穂子さんと知り合って二ヶ月ほど経った頃、ご自宅へ招待して頂きました。
お茶でも飲みながら話しましょうと言われ、そのお誘いを受けることにしたのです。
パーティー以外で他家へ伺うことが初めてだった私は、何を着ていこうか、手土産はどうしようかと頭を悩ませました。
やっとできたお友達ですから、訪問に際して失礼を働くわけには参りません。
何日も前からそわそわして、まるで穂子さんとデートするみたいだねと夫に笑われてしまいました。
そして、当日。
身支度を整え、執事の山村さんに見てもらってNGが出なかったのを確認し、私は勢い込んでお屋敷を出ました。
近頃評判のお店で予約しておいたフルーツタルトを受け取り、穂子さんのお宅へ向かったのです。
車中、落ち着かなくて何度も深呼吸をしました。
しばらくして到着した城内家のお屋敷は、閑静な趣のある洋館でした。
義父母とも一緒に住んでいらっしゃるせいか、遠野家よりもどことなく賑やかで、使用人の数も多いように思えます。
客間へ通され、壁の絵や置物に見入っていますと、やがてパタパタと軽快な足音が近付いてきました。
「こんにちは、ようこそ」
聞こえた声に振り返りますと、相変わらず美しい穂子さんが立っていらっしゃいました。
もう何度もお目にかかっているのに、会うたびに見惚れてしまいます。
神様に愛された人とは、きっとこの方のことを言うのに違いありません。
「こんにちは、今日はお招き頂いて誠にあり…」
「いいのいいの、面倒くさい挨拶なんかいらないから、行きましょ」
あいさつもそこそこに、穂子さんに手を引っ張られ、私はタルトの箱を抱えたまま客間を連れ出されました。
「そちらの運転手には、うちで待ってるように伝えてますから」
「あの、どこへ?」
「秘密。義母(はは)はもう先に行っているの」
車庫へ引っ張って行かれた私は、手際よく一台の車に押し込まれてしまいました。
運転席には穂子さんが乗られ、あれよあれよという間に車が発進します。
颯爽と運転なさるそのお姿は素敵ですが、私達は一体どこへ向かっているのでしょう。
どこかお店へ連れて行って下さるのでしょうか。
持ってきてしまったタルトの箱を見て、これは車中に置いていくしかないと思いました。
十五分ほど経ったでしょうか、車はとある瀟洒な一軒のお宅の前に停まりました。
それを見ていたかのように門扉が開き、穂子さんは敷地の一角に駐車されました。
何台もの車が停まっているのを見ると、ここは恐らくレストランなのでしょう。
気心の知れたお宅に訪問した時のように、肩肘張らずに寛げる洋風のお店……あれはなんという名でしたでしょうか。
それの少し高級なバージョンなのだろうと予測しました。
「さ、着いたわ。それも持って行きましょ」
「え?」
こういうお店に、外から食べ物を持ち込むのはいけないのではないでしょうか。
気が咎めますが、穂子さんが仰るのなら仕方がありません。
傾けないように気をつけながら、私はタルトの箱を持って車を降りました。
「こっちよ」
さっさと歩いて行かれるのを、慌てて追いかけます。
玄関に立っておられた黒服の方と、少しお話なさってから館内に入られた穂子さんの後について行きました。
「つき当たりのサロンですって」
ということは、そこがレストランのフロアになっているのでしょうか。
食事マナーを思い出しつつ扉の前まで行きますと、そこにもおられた別の黒服の方がドアを開けて下さいました。
室内にいらっしゃったのは、7名ほどのご婦人方でした。
どの方も一様にとても気品のある方々で、一目見ただけで上流の婦人と知れました。
自分の身体が反射的にこわばり、緊張で挨拶がぎこちなくなってしまうのが分かりました。
どうか、みっともなく見えませんように。
「遠野麻由さんです」
穂子さんがフォローするように明るく言って下さったことに、少し救われました。
「失礼致します」
先程の黒服の方がこちらへ寄られ、私の手からタルトの箱を恭しく受け取って持って行ってしまわれました。
「あ、没収しないで下さい、それはお土産なんです!」
思わず叫ぶと、しばらくの沈黙の後、皆様にドッと笑われてしまいました。
「麻由さん、没収なんかされないわよ」
「帰りにお会計の所で返して下さるのですか?」
「お会計?」
「生菓子ですから早めに受け取らないと。今の方が戻られたら、厨房の冷蔵庫に入れて頂くように頼みます」
「……もしかして、ここをレストランか何かだと思っているの?」
「ええ、知り合いのお宅にお呼ばれしたように寛げる、上品で隠れ家的な……何というのでしたっけ」
