雨の、音がする
冷たい、雨が、傷だらけの身体を打つ
・・・・ふと、気がつくと、雨の降りしきる森の中にいた。
酷く、割れるように頭が痛む。
最初、私は、自分が何処に居るのか、理解できなかった。
でも、死んだのなら、痛み等感じない筈だ、と思ったので
"生きている"
そう、思うことにした。
頭を殴られた所為だろうか、それとも、身体が雨で冷えすぎた所為だろうか・・・・
身体が全く動かない。
気がついてから、暫くすると、ようやく、身体が動くようになった。
立ち上がろうとした時、左脚に激痛が走り、バランスを崩す。
・・・・そうだった、この間、左脚の骨は、御主人様に折られたのだった。
ゆっくりと考えてみると、右手もまともに動かない。
周囲を見渡すと、少し離れた所に、丁度良い棒切れが落ちていた。
それを、痛む左脚を引き擦る様にして、拾いに行く。
拾ったその棒で、身体を支えながら歩き出す。
ふと、考える。
多分、いや、二度と、あの家には帰れない。
・・・・私は、捨てられたのだから。
私を飼い、弄った、あの人達。
散々弄って、壊れそうになった私を、まるで壊れた玩具の様に捨てた、御主人。
私の事を、まるで汚い物を見るかの様な眼で見ていた周りの人達。
捨てられる前、私は、数人の人に囲まれて、滅多打ちにされた。
数回、頭を殴られた時、私の右耳は、聞こえなくなった。
その後も、続け様に殴られていると、何回目かに、頭が爆発したかの様に、視界が真っ白になって、左目も殆ど見えなくなった。
その時、流石に私は”今回は、殺されるのだろう”、と思った。
でも、"それも、いいかもしれない"とも、私は思った。
あの人達は、私が死んだと思って、ここに捨てて行ったのだろう。
・・・・・でも、私は、生きていた・・・・・
・・・・何故、私は生きていたのだろう。
あのまま死ぬ事が出来れば、どれだけ、楽だっただろう。
そうも、考えた。
しかし、ボロボロにされて、捨てられて、それでも手にした、初めての自由。
・・・・・・私の、自由。
・・・・覚えていない程昔から、私は、弄られる為に生きてきた。
あの家に、連れて来られる前、私はどんな暮らしをしていたのかも、全く覚えていない。
あの家で、私の居場所は、何時も湿っている、地下の牢屋跡だった。
それ以外の所には、御主人様に弄られる為に連れ出される時、その時、目にする事が出来るだけだった。
背中を鞭で、裂けるまで叩かれる。
指や、腕、足を折られる。
血を吐くまで、鉄板入りの靴で身体を蹴られる。
身体中に、穴を開けられる。
焼けた棒で、身体を焼かれる。
気を失うまで、水に沈められ、気を失うと、また起こされる。
・・・・他に、色々な事を、覚えてないぐらい、幾度と無くされた。
痛いのは、辛かったけど、その時の、嬉しそうな御主人様達の笑顔が。
あの笑顔が、私にとっての唯一の笑顔だった。
笑顔は、嬉しい。
そして、それを見る事が、私の唯一の喜びだった。
そこまで、考えた時、ふと、少し先から、食べ物の匂いがするのに気づいた。
・・・考えてみれば私は、三日?いや、もしかしたら、それ以上何も食べていなかった。
・・・私は、ずっと飼われていたから、食べ物の採り方等、何も知らない。
これだけは判るのだが、この匂いの元は、多分、人の家だろう。
せっかく、手にする事ができた、自由だ。
忍び込んで、お腹一杯、食べてみたい。
もし、見つかったら、殺されるだろう。
でも、それはそれで、いいかもしれない・・・・どうせ、一度は殺されたのだから。
そう思い、匂いのする方へ、不自由な身体を引きずって行った。
・・・・小さな、木で出来た家。
といっても、私は自分を飼っていた人の家しか、知らないから、この家が大きいか、小さいかはよく判らない。
小さいと言ったのは、それと比べて小さかったまでの事だ。
ドアノブに、手をかけてみると、幸い鍵は掛かっていなかった様で、微かに軋む様な音を立ててドアは開いた。
・・・明かりの無い、暗い部屋。いい匂い。
匂いは、その奥の方から漂ってくる。
そして、この家の主は、今はいない様だった。
ドアの横に棒を置き、脚を引き摺る様にして匂いの元を目指す。
直に、その匂いの元へ、辿りつく。
