんから出たような声でご挨拶をしてしまいました。 
その方がクスリと笑われたのが耳に届き、それでようやく私の金縛りは解けたのです。 
 
 
どうにか気持ちを落ち着け、つっかえながらも自己紹介をしました。 
第一印象が大事、第一印象…と頭の中で呪文を唱えて、平静を保つ努力をしながら。 
何とか無事に言い終えることはできましたが、しかし、まだ心が騒いでいます。 
笑みを浮かべながらも、私は両手を握り合わせ、暴れる心臓をなだめようと密かに奮闘しておりました。 
女同士であるのに、なぜこんなにも落ち着かない気持になるのでしょう。 
本物の美しさというものは、同性の心でさえ奪ってしまうものなのでしょうか。 
「ああ、やっと行った」 
ふと、彼女の声のトーンが変わったことに気付き、私は首を傾げました。 
「…は?」 
何のこと仰っているのか分からず、頭に疑問符が浮かびました。 
「あなた、言われっぱなしなんだもの。少しは言い返せばいいのに」 
「えっ?」 
ますます意味が分からなくなり、さらに頭の中に疑問符が増えました。 
「ほら、今度はあっちへ行ったわ。ああして、独身男性に粉をかけているのよ」 
穂子様が示される方を見ると、私を先程まで捕まえていた母娘が、熱心に一人の男性に話しかけているところでした。 
「あの人達、少し前まで遠野の社長にそりゃあ熱心に言い寄っていたんだから。 
母娘そろってアタックかますんだもの、見物だったわよ」 
え…。 
「あの人達のこと、ご存知ない?」 
「え、ええ。面と向かって話しかけられたのは、今日が初めてなんです」 
「そう。好き勝手言われて災難だったわね。 
遠野の社長を落とそうと必死になっていたのに、あなたが彼と結婚したから、二人揃って嫌がらせしてたんだわ」 
労わるように言葉を掛けて下さるのですが、私の頭からはもはや当の母娘のことなどすっかり抜け落ちておりました。 
この美少女の、先程の優雅な口調とは全く違うくだけた物言いに、あっけに取られてしまっていたのです。 
 
 
私は口をぽかんと開けたまま、この方が先程の母娘について説明して下さるのを聞きました。 
二人のお名前、どちらの令夫人と令嬢なのか、お年はいくつかということまで。 
娘が婚期を逃しつつあるということで、母親が躍起になって花婿候補を探しているということまで知ってしまいました。 
お話を聞いているうち、私は段々と落ち着きを取り戻すことができました。 
あの母娘は、私を嫌な気分にする目的だけで話しかけてきたことに気付いたからです。 
言葉の端々にとげを感じるのは、自分がまだ至らないからそう思うからだと、落ち込む必要などなかったことにも。 
相手をして下さっているのだからと、無理をしてまで話を聞くこともなかったのです。 
こうやって、初対面なのに親しげに話しかけて下さる穂子様のような方もおられるというのに。 
 
 
後から考えれば、奇跡的なことでした。 
初めて会った方、しかもとびきりの美少女と話が弾むなどという今の状況は。 
「ね、あなたは元はメイドをしていたんでしょう?」 
「え…。はい」 
刹那、唐突に話題が変わり、私自身のことに矛先が向きました。 
メイドという言葉が出てきたことに、ギクリとします。 
手足の先がスッと冷たくなり、息を飲みました。 
もしかして、この方も本当は私を蔑んでおられるのでは…と身構えてしまったのです。 
 