ぽかんとした表情の穂子さん(それでも綺麗なのだから大したものです)に尋ねますと、後ろの方々がクスクスと笑われました。
「レストランじゃありませんわ、ここは私の自宅なんですの」
「えっ!」
「初めまして。澤之上と申します」
白いブラウスをお召しになった初老のご婦人が自己紹介なさり、私も慌てて頭を下げました。
それを合図のように他の方も次々と自己紹介して下さり、私はそこでやっと勘違いに気付いたのです。
自分の早とちりに、穴があったら入りたいほど恥ずかしくなりました。
お部屋を見渡せばテーブルも椅子も無く、あるのはソファや飾り棚だけでしたのに。
冷や汗が出て、皆様の顔をまともに見ることができません。
「可愛い方ね。穂子さんの仰ったとおりだったわ」
一人のご婦人がそう口にされたのが耳に入り、私はおそるおそる顔を上げました。
「穂子さんたら、どこへ行くかを教えてあげなかったの?」
「だって、あらかじめ言ってしまったらつまらないでしょう?来てくれないかもしれないから」
穂子さんが笑みを含んだ声で仰いました。
「『お茶でも飲みながら何人かで話しましょう』の『何人か』を省略しただけです」
「あらあら」
皆様が穂子さんを見て、おかしそうに顔を見合わせられました。
「ま、私達がこの方を連れてきて下さるように頼んだのだから、平等に責任を負いましょう」
また別のご婦人が仰って、私のほうを向かれました。
「あなたとお話がしてみたくて、穂子さんに仲介をお願いしたんです」
「まあ、そうでしたか」
「ええ。あらかじめ聞いていた通り、裏表の無い素直な方ね」
「いえ、そんな……」
同性とはいえ、褒めて下さるのは面映いです。
それから、皆様が口々に話されるのに聞き入りました。
浮いた噂のなかった遠野武がメイドと結婚すると耳にした時は、悪い女に騙されたのだと思ったこと。
パーティーで私を見ても、大人しくしているのは、マナーがなっていないのを隠す為だろうと色眼鏡で見てしまったこと。
「あなたのお姑さんとは、生前親しくさせて頂いていたの。
だからついつい、お嫁さんであるあなたへの点が辛くなってしまったのね」
一番お年を召した方が申し訳なさそうに仰いました。
「いえ、そんな……」
メイドが主人と結ばれるなど、スキャンダルだと決め付けてしまうのは分かる気がします。
もし夫とのことがなければ、はしたないと私も眉をひそめたでしょうから。
でも、この方々の色眼鏡が外れたきっかけは一体何なのでしょう。
「あの……どうして今日、私をお茶に呼んで下さる運びになったのですか?」
意を決して、おそるおそる尋ねました。
「ああ、それはね……言っても構わないかしら?」
先程の方が言い淀まれ、他の方の顔を窺われました。
「本人が質問されているんだから、仰って」
促されたその方は、頷いて口を開かれました。
「三ヶ月ほど前だったかしら、どこかのお宅のパーティーに伺った時、バルコニーであなたを見かけたの」
「はい」
「私、少々飲みすぎて顔が火照っていたので、柱の陰に隠れて夜風に当っていたところにあなたが来られて」
「ええ」
その頃には穂子さんとも知り合っておらず、私は賑やかに笑いさざめいている広間から逃れたかったのだと思います。
考えすぎてぐるぐるしている頭を冷やそうと、バルコニーに出たことは以前にも何度かありましたから。
「寂しそうだから、思い切って声を掛けてみようかと思ったのだけど、真っ赤な顔で出て行くのはと尻込みしてしまって。
そのまま見ていると、今度はあなたのご主人がやって来られたのが見えたの」
「え…」
何だか、とても嫌な予感がします。
「バルコニーの隅におられたあなたにご主人が話しかけられて、お話が途切れたところでご主人が…」
「きゃあっ、そこまでで結構です!」
私は必死に手を振り、話されるその方をお止めしました。
それ以上は、聞かなくとも分かってしまったのです。
あの後、夫は私に口づけたのです。
バルコニーとはいえ、誰が見ているかも知れないのですから、おやめ下さいと何度も言いましたのに。
「必死に拒否なさるあなたが、とても可愛らしく思えましてね。
もしかしたら、噂になっているような人ではないのかと思い始めましたの」
「は、はあ……」
「胸に一物を持っている人なら、夫の機嫌を損ねないため好きにさせるでしょうし、上手い断り方も身につけているでしょう。
でも、あなたは『恥ずかしいから』『誰かいるかもしれないのに』と拒否なさっていた。
