「お帰りなさいませご主人様。」  
21時を過ぎた頃、お戻りになったご主人様を玄関でお迎えするのが私たちメイドの大切な仕事。  
若年のメイドたちを従え、一列になってお辞儀をします。  
「今戻った。留守中変わったことはなかったか?」  
最前列で迎える執事の山村さんにそう話しかけながら、ご主人様がこちらに歩いていらっしゃいます。  
視察から3日ぶりに戻られて少々お疲れのご様子。  
あ、私の前で立ち止まられました。  
「麻由、ただいま。」  
そう言ってニッコリと微笑まれ、右手でお持ちになっていた鞄を私にお渡しになります。  
「お帰りなさいませ。」  
ご主人様の笑顔を見て急に頬が紅潮するのを感じつつ、私も微笑んでご挨拶を致します。  
そして、数時間後に訪れる甘い疼きのことを思って身体を少し震わせました。  
 
 
 
私は北岡麻由。このお屋敷にお仕えして十年目、27歳のメイドです。  
二年前から畏れ多くもご主人様直々にメイド長に任命頂き、忙しくも充実した毎日を送っています。  
私がお仕えするご主人様は、何百年も前にこの辺り一帯の土地を支配していた頃からの名家、遠野家の当主でいらっしゃいます。  
遠野 武(とおの たける)様。年齢は私と同じ27歳。  
若くしてお父上から会社を受け継ぎ、さらに発展させていらっしゃる実業家でいらっしゃいます。  
すっきりとした眼差しで背も高く、街中でもなかなか見ることのできない美丈夫です。  
この方と私が初めて出会ったのは今から十年以上も前、私の父が先代社長の専属運転手を勤めておりました頃に遡ります。  
 
 
「さあ、ここが父さんのお仕えする遠野社長のお屋敷だ。」  
父に連れられ、13歳の私はおそるおそる通用口をくぐりました。  
右を見ても左を見ても延々と続く白い壁。  
この内側が全て個人のお家などということが信じられず、何かの夢を見ているようでした。  
「あっけに取られたような顔をしているな。無理もないが・・・・。」  
歩くほどに見えてくる瀟洒な洋館に驚いて立ち止まっている私を振り返った父が苦笑していたのを覚えております。  
父が運転手として採用されても、母と私は元の家で暮らし、父はこちらの使用人棟でくらしてお休みの日に戻ってくるという単身赴任のような形をとっておりました。  
私を転校させるのはしのびないと、遅く出来た子である私に対する父の愛情でした。  
しかし母が先月亡くなり、私を一人にしておけないとこちらのお屋敷で共に暮らすことを父が社長に願い出たのです。  
ごく普通の生活を送ってきた私にとって、敷地内に池や林まである邸宅(の片隅の使用人棟)の中でこれから暮らすなどとはまさに夢物語。  
ぼんやりと周囲を見回し、自分の理解の範疇を超えている、と一つため息をついたところであちらから誰かが歩いてくるのが分かりました。  
 
それは、私より何歳か上と思われる美少年でした。  
仕立ての良い服を着て髪もきっちり整えられ、まっすぐに前を見て歩を進めてこちらへ近づいてきます。  
私のほうを見ていた父はその少年に気づき、向き直って頭を下げました。  
「坊っちゃま。今日からこちらでお世話になります私の娘、北岡麻由です。」  
ぼっちゃま・・・・?  
首をかしげた私の後頭部を父が慌てて押し下げて礼をさせ、小声で囁きました。  
「社長の一人息子、武(たける)様だ。」  
慌てて自主的にお辞儀をした私に武様は静かにこうおっしゃいました。  
「麻由さんですか。どうぞよろしく。」  
お顔と同様涼やかな声でした。心地よく、ずっと聞いていたいと思うような・・・・。  
お前もご挨拶なさい、と父がまた小声で囁きます。  
「あ、あの、北岡麻由、と申します。中学い、一年生です。」  
恥ずかしいくらい上ずった声でしたが、きちんとお耳に届いたのか武様はニッコリと微笑んでくださいました。  
「そうですか。では私と同い年ですね。」  
「え?」  
はしたなくもそう返答するしかできませんでした。こんなに落ち着いていて大人っぽい方が私と同い年だなんて。  
「以後、よろしくお見知り置きを。」  
 
