麻由と結婚した二年後、長男の薫(かおる)を授かった。
そのまた翌年には、長女の由香を授かり、屋敷は随分と賑やかになった。
新しい家族の泣き声、はしゃいだ声、大人達が子供をあやす声。
騒がしいながらも幸福な音の絶えなくなった我が家は、随分と明るくなったように感じる。
薫は、麻由に似た優しい子に育ってくれた。
顔は私に似ていると皆が口を揃え、将来はいい男になるとも言われるのには悪い気がしない。
一方、由香は、写真で見るところの麻由の幼少時代にそっくりだ。
くりくりと大きな目に通った鼻筋、サクランボのように赤い唇。
母親に負けず劣らず愛らしい外見の、おしゃまな女の子に育ってくれた。
しかし、少々気難しいところがあり、好みでないメイドに世話をされるのを嫌がる。
その感情の起伏の激しさは、私や麻由より、むしろ他人のはずの穂子さんにそっくりのように思える。
また、由香はとにかく母親にべったりで、屋敷にいるときは麻由から離れず、しょっちゅう後をついて回っている。
夜も二人で寝たがるのを、担当メイドになだめすかして引き離され、しぶしぶ子供部屋へ連れて行かれる。
私のことは、麻由をめぐるライバルだと思っているようで、あまりなついてくれてはいない。
麻由と私が二人で過ごしているのを見ると、由香は無理矢理割って入り、麻由の膝を独占するのだ。
その行動をたしなめても、フンッと顔をそむけ、お母様お母様と甘える姿は私へのライバル心に満ちている。
この小さなお姫様を、うまく御して落ち着かせ、上手に取り扱う麻由の手腕にはいつも感心させられる。
子を産んだ麻由は、母としての風格と落ち着きが加わり、現在では立派に遠野家の女主人として務めを果たしている。
結婚当初のおどおどした自信のない趣は、もはやどこにも見られない。
しかし、若い頃からのたおやかさは失われておらず、今も十分可愛らしいところを残している。
見慣れているはずなのに、時々、はっとするほど魅力的に見えることがあり、私は相変わらず彼女に夢中だ。
子らに彼女を取られてしまうことが多くなったが、それでも二人の時間を持った後は共に眠り、時には愛を交わすこともある。
肌を合わせる時は、若い頃に戻ったようになる彼女を見ると、明日も仕事だということを忘れてしまうこともしばしばだ。
結婚八年目の今年、冬の訪れを聞く頃に次男の護(まもる)が誕生した。
小さめに生まれた割に母体の回復が思わしくなく、麻由は産院を出た後も医師の診察を受けている。
夜泣きや授乳に生活リズムも狂わされ、彼女は薫と由香の為に時間を割くことがほとんどできない現状だ。
育児経験者のメイドがついているが、責任感のある性格の麻由は、自分が頑張らねばとついつい無理をしがちである。
出産後の麻由は、ベビーベッドのある部屋に移り、そこで護と共に寝起きするようになった。
「夫婦の部屋に護を置いては、あなたに迷惑をかけることになりますから」というのが彼女の弁だ。
そこまでしなくてもと言ったのだが、彼女の意志は固く、とうとう押し切られてしまった。
薫と由香が産まれた時も、同じことをしたのだが。
仕方ないことといえ、夫婦の部屋に一人で過ごすのはやはり寂しい。
その気持ちを押し殺したまま、朝と夕に麻由と護の機嫌を伺うだけの日々が続いていた。
そんなある日の夜半、夫婦の部屋のドアがノックも無しに開かれた。
私が気配に振り向くと、そこには由香が一人で立っていた。
クマ模様のパジャマを着て、しきりに目を擦り、むうっと唇をゆがませている。