実際、柱の陰に私がいたんですけど、ね」
にこやかにその方が仰いますが、一方の私は頭から湯気が立つほどのぼせてしまっていました。
まさか、本当に見られてしまっていたなんて。
「先入観が取れかけた頃、穂子さんがあなたと近付きになられてね。
年上だけど可愛らしい方だと仰るのを聞いて、皆で一度お会いしてみましょうということになったの」
「そ、そうでしたか……」
「ええ。お会いできてよかったわ。
あなたのお姑さんも、生きていらっしゃったらきっと喜んで、あちこち連れ回されていたでしょう」
その言葉に、仕えていた当時は「奥様」と呼んでいた夫の母の顔を思い出し、懐かしくなりました。
そして、持ってきたタルトとお茶を楽しみながら、夫との馴れ初めや結婚に至るまでの経緯を話す羽目になってしまいました。
「まあ!じゃあ、結婚式でのあれはやはり本当だったのね!」
十三歳の時、初対面で夫に一目惚れしたことを話しますと、ある方が感に堪えたように仰いました。
運命だの、赤い糸などと連呼されてしまい、背筋がこそばゆくなります。
「すぐに心が通じ合われたの?」
「いいえ、その時はまだ」
「じゃ、いつ?」
興味津々といった様子で尋ねられ、それも白状しますと、また歓声が上がりました。
「婚約者選びのパーティーの夜に想いを伝えあったなんて、まるで映画のようだわ!」
夢見る瞳で仰るのを見て、私は苦笑してしまいました。
そんなに甘く美しくはなかったのです、想う方が別の女性を婚約者に決めるという恐怖におののいていましたから。
でも、その方があまりに目を輝かせていらっしゃるので、そう思われたままでも良いような気がしました。
「今日は来て下さってありがとう、楽しかったわ」
澤之上夫人が仰ったのを機に、お茶会はお開きとなりました。
穂子さんとそのお義母様と三人で車に乗り、城内家へと戻って。
今日のお礼を申し上げ、待ってくれていた遠野家の車で屋敷へ帰りました。
夜になり、帰宅した夫に昼間のことを話しますと、良かったねと自分のことのように喜んでくれました。
穂子さんのおかげだ、今度は僕からもお礼を言っておこうとも約束してくれました。
私達の馴れ初めを白状してしまったのには、少しだけお小言がありましたが…。
そしてそれからは、穂子さんにも遠野家へ来て頂き、お茶やお話をするようになりました。
彼女のご紹介で、他の夫人を交えての会にもお誘い頂けるようになり、少しずつ交遊関係が広がっていったのです。
次第に分かっていったのですが、穂子さんは若い方よりも、先日のようなかなり年上の方と親しくなさっているようでした。
同年代の方はあの方と接すると、どうしても嫉妬の感情が生まれてしまい、敬遠するのでしょう。
完全な引き立て役になるのを、知った上で交際している私がむしろ特殊なのです。
しかし、穂子さんに出会えたことは私にとって幸運でした。
久しぶりの同年代(七歳違いですが)の友達だということで、顔の広いこの方には随分親切にして頂けましたから。
完膚なきまでにお嬢様である穂子さんと、一般家庭に育った私。
不思議なのですが、こんなに違う二人なのに、どうしてこれほどと思うくらいに話が合うのです。
穂子さんとお会いするたび、その時間はどんどんと長くなっていきました。
話題があちこちへ飛んでも、沈黙するということが全く無いのです。
それは、何度目かに彼女を招いた日、話に花が咲くあまりに夫の帰宅にも気付かないほどでした。
「麻由!」
名を呼ぶ声に振り返ると、夫が怖い顔をして立っていました。
「どうして、出迎えに来ないんだ?」
「えっ……す、すみませんっ!」
話に熱中して、夫の車が玄関についたことにちっとも気付かなかったのです。
帰宅時にお出迎えをするのは、メイド時代から変わらない私の大切な仕事なのに。
血の気が引くような思いで、私はぺこぺこと頭を下げて謝りました。
「あら、ご主人のお帰りなのね」
穂子さんが悠然と仰って、夫は彼女の存在にやっと気付いたようでした。
「こんばんは。お邪魔しています」
「ああ、城内さんのご夫人でしたか」
「麻由さんと、お話が盛り上がっておりましたの」
「そうですか。では、そろそろお引取りになってはどうですか?」
夫の物言いに、思わず息を飲みました。
私に腹を立てるのは当然ですが、穂子さんにそんな言葉を使うのは……。
「あら、来客に対して随分な仰り方なのね」
「もう夜ですよ。そちらも、ご主人がそろそろ帰って来るんじゃないですか?」
「うちはいいのよ、こちらのお宅みたいに出迎えさせられたりしないもの」