固まって動かない私に焦れたのか、父はもう一度深く頭を下げると私を引っ張ってこれから暮らす使用人棟へと歩いていきました。  
 
 
高校を卒業すると同時に私はお屋敷でメイドとして働き始めました。  
当時は勤続30年を越えるベテランメイド長がおり、一から厳しく鍛えられました。  
泣いて辞めていったメイド仲間は一人や二人ではございません。  
しかし私は父も運転手としてこちらにお世話になっているということもあり、必死にお勤めいたしました。  
それに、私がこちらで働く動機はそれだけではなかったのです。  
武様の少しでもお傍にいたいから・・・・・。  
不純だとお叱りを受けるかも知れませんが、私の中の最大の動機はこれだったのでございます。  
同い年だというのに、私などよりどんどん洗練されて一流の紳士への階段を上られる武様。  
あの方に少しでも近づくためには、自分も一流の物のある場で鍛えられることが一番だと判断いたしました。  
それには外の世界よりこのお屋敷でお仕えすることが最善だと思ったのです。  
もちろん、武様と自分が将来どうこう、などという大それた考えは全く持っておりませんでした。  
持ってはいなかったのでございますが・・・・。  
 
武様と私がちょうど二十歳になる年、お屋敷ではある大きなパーティーが行われておりました。  
上流の方々のお宅ではたびたびこういったパーティーが開かれます。  
私もメイドとして裏で走り回っていたのですが、その時はいつものパーティーとどことなく違っておりました。  
何が違うかをはっきり掴めないまま厨房の手伝いをしておりますと、当時私の一年先輩だったメイドがこう私に話しかけてきました。  
「ねえ麻由、今日って坊っちゃまの結婚相手を決めるパーティーらしいわよ。」  
その時の私の衝撃は計り知れないものでした。手にお皿を持っていなくて本当に良かった。  
武様のご結婚相手!?  
「え、そ、そうなんですか?でも坊っちゃまはまだ大学生だし、早いんじゃないですか?」  
平静を装ってそう返答いたしましたが、心臓が暴れまわって口から飛び出しそうでした。  
「だからー、フィアンセってことよ。旦那様も体調が良くないみたいだから早めに決めておきたいんじゃない?相手には内緒だろうけどさ。」  
メイド長が聞いたら雷を落としそうな口調で先輩は言いました。  
なるほど、武様のお父様である当屋敷の旦那様は最近お体の様子が芳しくありません。  
 
対外的には極秘のことですが、そこは邸内で働くメイド、内情は把握しております。  
私が感じた違和感はこれだったのかと合点がいく思いが致しました。  
通りでいつもより妙齢の子女が多かったわけです。  
どの方も良いお血筋の、各家ご自慢のご息女。  
きっと今日このパーティーに来ているうちの誰かが武様の奥様におなりになるはず。  
そう思うと胸が苦しくなり、涙がにじんで参りました。  
唇を噛んで堪えながら、与えられた仕事をこなします。  
広間の前を通りかかった時にふと中を覗くと、テラスの前で何名ものご婦人に囲まれている武様を目にいたしました。  
眉目秀麗な次期社長。誰もが惹かれる素敵なお方。  
武様はあまり社交的な方ではありませんが、それでも微笑を浮かべて会話をなさっています。  
私の胸がまたズキンと痛み出します。  
あの微笑みは、武様の本当の微笑ではないと分かるからです。  
微笑む時に少し目を細めるのが武様の癖なのに、あのご婦人方への微笑にはそれがありません。  
口元だけで無理やり微笑んでいるようで、それがおいたわしい。  
仕事がつらくても旦那様のご帰宅の時は微笑んでお迎えせよとメイド長に厳しく言われ、無理やり笑顔を作っていた自分と 
重なったのでございます。  
武様もあのようなお顔をなさるのかと、居た堪れなくなります。  
自分も武様も同じだと喜ぶなどとてもできず、ただただ胸が苦しくなりました。  
 
 
 
パーティーが終わり、招待客は帰途につかれました。  
旦那様と奥様、そして武様もお部屋へ引き取られました。  
私たち使用人もあらかた片付け終わり、食器やテーブルなど細かい片付けは明日することになったらしく皆引き上げていきました。  
父は昨年職を辞してお屋敷を出、元の家に住むようになったので私は使用人棟の独身用の部屋で起居しております。  
ごみを片付け、最後の一人になった私も戸締りを確認して自室へ戻ろうとしたその時。  
振り返った瞬間に壁にぶつかりそうになり、思わず声が出てしまいました。  
「きゃあっ!」  
するとその壁の上から声が降ってきます。  
「すまない。驚かせてしまった。」  
その声に私はさらに驚く羽目になります。  
「武様・・・でいらっしゃいますか?」  
無理もありません。さっき切なくお見詰めしていた武様がガウン姿で私のすぐ前にお立ちになっているんです。  
あと一歩踏み出せばお胸に触れてしまうくらいに・・・。  
 