お休みの挨拶は何時間も前にすませたのに、どうしたのだろうか。
「由香、どうした?」
傍へ寄り、かがみ込んで視線を合わせる。
大きく丸い目が私を捉え、しばらくして逸らされた。
「眠れないのか?」
問うと、彼女は黙ったまま微かに頷いて、パジャマの裾をぎゅっと握り締めた。
「……担当のメイドは?」
三つ目の問いに、由香がみるみるうちに目を潤ませ、堪えきれないようにしゃくり上げ始める。
「千早、は……お風邪を引いて、いないの……」
途切れ途切れに呟かれた言葉に、ハッとする。
好き嫌いの激しい由香が、唯一なついているメイドの千早(ちはや)は、時期外れの風邪で伏せっていると報告を受けていたのだ。
由香の世話は代理のメイドが担当しているはずだが、気難しいこの子は、その者が一緒に眠るのを許さなかったのだろう。
一人で眠れるもん!と大見得を切った手前、寂しくなっても呼びにも行けないのに違いない。
「お入り」
部屋へ招き入れ、ソファに座らせる。
由香は傍らのクッションを手に取り、その形がゆがむほどに強く抱きしめた。
「いつもの縫いぐるみはどうしたんだい?」
私の問いに、由香の眉がハの字に下がり、表情がくしゃりとゆがむ。
「リサ、は……お部屋、で寝て、るの……」
名前を与え、いつでも一緒にいるウサギの縫いぐるみが、この子と共にないのは珍しいこと。
食事の席でも、隣に用意した椅子に座らせているくらいなのに。
「由香は、眠れないのに。リサは、一人……で寝て……。お話しても、黙ってるし……」
由香が唇を噛みながら、小さな声でしぼり出すように話す。
「眠れないのか。お母様の容態が、心配なんだね」
「ようだい?」
「ああ。お母様と、あまり話をしていないんだろう?」
寝つきの良い由香が夜半ぐずるなど、今まで報告を受けたことがない。
幼いなりに、母親のことが心配で、おちおち眠っていられないのだろう。
「……そう、なの。お母様に会いたくても、お部屋に入っちゃいけません、って、みんな言うし……」
「ふむ」
「『奥様は大変なのですから、我慢しましょうね』って。千早まで」
「そうか」
母親べったりだった由香にとっては、いきなり引き離されたのがショックなのに違いない。
赤く潤んだ目で、由香が私を見上げる。
「お父様……。お母様、ずっとああなの?」
「えっ?」
「もう、ずっと、ずーっと、護に取られちゃうの?由香のこと忘れちゃうの?」
「いや、そんなことは……」
「ヤだ!お母様、お母様っ……」
由香が小さな手で顔を覆い、しくしくと泣き出した。
慌てて、引き寄せて頭を撫でてやる。
暴れるかと思ったが、意外にも、由香は大人しくされるがままだった。
「心配しなくても大丈夫だよ、お母様は、由香のことを忘れてやしない」
「う……ひっく……本当?」
「ああ。護を産んで、疲れているだけなんだよ。もう少し経てば、元気になるんだ。由香の時もそうだったんだよ」
「私の?」
「そうだ。赤ちゃんは、朝も夜も関係なく泣くから、お世話をするのが大変なだけなんだ。
だから、振り回されてしまっているだけで、本当にお加減が悪いのとはちょっと違うんだ」
「そう……なの……」
由香が手を顔から下ろし、ゆっくりと頷いた。
その目から新たな涙の粒が落ちてこないことに安堵し、袖で頬を拭ってやった。
「由香が赤ちゃんの時、は……。お兄様は、どうだったの?」
「えっ?」
「いい子にしてたの?由香みたいに、お母様を取られたって、怒らなかったの?