穂子さんと夫が言い合うのに挟まれて、はらはらしました。
もう少し、穏やかに話し合っても罰は当らないと思いますのに。
どうして、二人とも相手を挑発するような言葉遣いなのでしょう。
「『太郎ちゃん』を、たまには出迎えてあげればいいのに」
「!」
夫の言葉に、それまで余裕を崩さなかった穂子さんの頬にカッと血が昇ったのが分かりました。
「な、何ですって!」
「言葉の通りの意味ですよ。愛しい旦那さんを、たまには大事に扱っておあげなさい。喜びますよきっと」
「そんなこと、あなたに言われなくっても……もうっ!」
さらに頬を赤くされ、握った手を震わされる穂子さんは、やはり可愛らしく。
同性でありながら、改めて目が奪われてしまいました。
「分かったわよ、今日は帰ります、帰ればいいんでしょう?……麻由さん!」
「は、はいっ?」
「この意地悪な旦那さんを、次に会うまでには躾け直しておいて頂戴!」
「え……」
「では御機嫌よう、さよならっ」
くるりとこちらに背を向け、肩をいからせながら歩いていかれる穂子さんを、あっけに取られながら見送りました。
それにしても、お帰りになる時まで賑やかな方です。
「面白い人だね」
夫が苦笑して、私はやっと我に返りました。
「あなた、何もあんな風に挑発なさらなくてもいいじゃありませんか」
「いや、妻を独り占めされたのでは夫の立場が無いじゃないか」
「えっ?」
「女性とはいえ、彼女はライバルだよ」
呆れました、穂子さんと私はそういう関係などではありませんのに。
「何か誤解していらっしゃるのでは?穂子さんと私は……」
「誤解じゃないさ。穂子さんが君の事を構うのは、友達として放っておけないからだろう。
しかし、妻の時間を他の人に奪われて、夫が嫉妬しないわけがないだろう?」
「はあ……」
「穂子さんのお陰で、君が他の夫人たちとも打ち解けられているのだから、有難いとは思っている。
でも僕がいる時は、僕のことを第一に考えておくれ」
私の肩に手を置いた夫が、諭すように言いました。
確かに、最近の私は夫人方とのお付き合いに重点を置いて、夫のことを考える時間が減っておりました。
気持をきちんと態度に示すのを怠っておりましたから、この人もついあんな風に言ってしまったのでしょう。
「分かりました。でも、嫉妬なさるなんてお門違いですわ。
私の一番はいつでもあなたなのだと、分かっていて下さらなければ困ります」
「ああ」
「今日はうっかりしていましたが、これからは気をつけます。ですからご機嫌を直して下さい、ね?」
「そうだね、さっきはちょっと言い過ぎたかな。真っ赤になった穂子さんは面白かったけど」
「ええ」
穂子さんも何だかんだでお帰りになったのは、ご主人を出迎えようと思われたからかもしれません。
太郎様のことを表立って褒めることはなくても、やはり、心の中では大切に思っていらっしゃるのでしょう。
案外、二人きりになった時には、思い切り甘えていらっしゃるのかもしれません。
階下の食堂で夕食を終え、お風呂に入って寝る準備を済ませました。
ドレッサーの前に座っていると、夫が後ろから私を抱き締め、耳元に唇を近付けました。
「今日は、メイド服を着た麻由を抱きたいな」
「えっ」
「久しぶりに、さ。駄目かい?」
「あの……」
「ね、いいだろう?頼むよ」
急に何を言うのかと思ったのですが、両手を合わせんばかりに懇願され、私はつい首を縦に振ってしまったのです。
「お望みなら、構いませんが……」
「そうか。じゃ、着替えておいで」
どことなくウキウキした口調で言った夫を寝室に残し、私はクロゼットへ向かいました。
取り出したメイド服は、ほんの少し着なかっただけなのに、とても懐かしく思えました。
十年以上これを着続けてご奉公しておりましたから、夜会服などよりは余程着慣れています。
手早くワンピースを着てエプロンの紐を背中で結び、ブリムをつけて準備を整えて。
鏡の前に立つと、少し恥ずかしそうにこちらを見つめている自分と目が合いました。
久しぶりの衣装を満喫するように、その場でくるりと一回転して、裾がふわりと広がるのを楽しみました。
まだまだこれが似合うのが何となく嬉しくなり、満更でもない気持ちになります。
寝室へ戻り、待っていた夫の前に立つと、彼は満面の笑みを浮かべました。
「ドレスもいいけど、やっぱり麻由にはこれが良く似合うね」
「本当ですか?」
「ああ。相変わらず可愛い」
頬にキスされて言われた言葉に、血圧が一気に上がりました。
「か、可愛いだなんて……」