高貴な方ゆえ武様にこれほど近付いたことはかつてありませんでした。  
また心臓が暴れだします。血の気が引いていった先ほどとは違い、体中にすごい勢いで血が巡るような・・・。  
「ああ、僕だ。麻由、すまないが僕のベッドのシーツを替えてくれないか?」  
武様が仰ったのを聞いて我に返ります。  
「かしこまりました。すぐ参ります。」  
今日はパーティーの準備で慌しかったので、メイド仲間がいつもの仕事を忘れてしまったのでしょう。  
武様には先にお部屋に戻って頂き、私もリネン室から替えのシーツをお持ちして二階への階段を上がっていきました。  
 
 
「失礼致します。」  
ノックをしてドアを開け、ベッドへ近付きます。  
武様はソファに座っていらっしゃいました。  
「済まないね、麻由。」  
そう仰る武様の声にまた胸がキュンと騒ぎます。  
「とんでもございません。すぐに致しますので少々お待ちくださいませ。」  
一礼して向き直り、広いベッドを目にした瞬間にある思いが私を刺します。  
さっきのパーティーでご一緒されたいずれかのご息女と、武様はいずれこのベッドで睦まれるのだろうか・・・・。  
 
その幸せな方は。真珠の髪飾りをつけたあの方、もしくはあの美しい振袖をお召しになっていた方?  
綺羅星のようなご息女たちを思い出して心が折れそうになる私は、武様が立ち上がってすぐ傍に来られたのに全く気づきませんでした。  
「麻由。」  
肩に手を置かれ、驚いて振り向きます。  
先ほどと同じくらい近くに武様の身体があり、慌てて後ろに下がろうとした私の背に手を回してギュッと抱きしめられました。  
「!」  
抱えていたシーツが床に落ち、ドサッと音を立てます。  
「武、様?」  
どうなさったのだろう。  
尋常ならない武様のご様子に私はあっけにとられ、身動きが取れません。  
上質のガウンの胸元に押し付けられた頬が場違いな心地良さを知らせます。  
「シーツのことで呼んだんじゃないんだ。その・・・・」  
言い淀まれる武様を胸元からそっと見上げます。  
「さっき窓の外を見ていたら、麻由が歩いているのが見えて。それでとっさにこの言い訳を思いついた。」  
「言い訳・・・ですか?」  
武様の仰ることが掴めません。私がごみを捨てて外から戻ってきたのを見てどうなさったというのか。  
私を抱きしめられる武様のお手は、緩む気配が一向にありません。  
 
「今日のパーティーは、何のために行われたか知っているかい?」  
武様が尋ねられました。  
「え?」  
メイドの先輩に教えられたのをまさかそのまま言うわけにはいかず、言葉に困ってしまいます。  
「今日はたくさん女の人が来ていただろう。」  
「はい。」  
「僕の妻になる人を決めるためのパーティーだ。決めるといっても、ぼくはまだ学生だから実際に結婚・・・するのはまだ先だけど。」  
妻、という言葉が私の心を抉ります。  
「『会社にとってプラスになる女性を選ばなければいけない』と父は言った。」  
そう話される武様のお声があまりにも悲痛で私は何と言っていいのか分かりません。  
お胸に顔を埋めながらただ頷くことしかできない自分を口惜しく思います。  
「僕は好きな人と結ばれない。僕一人の我侭で結婚相手を決めることはできないんだ。」  
私は、耳を塞ぎたい気持ちで一杯でした。本当にお辛いのは武様なのに。  
「あの、た、武様。今日こ、来られていましたお嬢様たちは皆素晴らしい方ですし・・・」  
せめて武様がこれ以上ご自分の言葉で傷つかれないようにと、微力ながら励ましてさし上げようと私は口を開きました。  
 