 
しかし。 
「ベッドメイキングをする時、どうやったら皺一つ無くピンと張れるのかしら」 
「…は?」 
予想していたことと全く違う穂子様の言葉に、私の口からは間抜けな声が漏れました。 
「昔から不思議だったの。あれ、上でコインが跳ねるくらいに引っ張って、ピンとさせるんでしょう?」 
「え、ええ」 
確かに、その通りです。 
私も新米メイド時代は、これを当時のメイド長に叩き込まれ、泣きながら自室で特訓したこともありました。 
「小さい頃に当時のメイドに尋ねたことがあったんだけど、忙しいからと教えてくれなくて。 
どうやったらそうなるのかを知りたくて、布団をめくって探ったんだけど分からなかったの」 
「はあ…」 
「それきり忘れていたのだけど、結婚前に、花嫁修業だとか言って一度やらされたことがあるの。 
でも、あんまりにも下手だったものから、教育係にもさじを投げられてしまって」 
「まあ、そうだったのですか」 
ベッドメイキングはメイドの基本技術ですが、生まれの尊いご令嬢ならばできなくて当然のことです。 
ご自分と無関係だからこそ、このように熱心にご興味を持たれるのでしょうか。 
「ええ。だからその練習は一度きりで、あとは料理…も、駄目だったけど…」 
言葉を濁される穂子様を見て、疑心暗鬼になっていたことを反省いたしました。 
純粋な疑問をぶつけて下さっていたのに、疑うような真似をするなんて。 
それにしても、この方は少し変わっておられるようです。 
このような質問を私にされた方など、他にいらっしゃいませんでした。 
どこから見ても一流のお嬢様なのに、奇特な方で…と思ったところで、私はようやく気付き、あっと声を上げました。 
 
 
「ご、ご結婚なさっているのですか?」 
「ええ。ま、一応ね」 
驚きました、てっきり、高校生か女子大生だと思っておりましたのに。 
「あの、差し支えなければ、お年などは…」 
女性に年齢を訊くのは失礼ですが、どうしても好奇心を抑えることができず尋ねてしまいました。 
「二十二歳よ。後半年で二十三になります」 
「まあ。そ、そうなんですか」 
とてもそうは見えません。 
そう申しましても、実年齢とて十分お若いですが…。 
「旦那様は、今晩いらしているのですか?」 
「来ているわ。あちらのカーテンの前にいる、風采の上がらないのがそうよ」 
「ふ…」 
ご自分の夫君に対し、「風采の上がらない」とは、また何という言いようでしょう。 
あっけに取られながらも、私は指し示された方向に目を遣りました。 
「ええと、あちらのメガネを掛けられた方ですか?」 
「そう。城内太郎と申しますの」 
シロウチタロウ様、と心のメモに書き記しました。 
名刺を頂けるわけではありませんので、目だけで覚えねばなりません。 
「あの、私の夫は…」 
「知っているわ。さっき、話題にしたでしょう?」 
「あっ…」 
気付いて、赤面いたしました。 
母娘のことを教えて頂いた時に、粉を掛けるのがどうのと聞いたばかりでしたのに。 
 