照れを隠せず、エプロンを握りしめて下を向いてしまいました。
よくも、そんな言葉を恥ずかしげも無く口にできるものです。
褒めてもらえるのは、非常に嬉しいのですが。
「さ、お喋りはこれくらいにしておこう」
「あ、んっ……」
にっこりと笑った夫に引き寄せられ、深く口づけられて。
舌が絡むうち、頭の中が次第にぼうっとして、身体の力が抜けていきました。
唇が離れた時には、私はほとんど夫の支えてくれる力だけで立っているようなものでした。
「あの……あなた……」
見つめてくる夫の視線が熱くて、続く言葉もないのに思わず呼びかけてしまいます。
「麻由、それを着ている時は他に呼び方があるだろう?」
「えっ」
確かにそうでした、ついこないだまで呼んでいた夫の名ですのに。
「武様」
そう呼びかけると、夫の目が懐かしげに細められました。
「麻由にそう呼んでもらえるのは、やはり嬉しいな」
夫の手が背中に回り、エプロンの紐が外される気配がしました。
せっかく着替えたのに、もう脱がされてしまうのでしょうか。
はだけたエプロンが滑り落ち、床にふわりと広がるのを見つめて考えました。
「懐かしいね。昔に戻ったみたいだ」
「昔と言いましても、まだ一年も経っていないではありませんか」
「確かにそうだが、結婚以後と以前では、僕にとっては本当に大きな節目なんだ。
一年経ってなくても、ずいぶん昔のような気がするのさ」
「ええ」
それは、私も同じです。
メイドとして仕えていた頃と、妻になってからでは、私の生活は大きく変わりました。
変わらないのは、この人への愛情だけです。
「麻由のこの姿を見るのは、僕だけの特権だ」
夫が私を見つめ、噛みしめるように呟きました。
もしかして、さっきの嫉妬がまだ残っているのでしょうか。
自分だけのもの、というのを実感したいから、メイドである私を抱きたいのかもしれません。
それなら、彼の気の済むようにすべきでしょう。
「……私が、します」
肩の辺りを撫でている手をそっと押しのけ、屈みこみました。
そして夫のパジャマに手を掛け、下着と一緒に引き下ろしたのです。
「っ……」
熱を持ちながらもまだ柔らかいそれに触れると、夫が息を飲むのが聞こえました。
ゆっくりと口に含み、愛しむように唇で挟んで刺激を与えて。
先のほうに舌を押し付けると、夫の背がびくりと跳ねました。
「あ……麻由……」
夫が私の頭を押さえ、ねだるような声を上げました。
いつもは、余裕のある態度を崩すことなく私をいいようにする夫の、そんな姿が嬉しくて。
俄然その気になってしまった私は、たっぷりと時間をかけて夫の喜ぶ所を刺激しました。
もう少し頑張りたくなって、指を下へ持っていき、根元の膨らみにもそっと触れて。
そこを軽くつついたり、優しく撫で上げるだけで、夫は何度も息を飲みました。
「くっ……あ……」
夫のものを深く咥え込んで舐め上げると、彼は切羽詰った表情になって。
眉根を寄せて苦しげにする姿が色っぽくて、目が釘づけになりました。
私が秘所を舐められている時も、こんな顔をしているのでしょうか。
『今にも泣き出しそうに、快感を堪えているのが可愛い』と夫は言ってくれるのですが……。
「あ、麻由……だめだ……」
限界を訴える夫が、私の顔を押しのけようとします。
いつもは私がやめてと言っても、決してやめてくれないくせに。
もちろん、ここでやめるわけには参りません。
私はその手を振り払い、彼の熱を解放するべく、さらにと刺激しました。
「うっ!」
短い呻きが聞こえたのと同時に、口の中一杯に苦い味が広がります。
舌を動かして、それを喉の奥に少しずつ送り、飲み下しました。
全部飲み終えたところで上目遣いに伺うと、夫はせわしなく瞬きをし、ほうっと大きく息をつきました。
「最後までしなくてもよかったのに」
夫が拗ねたように呟き、唇を尖らせました。
「え、でも。あなたも、いつも……」
私が達してしまうまで、愛撫をやめてくれないではありませんか。
そう言い返したかったのですが、言葉にするのが恥ずかしくて途中でやめました。
「君がイくのはいいんだ。しかし、僕が先にイかされるなんて、男の沽券に関わる」
そんな、大げさな。
二人きりのことですから、沽券などという言葉を出さなくてもよいと思いますのに。
どうやら、夫は大真面目にショックを受けているようなのです。
「今の私は、あなたのメイドでしょう?メイドが、主人のために奉仕するのは当たり前ではありませんか」
どう言えばいいのか迷って考えて、やっと思いついた言葉を口にしました。
