出し抜けに響いたボーンという鐘の音に、水島昌平は思わず湯呑を落としかけた。  
 
 除夜の鐘を自宅で聞いたのは初めてだった。都心から下ること三十分の繁華街、おまけに道路を  
挟んで高架が構える駅前アパートで育った彼は、下宿するまで静寂とは無縁の人間だった。  
その慎ましい生家は、台所から寝室に至るまで、一年中外気と外音を取り入れる構造になっており、  
どんなに寂しい夜であっても、何某かの騒音が彼の鼓膜を叩いていたものだった。  
 つまり、昌平にとっての寺の鐘の音は、テレビか参列の騒めきの中で聞くものであり、炬燵に鎮座  
する蜜柑の群れと一緒に聞くのは、酷く不思議な感じがしたのだ。  
 
 しかしそれだけでは、半纏の袖を温まったお茶で濡らす理由としては不十分である。  
 
 心の中で舌打ちをして、ちゃぶ台布巾で天板を拭きながら、昌平は炬燵の反対側を窺った。すると  
そこには、先程までと全く変わらず寝息を立てる、同い年の小柄な娘の姿があった。彼と同じく半纏を  
着込んで、半身をしっかり炬燵の中に埋めたまま、座布団を枕にもう二時間近くも眠っている。掌の中  
には昌平と同じ湯呑が握られていたが、その中身は番茶ではなくワインであった。零すといけないので  
何度か片そうとしてはいるのだが、夢うつつの彼女は未だ断固として離そうとしない。  
   
 ちゃぶ台布巾を端にやって、昌平は再び湯呑を取った。残りを一気に飲み干して安全化すると、  
蜜柑籠の隣において横になる。すると再び、水を打ったような静けさが下宿に戻った。  
 
──ボーン……  
 
 そして、二回目。低くコダマする鐘の音で、昌平の意識は再び炬燵の中へと戻された。  
 いや、正確には“戻された”ではない。何気なく天板を拭いている間も、彼の意識は常にそこに  
あったと言っていい。  
 
 昌平の伸ばした足先が、娘の内腿の高めの場所に当たっていた。勿論、その接触は彼が意図した  
ものでもなければ、彼に帰責するものでも無い。向かいで寝息を立てている彼女が、眠ったまま勝手に  
潜って絡んできたのだ。またそれは疑いなく、暖を求めた本能的な行動であって、彼女の個人的意思  
など一ミリグラムも介在しない。  
 しかしだからと言って、その結果に彼の個人感情が絡まないとは限らない。実を言えば、彼は  
先ほどからずっとその温かい感覚に悩まされていた。  
 
 先ほど、昌平の半纏が安物の番茶を飲ませれたのも、八割方はこの脚が原因である。慣れない  
肌の感覚を覚え、その正体を悟って一瞬思わず固まった所へ、その煩悩を見透かしたようなタイミング  
で、仏の鐘が厳かに鳴り響いたのだった。  
 
 もうすぐ二十歳になろうというのに、我ながら何ともガキ臭いことだ、と昌平は思った。しかし結局の  
ところ、こういうのは年齢ではなく経験が物を言うのだろう。そして自分は、その経験値が圧倒的に  
足りていない。  
 そこは、認めなくてはいけない。自分には、大晦日を意中の娘と炬燵で過ごせるような甲斐性など、  
どこにも無かったはずだった。  
 
 
 水戸瀬優奈が昌平の炬燵で丸くなっている理由は、一言で言えば偶然である。年の瀬に全国で  
吹き荒れた冬の嵐は、多くの帰省便を欠航にしたが、彼女はさらに不運なことに、自分の下宿に  
すら戻れなかった。というのも、優奈は正月の間、ルームシェアしていた友人に下宿を「明け渡す」  
ことを約束していて、今頃その部屋はブリザードも跳ね返す程に熱くなっているはずだからだ。  
 
 だが、それだけでは彼の下宿に転がり込む理由として十分とは言えない。大晦日に下宿に籠って  
いる変わり者は、確かに昌平ぐらいだが、一晩やり過ごすだけなら場所は他にいくらでもある。  
ビジネスホテルの正月料金が如何ほどのものかは知らないが、独り身の男部屋に転がり込むのに  
比べれば、いろんな意味で安くつくに違いない。  
 