 
穂子様のお陰で、パーティーの後半は気分が塞ぎこまずにいられました。 
親しくお話をする方がいないと正直に申し上げたところ、じゃあ今日は私が相手をするわと言って下さったのです。 
年下である彼女に頼るのはどうかとも思いましたが、そのお申し出は魅力的でした。 
相手をして下さる方が一人いらっしゃるだけで、いつもとは全く違う気分で居られたのですから。 
「あの、今日『城内穂子』様と仰る方に話しかけられたのですが…」 
パーティーが終り、帰りの車の中で夫にそう切り出しました。 
「ああ。長いこと一緒にいたようだね」 
「ご存知だったのですか?」 
「うん。彼女のことは昔から知っているし、今日君と話しているのも見た」 
あれほどの美人と、昔から面識があったということなのでしょうか? 
心を奪われたりはしなかったのですか、と訊きたいのを堪えました。 
「お名前と旦那様のお顔は分かったのですが、それ以外はご自分についてあまり仰らなかったのです。 
どんな方なのか、教えて下さいませ」 
あれからも、メイドの仕事についてあれこれと穂子様に尋ねられ、私がお答えするという形のままお話を続けました。 
しかし、見下されるのではなく、本当に興味を持ってお尋ねになっているのが分かりましたから、全く不快ではなかったのです。 
「分かった。ええと、年は僕より七つくらい下だったかな。 
旧姓は黒田主(くろだのし)。変わった苗字だろう?上にお兄さんが四人いたように思う」 
「四人もですか?」 
きっと、皆様に可愛がられて天真爛漫にお育ちになったのでしょう。 
あれほどの美しい妹御なら、皆競い合ってご機嫌を取られたに違いありませんもの。 
「城内家は、君も知っているあの○○(大手デパート)の経営者一族だよ。 
穂子さんの長兄が太郎さんと仲が良くて、それで知り合ったらしい」 
「そうでしたか」 
穂子様は、夫君を「風采の上がらない」とだけご紹介になったので、馴れ初めなどは伺えませんでした。 
「あれほどの美人だからね、小さい頃から『黒田のお姫様』と呼ばれるくらいにちやほやされていた。 
だから言いたいことを言うし、わがままな面もあるが、裏表の無い可愛らしい人だよ」 
「……」 
夫が穂子様を褒めるのを聞き、何とも言えない気持ちになりました。 
心の狭いことですが、目の前で他の女性の賛辞を口にされると嫉妬心が生まれるのです。 
あれほどの美しい方なら、夫が褒めるのも無理のないことですのに。 
「そろそろ、麻由も友達を作ってもいいと思うんだ。彼女ならいいんじゃないかな。 
変な気取りが無いから、裏を探って疑心暗鬼になることもないだろう。印象はどうだった?」 
「外見と言動のギャップがありすぎて、びっくりしてしまいました」 
「ああ、本当にそうだ。僕も最初に会った時は目がまん丸になったよ」 
「え、あなたもですか?」 
「うん。黙っていれば人形みたいなのに、いざ口を開けばじゃじゃ馬娘だからね」 
「え、ええ」 
じゃじゃ馬という言葉を、久しぶりに聞いた気がします。 
でも、この言葉は穂子様にぴったりのように思われました。 
言いたいことを仰る割には、腹黒さが全く感じられませんでしたから。 
 
 
それからは、パーティーに出席するたびに、穂子様にお相手をして頂きました。 
まだお友達と呼べるほど親しくは無いのですが、とても良くして下さって。 
あれほど苦痛で、早く時間が過ぎれば良いと思っていたパーティーが、次第に楽しくなっていったのです。 
何度目かの時に、夫君の城内太郎様にも紹介して頂きました。 
穂子様に大変お世話になっていることについてお礼を申しますと、城内様も「妻がご迷惑をお掛けしています」とご挨拶下さって。 
「迷惑なんか掛けてないわ、変なこと言わないで頂戴!」と穂子様はおかんむりでした。 
それにしても、太郎様と穂子様のご関係は少々変わっているようです。 
上流階級の方といえば、内幕がどうであれ、対外的には夫唱婦随に見せるもの。 
しかし、城内ご夫妻に関しましては、思うままに振舞われる穂子様の後を太郎様がついて行かれているようにしか見えなくて。 
あれだけ美しく若い奥様をお持ちになると、男性はそうなってしまうのでしょうか。 
夫に尋ねてみますと、彼は笑って、昔からああなのだと教えてくれました。 
「城内さんと穂子さんは、昔からの知り合いだと前に言っただろう? 
穂子さんは小さい頃からやりたい放題で、ね。子守役のようになっている太郎さんをよく見かけたものだ」 
「そうなのですか?」 
十三歳も年の離れた子のお守りをする太郎様…。 
それはもしかして、「ロリコン」というものではないのでしょうか。 
「まあ、穂子さんはああいう人だが。なかなか可愛いところもあってね」 
「えっ?」 
「子供の頃の彼女は、太郎さんがいないと、ムスッと不機嫌になって黙り込むこともあったんだ」 
「まあ」 
「小さい時から美少女だったから、気を引こうとする者も多くいたんだが。 
でも穂子さんは、自分に声を掛ける人達をすげなくあしらって、傍に寄るのを許すのは太郎さんだけだったんだ」 
「心を許していらっしゃったのですね」 
「そうみたいだね。悪口やワガママを言いつつも、太郎さんがいないと元気が無かった」 
ということは、穂子様と太郎様の関係は、長年にわたり築かれたものだということになります。 
年上の太郎様は、幼い穂子様を自分好みに育てようとお考えにはならなかったのでしょうか。 
 