見た事も無いような、食べ物。
といっても、いつも、残り物や、腐りかけの様な物を食べていたから、他の物は殆ど知らないけれど・・・・
それに手を伸ばそうとした時、
「誰だ!」
暗かった部屋に、明かりが灯され、部屋全体が明るくなる。
「・・・・なんだ、獣人の・・・女の仔じゃないか。・・・・ん?」
・・・食べる前に、見つかってしまった。でも、死ぬ事に対して、恐怖は無かった。
私は無抵抗に、耳を寝かせて床に伏せる。
きっと、私は声の主に殺されるだろう。
・・・・ようやく、楽に・・・・
そこまで考えた所で、私は思いがけない言葉を聞いた。
「・・・!・・・・・お前、随分酷いケガしてるな」
声の主はそう言って、私の前に立ち、
「・・・・・・・それ、人間にやられたんだろう」
その人間は、私の事を
「・・・ほら、こっち来なよ。手当てしてやるよ。・・・・・そう言えば、言葉、解るか?」
目の前の人は私に、そう優しく言った。
人間と共に暮らしていたから、言葉は解る。
でも、暫くの間私は、その言葉の意味を理解できなかった。
生きてきた中で、初めて聞いた、私に対しての優しい言葉。
信じるべきかどうか、長い事戸惑って、ようやく覚悟を決める。
私は、最後の質問にゆっくりと頷く。
「そうか、良かった。さぁ、手当てしてやるから、来いよ」
この男の人は、あの人達とは違う。
何も根拠も無かったけど、私はそう思った。
・・・私の事を、初めて、普通に見てくれた。
この人なら、信じても、大丈夫かもしれない。
壁に手をついて身体を支えながら立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。
すると、
「よっと」
いきなり、身体を抱き上げられた。
泥だらけの、私の汚れた身体を、嫌な顔一つせずに、抱き上げてくれた。
「まず、その泥落とさないとな。そうしないと、手当ても出来ないからな」
連れて行かれたのは、湯気の出るお湯の入った、樽のある部屋。
その樽からお湯を掬って、私の泥を落としていく。
最初、かけられる直前に、身体が強張った。
昔・・・・・と言っても、どれ程前かは、全く覚えていないけれど。
凄く、熱いお湯を浴びせられて、あちこち火傷した記憶が、ふと甦った。
・・・・・でも、今かけられたお湯は、昔かけられた、火傷する様な熱いお湯ではなく、暖かい程度のお湯だった。
「背中、ちょっと染みるぞ」
そう言って、私の背中にもお湯をかけていく。
「・・・・っ」
確かに、治りきっていない傷には、少し染みる。
でも、今までされてきた事に比べれば、全然痛くは無かった。
頭と背中を一通り洗い終えると、その男の人は、
「後は・・・自分で洗えるだろ?俺は外で待ってるから、洗って出てこいよ。お湯は使い切っても構わないから」
そう言い残して、出ていった。
言われた通り、身体を洗い、こびり付いた泥を・・・もしかしたら、血もついていたかもしれない。
それらを全て落として、私も出る。
「・・・・・ゎ!」
頭から、乾いた布を被せられた。
ビックリして、身体が竦んだ。
「そろそろ、雪が降るからな。ちゃんと拭いておかないと風邪引くぞ」
そう言いながら、私の身体をその、乾いた柔らかい布で拭いてゆく。
拭き終えると、私に向かってこう言った。
「暖炉の前・・・・・その前に、暖炉って解るか?」
前の家で見た事があったので、とりあえず頷く。
「そうか、そこで手当てしてやるから、少し待ってろ」
そう言って、また私の前からいなくなった。
向こうを見ると、その"暖炉"に火が入っているのが見えたので、言われた通りに前に行って待つ。
火の入った暖炉は、暖かかった。
・・・・・暖炉の所為だけじゃ無いかもしれないけれど。
「さぁ、背中と、他にどこかケガしてる所はあるか?」
「・・・・・・左脚、右手」
私が、小さな声で言うと、
「判った、染みるかもしれないけど、我慢しろよ」
そう言って、私の背中を消毒し始める。
背中の傷が、チクチクと細い針で刺されるかの様に染みる。
手をぎゅっと握って、それに耐える。
今までの仕打ちに比べれば、全然、痛くなんて、無い。
消毒が終わって、白い布を巻かれる。
「左脚は・・・・酷いな、折れてる」