由香、護がお母様を独り占めしてるから……っ……」
「うーん」
薫は、小さい頃から由香ほど母親に執着する子ではなかったように思う。
人見知りもそんなに激しくなく、担当メイド以外の使用人との関係も良好だったが。
今のこの子に正直に言っては傷つくだろう。
「どうだったかな。由香は良く眠る子だったから、お母様も今回のように大変じゃなかったと思うよ」
「そうなの?」
「ああ。アルバムを見たことがあるだろう?赤ちゃんの時のお前の写真を」
「うん」
「お母様は、すやすや眠っているお前を見るたび『由香は将来、私に似るかしら』と、笑っていた」
「!」
私の言葉に、由香は弾かれたように顔を上げる。
由香が唯一、私の話を喜ぶのは、この子が知らない麻由の話をしてやる時だ。
麻由が中高生の頃、メイドの頃、結婚して薫や由香が生まれるまでの頃。
問われるままに語るたびに、由香はいつも目をキラキラと輝かせ、もっと聞かせてとせがむ。
「由香が大きくなったら、お母様そっくりになるかしらって?」
「そうだ。お前は、生まれた時からお母様似だったからね」
「本当?」
「ああ。今も、お母様がお前くらいの時の写真とそっくりだから、もっと大きくなっても似るだろう」
「……ん」
由香が、嬉しいような恥ずかしいような顔で頷く。
「お父様は、由香がお母様みたいになったら、嬉しい?」
「ああ。とっても嬉しいよ」
「……そう」
由香が私のパジャマの袖にそっと触れた。
やはり、由香の性格は私に似たのだ。
麻由が他の男と話すと私がイライラするように、由香も自分以外の人間に麻由が関心を向けるのが面白くないのだろう。
こんな小さな女の子にも、自分と同じ嫉妬の感情があることに気付き、苦笑する。
由香は穂子さんにそっくりだとうそぶいていたが、この性格はまるで私そのものではないか。
今までは家族の中で最も幼くて、なんだかんだで麻由を独占できていたのに、弟に取られて困っているのだろう。
自分は見捨てられるのかと思い、不安に駆られているのに違いない。
考えてみれば、由香は母親のことに関してはきかん気だが、服や食べ物の好き嫌いはほとんど言わない。
使用人の好みに関しても、他人よりも母親である麻由に構ってもらいたいのだとすれば、納得がいく。
「由香。今日は、私と一緒に寝るかい?」
何とか落ち着いてくれたようだが、このまま一人、自室で眠らせるのは心配だ。
不安がっているのだから、傍についていてやりたい。
「え……。でも、由香は、もうお姉さんなんだから、一人で眠れなきゃ、いけないんだもん……」
また下を向いてしまった由香が、悲しそうに言う。
使用人の誰かにそう言われたのだろうか。
いや、もしかしたら、私自身もそう言ってたしなめたことがあるのかもしれない。
ぐずるこの子に、自分は姉になったのだと自覚させ、ワガママを控えるのを促すのは大事なことだ。
しかし、由香にしてみれば、そう言われるのは理不尽だと感じるのに違いない。
今までは自分を優先してくれていた皆が、手のひらを返したように我慢を強いてくるのだから。
見捨てられたように思うのも、無理はないことだろう。
「いいんだよ。千早もいないし、リサは先に寝てしまっているし、寂しいんだろう?