 
「去年だったか、穂子さんが太郎さんに甘えるのを見たことがあるよ」 
「えっ!」 
夫の言葉に、私は自分の耳を疑いました。 
あの穂子様が、夫君に甘えられる…? 
想像しようと思ったのですができなくて、私の頭の中は上へ下への大騒ぎになりました。 
「パーティーでね、珍しく酔った穂子さんが、太郎さんに寄りかかって離れようとしなかったんだ。 
宥められても、スーツの袖を掴んだまま『太郎ちゃん、ねえ、もう帰りましょう?』と、目を潤ませてねだっていた」 
それはまた、いつもと正反対の態度です。 
あの方にそんな風にねだられては、太郎様もお困りになったことでしょう。 
同性の私からしても、そんなことを言われたらふらふらとなってしまいそうですもの。 
「多分、人前で夫を褒めるのが恥ずかしいんじゃないかな。 
根っからのお嬢様だから、自分が優位に立ちたいというプライドもあるだろうし」 
なるほど、そう言われるとそんな気がしてきました。 
夫君をけなしたり、大人気ない態度を取られるのは、照れからきた可愛らしい反応というわけなのでしょう。 
考えてみれば、何だかんだといっても、穂子様は太郎様のことをよくお話になります。 
本当に嫌っていらっしゃるなら、話題すら出さないのが自然ですもの。 
好きな方をけなすというのは、ちょっと私には分かりかねますが…。 
「太郎様につれなくなさるのは、穂子様の曲がりくねった愛情表現なのでしょうか」 
「ああ、おそらくそうだろう」 
穂子様と太郎様の夫婦仲は、最初の想像とはきっと全く違うものなのでしょう。 
考えてみれば、私はパーティーでお会いする時の穂子様しか知らないのです。 
お家でどのようになさっているのかは、まだ知る機会がありません。 
 
 
「夫婦とは、分からないものですね」 
「ああ。周囲に与える印象と、中身が寸分違わず同じなんてことはきっと無いだろう」 
「そうですね」 
「僕達も、はたから見るのと実際では違うのかもしれないよ?」 
「えっ?」 
夫がいたずらっぽく言って、目配せをしました。 
私達は、他の方に一体どう思われていると言いたいのでしょうか。 
「屋敷の者達は別にして、それ以外の人々は、僕達について誤った印象を抱いているかもしれない。 
まあ、そんなことをいちいち気にしてもいられないから、いいんだが」 
え…。 
「僕は、麻由と二人で仲良く暮らせるならそれで十分だ」 
もしかして、夫は私のことを励ましてくれているのでしょうか。 
あまり、周囲に気を使って神経をすり減らすな、と…? 
夫の言葉に、胸がほんのりと温かくなりました。 
意地悪なようでいて、こうして私に必要な言葉を必要な時にくれるのですから、この人はやはり一筋縄ではいきません。 
私も、夫が困った時に妻として力になれるよう、頑張らなければならないと強く思いました。 
「ええ。ずっと仲良く暮らしましょう」 
「言ったね。この先、僕に幻滅したと言ってももう遅いよ?」 
そのからかいに反論する代わりに、私は夫に抱きつきました。 
時々は憎らしく思ってしまうこともありますが、幻滅なんてきっと一生しないに決まっています。 
結婚後も、ますます好きな気持ちが膨らんでいるのに。 
胸の中から見上げると、夫は目を細めて私を見詰めていました。 
期待を込めてそっと目を閉じると、優しいキスが与えられて。 
何度か口づけを交わし、そしてそのまま、私は夫に身を委ねました。 
 

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