そう言いながら、部屋の奥から棒を取ってきて、私の脚に布で固定する。
「最後に、右手だが・・・・・どこをケガしてるんだ?」
そう言いながら、男の人の大きな手が、親指から順番に私の手を触っていく。
「・・・・・・ぃ」
薬指を触られたとき、私は小さく悲鳴を上げた。
一週間ぐらい前、折られた指。触ると、まだ、痛い。
その指を見て男の人は、
「・・・これも、人間にやられたのか?」
小さく、頷く。
そのとき、彼が呟いた言葉は私には、予想もつかない言葉だった。
「・・・ゴメンな」
どうして、この人は、私に謝ってくれたのだろう。自分がした訳でも無いのに・・・・・
薬指を固定しながら、男の人が呟いた
「人間だって、獣人だって、結局何も変わらないのにな。人間の中には、こういうことをする奴が、まだいるんだよ。人間だけ、特別だって思いこんでるようなバカどもがな」
そう言った後、私の頭を軽く撫で、
「さあ、手当ても終わったし・・・・腹、空いてるんだろ?」
躊躇いも無く、頷く。
「そうか、今、持ってきてやるから、待ってろ」
そう言って、次に帰ってきた彼が持っていたのは、私が始めて見る食べ物だった。
持ってきてもらった食べ物を、一心不乱に、それこそ貪るように食べる私を見て。
「そんなに、腹減ってのか・・・・・まだあるから、そんなに急がなくても、大丈夫だよ」
・・・・暖かい食事は、私にとって初めてだった。
殆ど空になった私の食器を持って、男の人が、もう一杯入れてきてくれた時にこう言った。
「お前、もし、どこも、行くところ無いんだったら、ここに居てもいいぜ」
一呼吸、間を置いて、
「これから、本格的に冬になるから、食べ物、お前の状態で採るの、大変だと思うし」
もう、私には何も判らない。
・・・今まで、こんなに、優しくされた事など・・・・いや、そもそも今まで、優しくされた事すら、無かったのだから。
でも、その一言が、堪らなく嬉しかった。
「・・・・・ありがとう」
「ああ、そうするといいさ」
男の人は、笑いながらそう言った。
その後、一通り食べ終えた私に向かって、
「もう、今日は寝ようぜ」
私は小さく、頷く。
「・・・・・んー、でもベッド、一つしか無いな・・・・」
これ以上、優しくされたら、私は混乱しそうだったので、
「・・・・・・・私、床で・・・・」
大丈夫です、と、そう言おうとしたら、
「そんな事させるわけ無いだろ。・・・・・・そうだ、この際一つでいいか。その方が暖かいし」
と言って、男の人は私を抱き上げた。
柔らかいベッドに私を下ろすと、男の人は、着ていた服を着替えた。
そして、
「もう遅いし、寝るか」
そう言って、彼はベッドの中に入る。
私が、ベッドの端に座り、どうしようか困っていると、男の人はいきなり、私の左腕を掴んで、ベッドの中に私を引きずり込んだ。
「・・・・ったく、遠慮する事はねえよ。今は、まだ部屋が暖かいから、大丈夫かもしれないけど、夜、暖炉の火を消しておくから、絶対寒いと思うし」
また、私は暫く戸惑う事になった。
ベッドの中で、場所を取っては悪いと思い、端に行こうと思ったら、男の人に身体を掴まれて、向き合う格好にさせられた。
「大丈夫だって、俺はお前の事虐めたりしないから。そんなにビクビクするなよ」
「・・・・・・・」
別に、そういう理由じゃないけれど・・・・・・
それに、そう言われても、今までされてきた事との、あまりの差から生まれた戸惑いは、無くなる事はなかった。
でも、私はこの人を信じる事に決めた。
・・・・・・それに、もし、裏切られたなら、もう諦めがつく。
私は、彼の胸に、恐る恐る、顔を埋めるように押し付けた。
「・・・・・・・・」
彼は何も、言わなかった。
彼の大きな手が、私の頭を軽く撫でる。
暫く、そのまま時間が過ぎて行く。
初めての、体験。
ボロボロで、痩せっぽちの私に、優しく接してくれる。
今まで、人が、こんなに、暖かいなんて、全然知らなかった。
・・・・・これは、夢だったり、しないだろうか。
そんな事も、考えた。
・・・・夢でも、いい。
夢であるなら、覚めなければ、いい。
暫くして、彼は急に口をきいてきた。
「・・・・・・なぁ、お前、名前、なんて言うんだ?」
名前?