夫を困らせたかったのに、いざその状況になってみると落ち着きません。
「私が、自主的にしたのですよ?」
「……うん」
「むしろ、イって頂かないと、任務完了とはいきませんから。これでよかったのです」
「そうか」
夫がようやく顔を上げ、視線を合わせてくれました。
「そうだね。今夜の君は、メイドだったね」
「ええ」
「じゃあ、僕に誠心誠意仕えてくれるメイドには、報奨すべきだね」
「あっ!」
夫の手が、スカートの裾から入り込んできました。
あっという間に下着を引き下げられ、秘所を夫の指が探ります。
ぬるりとした感触に、そこがどんな状態になっているかを想像し、顔がカッと熱くなりました。
その間に夫はさっさと私を脱がせ、組み敷いてしまいました。
「あ……んっ……」
夫が胸に顔を埋め、頬擦りをします。
「相変わらず、いい胸だね」
「っ……」
楽しげに囁かれた言葉に、身を竦ませました。
なんと立ち直りの早い人でしょう。
褒めてくれるのは嬉しいのですが、さすがに恥ずかしいのです。
「ここに触れるのも、僕だけの特権だ」
嬉しそうに言って、夫はまた膨らみに頬を寄せ、緩く吸いつきました。
今日のこの人は、まるで子供のようです。
穂子さんにけんかを売ってみたり、私の胸にじゃれてみたり。
昼間は、当主と社長の重責を担うひとかどの紳士ですのに。
でも、私には彼の行動の端々に現れる独占欲が心地良く感じられました。
夫がこうやって甘えるのは、私一人。
そう思うと、全く不快ではないのです。
私達は、やはり似た者同士なのかもしれません。
胸に顔を埋めていた夫が、姿勢を起こしました。
「麻由」
「はい?」
「今夜、僕を呼ぶ時は『武様』と言うんだよ。間違えたらお仕置きだからね」
「え……あっ!」
自分勝手に言い渡して、夫は秘所に置いた指を動かし始めました。
蜜を絡めて撫で擦られると、反論しようとして開いた口からは喘ぎしか出てきません。
婚約中は全く逆のことを言っていたのに、よくもそんなに早く手のひらを返せるものです。
『あなた』と呼ぶように言われ、間違えるたびにお仕置きされた回数など、両手両足の指では足りないというのに。
独占欲を示されるのはよくても、こんなマイルールを振りかざされるのは釈然としないのです。
意地でも、あなたはおろか武様とも呼ぶものかと私は心に決めました。
「ほう、真っ向勝負をする気だね」
私の心を読んだように夫が言うことに、早くも動揺してしまいます。
「ん……。あっ……やぁん……」
夫が秘所をかき混ぜながら、胸の頂にチュッと吸い付いてきました。
舌先が何度か触れただけで、私のそこはあっけなく固く立ち上がり、もっと触ってとでもいうように熱を持って。
夫が動きを止めるたび、身を捩って不満を訴えてしまいました。
吸うだけじゃなくて、いつもみたいに軽く噛んでも欲しいのです。
「お願い、あなた……。いつもみたいに」
つい口をついて出た言葉に、しまったと思いました。
今夜は夫のことを呼ぶまいと決めたばかりなのに。
「一回目だ」
楽しそうに言われてしまい、私は唇を噛みました。
この人のことです、お仕置きと称して何をやらされるか、考えただけで冷や汗が出てきます。
「何を言いたかったんだい?」
夫がそう問うのに、目を丸くしました。
てっきり、理不尽な要求をしてくると思いましたのに。
「いつもみたいに?」
「……いつもみたいに、その……噛んでほしい、と」
「その言葉遣いは頂けないな」
「?」
「メイド時代、君はベッドでそんな風に言っていたかな」
そう言った夫が首を傾げ、私はやっと理解しました。
「武様、噛んで下さいませ……?」
これが今日のお仕置きなのでしょうか、なんだかちょっと拍子抜けです。
「どこを噛んで欲しいんだい」
「え、さっきまで吸いついていらっしゃったではありませんか」
「だから、どこか言いなさい」
「ですから、胸の……」
なんだか嫌な予感がします。
もしかして、今日は万事この調子なのでしょうか。
何を望んでいるか言わないと、何もしてくれないのでは……。
さっき拍子抜けしたのを早くも忘れ、頭の中に黄信号がともりました。
「胸の?」
「あっ、ん……」
夫が指先でそこを弄り、せかすように尋ねてきます。
「そこ、です……」
「え?」
「ですから、乳首を……あっ」
頬にカッと血が昇るのが分かりました。
今まで、具体名を出してせがんだことなどなかったのに。
自分がとんでもなく卑猥な女になったようで、いたたまれません。