 そして何より、これが全く彼女らしからぬ行動だということが問題だった。水戸瀬優奈は、単に  
お金がもったいないからという理由で安直に異性の家に泊まるほど天然ではないし、また昌平  
のような男なら心配ないと──それは、ある意味で事実なのだが──割り切れるほどすれても  
いない。  
 
 これで他人の話なら、偶然もへったくれも無い、それは女の男に対する好意に基づいた必然だと、  
昌平も言い切っていただろう。だが、仮にも九カ月程彼女に片思いしてきた身として、そしてこの  
一週間のドタバタの当事者として、悲しいかな、それだけは違うと断じざるを得ないのだ。  
 
 
 
  話はクリスマスまで遡る。端的に言えば、そこで彼女は十九年越しの失恋をした。  
 相手は実家の隣に住む、生まれながらの幼馴染ということだった。出入りの激しいアパートで育った  
昌平には七不思議の一つだが、幼馴染というものは互いの慕情を押し隠すサダメを背負っているらしく、  
優奈は足掛け二十年、その想いを密かに温めてきた。ところが、高校を出て初めて距離を持ってみた  
ところ、彼女はようやく自らの失策に気づく。そこで、この帰省のチャンスに勝負をかけに出たところ、  
時既に遅かったという次第である。  
 
 しかし、その一途さと来たら、全く尋常なものではなかった。昌平などは初め、二十年もほっとける  
恋慕とはいかがなものか、などと思ったりしたものだったのだが、五月過ぎに彼がひっそりと探りを  
入れた際、優奈の女友達は憐みを以ってこう言った。  
 「あの子のこと幼馴染への純情さときたら、そりゃもう藤沢周平も裸足で逃げ出す勢いよ。普段の  
姉御肌は何かのカモフラージュなんじゃないかってぐらいにね。まあ二人が私の知り合いで、それを  
応援してるってのもあるんだけど、残念ながらアンタにつけ入る隙間はなさそうね」  
 名前順で席の近いコあらまあ可愛い、なーんて程度じゃ到底太刀打ち出来ないよ、と極太の釘を  
突き刺して、彼女は昌平の奢りのキリマンジャロを飲んだ。因みに、この女友達とは、今優奈の下宿で  
熱く燃え上っているであろうルームメイトその人である。  
 
 ともあれ、まさかの敗北を喫した優奈は、周囲の予想通りマラリア海溝並の落ち込みを見せ、彼女に  
親しい人間は時間の許す限り、その心を励まそうと努力した。無論、その中で一番力を尽したのは、  
他ならぬ水島昌平である。絶好のチャンスだからには違いないが、普段は気丈な彼女が見せた呆れる  
までの落ち込みっぷりには、一友人としても見かねるものがあったのだ。  
 
 その甲斐あってか、数日後、優奈は少なくとも表面上は、いつもの自分を取り戻した。しかし流石に  
地元には帰りずらいのか、帰省の日程をずるずると延ばしていると、早大晦日と相成ってしまう。  
 
 だが、この一週間における昌平の個人的な成果は、芳しいものとは言い難かった。優奈の復活は  
気持の整理によるものではなく、単にもうどうでもいいというやけっぱちからくるものだっだ。ある意味、  
人によっては後釜を狙うにベストの状態と言えるのかもしれないが、激情や絶望を逆手にとって、  
相手をこちらに抱き込むような妖しいダンディズムなど、残念ながら昌平には備わっていない。  
 まあこうして、要所要所でコツコツポイントを稼いでいけば、今後は希望も出るやもしれぬ。そんなこと  
を考えながら、優奈を含む帰省組達を、最寄駅にて見送ったのが、今から十二時間前である。  
 
 そして現在、2007年12月31日、午後11時47分。天候にまで振られた彼女は、昌平の目の前にて、ワイン(湯呑入り)を握りしめたままコタツムリをやっていた。  
 ──悲しいかな、ただのヤケであると断じざるを得ない。  
 
 
 三回目の鐘の音に釣られて、昌平はようやく炬燵から這い出した。そして最後の瞬間、少しだけ足先を  
押し付けてみようかと思った自分に軽く自己嫌悪などしながら、のそのそと年越し蕎麦の準備を始める。  
といっても、昌平のすることはトッピングに葱を刻むぐらいで、あとはスーパーの既製品をそのまま温め  
直すだけである。  
 