考えてみれば、私には名前が無い。
前飼われていた所では、"畜生"とか"ケモノ"とか"それ"だとか呼ばれていて、名前なんか必要無かったから。
「・・ない」
私が、小さな声でそう言うと、
「・・名前、無いのか?」
驚いた顔して、男の人が尋ねる。
「・・うん」
消え入りそうな声で、私は返事をする。
「・・・じゃあ、今度、つけないとな」
彼は、そう言った後、少し間を置いてこう言った。
「なあ・・後、気になっていたんだが、お前、左目、悪いんじゃないか?」
確かに、その通り。
実際、左目だけでは、彼の顔すら、全然マトモに見えない。
「・・うん、右耳も、聞こえない・・・・前の御主人様達に、棒で、頭を何遍も殴られたから、だと、思う・・・・・・」
「ホントに、ゴメン・・・な」
彼が私に、そう、すまなそうに言った。
彼がそこまで言った時、私の身体が勝手に震えだす。
思い出した、死の恐怖。
今まで、何遍も味わってきたから、ずっと、もう怖くないと思っていたのに。
「あれ・・何、で・・・」
涙が、ひとりでに頬を伝う。
止まらないのは、何故だろう。
「ゴメンな、怖かった事、思い出させちゃったな」
そういって、彼は、私の痩せた身体を、優しく、抱き締めてくれた。
暫くして、私が落ち着くと、
「・・・・落ち着いたか?」
「・・・・・・」
小さく、頷く。
「・・・・さぁ、本当に、寝ようぜ」
その後、私が眠りに落ちる迄、彼はずっと、私の頭を撫でていてくれた。
次の日の朝、私が目を覚ました時、彼は起きていて、私の事を見ていた。
夢じゃ、なかった。
「・・・・・・・ん、おはよう」
「・・・・・・おは・・・よ・・・う?」
未だ寝ぼけている私に、彼が声を掛けてくる。
・・・・おはよう、とは、一体何なのだろうか。
「朝、起きたら、”おはよう”って、言うんだ」
挨拶の一種・・・・なのだろうか。
とりあえず、私は返してみる事にした。
「・・・・・・おはよ、う」
「ああ」
彼は、笑顔でそう返事をした後、
「じゃあ、色々用意しないといけないから、先、起きてるな。もう暫く、寝てていいぜ」
そう言って、ベッドから出ようとした。
行かないで、ほしい。
「・・・」
私を、独りに、しないで。
もう、独りぼっちは、嫌だ。
そう思い、彼の服の端を、左手で必死に掴む。
「・・・・どうした?」
彼は、動きを止めて、私に尋ねる。
「・・・・・・・お願い、もう、独りに、しない・・・で・・」
気がついたら、また、泣いていた。
一人ぼっちは、寂しい。
もう、寂しいのは、嫌だ。
・・・・このヒトに出会って、初めて知った、優しさ。
私はこれを知って、生きていて良かったと、初めて思う事ができた。
しかし、それを、知ってしまったら、独りでいることが、急に怖くなった。
今迄は・・・別に、怖くも何ともなかったのに。
そうしたら、彼は、私の手を握って
「しょうがないな・・・・判ったよ」
何も言わず、唯泣きながら、彼にしがみつく。
暖かい、彼の胸。
涙が、止まらない。
そのまま、随分と時間が過ぎて行った。
けれど、彼はその間一言も喋らずに、私のことを撫でていてくれた。
「さぁ、もう、大丈夫だろう?朝飯、作るから行くぞ」
「・・・・・私も、行っていい?」
私は、恐る恐る尋ねる。
「ああ、構わないさ」
・・・・・・・・その後、数ヶ月が過ぎ、春を迎える頃には、私の怪我も大分治っていた。
流石に、左目の視力は殆ど回復せず、右耳の聴力は全く無くなってしまったが・・・・・・・
足や背中にあった、怪我の所為で体毛が生えなくなってしまった所も、彼がうまく治療してくれたから、既に周りと同じように体毛が生え揃っていた。
その部分の治療をするときには、彼が治療の最初に言ったように痛かったが、それぐらいで体毛が生えるのなら、十分我慢できる痛さだった。
また、私は特に仕事をしていないらしい彼に、文字、言葉、計算、料理やその他の生活に必要な仕草などを、一通り教わる事ができた。
今の私の一つの目標は、彼に私一人で料理を作ってあげられるようになる事だ。
あれ以来、私は殆ど、外に出る事は無かったが、それでも私は幸せだった。
・・・・・一度は、生きる事を諦めた、私の命。
まさか、こんな幸せな暮らしをする事ができるとは、夢にも思わなかった昔。
・・・・・私、生きていて、よかった。