「たとえお見合いでも、結婚なさってから愛し合われるということはあるのではないでしょうか?」  
違う、私が本当に言いたいのはこんなことではない。  
そう思いましたが、理性が勝手に上辺の言葉を並べていきます。  
これ以上抱きしめられていては、理性が負けて私の本当の気持ちをお話してしまいそうになります。  
「武様をお慕いしております」と。  
ただでさえままならぬわが身に混乱していらっしゃるのに、さらに考え込ませるようなことを言ってはなりませんもの。  
「ですから、今からそう思いつめないで下さいませ。」  
宥めるようにそう申し上げると、武様は僅かに腕を緩めて私の顔を覗き込まれました。  
まともに目を合わせてしまい、その瞳の力に私は魂を抜かれたようになり、目を逸らせることが出来ません。  
 
 
 
「麻由、君は自分がどんなに残酷なことを言っているのか分かっているかい?」  
何のことでしょう。  
無反応な私に焦れたように武様が言葉を続けられます。  
「僕が好きなのは、本当に妻にしたいと思っているのは麻由、君なんだ。」  
「!」  
その時の驚きをどう言葉にすればよかったのでございましょう。  
 
全身の血の気が引いて、そして次の瞬間にまた体中に血が巡るのが分かりました。  
今日の私の心臓の忙しいこと。  
「私・・・でございますか?」  
おそるおそるそう申し上げると、武様はもう堪らないというように私をまた強く抱きしめられました。  
「そうだ。君だよ。  
13歳の時、君の父に連れられて初めて君がこの家に来た時のことを覚えているかい?」  
忘れるはずがありません。あの時私は武様のことを思い初めたのですもの。  
「ぽかんとしている君があまりに可愛くてね。まるでお伽の国に迷い込んだ不思議の国のアリスみたいだった。」  
武様、それはいくらなんでも褒めすぎです。  
「当時この家には自分と同じ年頃の子がいなかったから気になったのかと思っていたんだ。でも違った。  
高校を出て君がメイドとして母屋のほうに来てくれてから、一生懸命に仕事をしているのを見てやっぱりと思った。  
僕の初恋なんだ。人からしたら遅いんだろうが。」  
まさか、武様が私と全く同じことを考えていらっしゃったなんて。  
先ほどの無理やり笑っておられたお顔を見たときとは何と違うことでしょう。  
今までに感じたことのない幸福感が全身を覆うのを感じました。  
 
「だから、僕の初めてを貰ってくれないか?」  
武様の声で我に返りました。  
「『初めて』・・・?」  
急に現実に引き戻され、オウム返しに呟く私。  
「そうだ。今後誰を妻にしても、自分の初めての相手は心から好きな人だったと思えば生きていけるだろう。  
勝手なことを言っているのは分かっている。」  
熱っぽい目で強く見つめられ、頬が赤くなるのが分かります。  
初めてというのは、つまり・・・・。  
まるで女の子のようなことを仰る、と笑うことは私にはできませんでした。  
「君には迷惑な話だと思うが・・・。もしかしてもう心に決めた人はいるのか?」  
何も言わない私に、急に不安な顔になった武様が問われます。  
この人は本当に私を求めている。そう感じた私に迷いはありませんでした。  
「いいえ。心に決めた人などおりません。  
私がずっとお慕いしていたのは武様ただお一人です。  
初めてお会いしてから、ずっと想い続けておりました。」  
ガウンごとぎゅっと手を握り、かみ締めるようにそう申し上げました。  
言い終わって武様のお顔を見上げます。  
見事に固まっておいででした。  
「武様・・・?」  
 
不安になってそっと呼びかけると、今気がついたように私をご覧になります。  
「まさか、本当に?」  
「はい。嘘は申しません。」  
そうしっかりと申し上げ、自分から武様のお体に身を寄せます。  
「抱いてくださいませ。」  
今度は武様も固まらず、目を細めて微笑んでくださいました。  
 
 
 
それからのことは、正直申しましてあまり覚えてはおりません。  
長年想い続けた方に抱かれる喜びと、初めて男性に身体を晒す恥ずかしさで私は心も体もいっぱいいっぱいだったのです。  
私のエプロンに掛けられた武様のお手が震えていたこと。  
朝になって「新しいシーツを持ってきてもらって結果的には正解だったね。」と私を抱きしめながら幸せそうに武様が仰ったことは鮮明に覚えております。  
体の奥の痛みを堪えて取り替えたシーツをこっそり下洗いする時にも私は幸福でした。  
 
 
 
あら、思い出話が随分長くなりました。  
ご主人様のお夕飯がそろそろ終わる頃です。  
私も仕事を片付け、今日の総括をして他のメイドたちを使用人棟の自室へ引き取らせなければいけません。  
私たちの夜はこれからなのですから・・・・。  
 

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