「乳首を噛んで欲しいんだね。強く?」
「……いいえ。歯を立てるくらいで結構です」
「そうか」
夫が指を動かすのをやめ、胸に顔を近付けました。
「あんっ……あ……はぁん……」
望んだ刺激がやっと与えられ、私は快感に身震いしました。
軽く噛まれた後、それを詫びるように舌が這わされるのがまた気持ち良くて。
もっとして欲しくなり、私は夫を引き寄せ、髪に指を絡めました。
「痛いのが気持ちいいなんて、麻由の身体はいやらしいね」
クッと笑って呟かれた言葉が耳に届きますが、もうそれに反論する気は起こりませんでした。
私の身体をこうしたのはあなたでしょうと、言い返したくはあったのですが。
「あ……武様、反対側も」
「うん」
「噛んで、下さい……」
熱に思考を侵されながらねだると、夫はすぐに聞き入れてくれました。
今度はそこに噛み付いたまま、舌先をちろちろと動かして舐められて。
その気持ちよさに私はあられもない声を上げ、夫を引き寄せる腕に力を込めました。
「痛いよ」
顔を上げた夫に苦笑されて、慌てて手を離したのですが。
強烈な快感がお腹の辺りへ集まり、期待感となってそこに留まって。
もう胸だけでは物足りなくなって、私は腰を浮かせて夫の手に押し付けました。
「ん?」
夫が顔を上げ、目を合わせて首を傾げました。
それきり黙ってしまったのを見て、心がざわつきます。
また、先程のようにおねだりをしなければいけないのでしょうか。
「あの、あ……武様?」
「うん」
「胸はもう結構です、次は……」
「次は?」
「あの……」
言い淀み、私は困って黙り込んでしまいました。
「ちゃんと言ってくれなきゃ、分からないじゃないか」
夫が秘所に息を吹きかけてせかしてきます。
そこをそんな風にされると、ざわざわして落ち着きません。
逃れようと身を捩っても、夫は私の脚を押さえ込み、楽しむようにそれを何度も繰り返して。
どうしても「お願い」をしなければならないのかと、泣きたい気持ちになりました。
「あの、ク、クリトリスを……」
「うん」
「触って、下さい」
顔から火が出るような思いで言いました。
この言葉を口にしてねだるなど、淑女とはいえませんのに。
「どうやって触ろうか?」
夫の指が、太股の辺りでくるくると円を描くように動いています。
「んっ。そうやって……」
「こう?」
「ああっ!」
そこへたどり着いた夫の指が、敏感な場所の輪郭をなぞるように動きました。
快感に腰がひとりでに浮き、足の指がギュッと握り込まれます。
「ん……ああ、あ……はぁん……」
「すごいね、シーツにまで垂れてきた」
楽しそうに呟かれてしまい、身がすくみました。
明日、メイドがシーツを取り替えた時に気付かれてしまうのでは、と。
彼女らは仕事だから気にしないかもしれませんが、やっぱり恥ずかしいです。
「このまま、もっと濡らそうか」
「あんっ!」
夫の指が動き、また私の口からは高い声が漏れました。
でも、さっき言われた言葉が頭から離れません。
「いやぁ……だめ……」
「今更だめだと言っても、遅いよ」
夫の手を掴んで止めると、少し不満気な声が聞こえました。
「だって、シーツが汚れて……」
メイド時代、夫の部屋のシーツを汚してしまった時は自分で取替え、さっさと洗って証拠隠滅をしておりました。
でも、彼の妻になった今はそうするわけにも参りません。
「じゃあ、こうしてあげる」
「え……ああんっ!」
秘所にぬるりとした温かい物が触れました。
夫がそこに舌を這わせ、溢れた蜜を舐め取っているのです。
お願いはしていないのに、困る私を助けてくれているのでしょうか。
指とはまた違った快感が湧き起こり、私はまたあられもない声を上げてしまいました。
秘所を晒す恥ずかしさより、与えられる快楽に酔ったように頭がぼうっとしてきて、閉じた瞼の裏がチカチカと瞬いて。
もう脚を閉じることもできず、されるがままになる他はありませんでした。
「麻由、そろそろいいかい?」
夫が顔を上げて尋ねるのに、頷いて答えました。
かぶさってきた彼の背に抱きつき、その肩口におでこをぴったりとくっつけて。
舐めてもらうのも気持ちいいですが、やはり早く夫と一つになりたいのです。
深く息を吐きながら、自分を穿つ熱く固い物を迎え入れました。
全部入ったところで目を開けると、少ししかめっ面になっている夫と目が合いました。
どうしたのかと首を傾げますと、夫が額に掛かった髪を払ってくれながら口を開きました。
「いつもより締まる感じがする。あんまり、もたないかもしれない」