 水道の冷たさに慄きながら、何とかまな板を流し台置くと、昌平は慣れない手つきで、トン、トンと  
包丁を使い始めた。その音が、無音の室内でやけに大きく響き渡る。  
 と、その音に眠りを妨げられたのか、炬燵の主が二時間ぶりに動きを見せた。「むぅー」と低く唸りつつ、  
寝返りを打とうと蠢いて、ガンっと天板にぶつかった音がする。幸い、湯呑はまだ無事であるようで、  
炬燵布団は二〇〇七年、ワインをがぶ飲みする機会を失った。  
 
「あれ、今は何年?」起きぬけにしてはしっかりした口調で、優奈は言った。  
「まだゆく年」  
「あーぅ、えと、『ゆく年くる年』始まったら起こして」  
「もう始まるぞ」  
 
 昌平が苦笑交じりに突っ込むと、「あ゛う」と潰れた声をとともに、彼女はようやく半身を起こした。  
「ふぁー……。んっ、よく寝た」  
「今年はさすがにもう寝収めだな」  
「うむ。あ、でも、そう言われると、やおら二度寝したくなる気持がムクムクと……」  
 そう言いかけたところで、再び鐘の音が昌平の部屋に響く。  
 
「ありゃ?ホントにもう始まった?」  
「テレビじゃねえよ」ガスコンロの火をつけながら、昌平は言った。「橋向こうのお寺さんの鐘が、  
なんとも贅沢なことに生で聞こえてきてんのさ」  
「へえー。こんなにはっきり」  
「そ。驚いたろ」  
冷蔵庫に貼り付けたタイマーを回しつつ、うんうんと頷ずく娘の姿を昌平はそっと横目に盗み見る。  
あういう小動物的仕草はごく稀にしか見せないので、わりと貴重だったりするのだ。  
 ……馬鹿か俺は。  
 
 火の元の管理はタイマーに任せて、昌平は一旦炬燵に戻った。それから、何やらごそごそと布団を  
まさぐっている優奈の右手に、お目当てのリモコンを押し付ける。  
「ありゃ、ありがと。あれ、そういえば、紅白見てたんじゃないの?なんで消したん?」  
「…………いやー、お嬢さんが余りにもよくお眠りなので、騒がしいのは忍びないなと」  
「なんじゃそりゃ。まあ、ありがとね」  
 優奈の寝息の方が聞きたかったから、というトチ狂った台詞は、鐘の音に諭されて無事飲み込んだ。  
 
 優奈がチャンネルを回すと、まだ紅白をやっていた。昌平は歌謡に詳しくないが、まあ知名度は  
抜群の大トリが、今は亡き作詞者の歌を熱唱しているので、何とは無しに見やっていると、すぐに  
冷蔵庫のタイマーが呼びつけた。  
「およよ?」  
「ああ、鍋、鍋。年越し蕎麦。水戸瀬の分もあるから安心しろよ」  
 座ってろ、と静止して昌平は再び台所へ立つ。背中越し「あ、いや、いいよそんな……」ともごもご言って  
いるのが、実はちょっと心地いい。  
 と、そこで再び除夜の鐘。全くもって、自分のダメさ加減が忍ばれる。  
 
 さっきからタイミングが良すぎやしないかと思いつつ、一人分の蕎麦を慎重に二つに分けていると、  
優奈がとてとてと台所へやってきた。座ってなよと笑う昌平に、彼女は頭を掻きつつ言う。  
「いやー、ね。あの鐘の音が、ね。居候しといてコタツムリしている私の煩悩に、いやに強く響くのよ」  
 そこで、さらにもう一つ、ボーンと鐘が鳴る。二人は思わず顔を見合わせ、そして揃って吹き出した。  
 
 
 それから、優奈は昌平が諦めて放置した葱を三倍のスピードで刻みきり、彼らは妙にネギダクな丼を  
抱えて炬燵に戻った。いつの間にか紅白は終わって、NHKのカメラは各地のお寺を転々としている。  
 蕎麦を啜る間も、寺の鐘は淡々と回を重ねていった。喋る口と食べる口が同じなために、自然、会話は  
途切れがちとなる。  
 
 寂とした部屋を、本物の鐘と、電波越しの鐘の響きが、交互に埋めていく──  
 

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