私も、麻由がいなくて寂しいんだ」
「お父様も?」
「ああ」
「由香より、ずーっとお兄さんなのに?」
「そうなんだ。だから由香、私を助けると思って、一緒に寝ておくれ?」
麻由と離れて寂しいのは、私も同じだ。
大人なのに情けないと思われるかもしれないが、これが偽らざる本心だから。
「由香、今日はここで寝る」
頷いた彼女を抱き上げ、ベッドへと運ぶ。
子供特有の高い体温が感じられ、抱きしめる腕に自然に力がこもる。
頼られると嬉しいものだ。
ベッドに寝かせて背をさすってやると、由香は丸い目でじっと私の顔を見上げ、少し頬をほころばせた。
「お父様」
「何だい?」
「お父様も、お母様とご一緒じゃなくって、さみしいのね?」
「ああ、寂しくってたまらないんだ。
私は大人だから、我慢しているだけなんだよ」
「そうなの?」
「うん。……由香」
「なあに?」
「私もお母様も、兄弟がいないからね。『お姉さん』の気持ちが分からないんだ。
だから、由香が何か思ったら、隠さずに私達に教えておくれ」
「うん」
「千早が元気になるまでは、毎晩ここに寝にきてもいいよ」
「本当?」
「ああ。寂しい者同士、一緒に寝よう」
「リサも連れてきて、いい?」
「構わないよ、明日にでも連れておいで」
「うん」
由香がまた頬をほころばせ、嬉しそうな表情になる。
髪を撫でてやると、もぞもぞと動いて私の胸にぴたりと身体を寄せてきた。
大好きな母と、心を許したメイドの具合が悪くなり、小さいながらも不安とストレスに苛まれていたのだろう。
一人で夜の廊下を歩き、普段は敵認定している父親の部屋に来ようと思うほど。
この子の状態に、もう少し早く気付いてやりたかったと反省した。
明日、メイドに申しつけ、護が眠っている時に由香を麻由に会わせることにしよう。
私が言葉で慰めるより、やはり母親に甘えさせてやるのが効果的だろう。
「由香」
「なあに?」
「明日、庭師に頼んで花を少し分けてもらいなさい。それを持って、お母様をお見舞いするといい」
「本当!?」
由香がパッと花が咲くような笑顔を見せた。
「いいの?みんな、怒らない?」
「怒らないさ。私がちゃんと言っておくから」
「うん、お父様、ありがとう!」
由香が満面の笑みを浮かべ、抱きついてきた。
「お母様、また遊んで下さる?」
「ああ、今すぐというわけにはいかないだろうが、必ずまた遊んでくれるよ。
春になったら花で王冠を作って、由香に被せて下さるだろう」
「シロツメ草?」
「ああ。由香も作り方を習って、護に作っておあげ」
「護に?」
「そうだ。お母様は、由香のを作ってくれるから、由香は護のを作ってあげればいい」
「うん。お兄様は、お父様は?」
「そうだね、薫は、二人が花輪を作っている間、護のお守りをしてもらおう。私は写真の準備をする」
「お写真?」
由香の顔がパッと明るくなる。
この子は、おめかしをして写真を撮ってもらうのが好きなのだ。
本当に、小さくても立派に女の子なのだと思う。
「いつ?いつ?」
「そうだなあ、庭のシロツメ草が咲くのはもう二ヶ月ほど先かな」
「にかげつ?」
「ああ。長いようだが、きっとあっという間だよ」
「うん」
「花が咲くまで、四葉のクローバー探しをすればいい」
「あっ!」
由香が両足をばたばたと動かした。
去年、薫が由香の為に四葉を見つけてやったことに、この小さなレディはいたく上機嫌になったのだ。
「お父様、お母様。お兄様と護と、私の分。五つもあるのかしら」
指折り数え、由香が首を傾げる。
「薫にも手伝ってもらえば、きっと見付かるよ」
「うんっ!」
由香が私の頬にキスをして、ぷっくりとした柔らかな頬を寄せてくる。
「お父様、大好き」
さっき泣いたカラスが、もう笑っている。
この子に大好きといわれるのは初めてかもしれない。
言われてみれば嬉しいものだ。
嫌われているからと、積極的にコミュニケーションをとるのを避けていた自分の愚かさを反省した。
由香が目を擦り、ふわあっと大きなあくびをする。
「ほら、もう寝なさい」
「……うん」
うつろな声で返事をし、由香はすうすうと寝息を立てはじめた。
やはり、この子は私にそっくりだ。
麻由のことが大好きで、構ってもらえないと拗ね、嫌われたのかと悲観的になる。
その表現が少し激しいだけのこと。
子供ゆえの素直な感情の発露だとすれば、扱いに苦慮することはない。
麻由には及ばないが、彼女の分まで私が由香を構ってやろう。
おしゃまなこの子が一生懸命話すのを、できるだけ聞いてやろう。
それが父親としての務めだ。
もう一度柔らかい頬に触れ、麻由について話すことのできる相手ができたことに喜び、私も目を閉じた。
──続く──