少し不安げに呟くのを聞いて、頬がほころんでしまいます。
どんな時も私を狂おしく求めさせてしまうこの人が、こんなことを言うなんて。
「言い訳なさるなんて、あなたらしくありませんわ。
私のほうこそ、一人でイってしまわないかと、いつも不安なのですよ?」
お返しに夫の髪に手を遣りながら言うと、彼はその手を掴んで少し笑いました。
「君は何回でもイっていいよ。そうさせるのが、男の甲斐性だからね」
「あ……」
夫の腰が動き始め、私はその圧迫感に声を上げました。
妻より先にイったくらいでは、男の甲斐性には影響が出ないと思うのですが。
私を気持ち良くさせようと思ってくれているのが有難くて、何も言わずに抱きつき直しました。
力強い突き上げに息が乱れ、次第に背中が反ってくるのが分かります。
夫の逞しい胸が私の胸に擦れ、それにも感じてしまい、私はどんどん夢見心地になっていきました。
「あ……んっ……は、あっ……あ……」
「くっ、あ……」
快感を堪えているのか、夫の呻くような声が聞こえました。
我慢なんてしなくてもいいのに。
それを伝えるべく、お腹に力を入れて繋がった部分に意識を集中しました。
「麻由っ……あ……」
夫の切羽つまった声が聞こえます。
もっと声を上げて欲しい、と脚を絡め直そうとしたところで、不意に胸に甘い刺激が走りました。
「あんっ!ん……」
さっきのように胸の頂を舌でなぶられ、悲鳴を上げてしまいます。
繋がっている時にそうされてしまうと、感じすぎてしまうからイヤだと何度も言っていますのに。
私を追い立てるためなのか、夫は執拗にそこを責め立ててきました。
さっきまで私の方が余裕がありましたのに、易々と逆転されてしまって。
身体の上下に感じる刺激に絶え間なく身体を震わせながら、私はとうとう追い詰められてしまいました。
「あ……あなた……もうイっ……あ……あああんっ!」
気絶しそうなほどの快楽の中、ついに私は大声で叫びながら達してしまいました。
夫も少し遅れて達し、肩を大きく上下させています。
はあはあと荒い息をする愛しい人の背を撫で、私も深く息を吐きました。
先に起き上がった夫に手伝ってもらい、バスルームへ行きました。
楽しそうに洗ってくれる夫に全て任せて、気だるさと眠気に懸命に抗って。
足元が覚束ない中、やっとまたベッドにたどり着きました。
「シーツはそんなに汚れていないようだよ、麻由」
先にお風呂から上がった夫が、シーツを交換しながら言いました。
そんなことをしたことのない人ですから、出来栄えは今ひとつで、あちこちに皺が寄っているのですが。
気遣いが嬉しくて、横たわった私はそのシーツに頬をつけました。
「ところで、麻由」
「はい?」
もうほとんどくっついているまぶたを持ち上げると、意味ありげな笑みを浮かべた夫と目が合いました。
「さっき、また『あなた』と呼んだね」
「えっ」
言われてみればそんな気がします。
「あの分のお仕置きは、またにするよ。覚えておきなさい」
「そんな!だいたい、婚約中は『武様と呼んだらお仕置き』だったのに、おかしいではありませんか」
触れられている時は何も言えませんでしたが、今なら反論できます。
お仕置きされてなるものかと、私は身体を起こして必死で言い募りました。
「だって『今日の私はあなたのメイドです』と言ったのは、君だよ?」
「うっ……。それはそうですが……」
「観念して、大人しくお仕置きされなさい」
「でも、今日以降ならもうメイドではありませんわ。それに、もう日付も変わっているではありませんか」
「ああ、言われてみればそうだね」
「ですから、無体なお仕置きなんてやめましょう?」
夫の顔を覗き込んで頼むと、彼は参ったとでも言うように笑いました。
「今日の麻由は冴えているね」
「いえ、そんな……」
「じゃあ、今夜の分のお仕置きは無しにしよう。だが、また別の機会に課題を出すからね」
「えっ!」
「覚悟しておきなさい。じゃ、お休み」
言い置いて、夫はさっさと目をつぶってしまいました。
「ちょっと、あなた!そんな約束なんてしませんから」
夫の身体を揺すって口答えしても、彼はわざとらしくいびきをかくふりをするだけで目を開けてくれません。
自分勝手なことを言ってと、文句の一つも言いたいのに。
何を言っても無駄な気がして、諦めて私も横になりました。
こうなったら、夫の策に乗らない為にあらゆる手段を考えねばなりません。
いざとなったら、穂子さんにお願いしてかくまって頂こうかなどと考えながら、ゆっくりと目を閉じました。
──続く──